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論語詳解298顔淵篇第十二(20)子張問う士’

論語顔淵篇(20)要約:弟子の子張が、一人前の士族とは何かを尋ねます。有名でありさえすれば一人前と思っている子張に、有名と一人前は別物だ、と孔子先生。名高くとも士族の仕事をしくじるような奴は、しょせんニセモノに過ぎないと諭します。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子張問士何如斯可謂之達也子曰何哉爾所謂達者子張對曰在邦必聞在家必聞子曰是聞也非達也夫達也者質𥄂而好義察言而觀色慮以下人在邦必達在家必達夫聞也者色取仁而行違居之不疑在邦必聞在家必聞

校訂

東洋文庫蔵清家本

子張問士何如斯可謂之逹也子曰何哉爾所謂逹者矣子張對曰在邦必聞在家必聞/子曰是聞也非逹也夫逹也者質𥄂而好義察言而𮗚色慮以下人/在邦必逹在家必逹/夫聞也者色取仁而行違居之不疑/在邦必聞在家必聞

  • 「疑」字:〔止矢龴疋〕

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……何如斯a謂之達矣?」318……

  1. 今本斯下有”可”字。

標点文

子張問、「士何如斯謂之達矣。」子曰、「何哉、爾所謂達者矣。」子張對曰、「在邦必聞、在家必聞。」子曰、「是聞也、非達也。夫達也者、質直而好義、察言而觀色、慮以下人、在邦必達、在家必達。夫聞者、色取仁而行違、居之不疑。在邦必聞、在家必聞。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文大篆問 金文 士 金文何 金文如 金文斯 金文謂 金文之 金文 達 金文 矣 金文 子 金文曰 金文 何 金文哉 金文所 金文謂 金文 達 金文者 金文矣 金文 子 金文張 金文大篆対 金文曰 金文 在 金文邦 金文必 金文聞 金文 在 金文家 金文必 金文聞 金文 子 金文曰 金文 是 金文 聞 金文 也 金文 非 金文 達 金文 也 金文 夫 金文 達 金文 也 金文者 金文 質 金文直 金文而 金文好 金文義 金文 察 金文言 金文而 金文観 金文色 金文 慮 金文㠯 以 金文下 金文人 金文 在 金文邦 金文必 金文達 金文 在 金文家 金文必 金文達 金文 夫 金文 聞 金文者 金文 色 金文取 金文仁 甲骨文而 金文行 金文違 金文 居 挙 舉 金文之 金文不 金文疑 金文 在 金文邦 金文必 金文聞 金文 在 金文家 金文必 金文聞 金文

※張→(金文大篆)・仁→(甲骨文)。論語の本章は、「問」「何」「如」「哉」「必」「也」「質」「行」「疑」の用法に疑問がある。

書き下し

子張しちやうふ、もののふ何如いかならばきはこれいたれるとる。いはく、なんなんぢところいたものとは。子張しちやうこたへていはく、くにりてかならきこえ、いへりてかならきこゆ。いはく、きこゆるなりいたれるにあらざるなりいたれるものは、たちすなほにしすぢこのみ、ことのはいろおもひてしたひともちう。くにりてかならいたり、いへりてかならいたる。きこゆるものは、いろよきひとたがふをおこなひ、これうたがくにりてかならきこえ、いへりてかならきこゆ。

※Wikisourceの訓読「如何いかなる」は誤植。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子張 孔子
子張が問うた。「士族はどういう状態になれば一人前になったと評価してしまっていいですか。」先生が言った。「何かね君の言う一人前とは。」子張が答えて言った。「国の中でも有名で、一族の中でも有名な者です。」先生が言った。「それは目立ち者で、一人前とは言えないな。そもそも一人前とは、性格が素直で正義を好み、人の発言や表情をよく観察し、考えた上で人を使役する者だ。だから国の中でも一人前として通用し、一族の中でも一人前として通用する。対して目立ち者は、貴族らしいふりをして違うことを行い、居直って自分の立場を疑わない。国内でも目立ち、一族の中でも目立っている。」

