論語詳解428季氏篇第十六(11)君子に三つの畏*

論語季氏篇(11)要約:天・偉大な先人・人格者を敬いなさい。凡人がこの三者をむやみに怖がったり小ばかにするのは、その恐ろしさやありがたみを知らないからだ、とニセ孔子先生のお説教。ただしホンモノの可能性もあります。

    (検証・解説・余話の無い章は未改訂)

    論語:原文・白文・書き下し

    原文・白文

    孔子曰、「君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言。小人不知天命而不畏也。狎大人、侮聖人之言。」

    校訂

    定州竹簡論語

    ……曰:「君子有三畏:畏天命,[畏大人,畏聖]484……[不知天命而a畏也,狎大]人,㑄b聖人之言也c。」485

    1. 金本”而”字后有”不”字。
    2. 㑄、今本作”侮”。㑄為古”侮”字。
    3. 也、今本無。

    ※㑄は上古音不明。


    →孔子曰、「君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言。小人不知天命而畏也。狎大人、㑄聖人之言也。」

    復元白文(論語時代での表記)

    孔 金文子 金文曰 金文 君 金文子 金文有 金文三 金文畏 金文 畏 金文天 金文命 金文 畏 金文大 金文人 金文 畏 金文聖 金文人 金文之 金文言 金文 小 金文人 金文不 金文智 金文天 金文命 金文而 金文不 金文畏 金文也 金文 大 金文人 金文 侮 甲骨文聖 金文人 金文之 金文言 金文

    ※㑄→(甲骨文)。論語の本章は狎の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による創作である。

    書き下し

    孔子こうしいはく、君子もののふに三つのおそれあり。天命てんめいおそれ、大人たいじんおそれ、聖人せいじんことのはおそる。小人ただびと天命てんめいらずしおそれるなり大人たいじんれ、聖人せいじんことのはあなどなり

    論語:現代日本語訳

    逐語訳

    孔子 肖像
    孔子が言った。「君子には三つのおそれ敬うべきものがある。天の定めをおそれ、人格者をおそれ、万能の人をおそれる。凡人は天の定めを知らなままおそれる。人格者になれなれしくし、万能の人の言葉を見くびる。」

    意訳

    論語 孔子 人形
    天の定め、人格者、万能の人を慎み敬え。凡人が天の定めを慎むのは、その正体を知らないからだ。その代わり人格者を小ばかにし、万能の人の言葉をあざ笑う。

    従来訳

    下村湖人

    先師がいわれた。――
    「君子には三つの畏れがある。天命を畏れ、長上を畏れ、聖人の言葉を畏れるのである。小人は天命を感知しないのでそれを畏れない。そして長上に猥なれ、聖人の言葉をあなどる。」

    下村湖人先生『現代訳論語』

    現代中国での解釈例

    孔子說:「君子有三件事要敬畏:敬畏自然規律、敬畏大人物、敬畏聖人的話。小人不懂自然規律因而也就不敬畏自然,不尊重大人物,戲侮聖人的言論。」

    中国哲学書電子化計画

    孔子が言った。「君子には三つの敬い畏れるべき事がある。自然の規律を敬い畏れ、大人物を敬い畏れ、聖人の話を敬い畏れる。小人は自然の規律を理解できないからこそ自然を敬い畏れず、大人物を尊重せず、聖人の発言をからかい侮る。」

    論語:語釈

    君子

    孟子

    論語の本章では、後世の創作が確定していることから、孔子より一世紀後の孟子が言いだした語義、”教養人であり、仕官した者またはその予備軍”。詳細は論語語釈「君子」を参照。

    畏(イ)

    畏 金文 畏 解字
    (金文)

    論語の本章では”おそれ敬う”。怖がることではなく、対象を偉大なものとして態度を慎み敬うこと。

    初出は甲骨文。語源的には『学研漢和大字典』によると、頭の大きな鬼=亡霊が棒を持っておどすさまで、気味悪い威圧を感じることといい、威と同形の言葉だが、意味の重点は恐怖することではなく、威圧の方にある。詳細は論語語釈「畏」を参照。

    天命

    天 金文 命 金文
    (金文)

    論語の本章では”天の命令・運命”。

    「天」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、大の字にたった人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示した指事文字で、もと、巓(テン)(いただき)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、という。詳細は論語語釈「天」を参照。

    「命」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「亼(シュウ)(あつめる)+人+口」の会意文字で、人々を集めて口で意向を表明し伝えるさまを示す。心意を口や音声で外にあらわす意を含む。特に神や君主が意向を表明すること。転じて、命令の意となる、という。詳細は論語語釈「命」を参照。

    孔子が本章以外で「天命」と言ったのは、論語では「五十にして天命を知る」と言った為政篇4しかない。この発言は、「七十にしてのりをこえず」とあるから孔子の最晩年のことになるが、人格的意志「命」を持った「天」なるものを孔子が信じていたかははなはだ怪しい。

    詳細は孔子はなぜ偉大なのかを参照して頂きたいが、史実の孔子はほぼ無神論者である。だから弟子と言うより友に近い冉伯牛を疫病で失った際、「何が天命だ。クソ食らえ!」とまで極言している(論語雍也篇10)。為政篇の「天命」も、ほとんど”なりゆき”の意と解するのがよく、「天、われに徳を生ず」(論語述而篇22)と言った使命感は、晩年にはすっかり消えていた。

