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論語詳解287顔淵篇第十二(9)哀公有若に問うて*

論語顔淵篇(9)要約:後世の創作。饑饉があって、弟子の有若に殿様が「税収が足りない」と対策を相談します。「免税にしなさい」と言う有若に、「到底足りない」と殿様。「資源は民と共有するものです」と有若は答えるのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

哀公問於有若曰年饑用不足如之何有若對曰盍徹乎曰二吾猶不足如之何其徹也對曰百姓足君孰與不足百姓不足君孰與足

  • 「猶」字:つくり〔酋〕。

校訂

諸本

武内本:徹、漢石経肆に作る。

※『漢石經考異補正』『漢熹平石經殘字集録』に本章見当たらず。『論語集釋』にも漢石経の注記無し。勘違い?

東洋文庫蔵清家本

哀公問於有若曰年飢用不足如之何有若對曰盍徹乎/曰二吾猶不足如之何其徹也/對曰百姓足君孰與不足百姓不足君孰與足

  • 「猶」字:つくり〔酋〕に近似。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[問於有若曰:「年饑a,用不足],如之何?」有若b曰:314……曰:「二,吾猶不足,若315……

  1. 饑、皇本作”飢”、『釋文』云”饑、鄭本作飢”。
  2. 若、今本作”如”。

標点文

哀公問於有若曰、「年饑、用不足、如之何。」有若曰、「盍徹乎。」曰、「二、吾猶不足、若之何其徹也。」對曰、「百姓足、君孰與不足。百姓不足、君孰與足。」

復元白文(論語時代での表記)

哀 金文公 金文問 金文於 金文有 金文若 金文曰 金文 年 金文 用 金文不 金文足 金文 如 金文之 金文何 金文 有 金文若 金文曰 金文 盍 金文肆 金文乎 金文 曰 金文 二 金文吾 金文猶 金文不 金文足 金文 若 金文之 金文何 金文其 金文徹 金文也 金文 対 金文曰 金文 百 金文姓 金文足 金文 君 金文孰 金文与 金文不 金文足 金文 百 金文姓 金文不 金文足 金文 君 金文孰 金文与 金文足 金文

※論語の本章は饑の字が論語の時代に存在しない。「問」「如」「若」「何」「盍」「乎」「猶」の用法に疑問がある。本章は戦国最末期以降の儒者による創作である。

書き下し

哀公あいこう有若いうじやくうていはく、みのりゑてつひえかくごときをなにせむ。有若いうじやくいはく、なんまぬがしめざらんいはく、ふたつみつぎわれこれ若何いかんぞまぬがしめむこたへていはく、ひやくせいらば、きみいづくんぞともにからむ、ひやくせいらば、きみいづくんぞともらむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

哀公 有若
哀公が有若に問うて言った。「農作物が実らず税収が足りない。このような状況をどうすればいいか。」有若が答えて言った。「どうして徴税を免除しないのですか。」哀公が言った。「十分の二取ってもまだ足りない。どうして徴税を免除できようか。」有若が答えて言った。「民が足りているなら、殿がなぜ共に足りないのですか。民が不足しているなら、殿はなぜ共に足りるでしょうか。」

意訳

哀公「今年は飢饉じゃ。税収が足りぬ。」
有若「免税のお触れを出しなされ。」
哀公「例年通り十分の二取ってもなお足りぬ。なのに免税などできるか。」
有若「民が足りたならそれは殿が足りたこと。資源は共有するものでございますよ。」

従来訳

下村湖人

魯の哀公が有若にたずねられた。――
「今年は飢饉で国庫が窮乏しているが、何かよい案はないのか。」
有若がこたえていった。――
「どうして十分の一税になさいませんか。」
哀公がいわれた。――
「十分の二税を課しても足りないのに、十分の一税になど、どうして出来るものか。」
すると、有若がいった。
「百姓がもし足りていたら、君主として、あなたはいったい誰と共に不足をおなげきになりますか。百姓がもし足りていなかったら、君主として、あなたはいったい誰と共に足りているのをお喜びになりますか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