意訳

子張「私も士族として、一人前になりたいものです。」
孔子「なんだね、その一人前とは。」

子張「国内でも一族の中でも、目立っている事です。」
孔子「おやおや。それは人気者で一人前ではないぞ。一人前とは、根が素直で、素直だから他人の言葉や表情に敏感に反応して、民草を上手に使役できる者だ。
人気者は違うぞ? 貴族の振りをして世間をだます者だ。だからずっと自分は人気者のままでいられると思っている。国でも一族でも人気がある、そんなの長続きしないのにな。」

従来訳

下村湖人

子張がたずねた。――
「学問に励みますからには、いわゆる達人といわれる境地にまで進みたいと思いますが、その達というのは、いったいどういうことなのでしょう。」
先師がいわれた。――
「お前はどう思うかね、その達というのは。」
子張がこたえた。――
「公生活においても、私生活においても、第一流の人だといわれるようになることだろうと存じますが――」
先師――
「それは名聞(みょうもん)というものだ。達ではない。達というのは、質実朴直で正義を愛し、人言にまどわされず、顔色に欺かれず、思慮深く、しかも謙遜で、公生活においても、私生活においても、内容的に充実することなのだ。名聞だけのことなら、実行の伴わない人でも、表面仁者らしく見せかけ、自らあやしみもせず、平然としてやっておれば、公私とも何とかごまかせることもあるだろう。しかしそんな無内容なことでは、断じて達人とはいえないのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張問:「怎樣才能顯達呢?」孔子說:「你所說的顯達是什麽意思?」子張說:「國外有名,國內有名。」孔子說:「這是名,不是達。所謂顯達,就是品質正直,崇尚道義,善於察言觀色,甘心處於人下。這樣就會國外顯達,國內顯達。表面仁義而內心相反、以仁義自居而不疑的人,也能騙取國內外的名聲。」

中国哲学書電子化計画

子張が問うた。「どうすれば才能が顕達するのでしょう?」孔子が言った。「お前の言う顕達とはどういう意味だ?」子張が言った。「国外でも有名、国内でも有名なことです。」孔子が言った。「それは目立ちだ。顕達ではない。顕達というのは、つまり性根が正直で、道徳を重んじ、言葉や表情をよく読み取り、人にへり下るのを拒まぬことだ。そうなれば外国でも顕達で、国内でも顕達になる。表向き仁義を重んじるようで、腹の中で舌を出し、仁義を看板に懸けるのを疑いもしない者は、国内外の名声をだまし取っているのだ。」

論語:語釈

、「 () 。」 、「 。」 、「 。」 、「 。」


子張

論語 子張

孔子の弟子。「何事もやりすぎ」と評された。張の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞なので論語の本章を偽作と断定できない。詳細は論語の人物・子張参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

張 楚系戦国文字 張 字解
(楚系戦国文字)

「張」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、同音近音のあらゆる漢語が置換候補になり得る。字形は「弓」+「長」で、弓に長い弦を張るさま。原義は”張る”。「戦国の金文に氏族名で用いた例がある。論語語釈「張」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

士(シ)

士 金文 士 字解
(金文)

論語の本章では、”士族”。もとは最下級の貴族で、現代で言う下士官に当たる。春秋時代は都市の商工民であることが多い。初出は西周早期の金文。「王」と字源を同じくする字で、斧を持った者=戦士を意味する。字形は斧の象形。春秋までの金文では”男性”を意味した。藤堂説では男の陰●の突きたったさまを描いたもので、牡(おす)の字の右側にも含まれる。成人して自立するおとこ、という。詳細は論語語釈「士」論語解説「論語解説春秋時代の身分秩序」を参照。

何如(いかならば)

