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論語詳解286顔淵篇第十二(8)棘子成曰く*

論語顔淵篇(8)要約:後世の創作。弟子一番のやり手の子貢に、隣国の家老が苦情を言います。孔子先生の弟子たちは、お作法でも文章でも、むやみやたらに格好を付け、もったいを付ける。子貢の鋭い舌が反論開始。「残念ですなぁあなたの言葉は…。」

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

𣗥子成曰君子質而巳矣何以文爲子貢曰惜乎夫子之說君子也駟不及舌文猶質也質猶文也虎豹之鞟猶犬羊之鞟

  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
  • 「猶」字:つくり〔酋〕。

校訂

武内本

清家本により、成を城に作る。說の下に之の字を補う。文末に也の字を補う。城、唐石経成に作る。說下唐石経之字なし、此本(=清家本)之字恐らくは衍。鞹、唐石経鞟に作る、釋文石経に同じく、説文此本と合す。

東洋文庫蔵清家本

𣗥子城曰君子質而已矣何以文爲矣/子貢曰惜乎夫子之說之君子也駟不及舌/文猶質也質猶文也虎豹之鞹猶犬羊之鞹也

  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

棘子城曰、「君子質而已矣、何以文爲。」子貢曰、「惜乎、夫子之說之君子也。駟不及舌。文猶質也、質猶文也。虎豹之鞹、猶犬羊之鞹也。」

復元白文(論語時代での表記)

棘 金文子 金文成 金文曰 金文 君 金文子 金文質 金文而 金文已 矣 金文矣 金文 何 金文㠯 以 金文文 金文為 金文 子 金文江 金文曰 金文 乎 金文 夫 金文子 金文之 金文兌 金文 君 金文子 金文也 金文 駟 金文不 金文及 金文舌 金文 文 金文猶 金文質 金文也 金文 質 金文猶 金文文 金文也 金文 虎 金文豹 金文之 金文革 金文 猶 金文犬 金文羊 金文之 金文革 金文

※貢→江・說→兌・鞹→革。論語の本章は「惜」の字が論語の時代に存在しない。「質」「何」「乎」「夫」「說」「也」「猶」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き」「下し

棘子成きよくしせいいはく、君子よきひとむざねありん、なんあやもつさむ。子貢しこういはく、をしかな夫子ふうしとき君子よきひとよつだてのくるましたおよばず、あやむざねのごときなりむざねあやのごときなりとらはうなめしがはいぬひつじなめしがはのごときなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

棘子成キョクシセイが言った。「君子は実質があればそれできっと(立場を)全うできてしまう。どうして言葉で飾るのか」子貢が言った。「残念です、あなたのおっしゃる君子はまことに。四頭立ての馬車でも(言ってしまった)舌に追いつきません。言葉の飾りもやはり実質のようなものです。実質もやはり言葉の飾りのようなものです。虎や豹のなめし革は、やはり犬や羊のなめし革と同じようなものです。」

意訳

貴族 ニセ子貢
棘子成「君子とは実質である。なのに儒者どもはベラベラしゃべりすぎる。」
子貢「残念ですなあ、あなたのお説は。」

「!」
「…いいですか、一旦口に出したら取り返しがつきませんぞ。言葉だってやりようによっては食や兵に化けます。食や兵も見せびらかすだけでは飾りでしかないでしょう。高価な虎や豹の皮も、毛を抜いてしまえば犬や羊の安物と見分けがつきますまい。」

従来訳

下村湖人

衛の大夫棘子成がいった。――
「君子は精神的、本質的にすぐれておれば、それでいいので、外面的、形式的な磨きなどは、どうでもいいことだ。」
すると子貢がいった。
「あなたの君子論には、遺憾ながら、ご同意出来ません。あなたのような地位の方が、そういうことを仰しゃっては、取りかえしがつかないことになりますから、ご注意をお願いいたします。いったい本質と外形とは決して別々のものではなく、外形はやがて本質であり、本質はやがて外形なのであります。早い話が、虎や豹の皮が虎や豹の皮として価値あるためには、その美しい毛がなければならないのでありまして、もしその毛をぬき去って皮だけにしましたら、犬や羊の皮とほとんどえらぶところはありますまい。君子もその通りであります。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

棘子成說:「君子品質好就可以了,何必要有文化?」子貢說:「可惜啊,您這樣理解君子,您應為說這話而後悔。文化和品質同樣重要。就象虎豹的皮革與犬羊的皮革難以分別一樣。」