哀公問有若:「饑荒年,國庫空,怎麽辦?」有若說:「賦稅減半。「現在我還嫌稅少,怎麽能減半?「百姓富裕了,您還會不富裕?百姓貧窮了,您哪來富裕?」

中国哲学書電子化計画

哀公が有若に問うた。「飢饉の年に国庫が空で、どうやってやり繰りすればいいか。」有若が言った。「課役と課税を半分にするとよいでしょう。」哀公「今ただでえさえ税収が足りない。どうして半分に減らせようか。」有若「領民の貯えが豊かなら、殿がどうして豊かでないでしょうか。領民の蓄えが乏しければ、殿がどうやって富めるでしょうか。」

論語:語釈

、「 飢(饑)、 。」 () 、「 () 。」、「 () () 。」 、「 。」


哀公

魯 哀公
論語の本章では、孔子晩年の魯の国公。位BC494-BC468。論語関連の書籍では、やる気はあるものの頼りない殿様として描かれる。孔子が帰国したときの国公であり、孔子没後、門閥の孟武伯に脅迫されて国外に逃亡、客死した。詳細は論語八佾篇21語釈『史記』魯世家:哀公を参照。

哀 金文 アルファー24
(金文)

「哀」の初出は西周早期の金文。字形は「𠙵」”くち”のまわりをなにがしかで囲む形で、由来と原義は不詳。金文では”かなしむ”の意に、”いとおしむ”の意に用い、戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「哀」を参照。

公 甲骨文 公 字解
「公」(甲骨文)

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。原義=甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

有若(ユウジャク)

論語の本章では、孔子の弟子とされる有若ユウジャクのこと。学而篇では有子=有先生と、孔子と同格の敬称で呼ばれている。実在性に疑いがある。詳細は論語の人物:有若子有を参照。

なお有若は孔門十哲の一人、冉求子有の別名である可能性がある。詳細は儒家の道統と有若の実像を参照。

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

若 甲骨文 若 字解
(甲骨文)

「若」の初出は甲骨文。字形はかぶり物または長い髪を伴ったしもべが上を仰ぎ受けるさまで、原義は”従う”。同じ現象を上から目線で言えば”許す”の意となる。甲骨文からその他”~のようだ”の意があるが、”若い”の語釈がいつからかは不詳。詳細は論語語釈「若」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

年饑(ネンキ)・年飢(ネンキ)

論語の本章では”作物の不作”。この場合「年」は”収穫”で甲骨文の原義に近い。定州竹簡論語・唐石経は「年饑」と記し、清家本は「年飢」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。ただし論語の本章の場合、最古の論語本である定州竹簡論語が残っているため、それに従った。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

年 甲骨文 年 字解
(甲骨文)

「年」の初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”・”穀物の収穫”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。

饑 隷書 饑 字解
(隷書)

定州本・唐石経は「饑」字で記す。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「漢語多功能字庫」は部品の「幾」の原義を”あやうい”とするが、甲骨文や春秋末期までの金文に、”あやうい”と解せる出土例は無く、今後現れる「かも」に過ぎない。字形は「食」+音符「幾」。同音は幾とそれを部品とする漢字群多数。初出の「睡虎地秦簡」為吏31に「衣食饑寒」とあり、”穀物が不足する”と解せる。文献上では論語の本章に次ぎ、戦国初期『墨子』七患篇に「五穀不收謂之饑」とあり、穀物が実らず収穫できないこと。戦国中期の『孟子』にも見られる。詳細は論語語釈「饑」を参照。

飢 隷書
(秦代隷書)

清家本は上古音で近音の「飢」と記す。初出は秦の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。カールグレン上古音の同音は存在しない。文献上の初出は春秋末期『孫子』。戦国初期『墨子』、中期『孟子』、末期『荀子』『韓非子』にも見られる。だがこれらの文字がいつ記されたかは分からない。詳細は論語語釈「飢」も参照。

饑→飢となったのは、上古音で「幾」ki̯ər(平)→「几」kǐei(上)ゆえだろう。字形的には系列を同じくしていない。音的には付属記号の違いを共通率半減、əとeも半減とみなすと、音素の共通率は50%トントンとなるだけで、声調も異なる。ただし◌̯(音節副音)と ̆(超短音)がどう違うのか、訳者には判じかねている。。

用(ヨウ)

用 甲骨文 用 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”用いる”→”費用”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”~で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

足(ショク)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”足りる”。初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では漢音で「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

如之何→若之何(かくのごときをなにせん)