何如 字解 如何 字解

論語の本章では”どうであれば”。「何」が「如」=”そのようである”か、の意。対して「如何」は”どうしましょう”・”どうして”。

  • なにしたがう」→何が従っているか→”どう(なっている)でしょう”
  • したがうなに」→従うべきは何か→”どうしましょう”・”どうして”。

「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。または単独で”あるいは”。これらの語義は春秋時代では確認できない。

”あるいは”の語義は前回の「率」と同様、前漢儒者のやらかしたハッタリで、本章を古くさく見せるため、「與」ȵi̯o(平)”~と”→”あるいは”と書くべきところ、音の近い「如」zi̯o(上)を引っ張ってきて、無理やり”~と”という語義をこしらえた。こんな読み方は、後世の猿真似を除けば、やはり前漢儒者がでっち上げた『儀礼』の「公如大夫」ぐらいしかない。

字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では「きは」と訓読して”そのような状態”。単数で取り挙げられるものを指す語ではなく、複数のものや、数に数えられない状況や状態を指す。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”…であると評価する”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”または”ここ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

達(タツ)

達 甲骨文 達 字解
(甲骨文)

論語の本章では”一人前に至っている”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は↑+「止」”あし”で、歩いてその場にいたるさま。原義は”達する”。甲骨文では人名に用い、金文では”討伐”の意に用い、戦国の竹簡では”発達”を意味した。詳細は論語語釈「達」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”きっと~する”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

士何如斯謂之達矣(もののふいかんぞここのこれのいたれるといふなる)

論語の本章では、「士」”士族”は「如何」”どのような”「斯」”状態”なら「之」”これ=士族らしさ”が「達」”一人前になっている”と「謂」”評価でき”「矣」”てしまう”でしょうか。丸めると”どのように行動できれば、一人前の士族として十分だと、堂々と言ってしまえるのでしょうか。”

句末の「矣」は、古注系論語では「也」になっているが、それより古い前漢中期の定州竹簡論語で「矣」になっているのでそれに従った。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

爾(ジ)

爾 甲骨文 爾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”ところのもの”。「所謂」で「いわゆる」と現代でも訓み下し、解釈としては春秋時代でも通用するが、当時の漢語には原則として熟語が無い。

字の初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”…のような者”。新字体は「者」(耂と日の間に点が無い)。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

爾所謂達者矣(なんじいふところのいたれるものといふなる)

この部分、前漢中期の定州竹簡論語には欠いているが、それを除いて現存最古の古注系論語には句末に「矣」があるのでそれに従った。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~にいる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

邦(ホウ)

論語の本章では”くに”。現伝論語では「國」と「邦」を混用し、定州竹簡論語では「國」で統一しているが、これは漢の高祖劉邦のいみ名をを避諱したため。春秋時代の漢語としては、「國」が金文までは「域」とも記されたように、領土や地域などの場所を主に意味するのに対し、「邦」は神木と加冠した貴人の組み合わせで形成されるように、まつりごとを行う政府を持つ国家的存在を意味する。論語語釈「国」を参照。

邦 甲骨文 邦 字解
(甲骨文)

「邦」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”聞こえている”→”名高い”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

論語の時代、「聞」は間接的に聞くこと、または知らない事を教わって明らかにすることを意味した。

家(カ)

家 甲骨文 家 字解
(甲骨文)

論語の本章では”一族”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。字形は「宀」”屋根”+〔豕〕”ぶた”で、祭殿に生け贄を供えたさま。原義は”祭殿”。甲骨文には、〔豕〕が「犬」など他の家畜になっているものがある。甲骨文では”祖先祭殿”・”家族”を意味し、金文では”王室”、”世帯”、人名に用いられた。詳細は論語語釈「家」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では”それ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「なり」と読んで”~である”。断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

非(ヒ)

非 甲骨文 非 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。

夫(フ)

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

論語の本章では「それ」と読んで”そもそも”、発語の意。「敷」”あまねく”の派生義。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

