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論語詳解422季氏篇第十六(5)天下道あらば*

論語季氏篇(5)要約:後世の創作。おごれる者は久しからず、『平家物語』同様に言う孔子先生。もはや政治に絶望していなければ、こんなことは言わないでしょう。それを親しく聞いた子貢は、先生最晩年の言葉を論語に残したのかも。

    (検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

孔子曰、「天下有道、則禮樂征伐自天子出。天下無道、則禮樂征伐自諸侯出。自諸侯出、蓋十世希不失矣。自大夫出、五世希不失矣。陪臣執國命、三世希不失矣。天下有道、則政不在大夫。天下有道、則庶人不議。」

校訂

定州竹簡論語

……十世希不失矣;[自大]夫出,五世希不失□□□471……國命,三世希不失矣。[天下有]472……[有道,則]庶人不議。」473

※この部分の盍に注記無し。


→孔子曰、「天下有道、則禮樂征伐自天子出。天下無道、則禮樂征伐自諸侯出。自諸侯出、盍十世希不失矣。自大夫出、五世希不失矣。陪臣執國命、三世希不失矣。天下有道、則政不在大夫。天下有道、則庶人不議。」

復元白文(論語時代での表記)

孔 金文子 金文曰 金文 天 金文下 金文有 金文道 金文 則 金文礼 金文楽 金文征 金文伐 金文自 金文天 金文子 金文出 金文 天 金文下 金文無 金文道 金文 則 金文礼 金文楽 金文征 金文伐 金文自 金文者 金文侯 金文出 金文 自 金文者 金文侯 金文出 金文 盍 金文十 金文世 金文不 金文失 金文矣 金文 自 金文大 金文夫 金文出 金文 五 金文世 金文不 金文失 金文矣 金文 臣 金文執 金文国 金文命 金文 三 金文世 金文不 金文失 金文矣 金文 天 金文下 金文有 金文道 金文 則 金文政 金文不 金文在 金文大 金文夫 金文 天 金文下 金文有 金文道 金文 則 金文庶 金文人 金文不 金文

※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「有」「則」の用法に疑問がある。本章は前漢の儒者による創作である。

書き下し

孔子こうしいはく、天下てんかみちらば、すなは禮樂れいがく征伐せいばつ天子てんしづ。天下てんかみちからば、すなは禮樂れいがく征伐せいばつ諸侯しよこうづ。諸侯しよこうでば、なんぞ十せいりてうしなはざら大夫たいふでば、五せいりてうしなはざら陪臣ばいしん國命こくめいらば、三せいりてうしなはざら天下てんかみちらば、すなはまつりごと大夫たいふらず、天下てんかみちらば、すなはもろびとはからず。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
孔子が言った。「天下に政治の原則があるなら、まさしく文武の政令は天子から出る。天下に政治の原則が無ければ、まさしく文武の政令は諸侯から命令が出る。諸侯から出るようでは、どうして十世代のうちに崩壊して失わないでいられよう。家老から出るようでは、どうして五世代のうちに崩壊して失わないでいられよう。家老の家臣が国政を握れば、どうして三世代のうちに崩壊して失わないでいられよう。天下に政治の原則があるなら、まさしく政治の権限は家老にはない。天下に政治の原則があるなら、まさしく大衆が政治を議論する事はない。」

意訳

論語 孔子 人形
天下の政治がまともなら、制度もいくさも天子様がお決めになる。まともでないと、殿様方がお決めになる。だが殿様が天下の政権を握るようでは十世代、家老が握るようでは五世代しか保たない。諸侯国も同じで、家老の家臣が国政を握るようでは三世代しか保たない。