論語の本章、現伝文字列では”こういう状況をどうしようか”。唐石経・清家本は「如之何」と記し、定州竹簡論語では、一度目は欠損し、二度目の「如之何」は「若…」と記す。おそらくは章を通じて「若之何」と記したのだろうが、語義は同じ。文献上は論語とほぼ同じ時代の『孫子』から「若何」の例があるが、出土史料では戦国末期まで見られない。「如」のカールグレン上古音はȵi̯o(平)に対し、「若」はȵi̯ak(入)だから、おそらくは音が近いゆえの混用。

如何 字解 何如 字解

「如之何」は「如何」の間に目的語の「之」を挟んだ形、ではない﹅﹅﹅﹅。「如之」→「かくのごとき」”このような状況”は「何」としようか、のSV構造。日本語で「この道は通れます」と言うように、目的語が形式主語になり得るのは漢語も同じ。

古来日本人は、意味の違う「如何」も「何如」もともに「いかん」と訓読して理解した気になってきたが、気がするだけで解読したことにはならない。一つ覚えのように「いかん」と読み下すのは、間抜けだからそろそろやめてはどうだろう。伝統的訓読にこだわるならせめて、「如何」→「いかんせん」「いかんぞ」、「何如」→「いかに」と区別すべきだろう。

  • 「何如」=(何)”何が”(如)”そのようであるか”→「いかにあらん」”どうであるか”
  • 「如何」=(何)”何に”(如)”そのようにするか”→「いかにせん」”どうしようか”

通説が「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

之 甲骨文 之 字解
「之」(甲骨文)

「之」は論語の本章では”これ”。孔子の指示のうち、個別の事柄。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

對曰(タイエツ)(こたへていはく)

論語の本章では”回答として言った”。論語では多くの場合、目上から問われて答える場合に用いるが、論語憲問篇14のように身分同格の年長者が答える場合にも用いており、身分差を示す言葉ではない。

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

「對」の初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

盍(コウ)(なんぞ…ざる)

去 甲骨文 盍 侯馬盟書
(甲骨文)(玉器)

論語の本章では「何不」の合音字で、”なぜ~しないのか”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”覆う”初出は甲骨文。ただし字形は「去」とされる。現行字体の初出は春秋末期の玉器。ただし字形は僅かに異なり「盇」。字形は器に盛った誓約の血に蓋をしたさまで、原義は”蓋をする”。”なんぞ…せざる”の用例は、文献時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「盍」を参照。

徹(テツ)/肆*(シ)

論語の本章では”免税する”。

後漢末期の漢石経では「肆」と記し、唐石経、日本伝承の論語では「徹」と記す。漢石経が「肆」と記したのは、前漢武帝劉徹のいみ名を避けたから。つまりもとは「徹」で、論語の本章の作成時期がいつにせよ、前後の漢帝国時代は「徹」「肆」で共通する語義で解されたはず。

「徹」の原義は”取り去る”、「肆」の原義は”解放する”。課税を”取り去る・解放する”、すなわち課税を免除すること。

鄭玄
「徹」は古注の鄭玄注に「周法十一而税謂之徹徹通也為天下通法也」”周の法律では収穫の十分の一を税として取り立て、これを徹と言った。徹とは通で、天下のどこでもいつでも通用する税法であるからこう呼んだ”というが、馬融と並んで出任せばかり論語に書き付けた男の言い分を、当然真に受けるわけにはいかない。そもそも後漢儒である鄭玄が「徹」の字を解説している時点で、注そのものに偽作の疑いがある。鄭玄の死去はAD200であり、後漢は名目上はAD220まで続いた。生前の鄭玄がこんな事を書けば、武帝に対する不敬罪で頭と胴が泣き別れになっていたはずである。つまり「十分の一税」説は排除せねばならない。

ここで『春秋左氏伝』宣公十五年(BC594)、つまり孔子が生まれる半世紀ほど前の条を参照すると、以下の通り。

(経文)初稅畝。
(伝)初,稅畝,非禮也,穀出不過藉,以豐財也。

初めて畝にみつぎとる。…初めて畝に税るは、礼にあらざる也。穀出して籍を過ぎざるは、以て財を豊かにする也。

初めて畝ごとに課税した。これは礼法に従っていない。穀物の納税額が籍法を超えないのは、(民の)財産を豊かにするためである。

ここで籍法というのは、周代の理想的な税制であると孟子が言いだした井田制による、実質十分の一税を指す。井田制とは、900畝の耕地を井の字に9等分し、中心の1区画を共同耕作の公田として収穫を税収に充て、それ以外を私田として8家族に与えた、という孟子の妄想。

