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論語詳解421D季氏篇第十六(4)今由と求や*

論語季氏篇(4)要約:少なくとも後世の改変あり。属国を攻め滅ぼそうとする、門閥家老筆頭の季氏。その家臣だった弟子のゼン有を、孔子先生は引き続き説得します。異国の民が慕い寄らないのを、戦争で屈服させようなどとはもってのほかだと。

論語:原文・白文・書き下し

原文(唐開成石経)

今由與求也相夫子逺人不服而不能來也邦分崩離析而不能守也而謀動干戈於邦内吾恐季孫之憂不在於顓臾而在蕭牆之内也

校訂

諸本

  • 武内本:釋文云、邦内鄭本封内に作る。釋文顓臾の上於の字なし。漢石経蕭牆の上於の字あり、包咸周氏本唐石経及び此本(=清家本)皆なし。

※「漢石経」→「唐石経」の誤り?「皆なし」→唐石経にあり。清家本(東洋文庫本・宮内庁本・京大本共に)にあり。

東洋文庫蔵清家本

今由與求也相夫子逺人不服而不能來也邦分崩離析而不能守也/而謀動干戈於邦内/吾恐季孫之憂不在於顓臾而在蕭牆之内也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……求也,相夫子,遠人470……

標点文

今由與求也、相夫子、遠人不服而、不能來也。邦分崩離析而、不能守也。而謀動干戈於邦内。吾恐、季孫之憂不在於顓臾而、在蕭牆之内也。

復元白文(論語時代での表記)

今 金文由 金文与 金文求 金文也 金文 相 金文夫 金文子 金文 遠 金文人 金文不 金文服 金文而 金文不 金文能 金文来 金文也 金文 邦 金文分 金文崩離析 金文而 金文不 金文能 金文守 金文也 金文 而 金文謀 金文動 金文干 金文戈 金文於 金文邦 金文內 内 金文 吾 金文鞏 金文季 金文孫 金文之 金文憂 金文 不 金文在 金文臾 金文 而 金文在 金文蕭牆之 金文內 内 金文也 金文

※恐→鞏。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

いまいうきう夫子かのとのたすくるも、とほひとしたがはずしきたあたはざるかなくにわかくづはなさかまもあたはざるかな。し干戈いくさくにうちうごかさむとはかる。われおそるらく、季孫きそんうれひ顓臾せんゆ蕭牆かきうちらむかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

前回からの続き

(孔子)「今やお前たち顔由と冉求はあのお方(季康子)の補佐役だ。なのに遠くの人を服従させられず、招き寄せることも出来ないではないか。我が国がばらばらに崩れ、守ることが出来ないではないか。それなのに国内で戦いを起こそうとしている。私は季氏に心配しているのは、季氏の患部が顓臾ではなく、家の囲いの中にあることなのだ。」

意訳

孔子「お前らは一体何をしていた。あるじや領民を教えもせず、それでいきなりいくさかね。ワシは顓臾のために言ってるんじゃないぞ。危ないのは季氏と魯国の方だな。垣根の内側はもう、バラバラに砕けておるわ!」

従来訳

下村湖人

(孔子)「今、きいていると、由も求も、季氏を輔佐していながら、遠い土地の人民を帰服させることが出来ず、国内を四分五裂させて、その収拾がつかず、しかも領内に兵を動かして動乱をひきおこそうと策謀している。もっての外だ。私は、季孫の憂いの種は、実は顓臾にはなくて垣根のうちにあると思うがどうだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

(孔子說:「)現在你二人輔助季氏,遠人不服卻不能招徠他們,國家分崩離析卻不能保全,反而想著在國內使用武力,我衹怕季孫的危險不在顓臾,而在自己的內部。」

中国哲学書電子化計画

(孔子が言った。「)今お前たち二人は季氏を補佐しているのに、遠く住まう者=顓臾は魯国に従わないばかりか、お前たちは彼等を招き寄せることも出来ない。国がばらばらなのに管理しきれず、それどころか国内に向けて武力を用いようと思いついた、私が恐れているのは季孫の危機が顓臾にあることではなく、かえってその家内にある(お前たちの)ことだ。」

論語:語釈

今(キン)

今 甲骨文 今 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「シュウ」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味したという(訓匜・西周末期/集成10285)。詳細は論語語釈「今」を参照。

由(ユウ)

顔路

孔子の弟子、顔回子淵の父親。通説では孔子の一番弟子、仲由子路とするが、子路が季孫家に仕えていたのは孔子亡命前であり、冉有が仕えたのは孔子が亡命から帰国する直前で、孔子の帰国工作を兼ねて季孫家に仕えた。その時期、子路は魯の隣国・衛で蒲邑の領主に収まっており、従って冉有と子路が同時期に季孫家に仕えることはあり得ない。

顔回子淵の父親は、『史記』弟子伝ではいみ名(本名)は無繇、あざ名は「路」とあるが、いみ名が二文字なのは春秋時代の漢語として理に合わない。『史記』よりやや時代が下り、論語と同様定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』では、いみ名は「由」、あざ名は「季路」。春秋時代の名乗りとしてはむしろこちらの方が理にかなう。

子路を通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

「由」の初出は甲骨文。字形はともし火の象形。「油」の原字。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では、”~と”。新字体は「与」。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

求(キュウ)

論語の本章では孔子の弟子、冉求子有のいみ名。いみ名を呼べるのは目上に限られ、孔子は冉有の師であるゆえに「求」と呼んでいる。同格や目下が呼ぶには、あざ名を用いた。冉求の場合は「子有」。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

求 甲骨文 求 字解
(甲骨文)

