論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
〔誠不以富、亦祇以異。〕齊景公有馬千駟、死之日、民無德*而稱焉。伯夷叔齊餓於首陽之下、民到于今稱之。*其斯之*謂與。
校訂
武内本
唐石経、得を德に作る。得は德の借字。唐石経斯の下之の字あり。程氏云、此章の首に詩云、誠不以富、亦祇以異、孔子曰の十三字を脱す、顔淵篇第十章参照。
※「程氏云」に従わない理由は論語顔淵篇10解説参照。
諸本
- 京大蔵清家本:民無得而稱〔上下に正+与〕
- 京大蔵正平本:民無得而稱〔上下に正+与〕
- 鵜飼本:民無得稱焉
- 懐徳堂本:民無得稱焉
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
定州竹簡論語
齊景[公有馬千駟,死之日],民無□□[稱焉]。伯夷、叔[齊〔食+義〕a493……[首]陽之下,民到於今稱[之。其斯之謂與]?494
- 〔食+義〕、今本作”餓”。
※「于」の有無について『定州漢墓竹簡論語』に注記無し。
→齊景公有馬千駟、死之日、民無得而稱焉。伯夷叔齊〔食+義〕於首陽之下、民到今稱之。其斯之謂與。
復元白文(論語時代での表記)
焉 餓
※景→競。論語の本章は〔食+義〕≒餓の字が論語の時代に存在しない。「叔」「到」「與」の用法に疑問がある。本章は秦帝国以降の儒者による創作である。
書き下し
齊の景公馬千駟有るも、死する之日、民得而稱ふる無し。伯夷叔齊首陽之下に餓うるも、民今に到るまで之を稱ふ。其れ斯れ之謂與。
論語:現代日本語訳
逐語訳
斉の景公は馬を四千頭持っていたが、死去の日、民はそれを聞いて讃えなかった。伯夷と叔斉の兄弟は首陽山のふもとで飢えたが、民は今になるまで彼らを讃えている。それ(=景公の死)は、このようなことだろうか。
意訳
斉の景公は、戦車千両分の馬を四千頭持っていたが、死去の日、民は亡き君主を讃えなかった。昔話には、伯夷と叔斉の兄弟は首陽山のふもとで飢えたが、民は今になるまで彼らを讃えているというが、財産が人の評価を決めはしないとは、こういうことを言うのだろうか。
従来訳
先師がいわれた。――
「斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで饑死したが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。詩経に、黄金も玉も何かせん
心ばえこそ尊けれ。とあるが、そういうことをいったものであろう。」
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
齊景公有四千匹馬,死的時候,百姓覺得他沒什麽德行值得稱贊;伯夷、叔齊餓在首陽山下,百姓至今稱贊他們。
斉の景公は四千頭の馬を飼っていた。死んだとき、人々は彼に何ら讃えるべき徳の行いを感じなかった。伯夷と叔斉は首陽山のふもとで餓えたが、人々は今に至るまで彼らを讃えている。
論語:語釈
齊(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では「斉国」。字の初出は甲骨文。新字体は「斉」。「シ」は”ころものすそ”の意での漢音・呉音。それ以外の意味での漢音は「セイ」、呉音は「ザイ」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。
景公(ケイコウ)
論語では孔子とも縁の深かった、東方の大国・斉の君主。?-BC490。BC547、孔子5歳の年に即位し、BC490、孔子62歳の年に在位のまま没した。名君とは言いがたいものの、賢臣である晏嬰の助けを得て大過なく斉を治めた。
BC522、孔子30歳の年、魯を訪問して孔子に政治を問うている(論語顔淵篇11)。BC517、孔子35歳の年、斉国に亡命した孔子を受け入れ、領地まで指定して召し抱えようとしたが、晏嬰の反対にあって取りやめた(『史記』孔子世家)。
BC500、孔子52歳の年、晏嬰が世を去る。その後孔子が魯国の政権を握ったとき、魯の強大化を恐れて女楽団を送り、孔子失脚の遠因を作ったと『史記』は言う(BC497、孔子55歳)。
(前漢隷書)
「景」の初出は前漢の隷書。ただし春秋末期に「競」を「景」と釈文する例がある。字形は「日」”太陽”+「京」”たかどの”。高々と明るい太陽のさま。同音は「京」のみ。「ひかり」の意では漢音は「ケイ」、呉音は「キョウ」。「かげ」の意では漢音は「エイ」、呉音は「ヨウ」。戦国までは「競」で「景」を表した。春秋末期の金文に人名としての「競」の例があり、戦国の竹簡では「齊競公」と記している。詳細は論語語釈「景」を参照。