天下の政治がまともなら、家老が国を振り回しはしないし、庶民が政治をあれこれ言うこともない。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「天下に道が行われている時には、文武の政令がすべて天子から出る。天下に道が行われていない時には、文武の政令が諸侯から出る。政令が諸侯から出るようになれば、おそらくその政権が十代とつづくことはまれであろう。政令が大夫から出るようになれば、五代とつづくことはまれであろう。更に陪臣が国政の実権を握るようになれば、三代とつづくことはまれであろう。天下に道が行われておれば、政権が大夫の手にうつるようなことはない。天下に道が行われておれば、庶民が政治を論議することもない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「天下太平時,實權都在中央。天下混亂時,實權都在地方。實權在省級,最多能傳十代,很少有不垮臺的;實權在市級,傳了五代很少有不垮臺的;縣級官員為所欲為,經過三代很少有不垮臺的。天下太平,則實權不在地方;天下太平,則百姓不會抱怨社會。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「天下太平の時代では、実権は全て中央にある。天下混乱の時代では、実権は全て地方にある。実権が一省単位にあれば、長くとも十代だけ続き、崩壊しないのはわずかにしかない。実権が一市単位にあれば、五代続いて崩壊しないのはわずかにしかない。県の役人が身勝手をするなら、三代続いて崩壊しないのはわずかにしかない。天下太平の時代では、実権は地方に無く、天下太平の時代では、必ず民衆が社会に恨みを抱かない。」

※現中国の地方制度では、最大が省、その下が市、その下が県や郷、村。

論語:語釈

天下

天 金文 下 金文
(金文)

論語の本章では”中華世界”。「」とも呼ぶ。

「天」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、大の字にたった人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示した指事文字で、もと、巓(テン)(いただき)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、という。詳細は論語語釈「天」を参照。

「下」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、おおいの下にものがあることを示指事文字で、した、したになるの意をあらわす。上の字の反対の形、という。詳細は論語語釈「下」を参照。

概念的には文字通り”天の下全ての地”であり、全世界を意味するが、中華と異民族=蛮族(夷狄)との区別をうるさく言った孔子当人(論語八佾篇5)でさえ、それがタテマエであることは分かっていた。

天
「普天之もと、王土にあらざるはく、率土之浜、王臣に非ざるは莫し」(天の下は全て王の支配地で、地の果てまで、人は王の臣下である)という言葉は、前半が『詩経』北山に見え、『春秋左氏伝』には全文が、古詩として言及されている(昭公七年)。つまり元はポエム。

マルクス=アウレリウス=アントニヌス
論語の時代、中華以外の文明圏など思いもよらず、ポエムをタテマエにできた孔子は幸せだったかも知れない。中国人が始めて他の文明圏を知ったのは、おそらく後漢時代のAD97年、大秦国王安敦(ローマ皇帝・マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が来た時。

しかし他銀河に侵略的な宇宙人が居ても、現代人がそれを気に病まないのと同じで、中国人は他文明に圧倒されるより前に、蛮族呼ばわりしていた北方遊牧民にまず全土を支配された(隋の統一、589)。文化力も含めて他文明を思い知ったのは、アヘン戦争(1840)まで下る。
アヘン戦争

有(ユウ)

有 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、”存在する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

有道

有 金文 道 金文
(金文)

論語の本章では、”政治に原則があること”。後世のでっち上げを除き、論語では「道」を、一切道徳的な意味で使っていない。詳細は論語語釈「道」を参照。

道は”やり方・方法”であり、それらが無い無軌道な状態を「無道」と呼んだ。論語の時代の政治は無道であり、国際関係では大国が小国を滅ぼしたばかりか、前章のように魯国もそれをやった。有為転変激しい人界を相手にするからには、もともと政治に道など無いからである。

魯昭公 哀公
内政では魯国の主権はすでに三桓=門閥三家老家の手に移っており、後世の儒者は無道と歎くふりをした。しかし国君そのものを無くしてしまうには至っておらず、孔子若年時代の昭公は放逐はされたが、追っ手はかからなかった。晩年の哀公は、孔子没後に亡命している。

始皇帝 史記 秦軍
しかし魯国公の地位は存続した。上から周王-諸侯-卿大夫(家老)-士(士族)というピラミッド関係は機能不全のままずるずると戦国末まで続き、その間内乱外征は絶えなかった。結局秦がBC256に周を滅ぼし、始皇帝がBC221に統一するまで、戦乱は止まなかった。

論語の本章に話を戻せば、政治にありもしない「道」を説いたことで、図らずも本章が漢帝国の儒者によるでっち上げであることを裏書きしている。なるほど帝政期なら、帝権の言うがままに政治を行うのが常「道」になろう。しかし孔子の生きた春秋時代は乱世。

儒者が脳天気に「道」など説けるような時代ではなかったのだ。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