    大人(タイジン)

    大 金文 人 金文
    (金文)

    論語の本章では”人格者”。ただし、”地位や身分の高い人”とも解せる。

    『学研漢和大字典』によると、『孟子』を引いて徳のある人、人格者、という。しかし孔子存命中の中国語には、熟語がほとんど存在しないので、”大いなる人”=”偉い人”程度の意味だろう。香港マフィアの言う「大人ターイヤン」と同じである。

    なお孔子在世当時と近い時代の史料として、『春秋左氏伝』を参照すると、三例ある事例はいずれも比較的新しい時代の記事で、全て”身分ある者”の意味で用いられている。

    子產使都鄙有章,上下有服,田有封洫,廬井有伍,大人之忠儉者,從而與之,泰侈者因而斃之。

    (鄭の)子産は都城と田舎に規則を定め、身分の上下に従って義務を決め、田畑には区切りや溝を掘らせ、農民には隣組を作らせた。身分ある者で正直で慎ましい者は共に政治を摂り、怠け者で贅沢な者は処刑した。(襄公三十年)

    閔子馬曰,周其亂乎,夫必多有是說,而後及其大人大人患失而惑,又曰,可以無學,無學不害。

    閔子馬曰く、周は動乱が近いな。こんな説が流行るようでは、身分ある者でさえ釣り込まれる。そうした者が地位を失うのを恐れて取り乱し、学ぶ必要など無い、学ばなくても困らないなどと言い出す。(昭公十八年)

    若艱難其身,以險危大人,而有名章徹,攻難之士,將奔走之。

    もし自分の危険をかえりみず、身分ある者に危険を及ぼし、それで名が挙がって称賛されるようなら、向こう見ずな貴族は、先を争って騒ぎを起こすだろう。(昭公三十一年)

    辞書的には論語語釈「大」論語語釈「人」を参照。

    聖人

    聖 金文 人 金文
    (金文)

    論語では、”万能の人”。神聖な、とか神に近い、という意味ではない。詳細は論語語釈「聖」を参照。

    狎(コウ)

    狎 金文大篆 狎 字解 キャリーケージ
    (金文大篆)

    論語の本章では”なれなれしくする”。確実な初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はɡʰap(入)。『大漢和辞典』で音コウ訓なれるに「押」ʔap(入)があり、「狎に通ず」というが、初出が不明、古文のみが知られる

    『学研漢和大字典』によると「犬+(音符)甲(わくをかぶせる)」の会意兼形声文字で、動物をわくに入れてならすこと、という。詳細は論語語釈「狎」を参照。

    侮(ブ)→㑄

    侮 金文大篆
    (金文大篆)

    論語の本章では”あなどる”。初出は甲骨文

    『学研漢和大字典』によると「人+(音符)每(バイ)」の形声文字で、見えない→認めない、目にもとめないの意を含む。每は母と同じく、子をうむ母親をあらわす。ここでは侮の音を示すのみで、母の意に関係はない、という。詳細は論語語釈「侮」を参照。

    定州竹簡論語の㑄の初出は甲骨文。ただし亻と母の並びが逆になっている。上古音は不明だが、侮とおそらくは同じで、異体字と思われる。

    論語:付記

    中国歴代王朝年表

    中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

    論語の本章は上記の検討の通り、「狎」の字が論語の時代に存在しないことから、後世の創作と断じざるを得ないのだが、「小人は天命を知らずして畏れる」とあることから、無神論者に限りなく近かった孔子の発言としてふさわしい(孔子はなぜ偉大なのか)。

    加えて「狎」の字について『大漢和辞典』は「押」字条で、「狎に通ず」と言い、「押」は甲骨文・金文・戦国文字に見えないものの、古文の字形(↓)は相当に古く、おそらく論語の時代に遡れるのではないかと想像する。ただし訳者の個人的感想に過ぎず、断言は出来ない。
    押 古文

    なお清儒の毛奇齢は、論語の本章にこと寄せて、『四書改錯』の中でこう言っている。

    毛奇齢
    天のことわりを理解してその原理を探るにあたり、『四書集注補』はまことに細かくその原理を記している。だが宋の儒者はおおむね、下らないオカルトにこだわるくせがあり、何でもかでも「理」の作用だと言い張る。その結果、彼らの言う天のことわりのなんたるかは、オトツイの方角に行き果てている。

    例えば『中庸』の「天命、これを性という」について、「性」は「理」に他ならないと言い、そして「天」も「理」に他ならないという。つまり「理は理だ」と言っているわけだが、これでは何のことやらさっぱり分からない。

    それを無理やり、手に取れる自然界のことわりとして理解しようとするが、何も分からない事甚だしい。まして手に取れない天界のことなど、分かる道理がない。何につけて「理だ理だ」と言い張る一つ覚えが、ことごとく間違っているからだ。

    朱子始め、宋儒の書き物には何が書いてあるかは分かっても、何を言いたいのかさっぱり分からないことがコレデモカと書いてある。そう思うのは訳者ばかりではなく、明代に朱子学が帝国のイデオロギーになってから久しい清代の、名儒である毛奇齢も同じだったようだ。

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