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論語詳解423季氏篇第十六(6)禄の公室を去り’

論語季氏篇(6)要約:死期が近い孔子先生。かたわらに侍る弟子の子貢に、遺言のように語ります。我が殿のおいえはもうダメじゃ。じゃが今を春と栄える門閥家老も、きっと子孫は衰えるに違いないだろう! 前章から続く先生の遺言。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

孔子曰、「祿之去公室五世矣。政逮*於大夫四世矣。故夫三桓之子孫、微矣。」

校訂

武内本

逮下邢本於の字あり。唐石経このところを欠損、その字数を推すにまた於の字あるべし、此本(=清家本)なし、正平版同じ。

定州竹簡論語

子]曰:「祿之去公室也a,[五世]矣,正逮於大夫474……

  1. 也、今本無。

→孔子曰、「祿之去公室也、五世矣。正逮於大夫四世矣。故夫三桓之子孫、微矣。」

復元白文(論語時代での表記)

孔 金文子 金文曰 金文 禄 金文之 金文去 金文公 金文室 金文也 金文 五 金文世 金文矣 金文 正 金文逮 金文於 金文大 金文夫 金文 四 金文世 金文矣 金文 故 金文夫 金文三 金文亘 金文之 金文子 金文孫 金文 微 石鼓文矣 金文

※桓→亘。

書き下し

孔子こうしいはく、祿ろく公室こうしつ、五せいなりまつりごと大夫たいふおよびて四せいなりゆゑの三くわん子孫しそんおとろなん

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
孔子が言った。「天の恵みが魯の公室を去ってしまったことについては、それより五代過ぎ、政権が家老の手の内に及んでから、四代過ぎた。だからあの門閥家老三家の子孫は、きっと衰えるだろう。」

意訳

孔子 遠い目
我が殿のおいえは、天に見放されてもう五代。政権が家老の手に移ってからは四代だ。だからあの三家の子孫は、きっと衰えるに違いない。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「国庫の収入が魯の公室をはなれてから五代になる。政権が大夫の手に握られてから四代になる。従って三桓の子孫が衰微して来たのも当然である。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「中央喪失實權,已經五代了;權力落到大夫手中,已經四代了。所以三桓的子孫也衰微了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「中央が実権を失って、すでに五代が経過した。権力が家老の手の内に落ちてから、すでに四代が経過した。だから三桓の子孫もまた衰えるだろう。」

論語:語釈

祿/禄

禄 金文 禄 字解
(金文)

論語の本章では、”天の恵み”。詳細は論語語釈「禄」を参照。

従来の論語本では、古注の鄭玄ジョウゲンの注釈をもとに、”俸禄や官位を与える権限”という。しかし例によって鄭玄は根拠を言っていない。禄に天恵の意味があることは、鄭玄先生もよくご存じのはずだが、どうせ注を書くのなら、何か変わったことを書かねばならない理由でも?

鄭玄
後漢時代に限った話ではないが、儒者は常に競争にさらされた。学説の流行がすなわち官位の上下に関わり、つまりは収入の多寡に集約される。だから話を複雑にせねば、説の独自性が目立たない。実験や数学的証明の出来ない、人文が持つ根本的な病気の例がここにある。

『学研漢和大字典』によると「禄」の原義は”こぼれ落ちる”ことで、天が与えた幸いを言う。『字通』は『説文解字』に「福なり」とあるのを引き、やはり天から与えられる福を言う、とする。『大漢和辞典』も第一義に”さいわい”を挙げ、「天禄」を天の恵みと書いている。

「去」も下記するように原義は”引っ込む”こと・”取り除く”ことであり、天の恩寵が魯の公室から去ったと考える方が、オッカムのカミソリ=理屈は単純な方が正しい、に合うと思う。

去 篆書 去 字解
(篆書)

論語の本章では、”去る”。

『学研漢和大字典』によると象形文字で、ふたつきのくぼんだ容器を描いたもの。くぼむ・引っこむの意を含み、却と最も近い。転じて、現場から退却する、姿を隠す意となる、という。詳細は論語語釈「去」を参照。

しかし甲骨文や、論語の時代に通用した金文を視ると、「ふたつきのくぼんだ容器」には見えない。

去 甲骨文 去 金文
(甲骨文・金文)

『字通』によると「大+𠙴キョ」で、大は人の正面形。𠙴は裁判前に提出した誓約書を入れた器=𠙵さい器のふたを外した形で、誓いを無効にしたことを意味する。つまり神判で敗れた人を、けがれとして誓約書と共に廃棄すること、という(詳細は論語における「法」を参照)。

廃棄することから、場所的にそこを離れることで、敗訴者の身体と誓約書を廃棄することを含め、全て「お祓いする」=払う・取り除くことを意味するという。従って「禄」が「去」るとは、神の好意が、ある人や家系から去ったことを意味する。