論語の本章では”礼儀作法”。新字体は「礼」。初出は甲骨文。へんのない豊の字で記された。『学研漢和大字典』によると、豊(レイ)(豐(ホウ)ではない)は、たかつき(豆)に形よくお供え物を盛ったさま。禮は「示(祭壇)+(音符)豊」の会意兼形声文字で、形よく整えた祭礼を示す、という。詳細は論語語釈「礼」を参照。

禮樂

礼 金文 楽 金文
(金文)

論語での一般的な意味は、礼法と音楽を指す。しかし礼法は日常生活のあらゆる規範であり、法令や制令と解釈することも出来る。本章の場合は「征伐」=軍事に対比させた「礼楽」だから、音楽や教育も含め、非軍事の政令一切を指すと解釈した。

文字的には論語語釈「楽」を参照。

征伐

征 金文 伐 金文
(金文)

論語の本章では”軍事の命令”。「征」は遠方を討伐すること、「伐」はいくさ一般を意味する。

『学研漢和大字典』によると「征」は会意兼形声文字で、正は「━印+止(あし)」の会意文字で、遠方の目標線を目ざして、まっすぐ足を進めること。征は「彳(いく)+(音符)正」。のち正がまっすぐ、正しいの意となったため、征の字で、原義をあらわした、という。詳細は論語語釈「征」論語語釈「伐」を参照。

自 金文 吾
(金文)

論語の本章では”~から”。原義は人間の鼻で、人が自分を指す時に花を指さすことが多いことから、自分を意味するようになった。また鼻は顔で最も突き出た器官であり、進み行く先への最先端であることから、”そこより始まる”という意味で”~から”の意を生じた。詳細は論語語釈「自」を参照。

天子

天 金文 子 金文
(金文)

論語の本章では、中華世界の主権者である周王のこと。中国の君主は天から地上の支配権を得たとして、天子を称した。しかし周王は孔子誕生の220年前に実権を失っており(BC771、東周・春秋時代の始まり)、論語の時代には権威はあったが実態は小諸侯に成り下がっていた。

ただし諸侯の認証権はまだあり、北方の大国・晋がBC453に、家老たちに分け取りされて魏・韓・趙の三国に分裂した際、事後認証をBC403に周王が行ったのが、天下に影響を及ぼす最後の機会となった。これを戦国時代の始まりとする。

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

文字的には論語語釈「天」論語語釈「子」を参照。

出(シュツ/スイ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”命令を出す”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

蓋(ガイ)→盍(コウ)

蓋 金文
(金文)

論語の本章では「けだし」と読んで、”思うに・考えて見ると”の意。詳細は論語語釈「蓋」を参照。

中国儒者の通例として、その「思い」に特に論拠があるわけではないが、論語の本章の場合は史実の裏付けがあった。天下の権が諸侯から出たのは、孔子より約一世紀前の桓公の例があり、桓公没後は覇権を失った。

斉桓公 管仲
それは同時に、桓公の宰相だった管仲から天下の政令が出ていた事でもあるが、桓公・管仲没後の斉国は、二度と覇権を握れなかった。二代目覇者である晋の文公も同じで、没後は勃興した南方の大国・楚との間で、覇権を取ったり取られたりの争乱が続く。

覇権と言っても桓公・管仲コンビの覇権のように、諸侯国のほとんどがその威令にひれ伏したわけではなく、言わば地域覇権に過ぎない。論語の時代はちょうどの時期に当たり、魯国は晋の保護下にあった。孔子が呉国を焚き付け晋に対抗させたのも、それが背景にあるだろう。

また魯国内では孔子の若年時代、筆頭家老・季氏の家臣に過ぎなかった陽虎が国政を握ったが(BC505、定公五年)、僅か三年後に政争に敗れて国外亡命している。以上いずれも二代続いた覇者はおらず、十-五-三と孔子が世代を数えたのは、ずいぶん余裕があることになる。

ただし定州竹簡論語により「蓋→盍」となると、読みはがらりと変わる。

  • 蓋十世希不失矣。
    けだし十世まれに失わざらん。(思うに、十世代のうちに失わないのは希だ。)
  • 盍十世希不失矣。
    なんぞ十世りて失わざらん。(どうして、十世代のうちに散って失わないだろうか。)