夫達也者→夫達者

この部分は前漢中期の定州竹簡論語に欠き、唐石経を祖本とする現伝論語は「夫達也者」と記すが、それより以前に日本に伝来した古注系論語では「也」を欠くのでそれに従い校訂した。

質(シツ)

質 金文 質 字解
(金文)

論語の本章では”人柄”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”地(じ)”。初出は西周末期の金文。「シツ」(入)の音で”中身”を、「チ」(去)の音で”抵当”を意味する。字形は「斦」”斧二ふり”+「貝」”財貨”だが、字形の意味するところや原義は不明。春秋末期までの用例は、全て”つつしむ”と解釈されている。詳細は論語語釈「質」を参照。

直(チョク)

直 甲骨文 直 字解
(甲骨文)

論語の本章では”真っ直ぐ”。ひねくれておらず、物事をありのままに見える者を指す。初出は甲骨文。「𥄂」は異体字。「ジキ」は呉音。甲骨文の字形は「コン」+「目」で、真っ直ぐものを見るさま。原義は”真っ直ぐ見る”。甲骨文では祭礼の名に、金文では地名に、戦国の竹簡では「犆」”去勢した牡牛”の意に、「得」”~できる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「直」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

義(ギ)

義 甲骨文 義 字解
(甲骨文)

論語の本章では”正しいやり方”。筋を通すこと。初出は甲骨文。字形は「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”で、原義は儀式に用いられた、先端に羊の角を付けた武器。春秋時代では、”格好のよい様”・”よい”を意味した。詳細は論語語釈「義」を参照。

察(サツ)

察 金文 察 字解
(金文)

論語の本章では、”観察する”。初出は西周末期の金文。字形は「宀」”屋根”+「」”ぶた”で、屋根の下で家畜を育てるさま。原義はおそらく”注意深く見守る”。金文では人名・”観察する”の意に用いられ、戦国の竹簡では”発見する”・”悟る”の意に用いられた。詳細は論語語釈「察」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”発言”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

觀(カン)

観 甲骨文2 観 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”。初出は甲骨文だが、部品の「雚」の字形。字形はフクロウの象形で、つの形はフクロウの目尻から伸びた羽根、「口」はフクロウの目。原義はフクロウの大きな目のように、”じっと見る”こと。詳細は論語語釈「観」を参照。

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

慮*(リョ)

慮 金文 慮 字解
(金文)

論語の本章では”よく考える”。初出は春秋早期の金文。初出の字形は「忄」”心”+「虍」”猛獣の頭”+”目を見開いた人”。猛獣に遭遇し、感覚を研ぎ澄ませてよく考えるさま。戦国以降は形声文字として「リョ」+「心」の字形が現れるが、現伝字形は初出の形を留めている。同音は慮を部品とする漢字群、「臚」”肌・連ねる”、「廬」”いおり”。春秋の金文から”よく考える”の意に用いた。詳細は論語語釈「慮」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。「慮以下人」は「おもひて下の人をもちう」”よく考えて立場が下の者を使う”。「以」を接続詞”それで”とし、「慮ひてて人に下る」”よく考えてそれで人にへり下る”と解せなくも無いが、本章のテーマは「士とは何か」であり、春秋の士は第一に官僚であり、戦士だった。つまり民を指導し、公的動員を支障なく遂行できる人材だから、「へり下る」ことより「人をうまく使う」能を求められる。奴隷奉公的な儒教道徳がはばを利かせた帝政時代の「士」ではない。従って”用いる”と解した。

字の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

下(カ)

下 甲骨文 下 字解
(甲骨文)

論語の本章では”身分が下の”。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

夫聞也者→夫聞者

この部分は前漢中期の定州竹簡論語に欠き、唐石経を祖本とする現伝論語は「夫聞也者」と記すが、それより以前に日本に伝来した古注系論語では「也」を欠くのでそれに従い校訂した。