つまり論語や孔子に縁の深い斉の景公は、死去の直後は「競公」とおくり名されて呼ばれていたことになる。「競」は甲骨文より人名にも用いるが、春秋末期までの用例では現代漢語と同じく”競う”の意。景公ならぬ競公は、じわじわと国を乗っ取ろうとする田氏(=陳氏)に”張り合った殿さま”というおくり名を付けられたことになる。
同時代の衛の君主は、賢臣と勇将を抱え(論語憲問篇20)、民にも慕われていたし、じわじわと圧迫を加えてくる大国晋によく抵抗したやり手の殿さまだったが(『春秋左氏伝』定公八年)、「霊公」”国を滅ぼすようなバカ殿”とおいうおくり名を付けられたことに現在ではなっている。春秋戦国のおくり名が、果たして現伝のそのままだったという保証はどこにも無い。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”所有する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
馬(バ)
(甲骨文)
論語の本章では”うま”。車の引き馬のこと。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。
千(セン)
(甲骨文)
論語の本章では数字の”1,000”。初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、原義は”一千”。古代は「人」ȵi̯ĕn(平)で「一千」tsʰien(平)を表した。従って「人」に「三」や「亖」を加えて三千や四千を示した例がある。論語の時代までに、”多い”をも意味するようになった。詳細は論語語釈「千」を参照。
駟(シ)
(金文)
論語の本章では”四頭立ての馬車”。すなわち「馬千駟」で”四千頭の馬”。初出は西周末期の金文。字形は「馬」+「四」。四頭立ての快速戦車の意。西周末期から人名、または”四頭立ての馬車”の意に用いる。詳細は論語語釈「駟」を参照。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死去”。初出は甲骨文。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
之(シ)
「之」(甲骨文)
論語の本章、「稱之」では”これ”。それ以外では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
日(ジツ)
(甲骨文)
論語の本章では日付としての”日”。初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。詳細は論語語釈「日」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”領民”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
得(トク)
(甲骨文)
論語の本章では”手に入れる”→”明らかになる”。「あきらかになる」の語釈は『呂氏春秋』を引いて『大漢和辞典』も載せている。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
稱(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”たたえる”。新字体は「称」。初出は甲骨文。ただし字形は「爯」。現伝字形の初出は秦系戦国文字。甲骨文・金文の字形は「爪」”手”+「冉」”髭を生やした口”で、成人男性を持ち上げたたえるさま。戦国最末期の秦国で「禾」”イネ科の植物”が付き、”たたえる”の語義は変わらないが、”穀物の報酬を与える”のニュアンスが付け加わった。甲骨文で”注目する”の意に、春秋末期までの金文で”たたえる”の意に用いた。詳細は論語語釈「称」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、”し終えた”を意味する断定のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
なお、以上「民無得而稱焉」が論語泰伯編1(偽作)の使い回しであるのは言うまでも無い。
伯夷(ハクイ)・叔齊(シュクセイ)
新字体では「伯夷」・「叔斉」。
論語では、古代中国の辺境にあったとされる孤竹国の公子兄弟とされる。その実、古代中国で最も有名なニートの兄弟。形式上、殷の臣下だった周が、いろんな事情で殷に反乱したのだが、「反乱」の後ろめたさに気付いたこの兄弟が、周の親玉・武王に、「お前さんはろくでなしだ(ワシらを黙らせたかったら官職を寄こせ)」とゆすった、と『史記』に書いてある。