「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章、「由與求也」では「や」と読んで主格の強調、”~こそは”。「不能來也」「不能守也」「蕭牆之内也」では「かな」と読んで詠歎に用いている。詠歎は「なり」と読んで断定に解してもよいが、「なり」の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

相(ショウ)

相 甲骨文 相 字解
(甲骨文)

論語の本章では”執事の仕事をする”→”補佐する”。初出は甲骨文。「ソウ」は呉音。字形は「木」+「目」。木をじっと見るさま。原義は”見る”。甲骨文では地名に用い、春秋時代までの金文では原義に、戦国の金文では”補佐する”、”宰相”、”失う”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”相互に”、”補助する”、”遂行する”の意に用いられた。詳細は論語語釈「相」を参照。

夫子(フウシ)

論語の本章では”ご当主殿”。具体的には季孫家の当主を指す。

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

「夫」の初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

遠(エン)

遠 甲骨文 遠 字解
(甲骨文)

論語の本章では”遠い地方の”。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、道のりが遠いこと。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。ただ同音の「爰」は、離れたお互いが縄を引き合う様で、”遠い”を意味しうるかも知れない。唐石経、清家本の「逺」は異体字。は詳細は論語語釈「遠」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

服(フク)

服 甲骨文 敏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”従う”。初出は甲骨文。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

來(ライ)

来 甲骨文 来 解字
(甲骨文)

論語の本章では「きたす」と訓読して”招き寄せる”。この語義は”来る”の派生義で、”来たるべきもの”。初出は甲骨文。新字体は「来」。原義は穂がたれて実った”小麦”。西方から伝わった作物だという事で、甲骨文の時代から、小麦を意味すると同時に”来る”も意味した。詳細は論語語釈「来」を参照。

遠人不服而不能來也(とほきひとしたがわずしてきたすあたわざるかな)

論語の本章では、「來」の主語は「由與求」であり「遠人」ではない。

由與求主部也、相夫子述部1遠人不服而不能來述部2也。
今由と求はまさに、ご当主を補佐しながら、遠くの人々が従わず、そして招き寄せることも出来ないでいるのだ。

善政を行うと領外の住民が慕い寄ってくるという話は、早くは『管子』『春秋左氏伝』『小載礼記』に見えるが、いつ記されたものか分からない。戦国早期の孟子は、梁の恵王に「善政を行っているのにぜんぜん隣国から亡命者が来ない」と愚痴を聞かされており、「五十歩百歩」の語源となっているが、「遠人」という表現は用いていない。

前漢年表

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「遠人」を招き寄せるどうこうが明確に確認出来るのは、前漢初期の『韓詩外伝』で、論語の本章の成立が漢代まで下ることのあるいは傍証になるかも知れない。

夫賢君之治也:溫良而和,寬容而愛,刑清而省,喜賞而惡罰,移風崇教,生而不殺,布惠施恩,仁不偏與,不奪民力,役不踰時,百姓得耕,家有收聚,民無凍餒,食無腐敗,士不造無用,雕文不粥于肆,斧斤以時入山林,國無佚士,皆用於世,黎庶歡樂,衍盈方外,遠人歸義,重譯執贄,故得風雨不烈。


名君の政治というものは、憐れみ深く和やかで、懐が広く慈悲深く、刑罰は公平でおおらかで、褒美を与えるのを喜び刑罰を下すのをいやがり、不謹慎な風潮を道徳に沿うよう教え諭し、人命を重んじて殺さず、幅広く恵んで恩を施し、恩恵に片寄りが無く、民の体力財力を奪わず、領民に無職がおらず、どの家にも収入があって、餓えたり凍えたりする民はおらず、無駄に貯め込んだ年貢が倉庫で腐ることも無く、役人が無駄に世間に手を出さず、贅沢な道具や料理が店に並ばず、材木や薪は必要に応じて誰もが山で取ってよく、国内に荒れた耕作地が無く、どの人にも社会での役割があり、庶民は人生を楽しみ、領外にも名声が届き、遠い地方の住人が善政を慕って移住を望み、まるで通じない言葉をわざわざ通訳を重ねて手土産を差し出し、その結果異常気象も起こらない。(『韓詩外伝』巻八)

とんでもないおとぎ話に読めて当然だが、秦末の反乱と楚漢戦争の地獄を父母の世代が経験した韓嬰の筆になるだけに、書き手の切実な願いがこもっている。つまり当時はここに書いてあることが全て裏返しだったのだ。

邦(ホウ)

邦 甲骨文 邦 字解
(甲骨文)

論語の本章では”領地”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。同じ「くに」でも、「國」(国)は武装した都市国家を言う。詳細は論語語釈「国」を参照。

漢高祖劉邦
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱ヒキという。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。

論語の本章では、定州竹簡論語はこの部分を欠いているが、論語八佾篇22などでは丁寧に「國」へと書き換えている。

分(フン)

分 甲骨文 分 字解
(甲骨文)

論語の本章では”分かれる”。初出は甲骨文。字形は〔八〕”分ける”+「刀」。刃物で切り分けるさま。「フ」は慣用音。呉音は「ブ」。甲骨文の用例は欠損がひどくて語義を確定しがたい。一説に汾河周辺の地名に用いたという。西周の金文で”分ける”の意に用いたが、数量詞としての「分」は、戦国時代の「商鞅量」にならないと見られない。詳細は論語語釈「分」を参照。

崩*(ホウ)