取(シュ)

取 甲骨 取 字解
(甲骨文)

論語の本章では”取る”→”…のふりをする”。初出は甲骨文。字形は「耳」+「又」”手”で、耳を掴んで捕らえるさま。原義は”捕獲する”。甲骨文では原義、”嫁取りする”の意に、金文では”採取する”の意(晉姜鼎・春秋中期)に、また地名・人名に用いられた。詳細は論語語釈「取」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では”貴族”。”天下万物に対する無差別の愛”のような、現行通説の語義は孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。字の初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

違(イ)

違 金文 違 字解
(金文)

論語の本章では”そむいたこと”。初出は西周早期の金文。字形は「辵」”あし”+「韋」”めぐる”で、原義は明らかでないが、おそらく”はるかにゆく”だったと思われる。論語の時代までに、”そむく”、”はるか”の意がある。詳細は論語語釈「違」を参照。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”座る”→”居直る”。開き直って恥じもせずに人の上に立つこと。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

疑(ギ)

疑 甲骨文 疑 字解
(甲骨文)

論語の本章では”疑う”。恥とも思わないこと。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「龴」「疋」を欠く「𠤕」。「𠤕」の字形は大きく口を開けた人で、「疑」の甲骨文には「コン」”つえ”を手に取る姿、「亍」”道”を加えた字形がある。原義はおそらく”道に迷う”。詳細は論語語釈「疑」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は一部が前漢中期の定州竹簡論語に残り、「張」の字を除き全て論語の時代に遡れ、「張」は固有名詞のため同音近音のあらゆる漢字が置換候補となる。長文の論語の章は、後世の偽作であることが多いが、本章は史実の孔子と子張の問答と見てよい。

解説

史実の孔子塾は、理想の政治なるものを追求するカルト集団ではなく、庶民が士族の技能を身につけて出世するための、極めて実用的で世俗的な就職予備校だったから、塾生は名声を追い掛ける前に、まず士族としての技能を身につけなくてはならなかった(論語における「君子」)。

子張は孔子晩年の若い弟子で、孔門の先輩はすでに仕官しており、それなりに名声があった。武勲を立て、筆頭家老家の執事を務めた冉有や、隣国衛で地方都市の領主になっていた子路や、外交官として春秋の世をひっくり返した子貢の名声を、もちろん子張はよく知っていた。

そもそも小麦生産と弩(クロスボウ)の実用化に伴う春秋後半の社会変動の中で、社会の底辺から宰相格にまで成り上がった孔子の名声は、まだ二十代であろう子張にとって、名声こそ士族の証しと勘違いさせるに十分だったのだろう。これには孔子塾の就職率の良さという実績が背景にある。

つまりボンヤリと在学中を過ごしても、「孔子塾出身」という肩書きだけで仕官できたという事実があったからで、前世紀末ごろの「大卒」同様、中身はなくとも肩書きだけで十分と子張に思わせてしまったわけ。実際、人品に如何わしさのある子游ですら、魯の地方長官に就いている。

その勘違いを正してやったのが論語の本章で、48歳年下と言うから孫や曽孫のような若い子張を、晩年の孔子がやんわりたしなめた温かみのある話と受け取ってよい。だが同時に、初期の弟子が持っていたような緊張感はすでに薄れ、孔子塾がそれなりに既得権益化した景色をも物語っている。

初期の孔子塾の緊張感とは、血統貴族ばかりの政界官界に、中国史上初めて庶民が割り込んでいく困難から、ごく自然に一門が抱いた感情だった。同時に、あるいは孔子と同様に私塾を開いていた者との、弟子の取り合いという経営側の緊張もあったかもしれない。