中国哲学書電子化計画

棘子成が言った。「君子は人品がよければそれでよい。なぜ文化を身につける必要があるのか?」子貢が言った。「残念ですね、あなたの君子の理解は。あなたはそんなことを言ったのを、必ず後悔するでしょう。文化と人品は同様に重要です。ちょうどトラやヒョウの毛抜き革が、犬や羊と区別が出来ず同じに見えるようなものです。」

論語:語釈

棘*子成→棘子城(キョクシセイ)

論語の本章では人名。「子○」は貴族のあざ名の通例。

唐石経は「棘子成」と記し、清家本は「棘子城」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。これに従い「棘子城」と校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

「成」を「城」“城”と釈文する例は春秋末期からある(新收殷周青銅器銘文暨器影彙編NA0971)。唐石経を祖とする現伝論語と異なり、それ以前に日本に伝来した古注系論語では「城」と記す。論語の本章は定州竹簡論語に欠くので、現存最古の文字列は日本伝承の古注系論語であり、これに従って校訂した。

「棘」はそこを所領として氏族名としたのだろうが、『大漢和辞典』によると春秋時代では魯(山東省肥城県南)、斉(山東省臨淄西北)、楚(河南省永城県南)で確認出来る。ほかに「大棘」の地名が見え(『春秋左氏伝』宣公二年)、現在の河南省柘城県西北というから宋の領域と見てよい。

『春秋左氏伝』によると、孔子存命中の期間に「子城(成)」と記されたのは斉に一人(昭公十年)、楚に一人(昭公十一年)で、昭公二十年・二十一年に記された「公子成」はあきらかに宋の公族で、「棘」氏と断定できないが、「大棘」にゆかりがある人物かも知れない。

昭公十年・十一年と言えばBC532・BC531年で、二十年・二十一年はBC522・BC521になる。子貢の生年は『史記』弟子伝によるとBC520とされるから、20から30歳ほど年長の棘子城に、のちに出会うことはあり得る。ただし斉国人か楚国人か宋国人かは分からない。

鄭玄
ところが子貢没後570年過ぎた頃に生まれた後漢の鄭玄が、いつも通り古注に出任せを書き付け、「舊說云棘子城衛大夫也」”ワシぁよう知らんが昔話では衛の上級貴族だったらしいぞ”とテケトーなことを書いた。それを無慮1,800年にわたって無考えの儒者や仕事嫌いの漢学教授どもが有り難そうに担ぎ回って、自分で調べようともしない。バカがハンダ付けになるとはこういうことを言うのではなかろうか。鄭玄については馬融とともに、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

棘 甲骨文 論語 矛
(甲骨文)

「棘」の初出は一説に「国学大師」。字形は「」”とげ”2つ。唐石経・清家本ともに〔束〕二つの「𣗥」と記すが、文字史からは「棘」と正字とするのに理がある。甲骨文の用例は欠損が激しく語義を明確にしがたい。西周早期「󻇨卣」は部品か独立した字か不明だが、人名と解せる。春秋から戦国に掛けては、武器の”ほこ”を意味した。詳細は論語語釈「棘」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

成 甲骨文 成 字解
(甲骨文)

「成」の初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。

城 甲骨文 城 字解
「城」(甲骨文)

「城」の初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音。字形は「高」”物見櫓”二つ+「○」”城壁”+「成」”カマ状のほこ+斧”で、武装した都市国家のさま。原義は”まち”。春秋末期までに”まち”、また人名に用い、戦国の金文では”城壁”の意に用いた。詳細は論語語釈「城」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される”言う”を意味する語。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では、「惜」字の論語時代における不在から、「よきひと」と訓読して”地位身分のある教養人”。ただし棘子城の発言内容から、孔子世前の語義である”貴族”とも解せる。この場合の訓読は「もののふ」。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語における「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

子之說之君子也

唐石経では二回目の「之」が無く、「しのとくよきひとや」と訓読して”あなたの説く君子という者は。」清家本では「子之說之君子也」と記し、「しのときのよきひとや」と訓読して”あなたの持説がいう君子というものは。」

質(シツ)

質 金文 質 字解
(金文)

論語の本章では”中身”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”地(じ)”。初出は西周末期の金文。「シツ」(入)の音で”中身”を、「チ」(去)の音で”抵当”を意味する。字形は「斦」”斧二ふり”+「貝」”財貨”だが、字形の意味するところや原義は不明。春秋末期までの用例は、全て”つつしむ”と解釈されている。詳細は論語語釈「質」を参照。

