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論語詳解338憲問篇第十四(6)南宮适孔子に*

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論語憲問篇(6)要約:玉磨きの歌を歌って、孔子先生の親戚になったとも言われる南宮适ナンキュウカツ。伝説の武芸の達者二人の話を先生に語ります。しかし先生は何も言いません。先生は南宮适が下がった後で、適当な感想を述べた、という作り話。

(検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

南宫适問於孔子曰羿善射奡盪舟俱不得其死然禹稷躬稼而有天下夫子不荅南宫适出子曰君子哉若人尚德哉若人

  • 「适」字:最後の一画を欠く。唐徳宗李适の避諱
  • 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

南宫适/問於孔子曰羿善射奡盪舟/俱不得其死然/禹稷躬稼而有天下夫子不荅/南宫适出子曰君子哉若人尚德哉若人

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

南宮适問於孔子曰、羿善射、奡盪舟。俱不得其死然。禹稷躬稼而。有天下。夫子不荅。南宮适出。子曰、君子哉若人。尚德哉若人。

復元白文(論語時代での表記)

南 金文宮 金文适 金文問 金文於 金文孔 金文子 金文曰 金文 羿 金文善 金文射 金文 舟 金文 俱 金文不 金文得 金文其 金文死 金文然 金文 禹 金文身 金文稼 甲骨文而 金文有 金文天 金文下 金文 夫 金文子 金文不 金文 南 金文宮 金文适 金文出 金文 子 金文曰 金文 君 金文子 金文哉 金文人 金文 尙 尚 金文徳 金文哉 金文人 金文

※躬→身・稼→(甲骨文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「奡盪」「稷」は人名のためあらゆる同音近音が置換候補になり得るが、「禹」は論語の時代にまだ創作されていない。本章は後漢以降の儒者による創作である。

書き下し

南宮适なんきうかつ孔子こうしふていはく、羿げいがうふねうごかすも、ともしかるをず。禹稷うしよくみづかたがや天下てんかたもてりと。夫子ふうしこたへず、南宮适なんきうかつづ。いはく、君子よきひとなるかなかくのごとひととくたつとかなかくのごとひと

論語:現代日本語訳

逐語訳

南宮括 子容 孔子

南宮适ナンキュウカツが孔子に問うて言った。「羿ゲイは弓の達者で、ゴウは舟を動かすほどの力士だったが、いずれもふさわしい死に方ができなかった。ショクは自ら田仕事をして天下を保有した。」先生は黙っていた。南宮适が先生の部屋から出た。先生が言った。「教養ある人格者だなあ、このような人は。道徳を尊んでいるなあ、このような人は。」

意訳

南宮适「羿ゲイは並ぶ者無き弓の達人、ゴウは舟を揺らすほどの無双の力士、しかしどちらも、まともな死に方をしませんでした。一方ショクは王でありながら、自分も田仕事をして天下の主でした、ね。」
孔子「…。」
南宮适は出て行った。

孔子
孔子「教養のある人格者だなあ。道徳を尊んでいるなあ。」

従来訳

下村湖人

南宮适が先師にたずねていった。――
「羿は弓の名手であり、盪は大船をゆり動かすほどの大力でありましたが、いずれも非業の最期をとげました。しかるに、禹と稷とは自ら耕作に従事して、ついに天子*の位にのぼりました。これについての先生の御感想を承りたいと存じます。」
先師はこたえられなかった。しかし、南宮适がその場を去ると、いわれた。
「あのような人こそ、まことの君子だ。あのような人こそ、まことに徳を尊ぶ人だ。」

下村湖人『現代訳論語』

*天子:この言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

現代中国での解釈例

南宮括問:「羿善於射箭、奡善於水戰,都不得好死;禹、稷都親自種莊稼,卻取得了天下?」孔子不回答。南宮括出去後,孔子說:「此人是君子啊,此人崇尚道德。」

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南宮括が問うた。「羿は弓術の達者で、奡は水上戦の達者でしたが、どちらもいい死に方が出来ませんでした。禹と稷はどちらも、自分で種を撒いて畑仕事をし、かえって天下を取りましたね?」孔子は答えなかった。南宮括が去った後で、孔子は言った。「この人はまったく君子だな。この人は道徳を尊んでいる。」

論語:語釈

南宮适(ナンキュウ・カツ)

南 金文 宮 金文 适 金文
「南宮适」(金文)