西伯が死んで武王があとを継いだ。武王は西伯の位牌を車に乗せて「文王」と記し、殷の紂王を討つ軍勢を東に向けて出発させようとした。すると草むらに潜んでいた伯夷・叔斉の兄弟が、武王の車の引き馬に飛び付いて言った。「父上が亡くなったのに葬式も出さない。代わりに戦争を始めた。親不孝にもほどがある。家臣の分際で主君を殺そうとしている。お前さんはろくでなしだ。」怒った衛兵が武器を向けた。
太公望「ハイハイご立派ご立派、ちょっとあっちへ行こうね。」衛兵に言い付けて、しがみついている二人を馬から引きはがし、「オイ! こいつらをどっかに捨ててこい。」(『史記』伯夷伝)
やったことはチンピラ左翼や街宣右翼のたぐいと変わらない。中国では生まれた男の子を歳の順に伯・仲・叔・季と呼ぶので、伯夷は”長男の夷”、叔斉は”三男の斉”という意味。孤竹国は竹簡や青銅器に物証があり、現在の遼寧省にあった殷の諸侯国。
上掲の『史記』に「孝」「仁」と出てくるが、殷末周初、「孝」の字はあったが”孝行”の意味では使われていない(論語語釈「孝」)。「仁」の字は長らく忘れられており、しかも”情け・思いやり”という語義が出来るのは、600年以上先の戦国時代のことだ(論語における「仁」)。
つまり上掲『史記』の伝説は怪しい。
なお論語公冶長篇22解説に記したが、戦国時代の孟子は伯夷は知っていても叔斉は知らなかった。すると孔子も知らなかったはずで、伯夷と叔斉を兄弟と言い出したのは、孟子と同時代人の荘子。論語の本章も「叔斉」部分は史実性が一層怪しい。
伯夷を白川博士は「周と通婚関係にあった姜姓諸族の祖神である」と書くが(『字通』叩字条)、誰も知るよしの無い中国古代の祭祀なるものを、根拠も記さず見てきたようにベラベラと書く白川博士の駄ボラは信用し難い。
「白」(甲骨文)
「伯」の字は論語の時代、「白」と書き分けられていない。初出は甲骨文。字形の由来は蚕の繭。原義は色の”しろ”。甲骨文から原義のほか地名・”(諸侯の)かしら”の意で用いられ、また数字の”ひゃく”を意味した。金文では兄弟姉妹の”年長”を意味し、また甲骨文同様諸侯のかしらを意味し、五等爵の第三位と位置づけた。戦国の竹簡では以上のほか、「柏」に当てた。詳細は論語語釈「伯」を参照。
「夷」(甲骨文)
「夷」の初出は甲骨文。字形は「矢」+ひもで、いぐるみをするさま。おそらく原義は”狩猟(民)”。甲骨文での語義は不明。金文では地名に用いた。詳細は論語語釈「夷」を参照。
「叔」(甲骨文)
「叔」の初出は甲骨文。字形は「廾」”両手”+”きね”+”臼”で、穀物から殻を取り去るさま。ゆえに「菽」の意がある。原義は”殻剥き”。甲骨文では地名、”包み囲む”の意に、金文では人名、”赤い”の意に用いた。”次男”を意味するのは後世の転用。詳細は論語語釈「叔」を参照。
餓(ガ)→〔食+義〕(?)
論語の本章では”飢え(死にす)る”。諸本は「餓」と記し、定州竹簡論語は〔食+義〕と記す。〔食+義〕は『大漢和辞典』にも見えないが、「餓」のカールグレン上古音はŋɑ(去)、「義」はŋia(去)だから、「餓」の異体字と解した。
(秦系戦国文字)
「餓」の初出は楚系戦国文字。ただし字形は不明。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「食」+音符「我」。ただし「我」の音がなぜ”餓える”を意味するのかは不明。同音は「我」を部品とする漢字群。「我」は「餓に通ず」と『大漢和辞典』にあるが、出典は戦国時代以降成立の『荘子』。「餓」は戦国の竹簡から”餓える”の意に用いた。詳細は論語語釈「餓」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
首陽(シュウヨウ)
伝説では伯夷と叔斉が隠れ住んだ山、首陽山を言う。「シュヨウ」は呉音。古来どこだか分からないし、儒者などがそれぞれに勝手なことを言っているが、いずれも実のある根拠があるわけではない。「須弥山ってどこでしょう」と探し回るのと同じだ。
首阳山的地理位置,历来有多种说法,包括山西永济市、河南偃师县、河北卢龙县(永平府)、甘肃陇西县、山东昌乐县等。
首陽山の地理的位置は、古来よりさまざまに言われてきた。山西省永済市、河南省偃師市、河北省盧竜県、甘粛省隴西県、山東省楽県がその中に含まれている。(中国語版wikipedia首陽山条より翻訳)
後漢の順帝陽嘉元年(AD132)、日照りが起こったので地方豪族に山参りを命じ、名山に上級勅使を派遣してお参りさせたが、その中に首陽山が含まれている。