少正卯は孔子と同様に、魯で塾を開いていた。孔子塾とは塾生の取り合いになり、たいていの弟子は三度ほど両塾を出入りした。ただし顔淵だけは孔子塾にいたままだった。顔淵だけが、孔子の真価を理解していたからである。孔子塾から少正卯塾に移籍した者は、孔子の真価が分からなかっただけでなく、少正卯の人となりも知らなかった。ただ風に吹かれるかんなくずのように、行ったり来たりしていただけだった。その一人である子貢が言った。

論語 子貢 遊説 論語 孔子 説教
子貢「あの少正卯という人は名高いですが、先生が政権を握ったら、どうなさいます?」
孔子「うるせえ。お前の知ったことか。」

子貢ほど才に溢れた者が、孔子の真価を知らなかったのである。だからどこにでもいるバカたれ儒者が、「この人は偉い」と言っても信用するわけにいかない。(『論衡』講瑞5)


少正卯の名は『史記』孔子世家にも見えるが、この話は、孔子没後506年過ぎて生まれた後漢の王充の筆になり、王充は見たことも無い「古論語」「魯論語」「斉論語」なるものがあると言い張って、後世を大いに惑わせたほら吹きだから、あまり信用できるとは言い難い。

だからどこにでもいるバカたれ漢学教授が、「王充は偉い」と言っても信用するわけにいかない(論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」)。

だが同じ社会変動の中にあって、孔子と似たようなことをする者が皆無だったともまた言い切れないわけで、孔子塾生の多くも似たような塾を「皆惑」”かんなくずのように行ったり来たり”していた可能性はある。

漢帝国以降の儒者は、本尊として孔子を祭り上げると共に、「理想の政治を追い求めて放浪した」という嘘デタラメ伝説を言いふらした。王充もその一人なのだが、上掲の真偽はともかくとして、孔子塾が実用的就職予備校でなければあり得ない話である。今世紀以降の大学の多くが経営困難になり、廃校となる例もあるように、通っても仕官できない塾に、入る塾生はいないからだ。

嘘から出た誠とは、こういうのを言うのだろうか。仮に孔子に理想があったとしても、それは血統によらず実力で人が高い地位に就ける世の中の実現で、その意味で孔門は革命政党でもあったが、目指したのは庶民出身の弟子の仕官という、極めて世俗的な革命だった。

なお少正卯について初めて言及したのは、戦国末期の荀子で、孔子や直弟子たちも、孔子没後一世紀に現れた孟子も他学派も、何も記していない。司馬遷は『史記』を書くに当たり魯国まで取材に出掛けたと自分で言っているが、現地の古老が一杯機嫌でデタラメを語らなかったとは言い難い。

その荀子の記事は、論語の本章に次いで「聞人」の語の再出でもある。

孔子為魯攝相,朝七日而誅少正卯。門人進問曰:「夫少正卯魯之聞人也,夫子為政而始誅之,得無失乎,」孔子曰:「居,吾語女其故。人有惡者五,而盜竊不與焉:一曰:心達而險;二曰:行辟而堅;三曰:言偽而辯;四曰:記醜而博;五曰:順非而澤--此五者有一於人,則不得免於君子之誅,而少正卯兼有之。故居處足以聚徒成群,言談足飾邪營眾,強足以反是獨立,此小人之桀雄也,不可不誅也。是以湯誅尹諧,文王誅潘止,周公誅管叔,太公誅華仕,管仲誅付里乙,子產誅鄧析史付,此七子者,皆異世同心,不可不誅也。《詩》曰:『憂心悄悄,慍於群小。』小人成群,斯足憂也。」


孔子が魯国の宰相代理になり、朝廷の決済を始めて七日で少正卯を死刑に処した。

門人「あのー、先生、いいでしょうか。あの少正卯って人は魯国では「聞人」=名高い人です。先生の政権の始めに、こういう処刑を行ったのは、あるいはまずいのではありませんか。」