『字通』説の弱点は、訳者の感想では甲骨文にフタ付きのものがあること。
去 甲骨文各種

また金文にもフタ付きは各種あるようだ。
去 金文各種

しかし漢字学のこととなると、これ以上のことは訳者には言えない。ひとまず『字通』の編者、白川静博士の説を受け入れる事とするし、やはりフタ付きのくぼんだ器には見えないと思う(Image via http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccdb)。

公室

公 金文 室 金文
(金文)

論語の本章では、魯国君主の家系のこと。「室」に”すまい・いえ”の意があり、『詩経』桃夭に、すでにその意がある。

桃之夭夭、灼灼其華。之子于歸、宜其室家。

桃のヨウ夭たる、シャク灼たり其の華。このこことつぐ、其の室家に宜しからん。
(たわわに実った桃のようだよ、光り輝く花のようだよ。我が娘は今嫁ごうとしている、嫁いだ家で幸せになって欲しい。)

文字的には論語語釈「公」論語語釈「室」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きに用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

五世

五 金文 世 金文
(金文)

論語の本章では、五代の魯国公。既存の論語本では、宣公・成公・ジョウ公・昭公・定公を指すと言う。文字的には論語語釈「五」論語語釈「世」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…てしまった”・”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

五世。…四世 五代過ぎてしまった。…四代過ぎてしまった
 きっと衰えるに違いない

なお句末のこうした矣は、訓読しないのが伝統的な漢文訓読の作法だが、これまでこの論語現代語訳で繰り返した通り、むしろ読まなければ正確な文意は取れないと訳者は思っている。

またこの漢字の初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しないが、同音の「已」が語義を共有する。詳細は論語語釈「矣」を参照。

政→正

政 金文 政 字解
(金文)

論語の本章では、”政治の権限”。

『学研漢和大字典』によると、正とは、止(あし)が目標線の━印に向けてまっすぐ進むさまを示す会意文字。征(セイ)(まっすぐ進む)の原字。政は「攴(動詞の記号)+(音符)正」の会意兼形声文字でで、もと、まっすぐに整えること。のち、社会を整えるすべての仕事のこと。正・整(セイ)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「政」を参照。

『定州竹簡論語』で「正」と書くが、すでにあった「政」の字を避けた理由は、おそらく秦帝国時代に、始皇帝のいみ名「政」を避けた名残。加えて”政治は正しくあるべきだ”という儒者の偽善も加わっているだろう。詳細は論語語釈「正」を参照。

もちろん何が正しいかは、権力が黙っている間は儒者が、何か言い出したら権力が決めるのである。

逮 金文大篆 逮捕
(金文)

論語の本章では、”広がって以前にはなかったところに及ぶ”。初出は東周初期の金文。『学研漢和大字典』によると「辵+(音符)隶(イ)・(タイ)(手をのばしてつかまえる)」の会意兼形声文字、という。詳細は論語語釈「逮」を参照。

大夫

大 金文 夫 金文
(金文)

論語の本章では、魯国の家老階級。具体的には門閥家老の三桓、つまり季孫氏・叔孫氏・孟孫氏を指す。もちろん魯国の大夫がこの三家に限ったわけではなく、邾国乗っ取り騒ぎにも出てきた子服景伯や、孔子もまた大夫なのだが、本章で指摘されているのは上記三家。

「夫」とは人がかんざしでかんむりを止めた姿で、一人前の力役に服しうる元服後の男子を指す。「大夫」とはその大いなる者の意で、本来は力役によって耕作する者の頭、つまり地主貴族を指した。詳細は論語時代の身分秩序を参照。

文字的には論語語釈「大」論語語釈「夫」を参照。

四世

四 甲骨文 世 金文
(金文)

論語の本章では、四世代。既存の論語本では藤堂本に、季孫氏の当主、文子・武子・平子・桓子を指す、という。「四」については論語語釈「四」を参照。

三桓

三 金文 桓 金文大篆
(金文)

論語の本章では、魯国門閥家老の三家。季孫氏・叔孫氏・孟孫氏を指す。魯の桓公(BC711-BC694)の子がそれぞれの開祖。文字的には論語語釈「三」論語語釈「桓」を参照。

微 篆書 微 字解
(篆書)

論語の本章では”衰える”。初出は春秋末期あるいは戦国初期の石鼓文で、論語の時代にぎりぎり存在しなかった可能性がある。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。右側の字(音ビ)は「━線の上下に細い糸端のたれたさま+攴(動詞のしるし)」の会意文字で、糸端のように目だたないようにすること。微はそれを音符とし、彳(いく)をそえた字で、目だたないようにしのびあるきすること、という。詳細は論語語釈「微」を参照。

子孫微矣

子 金文 孫 金文
「子孫」(金文)

論語の本章では、”子孫は衰えるに違いない”。

従来の論語の解釈では、「矣」が完了を意味するとして”衰えきってしまった”と解する。これには季孫氏の執事だった陽虎が一時季孫氏の実権を奪い、家臣だった公山弗擾フツジョウが、季孫氏の根拠地だった費のまちを占拠してそむいた背景がある。

