論語詳解432季氏篇第十六(15)斉の景公馬*

論語季氏篇(15)要約:孔子先生と縁深い斉の景公。馬を四千頭も持っていましたが、亡くなっても誰も褒めませんでした。一方いにえしえの義士としてもてはやされた伯夷叔斉の兄弟は、山に籠もって餓死しました、という作り話。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

齊景公有馬千駟、死之日、民無德*而稱焉。伯夷叔齊餓於首陽之下、民到于今稱之。〔誠不以富、亦祇以異。〕*其斯之*謂與。

校訂

武内本唐石経、得を德に作る。得は德の借字。唐石経斯の下之の字あり。程氏云、此章の首に詩云、誠不以富、亦祇以異、孔子曰の十三字を脱す、顔淵篇第十章参照。→これ=新注の注釈に従った。但し位置は文頭ではなくこの位置に移した。

定州竹簡論語

齊景[公有馬千駟,死之日],民無□□[稱焉]。伯夷、叔[齊■(食+義)a493……[首]陽之下,民到於今稱[之。其斯之謂與]?494

  1. ■(食+義)、今本作”餓”。

※「于」の有無について『定州漢墓竹簡論語』に注記無し。


→齊景公有馬千駟、死之日、民無德而稱焉。伯夷叔齊■(食+義)於首陽之下、民到今稱之。〔誠不以富、亦祇以異。〕其斯之謂與。

復元白文

斉 金文京 金文公 金文有 金文馬 金文千 金文駟 金文 死 金文之 金文日 金文 民 金文無 金文徳 金文而 金文称 金文安 焉 金文 伯 金文夷 金文叔 金文斉 金文於 金文首 金文陽 金文之 金文下 金文 民 金文致 金文今 金文称 金文之 金文成 金文不 金文㠯 以 金文畐 金文 亦 金文祇 金文㠯 以 金文異 金文其 金文斯 金文之 金文謂 金文与 金文

※景→京・焉→安・誠→成・富→畐。論語の本章は■(食+義)≒餓の字が論語の時代に存在しない。本章は秦帝国以降の儒者による捏造である。

書き下し

せい景公けいこううまるも、するたみとくとしたたふるし。伯夷はくい叔齊しゆくせい首陽しゆやうもとうるも、たみいまいたるまでこれたたふ。〔まこととみおもはず、かへりてことなるをおもふ。〕いひ

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 斉景公
斉の景公は馬を四千頭持っていたが、死去の日、民は頼りがいのある殿様だったと讃えなかった。伯夷と叔斉の兄弟は首陽山のふもとで飢えたが、民は今になるまで彼らを讃えている。「まことに富を思わず、それより異なった人を思う」とは、このことだろうか。

意訳

斉の景公は、戦車千両分の馬を四千頭持っていたが、死去の日、民は頼りがいのある殿様だったと讃えなかった。伯夷と叔斉の兄弟は首陽山のふもとで飢えたが、民は今になるまで彼らを讃えている。「金をばらまいても民は偉いと思わず、全然違う人を偉いと思う」とは、このことだろうか。

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。――
「斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで饑死したが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。詩経に、

黄金も玉も何かせん
心ばえこそ尊けれ。

とあるが、そういうことをいったものであろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

齊景公有四千匹馬,死的時候,百姓覺得他沒什麽德行值得稱贊;伯夷、叔齊餓在首陽山下,百姓至今稱贊他們。

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斉の景公は四千頭の馬を飼っていた。死んだとき、人々は彼に何ら讃えるべき徳の行いを感じなかった。伯夷と叔斉は首陽山のふもとで餓えたが、人々は今に至るまで彼らを讃えている。

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

齊(斉)景公

論語 景 金文 論語 公 金文
「景公」(金文)

論語では孔子とも縁の深かった、東方の大国・斉の君主。?-BC490。BC547、孔子5歳の年に即位し、BC490、孔子62歳の年に在位のまま没した。名君とは言いがたいものの、賢臣である晏嬰アンエイの助けを得て大過なく斉を治めた。