ただし私田一区画だけでも1.34km四方以上になる。

私田 私田 私田
私田 公田 私田
私田 私田 私田

私田を大人が手ぶらで歩いて一周するだけで、1時間強かかる。1家族だけで耕せるわけがなく、8家族がまじめに公田を耕すわけもない。

徹 甲骨文 徹 字解
(甲骨文)

「徹」の初出は甲骨文。ただし字形は「レキ」”三本足の鍋”+「又」”手”。火から鍋をおろすさま。原義は”取り去る”。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文では地名・人名に用い、金文では”統治する”に用いた。詳細は論語語釈「撤」を参照。

肆 甲骨文
(甲骨文)

「肆」の初出は甲骨文。ただし語義の異なる複数の漢語が、前漢になって「肆」の字にまとめられた漢語であり、それゆえに多語義で字形の祖型はその都度検討する必要がある。まず祭壇に祭肉を並べた字形、動物を捕らえて血抜きをする字形、頭の大きな人を解放する字形が甲骨文よりある。現行字形の祖型は”頭の大きな人”+”背後の手”で、捕らえた人を解放する様。西周の金文で”ほしいままに”の意に用いた。詳細は論語語釈「肆」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「や」と読んで疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

二(ジ)

二 甲骨文 二 字解
(甲骨文)

論語の本章では”収穫の十分の二を徴税すること”。初出は甲骨文。字形は「上」「下」字と異なり、上下同じ長さの線を引いた指事文字で、数字の”に”を示す。「ニ」は呉音。甲骨文・金文では数字の”2”の意に用いた。詳細は論語語釈「二」を参照。

数字の表記は同じ人類がすることだけに、基本的に似通っている。『Newton』誌別冊ムックによると、ゼロが発見された古代インド・グプタ朝時代の数字は、3までは漢字と同じく「一二三」と記していたという。

なお当時のインドでは「・」でゼロを表記したが、古代中国でもゼロの”種”は存在したという。

古代中国でも、ある種の方程式を算木で解くとき、係数がゼロで算木が入らない項を「無入」とよんだ。そして「無入-正数=負数」といった算木の足し算・引き算の規則をあたえている(記号であらわせば0-a=-aに相当するが「負数」は現代的な「負数」ではなく「引かれるべき算木」を指す)。しかしゼロの概念はそこから先へは発展しなかったようだ。(Newton別冊『虚数がよくわかる』)

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

猶(ユウ)

猶 甲骨文 猶 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”それでもなお”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「酉」”酒壺”+「犬」”犠牲獣のいぬ”で、「猷」は異体字。おそらく原義は祭祀の一種だったと思われる。甲骨文では国名・人名に用い、春秋時代の金文では”はかりごとをする”の意に用いた。戦国の金文では、”まるで…のようだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「猶」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”という指示詞。具体的には課税を指す。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「や」と呼んで”…ものか”。反語の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

百姓(ハクセイ)

論語の本章では”人々”→”領民”。「百」で”多くの・全ての”の意を示し、「姓」は”血統を共にする一族”。

百 甲骨文 百 字解
(甲骨文)

「百」の初出は甲骨文。「ヒャク」は呉音。字形は蚕の繭を描いた象形。「白」と区別するため、「人」形を加えたと思われる。「爪である」という郭沫若(中国漢学界のボスで、中国共産党の御用学者)の説は、でたらめばかり言う男なので信用できない。甲骨文には「白」と同形のもの、上に「一」を足したものが見られる。「白」単独で、”しろい”とともに数字の”ひゃく”を意味したと思われる。詳細は論語語釈「百」を参照。

姓 甲骨文 姓 字解
(甲骨文)

「姓」の初出は甲骨文。「ショウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「女」+「生」。甲骨文の字形には部品の配置が逆のものがある。女系の血統を意味する。甲骨文では、女性名の一部に用いた。金文では一旦この語が忘れられ、ほぼ「生」で「姓」と釈文する。復活するのは春秋時代で、末期の金文には、「姓」として見られる。詳細は論語語釈「姓」を参照。

