論語詳解288顔淵篇第十二(10)子張徳をたかめ*

論語顔淵篇(10)要約:政治家や官僚より学者に向いた弟子の子張。人格力と判断力を高める方法を問います。孔子先生はその基本を正直だと言い、人の心は常に揺れ動くもの、そこに気付けば迷いはなくなると諭しました、という怪しい話。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子張問崇德、辨惑。子曰、「主忠信、徙義、崇德也。愛之欲其生*、惡之欲其死*。既欲其生、又欲其死、是惑也。」(誠不以富、亦祇以異。)*

校訂

武内本

清家本により、生の下、死の下に也の字を補う。已ママ下(文末)八字詩小雅我行其野の句、程氏云、此二句錯簡、当に第十六篇斉景公夕馬千駟の上にあるべし。

復元白文

子 金文張 金文大篆問 金文徳 金文 論語 弁 金文或 惑 金文 子 金文曰 金文 主 金文中 金文信 金文 徙 金文義 金文 徳 金文也 金文 哀 金文之 金文谷其 金文生 金文 亜 金文之 金文谷其 金文死 金文  既 金文谷其 金文生 金文 又 金文谷其 金文死 金文 是 金文或 惑 金文也 金文 (成 金文不 金文㠯 以 金文畐 金文 亦 金文祇 金文㠯 以 金文異 金文 )

※張→(金文大篆)・忠→中・愛→哀・欲→谷・惡→亞・誠→成・富→畐・祇→(戦国早期金文)。論語の本章は崇の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による捏造である。

書き下し

子張しちやうとくたかまどひくをふ。いはく、まごころまことおもんじただしきにうつるはとくたかめるなりこれあいしてそのくるをほつし、これにくみてそのほつす。すでせいほつし、またほつするは、まどひなり。〔まこととみおもはず、かへりてことなるをおもふ。〕

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 子張 孔子
子張が人格力を高め、矛盾を解釈する方法を問うた。先生が言った。「まごころと正直を信条とし正義にかなった行いをすれば、人格力は高まる。誰かを愛すれば生きていて欲しいと願う。誰かを嫌えば死んでしまえと願う。生きていて欲しいと願っているのに、死んでしまえと願うのが、矛盾だ。(それでこの解釈はといえば)」

意訳

論語 子張 人形 ニセ孔子
子張「人格力を高める法を教えて下さい。」
孔子「心にもない事を言うな。ウソ付くな。正義の味方であれ。そうすればいやでも人格力は高まる。」

子張「矛盾を解釈する法を教えて下さい。」
論語 孔子 説教
孔子「好きになった人には生きて欲しいと思うし、嫌いな奴は死んじまえと思う。だが時として、好きなのに死んじまえと思う事がある。これが矛盾だ。それでその解釈の法は」
論語 孔子 説教中止

従来訳

論語 下村湖人

子張がたずねた。――
「徳を高くして、迷いを解くには、いかがいたしたものでございましょうか。」
先師がこたえられた。――
「誠実と信義を旨とし、たゆみなく正義の実現に精進するがよい。それが徳を高くする道だ。迷いは愛憎の念にはじまる。愛してはその人の生命の永からんことを願い、憎んではその人の死の早からんことを願う。何というおそろしい迷いだろう。愛憎の超克、これが迷いを解く根本の道だ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張問提高品德、明辨是非。孔子說:「以忠信為宗旨,弘揚正義,就可以提高品德。對一個人,愛的時候,就希望他長生不老;恨的時候,就希望他馬上去死。既盼他長生,又盼他快死,這就是不辨是非。這樣做對自己沒好處,衹能使人覺得你不正常。」

中国哲学書電子化計画

子張が品格を高める法と、是非の判断を問うた。孔子が言った。「忠実と信頼を守り、正義を称揚すれば、すぐに品格は高まる。ある人について、愛したときには、必ずその長寿を願う。恨んだときには、必ず素早い死去を望む。以前長寿を望んでおきながら、今は素早い死を望むのが、これこそ是非の区別がついていない表れだ。このような自分の好まない事柄についてこそが、他人から見れば、判断がおかしいと思わせる。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

。」 、「 。」( 。)


崇德(徳)

論語 崇 金文大篆
「崇」(金文大篆)

論語の本章では”個人の能力を高める”。

「崇」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdʐʰ(平)。同音は愁のみ。「スウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。『学研漢和大字典』によると形声文字で、「山+(音符)宗」。↑型にたかいこと。転じて、↑型に貫く意を派生した。縦(ショウ)(たて)・嵩(スウ)(縦にたかい)などと同系のことば、という。詳細は論語語釈「崇」を参照。

「徳」は論語のほぼ全てに渡って、人徳とか道徳とか解釈すると論語を読み誤る。あからさまに見せない人格力、人間が持つ機能のこと。詳細は論語における「徳」を参照。

辨(弁)惑

論語 弁 金文 論語 惑 金文
(金文)

論語の本章では、「惑」は”矛盾”。「弁」は”分別”。二つで”矛盾を見分けて解決する”こと。論語語釈「惑」を参照。

『学研漢和大字典』によると「弁」は会意文字で、冠の形に両手を加えたもの。ベンという語は被(ヒ)(かぶる)・蔽(ヘイ)(おおう)などと同系。▽辨は「辛(刃物)二つ+刀」、辯は「辛(刃物)二つ+言」、瓣は「辛(刃物)二つ+瓜」の会意文字で、刃物や刀で物事や瓜を切りわけることをあらわす、という。字体は三種類あり、それぞれの語義は論語語釈「弁」を参照。

忠信

論語 忠 金文 論語 信 金文
(金文)

