論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
南宮适*問於孔子曰、「羿善射、奡盪舟、俱不得其死然。禹稷躬稼而有天下。」夫子不答。南宮适出、子曰、「君子哉若人。尙德哉若人。」
校訂
武内本
釋文、适一本括に作る。史記弟子伝一本と同じ。
復元白文
奡盪
稷
答
※躬→身・稼→(甲骨文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は後漢以降の儒者による捏造である。
書き下し
南宮适孔子於問ふて曰く、羿、善く射、奡、舟を盪かす、俱に其の死に然るを得ず。禹稷躬ら稼し而天下を有てりと。夫子答へず、南宮适出づ。子曰く、君子なる哉若き人、德を尙ぶ哉若き人。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
南宮适が孔子に問うて言った。「羿は弓の達者で、奡は舟を動かすほどの力士だったが、いずれもふさわしい死に方ができなかった。禹と稷は自ら田仕事をして天下を保有した。」先生は黙っていた。南宮适が先生の部屋から出た。先生が言った。「教養ある人格者だなあ、このような人は。道徳を尊んでいるなあ、このような人は。」
意訳
南宮适「羿は並ぶ者無き弓の達人、奡は舟を揺らすほどの無双の力士、しかしどちらも、まともな死に方をしませんでした。一方禹と稷は王でありながら、自分も田仕事をして天下の主でした、ね。」
孔子「…。」
南宮适は出て行った。
孔子「教養のある人格者だなあ。道徳を尊んでいるなあ。」
従来訳
南宮适が先師にたずねていった。――
「羿は弓の名手であり、盪は大船をゆり動かすほどの大力でありましたが、いずれも非業の最期をとげました。しかるに、禹と稷とは自ら耕作に従事して、ついに天子の位にのぼりました。これについての先生の御感想を承りたいと存じます。」
先師はこたえられなかった。しかし、南宮适がその場を去ると、いわれた。
「あのような人こそ、まことの君子だ。あのような人こそ、まことに徳を尊ぶ人だ。」
現代中国での解釈例
南宮括問:「羿善於射箭、奡善於水戰,都不得好死;禹、稷都親自種莊稼,卻取得了天下?」孔子不回答。南宮括出去後,孔子說:「此人是君子啊,此人崇尚道德。」
南宮括が問うた。「羿は弓術の達者で、奡は水上戦の達者でしたが、どちらもいい死に方が出来ませんでした。禹と稷はどちらも、自分で種を撒いて畑仕事をし、かえって天下を取りましたね?」孔子は答えなかった。南宮括が去った後で、孔子は言った。「この人はまったく君子だな。この人は道徳を尊んでいる。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
南 宮 适 問 於 孔 子 曰、「羿 善 射、 奡 盪 舟、俱 不 得 其 死 然。 禹 稷 躬 稼 而 有 天 下。」夫 子 不 答。 南 宮 适 出、子 曰、「君 子 哉 若 人 尙 德 哉 若 人。」
南宮适(ナンキュウ/ナングウ・カツ)
「南宮」(金文)
孔子の弟子。『史記』仲尼弟子列伝によると、生没年未詳、姓は南宮、名は括、字は子容。「括」の字は、”はやい”を意味する。文字の詳細は論語語釈「括」を参照。
誰なのか二説あって、古注では論語時代の魯の門閥の一人、南宮敬叔とする。孔子と同世代で、兄は孟孫氏の当主だった孟懿子(論語為政篇5の語釈を参照)。孔子を後援して共に周の都・洛邑に留学し、老子に教えを受けた。孔子が南方を放浪中に、魯の公宮で火事があり、火消しに活躍した(『春秋左氏伝』哀公三年)。
『史記』では上記の通り、論語先進篇5に見える南容で、玉を磨く歌を歌っていたら、孔子が感心して兄の娘を妻合わせたという。論語公冶長篇1では、孔子に「国の政道がまともなら捨てられないし、まともでなければ、死刑を免れるだろう」と評された。ただし公冶長編の章は後世の偽作である。
では南容とは誰かと言えば、誰だか全く分からない。いずれにせよ確かなのは、孔子の弟子であること。なお「容」の字は論語の時代に無く、「公」だったと思われる。もし姓氏が南宮なら、姓氏の「宮」と字の「公」”朝廷の庭”が対応し、理屈が通る。
羿(ゲイ)
(金文)
この文字は、論語では本章のみに登場。論語の本章では、神話上の弓の名手。もともと太陽は十人兄弟で、順番に天を回っていたのだが、ある日共謀して、十人同時に天に上がった。たちまち大地は乾いて日照りになり、困った黄帝=神話上の帝王が、羿に九つを射落とさせた。一説には太古の王朝・夏の王となったが、寒浞に殺されたという。文字の詳細は論語語釈「羿」を参照。
奡(ゴウ)
この文字は、論語では本章のみに登場。論語の本章では、神話上の王。夏の王・寒浞の子で、父の寒浞はクーデターによって王位に就いた。一説にその際殺した夏王が羿だったという。奡は父の命を受けて、寒浞に従わない部族を討伐したという。しかし羿の子孫によって殺されたという。舟を揺らしたゆえんについては不明。文字の詳細は論語語釈「奡」を参照。
盪