崩 隷書 崩 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”崩れる”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔山〕+音符〔朋〕。戦国時代の竹簡では、「堋」字(初出は戦国早期の金文)が「崩」と釈文されている。上古音の同音は存在しない。春秋時代の『孫子』、戦国時代の『孟子』『荀子』『墨子』『荘子』『列子』に用例がある。詳細は論語語釈「崩」を参照。

離*(リ)

離 秦系戦国文字 離 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”離れる”。論語では本章のみに登場。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は音符・意符〔离〕+〔隹〕。鳥がばらけ飛び去るさま。上古音の同音に「籬」、「醨」”うすざけ”、「罹」”うれい”、「縭」”糸で履き物を飾る”、「灕」”染み込む”。殷代末期から春秋まで、金文に「亞」形と組み合わせた族徽(家紋)の一部として確認出来るが、現行の「離」字に繋がるとは見なせない。戦国最末期の「睡虎地秦簡」では、地名、”離れる”、”垣根”の意に用いた。詳細は論語語釈「離」を参照。

析*(セキ)

析 甲骨文 析 字解
(甲骨文)

論語の本章では”分裂する”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は〔木〕+〔斤〕”おの”。木材を薪割りするさま。甲骨文の用例は”東方”、または地名と解されている。西周の金文では”裂く”の意に用いた。詳細は論語語釈「析」を参照。

守(シュウ)

守 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”守る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「又」”手”+一画。原義は不明。「シュ」「ス」は呉音。甲骨文は一例のみ知られるが、甲骨が欠けているため、語義は分からない。殷代の金文では族徽(家紋)に用いた。西周早期の例では人名のみが知られる。西周中期に”つかさどる”の用例がある。”まもる”の語義が見られるのは、戦国の竹簡から。詳細は論語語釈「守」を参照。

謀(ボウ)

謀 金文 某 謀 梅 字解
(金文)

論語の本章では、”こっそりとたくらむ”。初出は西周早期の金文で、ごんべんが付いていない。「謀反」の「ム」の読みは呉音。原義は”梅の木”。初出の金文は”たくらむ”と解釈されており、論語の時代までには他に人名に用いた。”なにがし”の語義があった可能性がある。詳細は論語語釈「謀」を参照。

「梅」の部品である「每」(毎)は、海(海)”深くて暗いうみ”・カイ”くらます”の共通部品となっているように、原義は”暗い”こと。カールグレン上古音ではmwəɡ(上/去)であり、「謀」mi̯ŭɡ(平)と音素が50%共通し、頭と終わりが共通している。

甘 甲骨文 曰 甲骨文
「甘」(甲骨文)/「曰」(甲骨文)

甲骨文の時代、「𠙵」”くち”にものを含んでいる状態を「甘」kɑm(平)と記した。語義は”あまい”ではなかった。現在ではこの語義には「カン」ɡʰam(平)・「ガン」ɡʰəm(平)などの字がが当てられている。「楳」が”うめ”を意味するのはそのためで、梅mwəɡ(平)の実は酸っぱくて、しゃぶるのに適している。含んだものを表に表すのを「曰」gi̯wăt(入)と記し、”言う”の意で用いた。

対して「甘」は黙ったままでいること。「某」məɡ(上)は自分の名を黙って告げない者。

動(トウ)

動 金文 動 字解
毛公鼎・西周末期

論語の本章では”動かす”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。ただし字形は「童」。その後は楚系戦国文字まで見られず、現行字体の初出は秦の嶧山碑。その字は「うごかす」とも「どよもす」とも訓める。初出の字形は〔䇂〕(漢音ケン)”刃物”+「目」+「東」”ふくろ”+「土」で、「童」と釈文されている。それが”動く”の語義を獲得したいきさつは不明。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。西周末期の金文に、「動」”おののかせる”と解釈する例がある。春秋末期までの用例はこの一件のみ。原義はおそらく”力尽くでおののかせる”。詳細は論語語釈「動」を参照。

干戈(カンカ)

干 金文 戈 金文
(金文)

論語の本章では”軍隊”。「干」は武器のさすまた、詳細は論語語釈「干」を参照。「戈」は論語では本章のみに登場。鎌状の武器。春秋時代の主力兵器だった。詳細は論語語釈「戈」を参照。「干戈」は漢文では広く、”戦争”・”軍隊”を意味する言葉として用いられる。
論語と算盤 干戈

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

內(ダイ)

内 甲骨文 内 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~のなか”。新字体は「内」。ただし唐石経・清家本とも「内」と新字体で記す。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ダイ」で”うちがわ”、「ドウ」で”入れる”を意味する。「ナイ/ノウ」は呉音(遣隋使より前に日本に入った音)。初出は甲骨文。字形は「ケイ」”広間”+「人」で、広間に人がいるさま。原義は”なか”。春秋までの金文では”内側”、”上納する”、国名「ゼイ」を、戦国の金文では”入る”を意味した。詳細は論語語釈「内」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

恐(キョウ)

恐 金文 恐 字解
(戦国金文)

論語の本章では”恐れる”。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。字形は「工」”ふた”+「心」で、勢いを閉じられた心のさま。原義は”恐れる”。論語時代の置換候補は、同音同調の「𢀜」で、西周中期の金文より存在する。詳細は論語語釈「恐」を参照。

季孫(キソン)

魯国門閥家老筆頭の季孫氏の意。孔子が生まれる半世紀ほど前の第5代国公・桓公から分家した門閥三家老家を三桓と言い、季孫家が司徒(宰相)を、叔孫家が司馬(陸相)を、孟孫家が司空(法相兼建設相)を担った。孔子と季孫家・孟孫家の関係は良好で、『史記』孔子世家によると、若年時には季孫家の家臣だったこともある(「季子の史と為り、料量平らかなり」)。