BC522、孔子30歳の年、魯を訪問して孔子に政治を問うている(論語顔淵篇11)。BC517、孔子35歳の年、斉国に亡命した孔子を受け入れ、領地まで指定して召し抱えようとしたが、晏嬰の反対にあって取りやめた(『史記』孔子世家)。

BC500、孔子52歳の年、晏嬰が世を去る。その後孔子が魯国の政権を握ったとき、魯の強大化を恐れて女楽団を送り、孔子失脚の遠因を作ったとされるが(BC497、孔子55歳)、それは儒者のひいきの引き倒しに過ぎないと思う。

駟(シ)

論語 駟 金文大篆 論語 駟 字解
(金文)

論語の本章では、”馬車を引く四頭立ての馬”。当時の馬車・戦車は通常二頭立てで、四頭立ては特別仕立てだった。馬は一頭だけでも扱いが難しい上に、四頭の息を揃えて走らせるのは非常に難しく、四頭立ては君主や将軍の車、もしくは特別に速度を求められる車に用いた。

「駟車」とは速いものの象徴として、論語顔淵篇8でも用いられている。斉の景公が直轄軍の軍馬として四千頭を持っていたのか、それとも貴族の持つ軍馬と合わせて四千頭だったかはわからない。ただ国力の劣る魯国でも、八百乗以上の兵車は保有していた。

德(徳)而稱(称)

論語 徳 金文 論語 称 金文大篆
「徳」「称」(金文)

論語の本章では”力強い殿様だと言って讃える”。「徳」は人間の持つ機能をいい、君主の場合は”頼りがい”と言っていい。「称」の原義は『学研漢和大字典』によると作物の重さを計量すること。

焉(エン)

論語 焉 金文 論語 焉 字解
(金文)

論語の本章では、完了・断定の助辞として”~てしまった”。原義はエンという鳥のこと。詳細は論語語釈「焉」を参照。

伯夷叔齊(斉)(ハクイ・シュクセイ)

論語 夷 金文 論語 伯夷叔斉
「夷」(金文)

論語では、伝説上の義士の兄弟。

中国東北の辺境にあった孤竹国の公子だったが、互いに国を譲って国外に出た。その折り周の武王が殷を滅ぼす事態に出会い、周軍の前でその非をとがめて演説をぶったが、相手にされず放置された。当然周への仕官もかなわず耕しもせず、山に隠れてワラビを取って暮らした。

しかしワラビはそう栄養価が高くないし、年中生えてもいない。隠遁生活に行き詰まり、恨みがましい歌を作って飢え死にしたという。以上の解釈を全部好意的に裏返して、論語の当時いにしえの義士としてもてはやされた。

白川静
伯夷を白川博士は「周と通婚関係にあった姜姓諸族の祖神である」と書くが(『字通』叩字条)、誰も知るよしの無い中国古代の祭祀なるものを、根拠も記さず見てきたようにベラベラと書く白川博士の駄ボラは信用し難い。

餓→■(食+義)

論語の本章では”飢える”。論語では本章のみに登場。初出は秦の隷書。論語の時代に存在しない。論語の時代の置換候補は存在しない。『学研漢和大字典』によると「食+(音符)我(ごつごつした)」の会意兼形声文字。食物が不足して、からだがごつごつ骨ばること、という。詳細は論語語釈「餓」を参照。

定州竹簡論語の■(食+義)は、小学堂の異体字に無いし、「飢」の異体字も近そうなのがあるがズバリそのものは無い。義のカールグレン上古音はŋia(去)だから、餓ŋɑ(去)のほうが飢ki̯ær(平)よりも近い。餓の異体字と見るのが適切だろう。

首陽

伝説では伯夷と叔斉が隠れ住んだ山、首陽山を言う。古来どこだか分からないし、儒者などがそれぞれに、よってたかってドコソコだとメルヘンを言い張っているが、いずれも実のある根拠があるわけではない。「須弥山ってどこでしょう」と探し回るのと同じだ。