『史記』仲尼弟子列伝によると、孔子の弟子。生没年未詳、姓は南宮、名は括、字は子容。「括」の字は、”はやい”を意味する。あざ名の「容」の字は論語の時代に無く、「公」だったと可能性がある。もし姓が南宮なら、姓の「宮」と字の「公」”朝廷の庭”が対応し、理屈が通る。「括」字の初出は春秋末期の金文、詳細は論語語釈「括」を参照。

論語先進篇5では、玉を磨く歌を歌っていたら、孔子が感心して兄の娘を妻合わせたという。論語公冶長篇1では、孔子に「国の政道がまともなら捨てられないし、まともでなければ、死刑を免れるだろう」と評された。ただし公冶長編の章は後世の創作である。

『史記』孔子世家に見える、南宮敬叔と同一人物とする説がある。孔子と同世代で、兄は魯国門閥家老家のの一家、孟孫氏の当主だった孟懿子モウイシ(論語為政篇5の語釈を参照)。孔子を後援して共に周の都・洛邑に留学し、老子に教えを受けた。孔子が南方を放浪中に、魯の公宮で火事があり、火消しに活躍した(『春秋左氏伝』哀公三年)。

本章の場合、「問於孔子」とあることから、目下ではなく、せいぜい学友程度と理解するのがよい。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。『史記』弟子伝で質問者の南宮适を弟子扱いするのは、いわゆる漢帝国における儒教の国教化に伴い、孔子を権威づけるためと判断するのが妥当。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

羿(ゲイ)

羿 金文 羿
(金文)

論語の本章では、古代の人物の名。論語では本章のみに登場。論語の本章では、神話上の弓の名手。もともと太陽は十人兄弟で、順番に天を回っていたのだが、ある日共謀して、十人同時に天に上がった。たちまち大地は乾いて日照りになり、困った黄帝=神話上の帝王が、羿に九つを射落とさせた。一説には太古の王朝・夏の王となったが、寒浞カンサクに殺されたという。文字の詳細は論語語釈「羿」を参照。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では”~に達者である”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

射(シャ)

射 甲骨文 射 字解
(甲骨文)

論語の本章では”弓術”。初出は甲骨文。「シャ」の音で”射る”を、「ヤ」の音で官職名を、「エキ」の音で”いとう”・”あきる”の意を表す。甲骨文の字形は矢をつがえた弓のさま。金文では「又」”手”を加える。原義は”射る”。甲骨文では原義、官職名、地名に用いた。金文では”弓競技”(義盉蓋・西周)の意に用いた。詳細は論語語釈「射」を参照。

君子=当時の貴族は戦時の将校を兼ねており、武芸として弓術は必須だった。孔子塾の必須科目、六芸にも入っている。

奡(ゴウ)

奡 篆書 ?
(篆書)

論語の本章では、神話上の王。字の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しないが、固有名詞として登場するので、同音・近音のいかなる字も置換候補になり得る。字形は、かんざしを挿し、頭の大きな人の正面形。

夏の王・寒浞カンサクの子で、父の寒浞はクーデターによって王位に就いた。一説にその際殺した夏王が羿だったという。奡は父の命を受けて、寒浞に従わない部族を討伐したという。しかし羿の子孫によって殺されたという。舟を揺らしたゆえんについては不明。文字の詳細は論語語釈「奡」を参照。

盪(トウ)

盪 篆書
(篆書)

論語の本章では”揺り動かす”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も存在しない。詳細は論語語釈「盪」を参照。

舟*(シュウ)

舟 金文
(金文)

論語の本章では”ふね”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「舟」を参照。

俱(ク)

倶 金文
(金文)

論語の本章では”ともに”。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。詳細は論語語釈「倶」を参照。

死然

天下

夫子

答(トウ)

荅 秦系戦国文字
(秦系戦国文字)

論語の本章では”答える”。現行字形の初出は不明。異体字に〔⺮〕→〔艹〕「荅」字があり、初出は戦国最末期の『睡虎地秦簡』。論語の時代に存在しない。同音は「荅」のみ。部品の「合」に”こたえる”の語釈があるが、初出は戦国中期の金文で、論語時代の置換候補は存在しない。詳細は論語語釈「答」を参照。

子曰

君子

 

 

死然

武内本に「然は焉と音近くして通用」という。すると「俱不得其死然」は「ともに其の死にるを得ず」と読み下すが、語義としては形容詞につける助詞で、状態を表す。つまり「死焉」は”死んでいる状態”。「死然」と意味は変わらず、”(望ましい)死に様”ということ。

禹(ウ)・稷(ショク)