中国人の子の名乗りには、長子から順に伯・仲・叔・季との呼び方がある。三人の場合は孟・仲・季または孟・叔・季と呼ぶ場合もあり、後者が三桓の場合に当たる。

孔子が魯から亡命したときの季孫家当主は季桓子(季孫斯)で、孔子亡命直前に斉国から来た女楽団を見物したと『史記』には書いてあるが、なにか具体的に孔子を追い出すようなことをしたとは書いていない。この時の季孫家の執事が子路。

次代季康子(季孫肥)の代になって孔子は帰国するのだが、これといって孔子と関係が悪かったという記録は無い。この時の季孫家の執事が冉有。

三桓が国政を壟断する悪党で、孔子はそれに対抗した正義の味方という、子供だましのヒーローもののような構図は全て、後世の儒者のでっち上げで、信用するに足りない。

季 甲骨文 季 字解
(甲骨文)

「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。同音は存在しない。甲骨文の用例は、地名なのか、人名なのか、末子を意味するのか分からない。金文も同様。詳細は論語語釈「季」を参照。

孫 甲骨文 孫 字解
(甲骨文)

「孫」の初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤タイ」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

憂(ユウ)

憂 金文 憂 字解
(金文)

論語の本章では”心配のたね”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”そこにある”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

顓臾(センユ)

論語の本章では、魯国領内にある半独立の小国。詳細は論語季氏篇1解説を参照。

地図 汶水
出典:http://shibakyumei.web.fc2.com/

顓 篆書 不明 字解
(篆書)

「顓」の初出は定州漢墓竹簡。論語の時代に存在しない。ただし地名・人名の場合、同音近音のあらゆる漢語が候補になり得る。字形は〔耑〕”草木のみずみずしい様”+〔頁〕”大きな頭”。原義不明。同音に「専」。戦国中末期の竹簡に「耑□」とあり、「顓頊」と釈文されている。文献時代では、地名・人名に用いた。詳細は論語語釈「顓」を参照。

臾 甲骨文 臾 字解
(甲骨文)

「臾」の初出は甲骨文。論語では本章のみに登場。字形は〔臼〕”手2つ”の間に〔人〕。人を引き回すさま。甲骨文での語義は明らかでない。西周の金文では官職名、または人名の一部に用いた。詳細は論語語釈「臾」を参照。

蕭(ショウ)

蕭 秦系戦国文字 蕭 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では領地を囲う”垣根”。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔艹〕+音符〔肅〕(粛)。シュク・ショウと呼ばれるヨモギの一種。春秋戦国の出土物には、文章の例が無い。戦国の文献では『荘子』『列子』『韓非子』に見えるが、儒家の文献は論語を除くと前漢にならないと見られない。日本語音で同音同訓に「牆」(墻)があるが、上古音が遠すぎる上、論語の本章では「蕭牆」と熟語で用いており春秋時代の置換候補になり得ない。詳細は論語語釈「蕭」を参照。

牆(ショウ)

牆 甲骨文 牆 字解
(甲骨文)

論語の本章では領地を囲う”垣根”。新字体は「墻」。初出は甲骨文。字形は「爿」”板”+「禾」”イネ科の植物”2つ+「㐭」”ふくろ”で、穀物袋を収蔵する板囲いのさま。原義は”囲い”。甲骨文では人名に用い、金文では人名、”行う”の意に用いた。詳細は論語語釈「墻」を参照。

論語:付記

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検証

論語の本章は、文字史から論語の時代に遡れない。ただし似たような時期の似たような話が『春秋左氏伝』にある(『春秋左氏伝』哀公七年=BC488)。その3年前に冉有は季康子の執事になっているが、孔子が帰国するのは哀公十一年(BC484)だから、冉有が報告に来たとは考えがたい。

しかも『春秋左氏伝』が伝えるのは顓臾ではなく邾国への侵攻だから、論語の本章と別事件と解するのが素直だろう。『春秋左氏伝』も文字史を疑い出せばキリが無いから、無理に論語の本章を顓臾→邾国と書き換えて解釈する必要はないだろう。

孔子が帰国してから没するまでの5年間に、『春秋左氏伝』の伝えない顓臾侵攻があったとするなら、論語の本章の記述がかなり具体的であることにも説明が付く。孔子の晩年ごろから、春秋諸侯国は潰し合いを始めるようになっており、顓臾もその対象になっておかしくない。

論語 春秋諸国と諸子百家

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論語の本章を除くと、顓臾侵攻は前漢初期の陸賈『新語』に始めて見え、「季孫貪顓臾之地」という。前漢中期の『塩鉄論』にも「此季孫之所以憂顓臾」として見え、本章が定州竹簡論語にあることから、前漢中期には論語の一章として成立していたと分かる。

従って論語の本章はまるまる春秋時代の記事ではないが、出来事は史実だった可能性が高い。

解説

wikipedia中国語版「顓臾」条は「歴史学者の李零は、この事件を(孔子の帰国した)BC484からBC480年のことと考証している」という。BC480は季路でなく子路が世を去った年であり、李零氏も南朝儒者にだまされて、季路→子路説にどっぷり浸かって疑っていないのが分かる。季路は子路でなく顔淵の父親であることは、論語季氏篇1語釈を参照。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