首阳山的地理位置,历来有多种说法,包括山西永济市、河南偃师县、河北卢龙县(永平府)、甘肃陇西县、山东昌乐县等。


首陽山の地理的位置は、古来よりさまざまに言われてきた。山西省永済市、河南省偃師市、河北省盧竜県、甘粛省隴西県、山東省楽県がその中に含まれている。(中国語版wikipedia首陽山条より翻訳)

後漢の順帝陽嘉元年(AD132)、日照りが起こったので地方豪族に山参りを命じ、名山に上級勅使を派遣してお参りさせたが、その中に首陽山が含まれている。

京師旱。庚申,敕郡國二千石各禱名山岳瀆,遣大夫、謁者詣嵩高、首陽山,并祠河、洛,請雨。戊辰,雩。


帝都洛陽で日照りが起こった。かのえさるの日、全国に勅令を発して二千石以上の身分を持つ豪族に、地元の名山へお参りするよう命じた。さらに閣僚を嵩山、首陽山、さらに黄河と洛水に巡礼させ、雨乞いさせた。それでも日照りが続くので、つちのえたつの日、帝都の雨乞い場におおぜい巫女を呼んで、大々的にチンチンドンドンと雨乞いをさせた。(『後漢書』順帝紀)

だがこの時使いがどこの首陽山でわあわあと祝詞をわめいたか、すでに分からない。一番可能性があるのは馬融が論語に付けた注だが、デタラメばかり言う人物なので信用は出来ない。

註馬融曰首陽山在河東蒲坂縣華山之北河曲之中也

馬融
首陽山は、河東の蒲坂県、華山の北、黄河が曲がり流れる中にある。(『論語集解義疏』)

「首」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると頭髪のはえた頭部全体を描いた象形文字で、抽(チュウ)(ぬけ出る)と同系で、胴体から抜け出たくび、という。詳細は論語語釈「首」を参照。

「陽」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。昜(ヨウ)は、太陽が輝いて高くあがるさまを示す会意文字。陽は「阜(おか)+(音符)昜」で、明るい、はっきりした、の意を含む。▽阳は中国で陽の簡体字。昌(明るい)・彰(明るい、あざやか)・章(あざやかで、目だつ)と同系、という。詳細は論語語釈「陽」を参照。

論語 富 金文 論語 富 篆書
(金文・篆書)

論語の本章では”富む”。この文字の初出は上掲戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はpi̯ŭɡ。同音に不、否。部品の畐(カ音・藤音不明)に”満ちる”の語釈を『大漢和辞典』が載せており、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「富」を参照。

誠不以富、亦祇以異

論語 祇 古文 論語 まじない師
「祇」(古文)

論語の本書津では、”全くもって、富で称賛されるのではなく、超常の力で褒め称えられるのだ”。もとは論語顔淵篇10にあったのを、新注の程頤の説によって本章に移すことが漢文業界のお約束だが、それに同意した理由については論語顔淵篇10付記を参照。

出典は『詩経』小雅・「我行其野」のうたの一節。

我行其野、蔽芾其樗。 昏姻之故、言就爾居。 爾不我畜、復我邦家。
我一人野を行ける 役立たずのオウチが茂る
契りしゆえに 共に暮らせど
なんじ我をかえりみず やむなく我は里へ帰る

我行其野、言采其蓫。 昏姻之故、言就爾宿。 爾不我畜、言歸思復。
我一人野を行ける しぶ草取りて飢えしのぐ
契りしゆえに 共に暮らせど
なんじ我をかえりみず 今はいざ里へ帰る

我行其野、言采其葍。 不思舊姻、求爾新特。 成不以富、亦祇以異。
我一人野を行ける ひるがお取るも食えはせで
我をば忘れて 新たにめとる
富のためにあらねど 曰く女房と畳

要するに離縁された妻の恨み言の歌だが、「成(=誠)不以富、亦祇以異」の解釈は古来難解とされたらしい。平凡社・中国古典文学大系では、”まことその富めるにもあらで なまなかにめずらしきとて”と訳している。要するに「女房と畳は新しい方がいい」ということ。