論語の本章では”揺り動かす”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「盪」を参照。
舟
(金文)
論語の本章では”ふね”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「舟」を参照。
俱/倶
(金文)
論語の本章では”ともに”。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。詳細は論語語釈「倶」を参照。
死然
武内本に「然は焉と音近くして通用」という。すると「俱不得其死然」は「俱に其の死に焉るを得ず」と読み下すが、語義としては形容詞につける助詞で、状態を表す。つまり「死焉」は”死んでいる状態”。「死然」と意味は変わらず、”(望ましい)死に様”ということ。
禹(ウ)・稷(ショク)
ともに神話上の王で実在しない。禹は夏王朝の開祖。稷は后稷ともいい、周王室の先祖という。
「禹」の初出は殷台末期の金文。原義はヘビ、または爬虫類の姿。しかし神話上の人物として言い出したのは、孔子とすれ違うように戦国の世を生きた墨子で、孔子の時代にはまだ創作されていなかった。文字の詳細は論語語釈「禹」を参照。
「稷」の初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はtsi̯ək(入)。同音に即、蝍”飛ぶ虫の総称”、畟”田畑をすく”。しかし畟ですら初出は後漢の説文解字で、儒者の言う「社稷」なる大げさな物言いは、実は偽善とオカルト大流行りだった後漢帝国の製造品である可能性がある。文字の詳細は論語語釈「稷」を参照。
躬
論語の本章では”自分自身で”。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。部品の身の字は存在した。詳細は論語語釈「躬」を参照。
答
論語の本章では”答える”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の隷書(楊君石門頌、建和二年=148年)。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「答」を参照。
君子哉若人。尙德哉若人。
仮に論語の本章が史実なら、”とんでもない貴族=お坊ちゃんだ。オカルトを本気にしているのだな”と訳せるが、本章は後世の偽作が確定しており、「君子」=”教養のある人格者”、「徳」=”道徳”という、孔子より一世紀後の孟子以降の説で解釈せねばならない。
論語:解説・付記
論語の本章は、定州竹簡論語に見えず、後漢が初出の漢字を使っていることから、上掲の通り後漢時代の偽作。ただし「南宮括字子容」と『史記』弟子伝に見えていることから、南宮括そのものの否定は出来ないように見えて、存外『史記』にも偽作が多いと思われる。
『論語』ですら、儒者はやりたい放題に偽作しているのだから、『史記』ならなおさら。なお本場中国では、『史記』は宋が滅亡した頃に一冊残らず焼けて焼いてしまい、現伝の『史記』はかろうじてその前に日本に伝わり、戦国武将の直江兼続が所蔵していた本の末裔。
なお南宮敬叔について、別伝には次のような記事がある。
南宮敬叔以富得罪於定公,犇衛。衛侯請復之,載其寶以朝。夫子聞之,曰:「若是其貨也,喪不若速貧之愈。」子游侍,曰:「敢問何謂如此?」孔子曰:「富而不好禮,殃也。敬叔以富喪矣,而又弗改。吾懼其將有後患也。」敬叔聞之,驟如孔氏,而後循禮施散焉。
南宮敬叔は贅沢を魯の定公にとがめられて、衛に亡命した。衛国公が気の毒に思い、帰国できるよう定公に口を利いてやると、帰国した敬叔は宝を積んだ車を牽いて定公に謁見し、献上した。
伝え聞いた孔子「これではただのワイロだ。地位を失ったら、さっさと全財産を手放すに限る。」
そばに居た子游「どうしてですか?」
孔子「貴族たる者、地位にふさわしい財産を持て、と礼法は定める。そうでないと、災いが身に降りかかる。敬叔は財産を理由に地位を失った。それなのに態度を改めない。これではきっと、あとあと災難が降りかかるだろうな。」
伝え聞いた敬叔は孔子の下へ行き、教えを受けた後で礼法に従い、財産配りをして手放した。(『孔子家語』曲礼子貢問2または3)
この話の史実は判定しがたいが、南宮敬叔が孔子に弟子入りしたのはまだ若い頃で、孔子の洛邑留学に口添えし同行するなど、「礼を知らない」とは言いがたい。だが何かしらの史実は含んでいるのかも。さらにもう一つ紹介する。
南宮縚之妻,孔子之兄女,喪其姑,夫子誨之髽,曰:「爾毋從從爾,毋扈扈爾。蓋榛以為笄,長尺,而總八寸。」
南宮縚の妻は、孔子の兄の娘だが、姑を亡くしたとき、先生が出掛けて、喪中の髪型を教えた。「派手にしたり、着飾ったりしちゃいけないよ。ハシバミの枝をかんざし代わりにし、長さは一尺、髪のふさは長さ八寸にしなさい。」(『孔子家語』曲礼子貢問18)
南宮縚は『大載礼記』では南容と同一人物のように記されている。南宮敬叔が孔子の兄の娘を娶ったというのは、家格に合わないから信じがたいが、南容≠南宮敬叔なら、この話は筋が通る。