季氏將伐顓臾冉有季路見於孔子曰季氏將有事於顓臾註孔安國曰顓臾宓犧之後風姓之國本魯之附庸當時臣屬魯季氏貪其地欲滅而有之冉有與季路為季氏臣來告孔氏也孔子曰求無乃爾是過與註孔安國曰冉求為季氏宰相其室為之聚歛故孔子獨疑求教也夫顓臾昔者先王以為東䝉主註孔安國曰使主祭䝉山也且在邦域之中矣註孔安國曰魯七百里之邦顓臾為附庸在其域中也是社稷之臣也何以為伐也註孔安國曰己屬魯為社稷之臣何用滅之為也冉有曰夫子欲之吾二臣者皆不欲也註孔安國曰歸咎於季氏也孔子曰求周任有言曰陳列就力不能者止註馬融曰周任古之良史也言當陳其力度己所任以就其位不能則當止也危而不持顛而不扶則將焉用彼相矣註苞氏曰言輔相人者當能持危扶顛若不能何用相為也且爾言過矣虎兕出柙龜玉毀櫝中是誰之過與註馬融曰柙檻也櫝櫃也失毀非典守者之過耶冉有曰今夫顓臾固而近於費註馬融曰固謂城郭完堅兵甲利也費季氏之邑也今不取後世必為子孫憂孔子曰求君子疾夫註孔安國曰疾如汝之言也舍曰欲之而必更為之辭註孔安國曰舍其貪利之說而更作他辭是所疾也丘也聞有國有家者不患寡而患不均註孔安國曰國諸侯也家卿大夫也不患土地人民之寡少患政治之不均平也不患貧而患不安註孔安國曰憂不能安民耳民安則國富蓋均無貧和無寡安無傾註苞氏曰政教均平則不患貧矣上下和同不患寡矣大小安寜不傾危也夫如是故逺人不服則修文德以來之既來之則安之今由與求也相夫子逺人不服而不能來也邦分崩離析而不能守也註孔安國曰民有異心曰分欲去曰崩不可㑹聚曰離析而謀動干戈於邦內註孔安國曰干楯也戈㦸也吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之內也註鄭𤣥曰蕭之言肅也蕭牆謂屏也君臣相見之禮至屏而加肅敬焉是以謂之蕭牆後季氏之家臣陽虎果囚季桓子也


本文「季氏將伐顓臾冉有季路見於孔子曰季氏將有事於顓臾」。
注釈。孔安国「顓臾は宓犧(伏羲)の末裔で、風姓の国。もともと魯の属国で、当時も魯国に臣従していた。季氏はその土地を欲しがり、滅ぼそうとしたのでこの記事になった。冉有と季路は季氏の家臣で、孔子に事を告げたのである。」

本文「孔子曰求無乃爾是過與」。
注釈。孔安国「冉求は季氏の執事としてその当主を補佐していた。季氏のために徴税もしたので(論語先進篇16)、孔子はきっと冉求がけしかけたに違いないと疑ったのである。」

本文「夫顓臾昔者先王以為東䝉主」。
注釈。孔安国「䝉山の祭祀を担当させたのである。」

本文「且在邦域之中矣」。
注釈。孔安国「魯は七百里四方の領土であり、顓臾は属国として魯の領域内にあった。」

本文「是社稷之臣也何以為伐也」。
注釈。孔安国「すでに魯の属国で、国家の家臣に加わっているのだから、どうして滅ぼす必要があるのかというのである。」

本文「冉有曰夫子欲之吾二臣者皆不欲也」。
注釈。孔安国「季氏のせいにしたのである。」

本文「孔子曰求周任有言曰陳列就力不能者止」。
注釈。馬融「周任は古代の有能な記録官である。孔子の言うには、自分の能力の限界までの地位に就くべきであり、能力を超す職は辞職すべきだと言うのである。」

本文「不持顛而不扶則將焉用彼相矣」。
注釈。包咸「孔子の言うには、人を補佐する者は、危機や困難を支えるべきであり、出来ないなら何の助けにもならないと言うのである。」

本文「且爾言過矣虎兕出柙龜玉毀櫝中是誰之過與」。
注釈。馬融「柙は檻である。櫝は箱である。逃がしたり壊したりしたら、担当者の責任ではないか。」

本文「冉有曰今夫顓臾固而近於費」。
注釈。馬融「固とは、城壁が堅固で、兵器が優れていることである。費は季氏の根城である。」

本文「今不取後世必為子孫憂孔子曰求君子疾夫」。
注釈。孔安国「お前の言うようなことを嫌うというのである。」

本文「舍曰欲之而必更為之辭」。
注釈。孔安国「自分が欲望する理由を言わず、別の言い訳をするのを嫌うというのである。」

本文「丘也聞有國有家者不患寡而患不均」。
注釈。孔安国「国とは諸侯のことである。家とは卿大夫(春秋時代の身分秩序)のことである。領地や領民が少ないことを気に病まず、政治(による利益分配)の不公平を気に病むというのである。」

本文「不患貧而患不安」。
注釈。孔安国「ひたすら、民を安心させられないのを気に病むというのである。」

本文「民安則國富蓋均無貧和無寡安無傾」。
注釈。包咸「政治や社会教育が平等であれば、必ず貧しさへの心配がなく、身分に拘わらず助け合って暮らせるというのである。欠乏への心配がないなら、何事にも不安がなく危機に陥らないのである。」

本文「夫如是故逺人不服則修文德以來之既來之則安之今由與求也相夫子逺人不服而不能來也邦分崩離析而不能守也」。
注釈。孔安国「領民に反抗心が生まれるのを分という。欲望が収まらないのを崩という。人々をまとめられないのを離析という。」