而已矣(ジイイ)(~てやみなん)

座敷わらし 大隈重信

論語の本章では、”…だけで完結する”。訓み下しによっては三字で「のみ」と読み、強い断定の助字とし、二文字「已矣」でも「のみ」と読み下す、漢文業界の座敷わらしになっている。「而已」はもとは「而」”それで”+「已」”…し終える”の意で、「已」は論語の時代までに”終える”の意があるが、”やめる”の意は確認出来ない。

「而已」はさらに完了の意を持つ「矣」を加えて断定の意を強めた表現だが、何のことはない、アルツハイマーにかかった大隈重信が「あるんであるんである」と演説をしたのと同じのもったい付けで、前漢ごろには少なかったが、後漢の漢語になると頻繁に見られる。

複数の文字をまとめて訓読するのは、漢文を読めなかった古人の猿まねに過ぎず、十分原文の意味するところを解釈したことにはならない場合が多い。論語の本章も同様で、従って「~てやみなん」”~すればそれできっと全うできる”と訓読した。

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

「而」の初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

已 甲骨文 已 字解
(甲骨文)

「已」の初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。

矣 金文 矣 字解
(金文)

「矣」の初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章、”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

文(ブン)

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

論語の本章では”入れ墨”→”飾り”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”作る”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

子貢(シコウ)

論語 子貢 自慢

BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。

『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。

孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「貢 外字」と記す。本章はその部分が欠損しているが、おそらくその一例。

惜(セキ)

惜 篆書 惜 字解
(篆書)

論語の本章では”惜しい”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。日本語音で同音同訓の「嗇」の字は甲骨文からあるが、”惜しむ”の語義が見えるのは戦国末期の『荀子』から。字形は〔忄〕”こころ”+音符「昔」。「シャク」は呉音。”おしむ”の意で用いられた始めはいつか、実のところ分からない。詳細は論語語釈「惜」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では「かな」と読んで”…ですなあ”。詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

夫子(フウシ)

論語の本章では”あなたさま”。この語義は春秋時代では確認できない。論語の本章では棘子城を子貢が貴んで呼んだ二人称。論語では孔子を指す「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。つまり孔子以外を「夫子」と呼ぶのは、春秋時代の漢語ではない。加えて出土資料で「夫子」が確認出来るのは、戦国時代以降になる。

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

「夫」の初出は甲骨文。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

說(エツ)

説 楚系戦国文字
(楚系戦国文字)

論語の本章では”所説”。この語義は春秋時代では確認できない。君子とは実実であるべきと言う棘子城の説を指す。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原義は”言葉で解き明かす”こと。戦国時代の用例に、すでに”喜ぶ”がある。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。

也(ヤ)

唐石経は章末の「也」を記さず、清家本は記す。

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章、「說君子也」では、”…こそは”。主格の強調。ほかは「なり」と読んで”である”。断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

駟*(シ)

駟 金文 駟 字解
(金文)

論語の本章では”四頭立ての馬車”。速度の速いものの代表。初出は西周末期の金文。字形は「馬」+「四」。四頭立ての快速戦車の意。西周末期から人名、または”四頭立ての馬車”の意に用いる。詳細は論語語釈「駟」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~に達する”→”追いつく”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

舌*(セツ)

舌 甲骨文 舌 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(すでに放たれた)発言”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「水」+「丫」”二股の舌”+「𠙵」”くち”。ヘビが舌を濡らして口から出している様。「ゼツ」は呉音。甲骨文から、”した”・”告げる”の意に、殷代末期の金文では、族徽(家紋)の一部として見られる。西周の事例は、全て人名と解せる。戦国最末期「睡虎地秦簡」では”しゃべる”の意に用いた。詳細は論語語釈「舌」を参照。

猶(ユウ)

猶 甲骨文 猶 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”まるで…のようだ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「酉」”酒壺”+「犬」”犠牲獣のいぬ”で、「猷」は異体字。おそらく原義は祭祀の一種だったと思われる。甲骨文では国名・人名に用い、春秋時代の金文では”はかりごとをする”の意に用いた。戦国の金文では、”まるで…のようだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「猶」を参照。

虎(コ)

虎 甲骨文 虎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”トラ”。字形はトラの象形。詳細は論語語釈「虎」を参照。