京師旱。庚申,敕郡國二千石各禱名山岳瀆,遣大夫、謁者詣嵩高、首陽山,并祠河、洛,請雨。戊辰,雩。
帝都洛陽で日照りが起こった。かのえさるの日、全国に勅令を発して二千石以上の身分を持つ豪族に、地元の名山へお参りするよう命じた。さらに閣僚を嵩山、首陽山、さらに黄河と洛水に巡礼させ、雨乞いさせた。それでも日照りが続くので、つちのえたつの日、帝都の雨乞い場におおぜい巫女を呼んで、大々的にチンチンドンドンと雨乞いをさせた。(『後漢書』順帝紀)
だがこの時使いがどこの首陽山でわあわあと祝詞をわめいたか、すでに分からない。論語の古注に何かと出任せを書き付けた馬融も言及しているが、信用できるわけではない。
註馬融曰首陽山在河東蒲坂縣華山之北河曲之中也
首陽山は、河東の蒲坂県、華山の北、黄河が曲がり流れる中にある。(『論語集解義疏』)
(甲骨文)
「首」の初出は甲骨文。字形は動物の頭+つの、または毛髪。くびの象形。「シュ」は呉音。甲骨文から”あたま”の意に用いた。詳細は論語語釈「首」を参照。
(甲骨文)
「陽」の初出は甲骨文。字形は「阝」”はしご”+「日」”太陽”+「干」”掲げる道具”。陽が昇った南側のさま。甲骨文の用例は2例しかないが、「小屯南地甲骨」に「于南陽西」とある。西周の金文では人名、”高く掲げる”、”南”の意に用いた。詳細は論語語釈「陽」を参照。
下(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”山のふもと”。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
到(トウ)
(金文)
論語の本章では”~まで”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は「至」”矢が届く”+「人」。人が到着するさま。つくり「人」が誤って「刂」に確立するのは漢より以降で、それまでは〔至人〕の字形だった。また、漢以降に「致」が分化した。西周の金文から人名に、また”もたらす”の意に用いた。戦国最末期から、”…の時が至る”、”…まで”の意に用いた。詳細は論語語釈「到」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。
其斯之謂與(それこれのいいか)
論語の本章では、”それはこのような評価だろうか”。「其」が主に単数の事物を指し、論語の本章では”斉の景公が財産を持ちながら讃えられなかったこと”を意味する。「斯」は主に複数の物事を指し、本章では”伯夷叔斉が飢え死にしたものの民が讃えているの類の話”を意味する。
(甲骨文)
「其」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
(金文)
「斯」の初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
(金文)
「謂」は本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
(金文)
「與」は論語の本章では”…か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、文字史からも内容からも史実の孔子塾関係者の発言とは言えず、そもそも誰の発言か記されていない。「焉」の字は無くとも文意がそう変わらないが、「餓」の春秋時代における不在はどうにもならない。またそもそも孔子は、通説とは異なり伯夷叔斉に良い評価を付けなかった。
子貢「先生、伯夷叔斉ってどんな人ですかね。」
孔子「何のなぞかけだ。そりゃあ昔の義人だろうが。」
子貢「せっかく周王軍の前で、大義名分を持ち上げる演説をぶったのに、アブナイ人扱いはされる、食いはぐれて飢え死にはする、やるんじゃなかったと怨んだに違いないでしょう?」
孔子「いや。仁を看板にしてべらべら喋って、名前だけでも天下公認の仁者になれたんだ。怨まなかっただろうよ。だが私はそんな真似しないぞ。」(論語述而篇14)
孔子が追求したのは、身分に拘わらず技能を持った者が社会を領導していく世の中で、孔子塾は現代のまともな予備校同様、徹底的に仕官するための実技を身につける場だったし、孔子が魯から亡命したのも、弟子の仕官先を求めてのことだった。
通説では孔子は魯の宰相を務めていたのに、殿さまと門閥貴族がいびり出したとされる。だが見てもいない超古代を好き放題に書いた『史記』ですら、殿さまと門閥が具体的に孔子に何かイジワルをしたとは書いていない。孔子は自分の事情と気分だけなら、宰相を辞任すればそれで済んだ。