孔子「そこに座れ。説明してやるから。人には五つの悪がある。その悪は、泥棒よりももっとたちが悪い。

一つ目が「心達而險」”知能を悪用して陰険を企む”、二つ目が「行辟而堅」”悪事を働いて改めない”、三つ目が「言偽而辯」”ウソつきのくせに弁が立つ”、四つ目が「記醜而博」”人の失敗をずっと覚えていて聞き込みまでする”、五つ目が「順非而澤」”悪党とつるみバラマキで人気を集める”だ。

この五つのうち一つでもあれば、お上の処刑は免れないが、あの少正卯めは、五つ全部を持っていた。だから店を開けばどっと人が集まり、口を開けば大勢の人をたぶらかし、勢力を蓄えて世の非難を知らんぷりできた。こういうのを、下らん連中の英雄というのだ。処刑せぬわけにいかんだろうが。

いにしえの七人の賢者は政権を握ると、まずこういうわるものを処刑した。その時代は違っていても、賢者の判断はみな同じで、処刑しないではいられなかったのだ。昔の詩にも言うだろう、”やれやれ鬱になりそうだ。下らん連中が群れ集まって、チクチクいやがらせをしてきやがる”と。下らん連中が徒党を組んだら、為政者たる者、警戒して当然なのだ。」(『荀子』宥坐2)

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子張問士何如斯可謂之達矣子曰何哉爾所謂達者子張對曰在邦必聞在家必聞註鄭𤣥曰言士之所在皆能有名譽也子曰是聞也非達也夫達者質直而好義察言而觀色慮以下人註馬融日常有謙退之志察言語見顔色知其所欲其念慮常欲以下人也在邦必達在家必達註馬融曰謙尊而光卑而不可踰也夫聞者色取仁而行違居之不疑註馬融曰此言佞人也佞人假仁者之色行之則違安居其偽而不自疑者也在邦必聞在家必聞註馬融曰佞人黨多也


本文「子張問士何如斯可謂之達矣子曰何哉爾所謂達者子張對曰在邦必聞在家必聞」。
注釈。鄭玄「子張の言い分は、”士族には必ず名声が伴うものだ”ということである。」

本文「子曰是聞也非達也夫達者質直而好義察言而觀色慮以下人」。
注釈。馬融「いつもへりくだりの心を忘れず、他人の発言や表情に気を付け、何を求めているか、考えているかを知り、いつも他人にへり下ろうとする。」

本文「在邦必達在家必達」。
注釈。馬融「目上を敬い、威張り散らさず、常識からはみ出ないからである。」

本文「夫聞者色取仁而行違居之不疑」。
注釈。馬融「これは佞人のことを言ったのである。佞人は仁者の顔つきを真似して、その行動はぜんぜん仁者ではない。そういう偽りの地位に居座り、おかしいとも思わないのである。」

本文「在邦必聞在家必聞」。
注釈。馬融「佞人には悪党仲間が多いからである。」

「以下人」とは”士族として民を上手に使役すること”であるのは上掲語釈の通りだが、前後の漢帝国の宮廷は、隙あらば他人の揚げ足を取って地位を奪い、なろうことならリアルにこの世から消してしまおうと、互いに滅ぼし合っていた。他人にへり下る「以下人」は、そんな宮廷で生き延びる必須の技能だったから、馬融がこのように書き残したのも仕方が無いとは言える。論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