本文「而謀動干戈於邦內」。
注釈。孔安国「干とは楯であり、戈とはゲキ(槍とカマ状のほこを組み合わせた武器)である。

戈 㦸 青龍㦸

戈・戈・㦸・㦸・青龍㦸・方天戟 via wikipedia戟条 ©Waerloeg

本文「吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之內也」。
注釈。鄭玄「蕭とは慎むことである。牆は門の内側に建てる目隠しのことである。君臣が集まる儀式では、目隠しの前で慎み敬意の度を高くする。この作法を蕭牆という。のちに季氏の家臣だった陽虎が、孔子の言葉通り当主の季桓子を捕らえる事件を起こした。」

伝統的な中国家屋・四合院。via https://ja.pngtree.com/

古注に記された注釈のほとんどはデタラメだが、論語の本章ではとりわけ最後の鄭玄の注がひどい。本章の出来事は孔子の帰国後で、季桓子は確実に、陽虎もほぼ確実に世を去っている。漢儒のでたらめについては、後漢というふざけた帝国#ふらちな後漢儒を参照。

新注『論語集注』

季氏將伐顓臾。顓,音專。臾,音俞。顓臾,國名。魯附庸也。冉有、季路見於孔子曰:「季氏將有事於顓臾。」見,賢遍反。按左傳史記,二子仕季氏不同時。此云爾者,疑子路嘗從孔子自衛反魯,再仕季氏,不久而復之衛也。孔子曰:「求!無乃爾是過與?與,平聲。冉求為季氏聚斂,尤用事。故夫子獨責之。夫顓臾,昔者先王以為東蒙主,且在邦域之中矣,是社稷之臣也。何以伐為?」夫,音扶。東蒙,山名。先王封顓臾於此山之下,使主其祭,在魯地七百里之中。社稷,猶云公家。是時四分魯國,季氏取其二,孟孫叔孫各有其一。獨附庸之國尚為公臣,季氏又欲取以自益。故孔子言顓臾乃先王封國,則不可伐;在邦域之中,則不必伐;是社稷之臣,則非季氏所當伐也。此事理之至當,不易之定體,而一言盡其曲折如此,非聖人不能也。冉有曰:「夫子欲之,吾二臣者皆不欲也。」夫子,指季孫。冉有實與謀,以孔子非之,故歸咎於季氏。孔子曰:「求!周任有言曰:『陳力就列,不能者止。』危而不持,顛而不扶,則將焉用彼相矣?任,平聲。焉,於虔反。相,去聲,下同。周任,古之良史。陳,布也。列,位也。相,瞽者之相也。言二子不欲則當諫,諫而不聽,則當去也。且爾言過矣。虎兕出於柙,龜玉毀於櫝中,是誰之過與?」兕,徐履反。柙,戶甲反。櫝,音獨。與,平聲。兕,野牛也。柙,檻也。櫝,匱也。言在柙而逸,在櫝而毀,典守者不得辭其過。明二子居其位而不去,則季氏之惡,己不得不任其責也。冉有曰:「今夫顓臾,固而近於費。今不取,後世必為子孫憂。」夫,音扶。固,謂城郭完固。費,季氏之私邑。此則冉求之飾辭,然亦可見其實與季氏之謀矣。孔子曰:「求!君子疾夫舍曰欲之,而必為之辭。夫,音扶。舍,上聲。欲之,謂貪其利。丘也聞有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。蓋均無貧,和無寡,安無傾。寡,謂民少。貧,謂財乏。均,謂各得其分。安,謂上下相安。季氏之欲取顓臾,患寡與貧耳。然是時季氏據國,而魯公無民,則不均矣。君弱臣強,互生嫌隙,則不安矣。均則不患於貧而和,和則不患於寡而安,安則不相疑忌,而無傾覆之患。夫如是,故遠人不服,則修文德以來之。既來之,則安之。夫,音扶。內治修,然後遠人服。有不服,則修德以來之,亦不當勤兵於遠。今由與求也,相夫子,遠人不服而不能來也;邦分崩離析而不能守也。子路雖不與謀,而素不能輔之以義,亦不得為無罪,故并責之。遠人,謂顓臾。分崩離析,謂四分公室,家臣屢叛。而謀動干戈於邦內。吾恐季孫之憂,不在顓臾,而在蕭牆之內也。」干,楯也。戈,戟也。蕭牆,屏也。言不均不和,內變將作。其後哀公果欲以越伐魯而去季氏。謝氏曰:「當是時,三家強,公室弱,冉求又欲伐顓臾以附益之。夫子所以深罪之,為其瘠魯以肥三家也。」洪氏曰:「二子仕於季氏,凡季氏所欲為,必以告於夫子。則因夫子之言而救止者,宜亦多矣。伐顓臾之事,不見於經傳,其以夫子之言而止也與?」


本文「季氏將伐顓臾。」
顓の音は専である。臾の音は兪である。顓臾は国名である。魯の属国だった。

本文「冉有、季路見於孔子曰:季氏將有事於顓臾。」
見の字は賢-遍の反切で読む。『春秋左氏伝』や『史記』を参照すると、この高弟二人は同時期には季氏に仕えていない。それなのにこうあるのは、おそらく子路が以前孔子にお供して衛から魯に帰り、再び季氏に仕えたが、長からずしてまた衛に戻ったのだろう。