禹 后稷
ともに神話上の王で実在しない。禹は夏王朝の開祖。稷は后稷ともいい、周王室の先祖という。

「禹」の初出は殷台末期の金文。原義はヘビ、または爬虫類の姿。しかし神話上の人物として言い出したのは、孔子とすれ違うように戦国の世を生きた墨子で、孔子の時代にはまだ創作されていなかった。文字の詳細は論語語釈「禹」を参照。

「稷」の初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はtsi̯ək(入)。同音に即、蝍”飛ぶ虫の総称”、畟”田畑をすく”。しかし畟ですら初出は後漢の説文解字で、儒者の言う「社稷」なる大げさな物言いは、実は偽善とオカルト大流行りだった後漢帝国の製造品である可能性がある。文字の詳細は論語語釈「稷」を参照。

論語の本章では”自分自身で”。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。部品の身の字は存在した。詳細は論語語釈「躬」を参照。

夫子(フウシ)

夫 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。

「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。

論語の本章では”答える”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の隷書(楊君石門頌、建和二年=148年)。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「答」を参照。

出(シュツ/スイ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”孔子の居間から出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

君子哉若人。尙德哉若人。

仮に論語の本章が史実なら、”とんでもない貴族=お坊ちゃんだ。オカルトを本気にしているのだな”と訳せるが、本章は後世の創作が確定しており、「君子」=”教養のある人格者”、「徳」=”道徳”という、孔子より一世紀後の孟子以降の説で解釈せねばならない。

論語における君子論語における徳も参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章は、定州竹簡論語に見えず、後漢が初出の漢字を使っていることから、上掲の通り後漢時代の偽作。ただし「南宮括字子容」と『史記』弟子伝に見えていることから、南宮括そのものの否定は出来ないように見えて、存外『史記』にも偽作が多いと思われる。

『論語』ですら、儒者はやりたい放題に偽作しているのだから、『史記』ならなおさら。なお本場中国では、『史記』は宋が滅亡した頃に一冊残らず焼けて焼いてしまい、現伝の『史記』はかろうじてその前に日本に伝わり、戦国武将の直江兼続が所蔵していた本の末裔。

なお南宮敬叔について、別伝には次のような記事がある。

南宮敬叔以富得罪於定公,犇衛。衛侯請復之,載其寶以朝。夫子聞之,曰:「若是其貨也,喪不若速貧之愈。」子游侍,曰:「敢問何謂如此?」孔子曰:「富而不好禮,殃也。敬叔以富喪矣,而又弗改。吾懼其將有後患也。」敬叔聞之,驟如孔氏,而後循禮施散焉。

定公
南宮敬叔は贅沢を魯の定公にとがめられて、衛に亡命した。衛国公が気の毒に思い、帰国できるよう定公に口を利いてやると、帰国した敬叔は宝を積んだ車を牽いて定公に謁見し、献上した。

伝え聞いた孔子「これではただのワイロだ。地位を失ったら、さっさと全財産を手放すに限る。」
そばに居た子游「どうしてですか?」

孔子「貴族たる者、地位にふさわしい財産を持て、と礼法は定める。そうでないと、災いが身に降りかかる。敬叔は財産を理由に地位を失った。それなのに態度を改めない。これではきっと、あとあと災難が降りかかるだろうな。」

伝え聞いた敬叔は孔子の下へ行き、教えを受けた後で礼法に従い、財産配りをして手放した。(『孔子家語』曲礼子貢問2または3)

この話の史実は判定しがたいが、南宮敬叔が孔子に弟子入りしたのはまだ若い頃で、孔子の洛邑留学に口添えし同行するなど、「礼を知らない」とは言いがたい。だが何かしらの史実は含んでいるのかも。さらにもう一つ紹介する。

南宮縚之妻,孔子之兄女,喪其姑,夫子誨之髽,曰:「爾毋從從爾,毋扈扈爾。蓋榛以為笄,長尺,而總八寸。」

南宮括 子容
南宮トウの妻は、孔子の兄の娘だが、姑を亡くしたとき、先生が出掛けて、喪中の髪型を教えた。「派手にしたり、着飾ったりしちゃいけないよ。ハシバミの枝をかんざし代わりにし、長さは一尺、髪のふさは長さ八寸にしなさい。」(『孔子家語』曲礼子貢問18)

南宮縚は『大載礼記』では南容と同一人物のように記されている。南宮敬叔が孔子の兄の娘を娶ったというのは、家格に合わないから信じがたいが、南容≠南宮敬叔なら、この話は筋が通る。

『論語』憲問篇:現代語訳・書き下し・原文
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