甲骨文の時代では女系の血統を共有する一族を意味したが、西周になると王室が一族の女性を諸侯に娶らせたため、男系の一族をも意味するようになった。周王室の姓を「姫」といい、ここから高貴な女性を「姫」と呼ぶようになった。対して「氏」は、血統によらない一族で、地縁や同業が集まって出来た集団。つまり山賊でも同氏を名乗りうる。中国では「同姓不婚」と言って、姓が同じ者とは婚姻してこなかったが、氏にはこの規制が無い。

君(クン)

君 甲骨文 君 字解
「君」(甲骨文)

論語の本章では”君主”。具体的には有若が相対している哀公を指す。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「𠙵」”くち”で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。「尹」に「𠙵」を加えた字形。甲骨文の用例は欠損が多く判読しがたいが、称号の一つだったと思われる。「先秦甲金文簡牘詞彙資料庫」は、春秋末期までの用例を全て人名・官職名・称号に分類している。甲骨文での語義は明瞭でないが、おそらく”諸侯”の意で用い、金文では”重臣”、”君臨する”、戦国の金文では”諸侯”の意で用いた。また地名・人名、敬称に用いた。詳細は論語語釈「君」を参照。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”どうして…か”。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”一緒になって”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、ほぼ同文が前漢初期の陸賈『新語』弁惑2に載るが、『新語』には後世の創作説があって決着が付いていない。前漢中期の定州竹簡論語にはあるから、その頃までには論語の一章として成立していたことになる。しかし「饑」の字の論語時代における不在により、史実の哀公と有若との対話とは言えず、「饑」字の現れた戦国最末期以降の創作と判断するしか無い。

解説

論語の本章に言う饑饉は、『春秋左氏伝』哀公十四年(BC481)に見え、哀公年間唯一の饑饉の記事。だからといって、論語の本章がその時の史実を伝えるとは言えず、この饑饉について、『春秋左氏伝』=左伝の伝は、何一つ解説を書いていない。

左伝は原本の年代記『春秋』の記述とされる「経」と、左氏が付け足した「伝」からなる。他の『春秋』注釈書が至って簡単な書き込みしかしていないのに対し、左伝ははるかに多くの記事を記しているから、春秋時代の第一級史料とされる。では哀公十四年の経を見よう。

十有四年,春,西狩獲麟。小邾射以句繹來奔。夏四月,齊陳恆執其君,寘于舒州。庚戌叔還卒。五月,庚申朔,日有食之。陳宗豎出奔楚。宋向魋入于曹以叛。莒子狂卒。六月,宋向魋自曹出奔衛,宋向巢來奔。齊人弒其君壬于舒州。秋,晉趙鞅帥師伐衛,八月,辛丑,仲孫何忌卒。冬,陳宗豎自楚復入于陳,陳人殺之,陳轅買出奔楚。有星孛。饑。


哀公十四年。春、都城の西で狩りをして麒麟を捕まえた。隣国・邾の射という者が、句繹の地を手土産に亡命してきた。夏四月、斉の田氏が国公の簡公を捕らえ、舒州に幽閉した。庚戌、叔還が世を去った。五月庚申の新月の日、日食があった。陳の宗豎が、楚へ亡命した。宋の桓魋が、反乱を起こして曹に亡命した。莒の子狂が世を去った。六月、桓魋は曹から衛に移った。桓魋を討伐していた宋の向巣が亡命してきた。斉の田氏が、舒州に幽閉した簡公を殺した。秋、晋の実力者趙鞅が、兵を出して衛を攻めた。八月辛丑、孟懿子が世を去った。冬、陳の宗豎は楚から陳に戻ったが、国人に殺された。陳の轅買が楚に亡命した。ほうき星(超新星とも訳せる)が出た。饑饉があった。

この年は麒麟が捕らえられて孔子が世の中に絶望したという伝説が出来た年であり、弟子の司馬牛が宋から逃げ出して「どうしてくれるんだ」と孔子に詰め寄った(論語顔淵篇3・偽作だが亡命の記事は『左伝』に載る)年でもある。孔子の同世代の友人で、門閥家老家の一角を占めた孟懿子が世を去ってもいる。

なお何かと史実性の乏しい有若が、実は孔門の重鎮・冉有だとする訳者のバクチが当たっているなら(儒家の道統と有若の実像)、有若=冉有が税の減免を言い出すのは伝記とややそぐわない。哀公の治世は孔子の晩年で、軍隊の主力が貴族の操る戦車隊から、徴兵された庶民の歩兵隊に移りつつあった時代だった。