新注『論語集注』

子張問:「士何如斯可謂之達矣?」達者,德孚於人而行無不得之謂。子曰:「何哉,爾所謂達者?」子張務外,夫子蓋已知其發問之意。故反詰之,將以發其病而藥之也。子張對曰:「在邦必聞,在家必聞。」言名譽著聞也。子曰:「是聞也,非達也。聞與達相似而不同,乃誠偽之所以分,學者不可不審也。故夫子既明辨之,下文又詳言之。夫達也者,質直而好義,察言而觀色,慮以下人。在邦必達,在家必達。夫,音扶,下同。好、下,皆去聲。○內主忠信。而所行合宜,審於接物而卑以自牧,皆自修於內,不求人知之事。然德修於己而人信之,則所行自無窒礙矣。夫聞也者,色取仁而行違,居之不疑。在邦必聞,在家必聞。」行,去聲。○善其顏色以取於仁,而行實背之,又自以為是而無所忌憚。此不務實而專務求名者,故虛譽雖隆而實德則病矣。程子曰:「學者須是務實,不要近名。有意近名,大本已失。更學何事?為名而學,則是偽也。今之學者,大抵為名。為名與為利雖清濁不同,然其利心則一也。」尹氏曰:「子張之學,病在乎不務實。故孔子告之,皆篤實之事,充乎內而發乎外者也。當時門人親受聖人之教,而差失有如此者,況後世乎?」


本文「子張問:士何如斯可謂之達矣?」
達とは、人徳が他人をも包むようであり、何事も出来ない事がないのを言う。

本文「子曰:何哉,爾所謂達者?」
子張は上っ面を飾ろうと頑張るのだが、先生はたぶんそういう意図を見抜いていたのである。だから「どういう意味かね」と聞き返し、上っ面を飾ろうとするよくない性癖を叩き治す薬を与えようとしたのである。

本文「子張對曰:在邦必聞,在家必聞。」
つまり子張は、誉れが高くて名高いのを一人前の士だと言ったのである。

本文「子曰:是聞也,非達也。」
聞と達は似ているようで全然違う。それは同時に、ウソかまことかの分かれ道でもあり、儒学を学ぶ者はよくわきまえておかねばならない。だから先生は「それはちがうぞ」と明言し、続けてその詳細を説教した。

本文「夫達也者,質直而好義,察言而觀色,慮以下人。在邦必達,在家必達。」
夫の音は扶である、以下同。好と下は、どちらも下げ調子に読む。

付け足し。心は忠実と信頼を重んじ、行動は適切で、事物と関わるには自分を空しくして却って自由自在の境地を得るのは、すべて自分による心の修行であり、人が知っているかは関係ない。人徳が十分修行できていれば人に信頼されるから、行動で差し障りや行き詰まることが無いのである。

本文「夫聞也者,色取仁而行違,居之不疑。在邦必聞,在家必聞。」
行は下がり調子に読む。

付け足し。表情を取り繕って仁者の振りをし、その行動は仁義に背き、それでいいのだと開き直ってはばかることがない。これは人間の本質を磨くことに努めず、名声だけを求め努力するのだから、中身の無い名声ばかり高くて、当人の人徳は病んでいるのだ。

程頤「儒学を学ぶ者は、絶対に実質を高めるように努めなければならない。名声を得ようとしては成らない。名声を得ようとすれば、自分の本質はすでに失われているのだ。今さら学んで何になろう。名声のために学ぶのは、とりもなおさず偽りである。今儒学を学ぶ者は、たいていは名声のために学んでいる。名声を得、利益を得ると、清いと汚いは同じでないのに、その心は全く利益を得ようとするばかりだ。」

尹焞「子張の学びは、実質の充実に努めない点に欠点がある。だから孔子はこのように説教し、実質を高めるよう勧め、内面が充実すれば自然に外見に現れてくると諭した。当時の門人は先生自らが指導したというのに、こういう出来の悪い者が出たのだから、後世になるとなおさらだ。」

程頤は科挙にまだ受かる前に、皇帝に説教文を送りつけたが、それは名声を得るためではなかったことになる。明確に精神医学上の病人と言うべきだろう。尹焞は「和靖處士」”温和でまじめな、欲の少ない紳士”という称号を皇帝から貰った人物だが、金軍が首都開封を攻め落としたときには「目を回していて弟子に山へ運んで貰いました」と言い訳をし、南宋が成立すると山から下りて官職をたかった。それで子張をここまで罵倒しているのだが、こういう連中の精神構造は、精神科医でもない訳者如きには、とうてい手に負えない。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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