「忠」は”まごころ”で、自分に嘘をつかないことを言う。孔子生前には存在しない漢字で、戦国時代になって諸侯国の戦争が激しくなり、領民に”忠義”を植え付ける必要が出てから、現行の文字と”忠義”の意が生まれた。論語の本章は漢代の創作だが、孔子生前の意味でないと文意が通じない。詳細は論語語釈「忠」を参照。

「信」は”正直”で、他人に嘘をつかないことを言う。詳細は論語語釈「信」を参照。

徙義

論語 徙 金文大篆 論語 義 金文
(金文)

論語の本章では、”正義にかなった行いをする”こと。

『学研漢和大字典』によると「徙」は会意文字で、「止(あし)+止(あし)+彳(いく)」で、左の足をA点よりB点にずらせることを示す、という。詳細は論語語釈「徙」を参照。

「義」とは”正しいこと”。誰かが正義を行っているのを見て、それに手を貸す、あるいは自分が正義の味方になれる機会に出くわして、それまでの考えを改めて正義の味方になることを、「義に徙(うつ)る」という。詳細は論語語釈「義」を参照。

この文字=言葉は戦国末期まで現れず、論語の当時に存在しない。論語の時代の置換候補は「哀」だが、論語の本章は漢代の偽作だから、もともと「愛」と記されたと思われる。詳細は論語語釈「愛」を参照。

愛之欲其生、惡之欲其死

ここでの「之」は直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持たない。詳細は論語語釈「之」を参照。

誠不以富、亦祇以異。

論語の本章のこの部分は、宋儒以来、論語季氏篇15からの錯簡、つまり他の章の文字札が誤って入り込んだとされてきた。詳細は下記。
論語 竹簡

論語:解説・付記

『論語集釋』によると、「誠不以富、亦祇以異」を論語季氏篇の錯簡だと言い出したのは宋儒の程頤(程伊川)で、たびたび紹介したように、現代なら山奥に住みながら、わざわざ雑誌『ムー』なんかを毎月取り寄せて、熱心に読んで真に受けているような、頭のおかしな人物だ。

だが論語の本章は、子張に迷いの弁別法を問われながら、孔子は迷いを説いて弁別法を説いていない。どうもこれ以降の簡が抜け落ちたらしいのだが、後漢末期になって、自他称大学者の馬鹿者鄭玄が、季氏篇からテキトーに簡を引き抜いて本章にくっつけた。その言い分。

鄭𤣥曰此詩小雅也祇適也言此行誠不可以致富適以是為異耳取此詩之異義以非之也

鄭玄
これは『詩経』の小雅から引用した句で、「祇」とはかなうことだ。句の意味は、”誠実に行動したのなら、それによって儲けてはならない。儲けが出ても、それはイカンことだ、と拒否すべきだ”である。この詩の「異」を引いて、”(富を)非難する”の意味を表したのだ。(『論語集解義疏』)

後漢の儒者がいかに頭が悪いか、デタラメを言いふらしたか、そしてそうなるしかなかった理由は、「後漢というふざけた帝国」で記した通り。「祇」は”ただ…だけ”を意味するが、”かなう”は意味しない。「異」は”違っている”を意味するが、”ケシカラン”は意味しない。意味するようになったのは、儒者がデタラメを書き、後世の儒者がさらに猿真似したからだ。

「誠不以富、亦祇以異」は、”まったくもって、富を思わず、それよりも、ただ異なったのを思う”を意味しているだけ。もし「ボクの訳本では違うもん」と言い張るなら、それは儒者のデタラメを真に受けて、自分で調べもしない怠惰な漢学教授が書いた、ポッと出のタワゴトだ。

以下、原詩と訳者による訳。

我行其野、蔽芾其樗。我が野のさすらいに 茂れる雑木の足がらみ
昏姻之故、言就爾居。夫婦となりて 我共に棲みしが
爾不我畜、復我邦家。なんじ我を愛でず いざ里に帰らん

我行其野、言采其蓫。我が野のさすらいに 苦菜を喰らう
昏姻之故、言就爾宿。夫婦となりて 我共に宿りしが
爾不我畜、言歸思復。なんじ我を愛でず いざ里に帰らん

我行其野、言采其葍。我が野のさすらいに ヒルガオを喰らう
不思舊姻、求爾新特。なんじを捨てん おのこを求めん
成不以富、亦祇以異。まことに富を思わず ただ異なれるを思わん
(『詩経』小雅・我行其野)

「言」は詩経独自の用法で、音通する「我」を意味すると『学研漢和大字典』にある。古典だろうと訳本を鵜呑みにせず、まず地道に辞書を引くことだ。他の言語は知らないが、「幾何学に王道無し」である。漢文に王道があるなら、サボリ教授どもはとっくにクビになっている。

ともあれ上掲は、「モーあんな男まっぴらだ。金持ちでなくていいから、別のいい人見つけよう!」と、嫁ぎ先から逃げ帰ってくる女の歌だ。「以」を”思う”と訳したのは原義”手に取る”→”心に取る”の派生義で、鄭玄のデタラメに従う必要など、全然無い。

「成」を”まことに”と訓み解すのは、漢文業界のお約束の一つで、鵜呑みにせず『大漢和辞典』を引くとこの詩の他に『国語』を出典に「誠に通ず」とあり、誠は秦の篆書からしか無い成は甲骨文からあり、カールグレン上古音はともにȡi̯ĕŋ(平)。音通すると言って良い。

以上から、確かに頭のおかしな程頤の言い分ではあるが、「誠不以富、亦祇以異」は、論語季氏篇からの錯簡と判断した。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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