機械力のない古代では、金銭や農作物による納税と、労役・兵役は不可分の関係にある。古代の貴族は坊主でなければ戦士で、武具と兵糧を持参し、庶民は戦争と縁が無かった。

荘公十年(BC684)の春、斉軍が攻め寄せてきた。荘公が迎撃の軍を興すと、曹劌ソウケイが謁見を願い出た。それより少し前、曹劌は地元の村を出るときに、村人に言われた。村人「オイ、百姓のお前が、何だって普段から肉を食っているお貴族様のいくさに、口を出しに行くんだ?」曹劌「だからだよ。お貴族様は肉ばかり食っているから、頭が悪くてはかりごとが出来ない。ちょっとものを教えてやるつもりさ。」(『春秋左氏伝』荘公十年)

しかし軍の主力が徴兵された歩兵になると、政府は武具や兵糧の費用をあらかじめ徴税しておく必要が出る。庶民にとっては往復ビンタだが、冉有は時代に応じた税制改革をすべく、宰相・季孫家の執事として駆け回っていた記録が残る。

季孫家が耕地の面積で徴税しようとした。冉有を孔子の下へ使わして意見を聞いた。孔子「知らん。」

三度問い直しても黙っているので、冉有は言った。「先生は国の元老です。先生の同意を得て税制を行おうとしているのに、どうして何も仰らないのですか。」それでも孔子は黙っていた。だがおもむろに「これは内緒話だがな」と語り始めた。

「貴族の行動には、礼法の定めによって限度がある。配給の時には手厚く、動員の時はほどほどに、徴税の時は薄くと言うのがそれだ。そうするなら、従来の丘甲制で足りるはずだ。もし礼法に外れて貪欲に剥ぎ取ろうとするなら、新しい税法でもまた不足するぞ。御身と季孫家がもし法を実行したいなら、もとより我が魯には周公が定めた法がある。その通りにすれば良かろう。そうでなく、もしどうしても新税法を行いたいなら、わしの所へなぞ来なくてよろしい。」そう言って許さなかった。(『春秋左氏伝』哀公十一年)

この記事は上掲の饑饉があった三年前になる。当時の魯国が、どの程度「公地公民」だったかは分からない。だが有力貴族の属民が大勢居たことは記録されている。

子家子が昭公に言った。「季氏が政治を執るようになってから長く、困った民を食べさせているのも季氏です。彼らは季氏のためなら何でもするでしょう。日が暮れたら暴れ出して、どうなるかわかりません。民衆の怒りは貯まったままでは済みません。その怒りが発酵するほど放置して置いた今、殿への怒りが爆発し、群れを成して襲いかかりますぞ。なのに今さら季氏の討伐ですか。きっと後悔なさいます。」(『春秋左氏伝』昭公二十五年

その上で従来の丘甲制とは、通説が正しいなら、人数割りで戦車と随伴歩兵や兵糧を負担させる制度だった。言い換えるなら属民の数に応じた戦車隊を戦時に大貴族が差し出していたわけだが、その人頭税を耕地面積による財産税へと移行させようとするのが冉有の税制改革だった。この改革は冉有と孔子の対話の翌年実施された(「用田賦」『春秋左氏伝』哀公十二年)。

モンゴル語で「国」を「ウルス」といい、原義は”人々”だという。モンゴル国家の基本が領民であることの証しと胸を張るモンゴル史の専門家もいた。対して孔子の晩年、春秋諸侯国は国の基盤を領民から土地へと移した。

それまで春秋の貴族は例えば諸侯でも、家臣や領民にそっぽを向かれると地位を保てず、多くは天寿も全うできなかった(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。上掲『左伝』「きっと後悔なさいます」と言われた昭公は国外追放の末に死に、論語の本章の哀公も、やはり国外に追われて客死した。

世の中万事、人からカネやモノへ。春秋時代の末期は、そういう激動期だった。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

哀公問於有若曰年饑用不足如之何有若對曰盍徹乎註鄭𤣥曰盍者何不也周法十一而税謂之徹徹通也為天下通法也曰二吾猶不足如之何其徹也註孔安國曰二謂十二而税也對曰百姓足君孰與不足百姓不足君孰與足註孔安國曰孰誰也