トラはヒョウと共に毛皮の高級品とされ、周王の下賜品として見られる。猛獣だけに狩りが難しく、高価だったのだろう。

豹*(ホウ)

豹 甲骨文 豹 字解
(甲骨文)

論語の本章では猛獣の”ヒョウ”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文の字形はヒョウの象形。現行字形の原形は「豸」”頭の大きな動物”+豹紋。「ヒョウ」は呉音。甲骨文では、原義の”ヒョウ”、または人名と解せる用例がある。西周の金文では「豹皮」「豹裘」”豹の毛皮コート”の語が見られる。詳細は論語語釈「豹」を参照。

竹林豹虎図

竹林豹虎図(重要文化財)@名古屋城

中国ではヒョウはトラのメスだと思われていたらしく、中国の影響を受けて日本でも江戸時代までは、同様にヒョウはトラの妻とされ、画題として「虎豹図」が好まれた。

鞟*(カク)→鞹*(カク)

鞹 篆書 鞟 鞹 字解
(篆書)

論語の本章では”毛を抜いた動物の皮。「鞟」は「鞟」の異体字。初出は後漢の説文解字。字形は「革」”毛を抜いた動物の皮”+音符「郭」。同音は「廓」のみ。文献上の初出は論語の本章。次いで戦国最末期の『呂氏春秋』で、春秋の名宰相・管仲が捕らえられたときの”手かせ”の意に用いた。異体字「鞟」の初出は前漢初期の『韓詩外伝』。部品の「革」が論語時代の置換候補となる。また西周の金文では「虢」の字で「鞹」を意味した。詳細は論語語釈「鞹」を参照。

「皮」は動物の皮膚そのものを言い、それをタンニンなどで加工して腐ったり干からびたりしないように加工する。それがなめしで、なめして出来た皮革材料を「革」という。

犬(ケン)

犬 甲骨文 犬 字解
「犬」(甲骨文)

論語の本章では”イヌ”。初出は甲骨文。字形はいぬの姿を描いた象形で、原義は動物の”いぬ”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文では原義のほか諸侯国の名、また「多犬」は狩りの勢子を意味した。金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「犬」を参照。

犬も馬も論語の時代、主要な役畜・食用畜産動物として、牛・羊・豚・鶏と共に六畜の中に入っている。犬は猟犬・番犬としての利用の他に、さかんに食用にも供せられ、祭祀の際には天を感応させることの出来る、重要な家畜として扱われた。

ただし毛皮としては羊と並んで日用品で、高級品とはされなかった。

羊(ヨウ)

羊 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”吿朔に供える生きた羊”。初出は甲骨文。字形はヒツジの頭の象形。原義は”ひつじ”。”ひつじ”の意味では「ヨウ」と読み、「祥」”よい”の意味では「ショウ」と読む。甲骨文では原義・人名に用い、金文では原義のほか人名に、地名に用いた。詳細は論語語釈「羊」を参照。

論語の時代は周王朝だが、王室の祖先は中国西方で羊を飼っていたとの伝説があり、周代では羊はとりわけ好まれた。君主級の国賓を接待する料理を「牢」と言うが、それは牛・羊・豚の焼き肉セットだった。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は「惜」字の論語時代における不在から、おそらくは後漢近くになってからの創作。内容的にも再出は後漢末期の荀悦が編んだ『前漢紀』になる。古注では前漢儒の総体の擬人化とみられる孔安国が注を付けているが、論語の前章のように孔安国の注はそれ自体が当時に書き記されたか疑わしいので、本章が前漢時代に論語の一章として成立していた証拠にならない。また前漢中期の定州竹簡論語では、論語の本章は全く欠いている。

おそらく前後の漢帝国の交代期、論語の一章として押し込まれたと想像する。王莽あたりのしわざだろうか。

解説

訳者が本章を論語にねじ込んだ下手人を王莽と想像したについては、まるまるの空想ではない。王莽が高句麗を「下句麗」、匈奴を「降奴」と言い換えて両者の憤激を買い、国際紛争の無かった所へ黒煙を立ち上げたのは高校世界史的知識だが、言葉の他にも文=”飾り”で簒奪を誤魔化そうとする行為は対内的にも行われた。