本文「孔子曰:求!無乃爾是過與?與,平聲。冉求為季氏聚斂,尤用事。故夫子獨責之。夫顓臾,昔者先王以為東蒙主,且在邦域之中矣,是社稷之臣也。何以伐為?」
夫の音は扶である。東蒙は山の名である。先王が顓臾をこの山のふもとに領主として据えた。それで山の祭祀をゆだね、版図は魯の七百里四方の中にあった。社稷とは、朝廷のようなことである。この時魯国を四つに分け、季氏がその二を取り、孟孫氏と叔孫氏が各一ずつを取った。属国だけがなお国公の家臣として独立していたが、季氏は取り潰して自分の領地を増やそうとした。だから孔子は、顓臾は先王が任じた国だから、侵攻してはならないと言った。魯の国内にあるのだから、絶対に武力行使はいかんというのである。これは社稷の臣であると言うのは、つまり季氏が侵攻していい相手ではないという意味である。この発言は筋が通っていて、変更すべきでない体制であり、それをただ一言で言い尽くしてよこしまを叱る力はこの通りだった。聖人でなければ出来ない事である。

本文「冉有曰:夫子欲之,吾二臣者皆不欲也。」
夫子とは季孫のことである。冉有は実は侵攻の企てに加わっていて、孔子に非難されると、季氏のせいにした。

本文「孔子曰:求!周任有言曰:『陳力就列,不能者止。』危而不持,顛而不扶,則將焉用彼相矣?」
任の字は平らな調子で読む。焉は於-虔の反切で読む。相は尻下がりに読む。以下同。周任とは、古代の有能な記録官である。陳は敷き広げることである。列は地位の事である。相とは、めしいの人を手助けすることである。孔子の言うには、高弟二人が侵攻を望まないなら、季氏を諌めるべきで、諌めて聞かれなければ、すぐに辞職すべきと言うのである。

本文「且爾言過矣。虎兕出於柙,龜玉毀於櫝中,是誰之過與?」
兕の字は徐-履の反切で読む。柙は戶-甲の反切で読む。櫝の音は独である。與は平らな調子で読む。兕とは野牛である。柙とは檻である。櫝とは箱である。孔子の言うには、檻に入れた動物が逃げ、箱に入れた宝物が壊れたら、担当者がその責任を言い逃れることは出来ないというのである。高弟二人が辞職しないなら、つまり季氏の悪行は、二人の責任にならないわけには行かないのである。

本文「冉有曰:今夫顓臾,固而近於費。今不取,後世必為子孫憂。」
夫の音は扶である。固は、城壁が堅固であることを言う。費は、季氏の根城である。冉求がこのように言い訳したことは、実は季氏と共に侵攻を企てたことを白状するものである。

本文「孔子曰:求!君子疾夫舍曰欲之,而必為之辭。」
夫の音は扶である。舍は上がり調子に読む。欲之とは、その利益に強欲を募らせる事である。

本文「丘也聞有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。蓋均無貧,和無寡,安無傾。」
寡とは領民が少ないことを言う。貧とは財産が乏しいことを言う。均とは、おのおのが身分相応に分配を受けることを言う。安とは、上下の身分の者が互いに安心することを言う。季氏が顓臾を攻め取ろうとする欲望は、ひとえに領民と財産が少ないのを気に病んだからである。しかも季氏はこの時魯国を乗っ取ったも同然で、魯の国公には領民がおらず、これはつまり公平でない。君主が弱く家臣が強く、互いに忌み嫌って隙を窺えば、必ず不安になってしまう。公平なら必ず貧しさを気にせず助け合い、助け合えば必ず領民の少なさは気にならず安心でき、安心できれば必ず互いに疑ったり嫌ったりせず、危機に陥る不安がない。

本文「夫如是,故遠人不服,則修文德以來之。既來之,則安之。」
夫の音は扶である。内政が整ってから、やっと領外の民が移住してくる。それらが従わないなら、必ず道徳を修養して招き寄せると、兵を遠征させる理由がない。

本文「今由與求也,相夫子,遠人不服而不能來也;邦分崩離析而不能守也。」
子路は侵攻の企てに参加していなかったが、正義で季氏を補佐することが出来ないのだから、やはり罪がないわけにはいかない。だから一緒に叱られた。遠人とは顓臾の人を指す。分崩離析とは、魯の公室領を四分し、家臣がしばしば反乱を起こしたことを言う。

本文「而謀動干戈於邦內。吾恐季孫之憂,不在顓臾,而在蕭牆之內也。」
干は楯である。戈は戟である。蕭牆とは屏である。孔子の言うには、公平でもなく助け合いもしないなら、内乱がすぐに起こるぞというのである。その後、哀公は孔子の予言通り、越の兵を借りて季氏を討伐させようとした。

謝良佐「この当時、魯の門閥三家老家の力が強くて、公室は弱っていた。冉求も顓臾侵攻をたくらんで家老家に利益を与えようとした。孔子先生はその罪を深く責めたのは、公室を痩せさせ三家を太らせたのが理由である。」

洪興祖「高弟二人は季氏に仕えたが、季氏がしようとしていることは、必ず孔子先生に報告した。だから先生の教えで中止にし、結果的に季氏を救った事は、多分多かったのだろう。顓臾侵攻に関しては、『春秋左氏伝』の本文にも書き足しにも見えない。だから孔子先生の教えに従って、侵攻を取りやめたのではないか。」

訳者は普段、宋儒の言い分をほとんど真に受けていないが(論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」)、論語の本章に関して洪興祖の言う侵攻取りやめ説は、あるいはありうることだと思っている。

余話

吸い付いているから戦争が嫌い

孔子は弟子に武術や兵法を仕込んだように、春秋の君子らしく戦争そのものには反対しなかった。君子は社会を領導するべき存在であると言う確信(論語季氏篇3解説)から、自分ら君子を社会の調停者と見なし、社会の調停とはすなわち利益分配だと喝破した(論語為政篇1)。

だが調停とは、誰かの利権を諦めさせることでもある。それを強制執行するには武力が必要で、国同士で利害がぶつかれば、当然戦争沙汰になる。それは仕方がないと言い訳できる現象ではなく、孔子にとっては確信を持って戦うべき業務だった(論語季氏篇3語釈)。