加えて多くの論語本が、古注で鄭玄が本章を「定公之初」としていることを記す。だが本章を定公元年だとすると、その時点では陽虎はまだ季孫氏の権力を奪っておらず、公山弗擾も反乱を起こしていない。陽虎が家を継いだばかりの季桓子を捕らえて権力を奪ったのは定公五年。

孔子 せせら笑い 子路 言わいでか
だが三年後にはやり過ぎの反動で国外に亡命している。公山弗擾の反乱もその年で、孔子は招かれてノコノコ出かけようとし、子路にどやされてやめ、方針を変えて鎮圧に回り、事件は終わった。つまり三桓の「子孫」が衰えたのは季氏に限った話で、それもすぐに止んでいる。

BC 魯定公 孔子 魯国 その他
505 5 47 弟子の曾参ソウシン=曽子生まれる 季平子、叔孫成子死去。執事の陽虎、跡継ぎの季桓子を捕らえ、家政・国政の実権を奪う
504 6 48 陽虎の招きに応じようとするが、実現せず 陽虎、鄭を攻めキョウのまちを奪取。正式に魯の執政となる。この頃孔子を招く
503 7 49 弟子の子張生まれる 斉、魯を攻撃し鄆を取り、陽虎に与える(魯世家)
502 8 50 公山弗擾フツジョウの招きに応じようとするが、実現せず 陽虎、三桓の当主排除を図って反乱、鎮圧され斉に逃亡。季氏の家臣、公山弗擾、孔子を招こうとする 晋、衛霊公を侮辱
501 9 51 中都の宰=代官に任じられる 陽虎、斉に逃亡。次いで晋に〔斉世家〕。

これで三桓の子孫は衰えた、と言えるだろうか? 不審の元である古注を見てみよう。

鄭玄

註鄭玄曰言此之時魯定公之初也魯自東門襄仲殺文公之子赤而立宣公於是政在大夫爵祿不從君出至定公為五世矣

鄭玄曰く、この言葉は定公の初めのころだ。東門襄仲が魯公の文公の子を殺して宣公を立ててから、政権は家老に移り、爵や禄の権限が国君から離れた。それが五代続いて定公の時代になった。(『論語集解義疏』)

「殺文公之子」の赤の字が意味不明なことに目をつぶると、東門襄仲が魯公の子をあやめた話は、『春秋左氏伝』文公十八年(BC609)に載ってはいる。だが鄭玄は、例によって本章を「定公之初」とする根拠を言っていない。デタラメを信じるのはもう止めよう。

従って訳者は論語の本章を、孔子最晩年と考える。もちろんそうでなくともよい。つまり「いずれ三桓も衰えるのだ」という、『平家物語』風味の、孔子の呪いの言葉である。別に発言時に、三桓の子孫が揃って衰えたとしなくていいのだ。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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論語の本章を、新注でどう解釈したか記しておく。

新注
魯自文公薨,公子遂殺子赤,立宣公,而君失其政。歷成、襄、昭、定,凡五公。逮,及也。自季武子始專國政,歷悼、平、桓子,凡四世,而為家臣陽虎所執。三桓,三家,皆桓公之後。此以前章之說推之,而知其當然也。此章專論魯事,疑與前章皆定公時語。蘇氏曰:「禮樂征伐自諸侯出,宜諸侯之強也,而魯以失政。政逮於大夫,宜大夫之強也,而三桓以微。何也?強生於安,安生於上下之分定。今諸侯大夫皆陵其上,則無以令其下矣。故皆不久而失之也。」
朱子 新注

魯の文公が亡くなってから、公子遂が文公の子・赤を殺し、宣公を立ててから、国君は政権を失った。それから成公・襄公・昭公・定公と五代になった。

逮とは及ぶことだ。季武子が国政を専断してから、悼子・平子・桓子と四代になった。そして家臣の陽虎に捕らえられた。三桓とは三家だ。全て桓公の末裔である。

前章の内容から推測すると、その衰亡が当然であると分かる。この章は魯国のことだけを論じ、前章と共に定公の時の発言と思われる。

蘇氏曰く、「文武の政令が諸侯から出るようになり、なるほど諸侯は強くなった。魯公は政権を失い、家老の手に移ったが、なるほど家老は強いわけだ。それでも三桓は衰えた。なぜか? 強さは安定から生まれ、安定は身分秩序の正しさから生まれる。この時家老は諸侯を侵し、諸侯は政令を下せなくなった。だから皆、遠からずして政権を失ったのだ。」(『論語集注』)

東門襄仲が公子遂であることはよいとして、殺された文公の子は公子悪と公子視であり、赤という名は上記のように意味不明であり、『春秋左氏伝』にも『史記』にも見えない。どうせなら論拠を書いて頂きたいところ。

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