本文「哀公問於有若曰年饑用不足如之何有若對曰盍徹乎」。
注釈。鄭玄「盍とは”どうしてしないのですか”の意である、周の法では十分の一税でこれを徹といった。徹とは通ることで、天下のどこでも通用する方だからそう呼んだ。」

本文「曰二吾猶不足如之何其徹也」。
注釈。孔安国「二とは十分の二税のことである。」

本文「對曰百姓足君孰與不足百姓不足君孰與足」。
注釈。孔安国「孰とは”誰が”の意である。」

新注『論語集注』

哀公問於有若曰:「年饑,用不足,如之何?」稱有若者,君臣之辭。用,謂國用。公意蓋欲加賦以足用也。有若對曰:「盍徹乎?」徹,通也,均也。周制:一夫受田百畝,而與同溝共井之人通力合作,計畝均收。大率民得其九,公取其一,故謂之徹。魯自宣公稅畝,又逐畝什取其一,則為什而取二矣。故有若請但專行徹法,欲公節用以厚民也。曰:「二,吾猶不足,如之何其徹也?」二,即所謂什二也。公以有若不喻其旨,故言此以示加賦之意。對曰:「百姓足,君孰與不足?百姓不足,君孰與足?」民富,則君不至獨貧;民貧,則君不能獨富。有若深言君民一體之意,以止公之厚斂,為人上者所宜深念也。楊氏曰:「仁政必自經界始。經界正,而後井地均、穀祿平,而軍國之需皆量是以為出焉。故一徹而百度舉矣,上下寧憂不足乎?以二猶不足而教之徹,疑若迂矣。然什一,天下之中正。多則桀,寡則貉,不可改也。後世不究其本而惟末之圖,故征斂無藝,費出無經,而上下困矣。又惡知盍徹之當務而不為迂乎?


本文「哀公問於有若曰:年饑,用不足,如之何?」
「有若」といみ名で呼び捨てにしているのは、主君との応対だからである。用とは国家歳出のことである。殿さまは多分、増税して歳出に充てようとしたのだろう。

本文「有若對曰:盍徹乎?」
徹とは通ることでり、均しくすることである。周の制度では、成人男性一人につき百畝の農地を支給し、用水路や井戸を共有する隣家と共同で耕し、収穫を一旦合算し、百畝あたりで均等に分けた。おおむね民が収穫の九割をとり、税は一割を取った。だからこの制度を「徹」と言うのである。魯の公室は宣公の時から徴税し(「初稅畝」『春秋左氏伝』宣公十五年)、さらに十分の一税を取り立てた。つまり十分の一税を二重に取ったわけである。だから有若は十分の一税一つだけにするよう請い、歳出を節約して民の生活を豊かにしようとしたのである。

本文「曰:二,吾猶不足,如之何其徹也?」
二とは、つまり十分の二税のことである。哀公は有若が自分の意向を理解しないのを理由に、増税の意向を言葉にしたのである。

本文「對曰:百姓足,君孰與不足?百姓不足,君孰與足?」
民が富めば、絶対に君主だけが一人で貧乏するはずがない。民が貧しければ、絶対に君主だけが一人で富むことは出来ない。有若は言葉の裏に君民一体の意味をもたせた。これで哀公の増税をやめさせ、人の上に立つ者が深く心得ねばならない事柄を示した。

楊時「慈悲深い政治は、土地の区切りを明らかにすることから始まる。区切り、つまり土地の分配が正されて、やっと大地主の占拠が終わって平等が実現する。徴税や支給が公平になれば、軍隊や行政の費用は、全部まかなえる。だからひとたび公平な税制が行われたら百もの成果が上がるから、身分の上下の者の誰一人、不足を心配する必要があるだろうか。十分の二を徴税しても足りないという殿さまに、公平な「徹」の実施を説いた有若は、どうにも回りくどい説教しか言っていない。そもそも十分の一税が天下の公平な税制というもので、それより多く取り立てるのは、夏の桀王のような暴君になるし、少なく取り立てるのは、蛮族に成り下がることになる。だから改めてはならない。後世の者どもは本質を追究しないで目先のことばかり追い求めるから、税を取るにも無茶になり、出費もデタラメになってしまうから、身分の上下を問わず困るのである。そんな連中には、「徹」の正当性を説くのが回りくどい説教に過ぎないことが分からないのだ。

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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