『史記』はイビリ説の代わりに、孔子が宰相職にある前、県知事や検事総長として、男女の領民が疫病病みのように互いに離れて道を歩くのを強制し、商人のささいな誤魔化しにも厳罰を喰らわせたと書いてある。また斉国との国境にある砦に「法令違反だ」と難癖を付け、城壁を取り壊そうとした。
孔子は厳罰を喰らわせてまず庶民から反発を喰らい、次に城壁破壊で軍部、つまりは門閥貴族の反発を買った。これでは弟子を魯国や門閥の家臣として仕官させられず、だから外国に活路を探すしか無かったわけだ。考え無しの儒者や仕事嫌いの漢学教授の言う、「理想の政治」に自分の運命をなげうったわけでは全くない。
つまり孔子は自分が「義人」になろうとはぜんぜん思わなかったわけで、伯夷らを評価しなかったのは当然だった。若き日の孔子が斉の景公に仕官が叶わなかったのは確かだろうが、だからといって伯夷を持ち出して景公をおとしめる動機は見当たらないといってよい。
また伯夷はともかく叔斉は戦国時代にならないと現れない人物で、初出は「上海博物館蔵戦国楚竹簡」成王04の「白(伯)𡰥(夷)、〔上下に弔+口〕(叔)齊」からになる。また戦国中期の『孟子』も末期の『荀子』も、全く叔斉について言及していない。
以上から論語の本章は、戦国時代以降、おそらくは漢代の儒者による創作と判断するのが理にかなう。
解説
論語の本章、「其斯之謂與」(それこれのいいか)は、論語学而篇15(偽作)で子貢の言葉としてまったく同じ文字列が使われているが、漢字の一字一句をおろそかにせず、上古からの意味を調べないと、意味が分からない。
上掲の通り、「其」は単独の出来事を、「斯」は複数が混ざり合った状態・環境を指すのだから、”景公が財産を持ちながらバカにされたのは、伯夷叔斉が窮死しても讃えられたのと同じ事例の一つだろうか”と読み解かねばならない。
これが出来なかったから、宋儒の程頤は論語顔淵篇10の「誠不以富、亦祇以異。」を、本来本章の頭にあるべきなのに間違って移ったと根拠無く言った。この出任せは今なお日中台の漢学業界で疑われもせず真に受けられているのだが、ナントカの集まりと言われても仕方が無いのではなかろうか。
程頤がこのように言うに至った背景は、まず「其」と「斯」の区別が付けられなかったことにある。漢語は本来、SVO型の語順で解読できるはずの言語だが、戦国時代以降、特に漢帝国以降の儒者が私利私欲を理由に、古典に勝手な出任せを書き付けた結果、文語文法が滅茶苦茶になってしまった。
「其」「斯」のような、単語の語釈もデタラメがまかり通り、程頤ほどの高慢ちき(論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」)が読んでも分からなくなったわけ。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
齊景公有馬千駟死之日民無得稱焉註孔安國曰千駟四千匹也伯夷叔齊餓於首陽之下註馬融曰首陽山在河東蒲坂縣華山之北河曲之中也民到於今稱之其斯之謂與註王肅曰此所謂以德為稱者也
本文「齊景公有馬千駟死之日民無得稱焉」。
注釈。孔安国「千駟とは四千匹のことである。」
本文「伯夷叔齊餓於首陽之下」。
注釈。馬融「首陽山は黄河東岸の蒲坂県華山の北にあり、黄河が曲がりくねった真ん中にそびえている。」
本文「民到於今稱之其斯之謂與」。
注釈。王粛「これがいわゆる、人徳で讃えられる人というのである。」
新注『論語集注』
齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉。伯夷叔齊餓於首陽之下,民到于今稱之。駟,四馬也。首陽,山名。其斯之謂與?與,平聲。胡氏曰:「程子以為第十二篇錯簡『誠不以富,亦祗以異』,當在此章之首。今詳文勢,似當在此句之上。言人之所稱,不在於富,而在於異也。」愚謂此說近是,而章首當有孔子曰字,蓋闕文耳。大抵此書後十篇多闕誤。
本文「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉。伯夷叔齊餓於首陽之下,民到于今稱之。」
駟とは四頭の馬のことである。首陽とは山の名である。
本文「其斯之謂與?」
與は平らな調子で読む。
胡寅「程頤先生は論語顔淵篇10の、簡が間違って綴じられた部分”誠不以富,亦祗以異”を、本章の頭に持ってくるべきだと言った。いま改めて文章の勢いを吟味してみると、多分その通りで本章の頭にあるべきだ。その文意は、人が讃えるのは財産ではなく、別の所にある、ということだ。」
愚かな私・朱子が考えるに、この説は全くその通りで、章の頭に「孔子曰」の句があるべきだ。多分書き写しが重なるうちに書き漏れてしまったのだろう。論語の後半十篇には、こうした誤りが多い。
余話
(思案中)
コメント