「希」も「まれ」ではなく「ちる」と訓み、”ばらばらになる・崩壊する”の意。あるいは論語季氏篇3とともに、盍は蓋の誤字か、当時は書き分けが無かった可能性があるが、ひとまず文字通りに解釈した。蓋の字はくさかんむりを伴った現行字体が、すでに春秋時代から発掘されており、秦の戦国文字・前漢の隷書も同様だからだ。詳細は論語語釈「盍」を参照。

希 金文大篆 希
(金文大篆)

この文字の初出は秦の隷書で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はxi̯ərで、同音は屎”くそ”のほかは希を部品とする漢字群。詳細は論語語釈「希」を参照。

陪臣(バイシン)

陪 金文大篆
「陪」(金文大篆)

論語の本章では、”家臣の家臣”。直接の臣下ではないが目下の者。「陪」とは”かさねる”ことで、君臣関係を重ねた者のことを言う。

「陪」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は無い。漢音は「ハイ」で、「バイ」は慣用音。『学研漢和大字典』によると「阝=阜(土盛り)+(音符)咅」の形声文字で、倍(二つに割ってそばにそえる)・培(バイ)(土を根にそえる)・伏(ぴったりとつき従う)・副(そばにそえる)と同のことば、という。

ただし咅の漢音は「トウ」、呉音は「ツ」なので、なぜこれが音符なのか首をかしげるが、別系統の音として漢音「フウ」、呉音「フ」を『学研漢和大字典』は載せる。詳細は論語語釈「陪」論語語釈「臣」を参照。

この文字の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語の時代にさかのぼる代替候補もない。論語の中ではこのほか、里仁篇9に用例があるが、もちろん偽作。詳細は論語語釈「議」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章は、前漢の儒者が自派の地位を帝国内に確立するため、一生懸命皇帝にゴマをすってでっち上げた作文。天子=漢の皇帝にひたすら従えと言っているだけで、内容的価値のあることを何一つ言っていない。だが無から有をでっち上げるのが儒者というものである。

清儒・劉逢禄は言う。

齊自僖公小霸桓公合諸候歷孝昭懿惠頃靈莊景凡十世而陳氏專國晉自獻公啟疆歷惠懷文而代齊霸襄靈成景厲悼平昭頃而公族復為強臣所減凡十世魯自隱公僭禮樂減極至昭公出奔凡十世

清儒
斉は僖公の時に勃興し、桓公の時に天下の覇者となり、そののち孝・昭・懿・恵・頃・霊・荘・景公が継いで合計十世、そこで陳氏に権力を奪われた。晋は献公の時に強大化し始め、恵・懐・文公と継いで斉に代わって覇者となり、襄・霊・成・景・厲・悼・平・昭・頃公と継いで、有力家臣に滅ぼされたが、栄えたのは合計十世である。魯は隠公から礼楽を勝手に臣下が行い始めてほとんど滅んだが、昭公が国を追われるまで合計十世である。(『論語述何』)

あたかも十世で滅ぶのが摂理であるかのように言っているが、どの殿様から計算を始めるかを勝手に決めており、要するにコジツケ。論語の本章と合わせ、まじめに読む価値も無い。

また論語の本章は、「陪」の字の文字史より、前漢より前には遡れず、遅くとも定州竹簡論語の記された前漢宣帝より後には下らない。つまり前漢初期に作られたと見るのが妥当だが、帝国を揺るがす反乱だった呉楚七国の乱(BC154)の前か後かで意義が変わる。

反乱のきっかけは、皇太子時代の景帝が、双六のいさかいから親戚の呉国世子を双六盤で殴刂殺し、皇太子ゆえにおとがめ無しになったことで(BC165)、一旦引き下がった呉国は恨みをくすぶらせた挙げ句、景帝の代になって同様の立場にあった諸侯国と共に反乱を起こした。

それが失敗に終わったことで、前漢帝国の中央集権化が完了するのだが、それまでは諸侯国は事実上の独立国であり、「礼楽征伐」が「天子」から出ていなかった。もとよりこの状態は皇帝にとって不愉快であり、儒者がその気分に付け込んで儒教を売り込んでも不思議は無い。

仮に論語の本章が作られたのが乱の後だとすると一層愚劣で、単に皇帝に対するお追従を、ベラベラと繰り返し書き連ねたことになる。修辞的にも次章の五・四・三の真似をして、もっともらしくねじ込んだ、いかにも役人が好みそうな定型文。

『論語』季氏篇:現代語訳・書き下し・原文
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