これが正しいなら論語の本章とは関係なくなり、このように元の文の一部だけ切り取って違う意味に解するのを、「これを断章取義という」と藤堂本に記す。またこの歌は、「我」を一人称の主格として用いているから、古い「雅楽」に入っているにしては語法が崩れている。

一人称の主格は「吾」を用いるのが古い中国語の語法で、「我」は所有格・目的格に使われたからだ。詳細は論語語釈「吾」を参照。『詩経』は古歌を収めた歌集とされるから、このあたりの整合性は気に掛かる。詩だから語法を無視したのか、それとも俗語の民謡の類か。

だが「成不以富」を「誠に富をもちいず」と読むのにもまた理があり、それについては上記の顔淵篇付記を参照。結局「我」の語法にさえ目をつぶれば本章に移動するのがよいと思われるし、現伝『詩経』が当時のままという保証もどこにも無い。

論語 祇 篆書 論語 大黒天 祇
「祇」(篆書)

なお「祇」は本来天の神に対する地の神だが、「氏」の下に「一」が入った祗(シ)や、それに音が通じる只(シ)と同様に、副詞として”ただ・ひたすらに・ただ…だけ”の意をあらわすことばとして用いる。

其斯之謂與(それこれのいいか)

論語 斯 金文 論語 扇風機
「斯」(金文)

論語の本章では、”それはこういうことを言うのだろうか”。「(ことわざにいうことが)おそらくこのことであろうか」と訳し、「それこれをこれいうか」」とも読み下す。論語学而篇15で子貢が同じく『詩経』を引いて、同じ語法を使っている。「其」は”それは”。詳細は論語語釈「其」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章は、孔子が言ったという保証がついていない。論語季氏篇が孔子語録としては新しく、古くとも戦国時代にしかさかのぼれない事を考え合わせると、孔子の肉声かどうかは微妙なところ。おそらくは漢初になって、儒者がこしらえた伝説だろう。

論語 孔子 お花畑
ただし本章の言葉は孔子が言ってもおかしくない話で、相当にメルヘンの人でもあった孔子は、伯夷叔斉を持ち上げる十分な理由がある。論語公冶長篇22で兄弟を「昔の憎悪を思わなかったので、怨みはそれでほとんど無かった」と讃えたのがその一例。だがこれも偽作。

ただし斉の景公にお預けを喰らったことから、孔子が景公を恨んでくさしても不思議はない。「やられたらやり返せ!」が孔子の信条だったからだ(論語憲問篇36)。111億円もの年俸をくれた衛の霊公を「無道」と言ったからには(論語憲問篇20)、景公ならなおさら。

論語 墨子
お預けに怒って孔子が何をしたかを、墨子はさんざん悪く書いている(『墨子』非儒下篇)。

論語 孔子 不愉快

孔子はみるみる不機嫌になって、景公と晏子を怨んで、のろいの皮袋を家老の田常の屋敷の門にぶら下げ、南郭恵子に「用事がある」と言って魯に帰ってしまった。

しばらくして斉が魯を攻撃しようとすると、孔子は子貢に言った。「子貢よ、名を挙げるのはこの時だぞ!」そして子貢を斉に行かせた。

論語 子貢 遊説
子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。

ただし『字通』の編者・白川静の『孔子伝』によると、孔子が斉を去ったのはライバルの陽虎が斉へ亡命したためで、折り合いが悪かった孔子はそそくさと斉を出たという。そうなると『史記』に記された、斉の家臣団による孔子暗殺の謀略も作り事になる(孔子世家)。

当時の孔子は無位無冠だから、暗殺するほどでもないと思われていただろうから、白川説には納得できる点がある。また『墨子』の記述は儒家憎しのあまり筆が滑っている点があり、そのまま史実と受け取るのは難しい。ただし後世の儒者の改竄を免れた希有の本ではある。

いずれにせよ事実は遠い古代の闇の中で、それゆえ面白い話を歴史と受け取っていいだろう。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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