つまり権力は誰かが嫌われ役になってその手に握って指導しなければ、世の中は万人の万人に対する戦争状態となって悲惨極まりなくなる。その覚悟が孔子にはあったが、利権だけ吸い取りたい帝政期の儒者は、一つ覚えのように「戦争ハンターイ」を言い募れば務まった。

いわゆる儒教の国教化をすすめた、董仲舒の言い分を見よう。

是後,外事四夷,內興功利,役費並興,而民去本。


(漢初からの節約が功を奏して、財政が豊かになったのを受け、武帝時代になると贅沢が流行った。)それより後、四方の外敵との戦争が始まり、国内では利権争いが激しくなって、臨時課税が次々に徴収され、民は本籍地から逃げ散った。


董仲舒說上曰:「春秋它穀不書,至於麥禾不成則書之,以此見聖人於五穀最重麥與禾也。今關中俗不好種麥,是歲失春秋之所重,而損生民之具也。願陛下幸詔大司農,使關中民益種宿麥,令毋後時。」


董仲舒が意見書を武帝に奉った。「『春秋』には、作物の作柄は基本的に記しません。ただし麦と稲の不作だけは、重大事として記しました。これはつまり、聖人が五穀の中で麦と稲を重視したからに他なりません。ところが今や、帝都長安の周辺では農民が麦を植えたがりません。これは年単位で考えれば『春秋』の記述に背き、民百姓の生きる糧を損なっております。陛下におかれてはよろしく農務大臣に命令を下され、帝都周辺の民百姓が麦の作付けを増やすよう促し、あとあとの心配が無いようになさいますように。」


又言:「古者稅民不過什一,其求易共;使民不過三日,其力易足。民財內足以養老盡孝,外足以事上共稅,下足以畜妻子極愛,故民說從上。


さらに次のような意見を述べた。「昔の税というのは、民の収入から十分の一を取るに過ぎませんでした。ですからすんなりと民も払ったのです。労役を課すにも、年に三日に過ぎませんでした。ですから必要なときに民は応じたのです。民の手元に財産があったから、老人を養い孝行を尽くし、主君に仕え税を払えたのです。だから妻子を養えましたし、お上の言うことに喜んで従ったのです。


至秦則不然,用商鞅之法,改帝王之制,除井田,民得賣買,富者田連仟伯,貧者亡立錐之地。又顓川澤之利,管山林之饒,荒淫越制,踰侈以相高;邑有人君之尊,里有公侯之富,小民安得不困?


ところが秦帝国が無茶を始めました。商鞅の法を国是にして、いにしえの聖王の制度を変えてしまい、井田制を廃止して農地の売買を許可しました。その結果金持ちは広大な荘園を持ち、貧乏人には錐を立てるほどの土地も残りませんでした。その上川から得られる利益も国家が独占し、山林の収益も国有化し、取れる税はどこまでも取り尽くし、役人はぜいたくにふけりました。都で君主がわがままのし放題、地方に豪族がわがままのし放題では、庶民はどうして生活に困らないでいられましょうか。


又加月為更卒,已復為正,一歲屯戍,一歲力役,三十倍於古;田租口賦,鹽鐵之利,二十倍於古。或耕豪民之田,見稅什五。故貧民常衣牛馬之衣,而食犬彘之食。重以貪暴之吏,刑戮妄加,民愁亡聊,亡逃山林,轉為盜賊,赭衣半道,斷獄歲以千萬數。


その上毎年一ヶ月間の兵役を交替で課され、退役してやっと一人前と見なされ、その後はある年は兵役に、ある年は労役に駆り出されました。これは昔の三十倍の負担です。土地税や付加税、塩や鉄の専売による負担、これは昔の二十倍です。ですから仕方が無く豪族の小作人になったのですが、小作料として作物の半分を取られました。その結果貧民は牛や馬がかぶるようなボロをまとい、犬や豚のエサで命を繋ぎました。その上強欲な役人が税の割り増しを搾り取り、むやみに重罰が課されましたから、民は世を恨んで山林に隠れ、あるいは山賊に加わり、捕まって護送される罪人で道が埋まり、刑事裁判は年に千万ほどになったのです。


漢興,循而未改。古井田法雖難卒行,宜少近古,限民名田,以澹不足,塞并兼之路。鹽鐵皆歸於民。去奴婢,除專殺之威。薄賦斂,省繇役,以寬民力。然後可善治也。」


せっかく我が漢帝国が興ったというのに、この無道は改まっていません。いにしえの井田制を実施するのは困難ですが、少なくとも今の世に合わせて、荘園の持ちすぎは制限し、土地の無い者に農地を与え、大土地所有が出来ないようにせねばなりません。塩や鉄の専売は廃止して、利益を民に与えるべきです。奴隷は解放して一人前の農民として扱い、むやみな死刑は控えねばなりません。税を安くし、労役・兵役を減らし、民の生活に余裕が出来るよう図るべきです。それでやっと、政治がうまく回るでしょう。」


仲舒死後,功費愈甚,天下虛耗,人復相食。武帝末年,悔征伐之事,乃封丞相為富民侯。


だが董仲舒が死ぬと、遠征の軍事費はますます増大し、漢の天下は不況になり、人が互いに食べ合うほどの悲惨に陥った。武帝も死の間際になって遠征の愚かさを後悔し、宰相を”民を富ます大臣”と呼び名を変えた。(『漢書』食貨志上23)

『論語』季氏篇:現代語訳・書き下し・原文
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