崔發、張邯說莽曰:「德盛者文縟,宜崇其制度,宣視海內,且令萬世之後無以復加也。」


(新の地皇元年=AD20)、崔発と張邯は(ゴマをすって)王莽に説いた。「威光が盛んな者は飾りが多いものです。是非とも現在築造中の祖先祭殿の規模を大きくし、その高みから世界を見渡せるようにし、万世の後までも、これ以上造れないほどの高さに建てましょう。」(『漢書』王莽伝)

「徳盛んなる者はあやしげし」とは、”模様がなかったら、トラやヒョウの革もイヌやヒツジのそれと見分けが付かない”という、論語の本章にある子貢の主張と同じで、このほかにも実体経済に合わない古式の貨幣を世間に強要して反発を買っていた王莽政権としては、ぜひとも「文」の権威付けが必要だった。

となると論語にねじ込むに当たっても、口車の達者として知られた子貢を発言者に据えるのは都合が良いし、どこの誰とも分からない棘子城(成)はやり込められ役としても適任だった。

王莽の立てた新帝国は正統中華王朝扱いされず、今に足るまで正史が編まれていない。そもそも正史の何たるかは他稿に譲るが(論語郷党篇12余話「せいっ、シー」)、新の時代を知る史料は『漢書』王莽伝ぐらいしかない。そしてそこでの王莽は、間抜けな夢想家の暴君として描かれた。

王莽は前漢帝室の外戚だったが、決して恵まれた生まれではなかった。一歩一歩権力の階段を上り詰め、とうとう皇帝になった男である。『漢書』の言う通り王莽が間抜けな夢想家なら、前漢帝室とその朝臣はそろって王莽より劣りの間抜けな夢想家の横暴者と言うことになる。

それはおそらく事実だが、王莽がまるまるの間抜けでなかったことは即位という結果が証明している。たまたま天候不順で統治に失敗しただけとも言える。だが国を奪ったという悪評はついて回り、天下の実「質」を充たせないゆえ一層、「かざり」にすがりつく必要があったのも確かだ。

対して史実の孔子塾は、現代のまともな予備校同様、徹頭徹尾実用を教える場だったし、孔子一門は政治技術者として血統貴族の間に分け入って勢力を伸ばそうとする集団だから、「文」”かざり”に入れ込む余裕は無かった。もちろん子貢が口車で外交を成功させたように、政治の道具として実用的であれば、ためらわずに言葉を「かざ」ったが、それは手段であり目的ではない。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

棘子城曰君子質而已矣何以文為註鄭𤣥曰舊說云棘子城衛大夫也子貢曰惜乎夫子之說君子也駟不及舌註鄭𤣥曰惜乎夫子之說君子也過言一出駟馬追之不及舌也文猶質也質猶文也虎豹之鞹猶犬羊之鞹也註孔安國曰皮去毛曰鞹虎豹與犬羊別者正以毛文異耳今使文質同者何以別虎豹與犬羊耶


本文「棘子城曰君子質而已矣何以文為」。
注釈。鄭玄「古くからの言い伝えでは、棘子城は衛の家老格である。」

本文「子貢曰惜乎夫子之說君子也駟不及舌」。
注釈。鄭玄「”おしいですなあ、あなた様のお説は”の意である。君子が一旦出した間違った言葉は、四頭立ての馬車でも取り消すのに舌には追いつかないというのである。」

本文「文猶質也質猶文也虎豹之鞹猶犬羊之鞹也」。
注釈。孔安国「皮の毛を取り去ったのを鞹という。虎や豹と犬や羊とでは別物だが、それは毛が生えた状態の柄が違うからである。いま、飾りも中身も同じだとすれば、どうやって虎や豹と、犬や羊を区別できようか、というのである。」

新注『論語集注』

棘子成曰:「君子質而已矣,何以文為?」棘子成,衛大夫。疾時人文勝,故為此言。子貢曰:「惜乎!夫子之說,君子也。駟不及舌。言子成之言,乃君子之意。然言出於舌,則駟馬不能追之,又惜其失言也。文猶質也,質猶文也。虎豹之梈猶犬羊之梈。」梈,其郭反。梈,皮去毛者也。言文質等耳,不可相無。若必盡去其文而獨存其質,則君子小人無以辨矣。夫棘子成矯當時之弊,固失之過;而子貢矯子成之弊,又無本末輕重之差,胥失之矣。


本文「棘子成曰:君子質而已矣,何以文為?」
棘子成は衛の家老格である。当時の人が実質より表面ばかり飾るのに腹を立て、だからこのように言った。

本文「子貢曰:惜乎!夫子之說,君子也。駟不及舌。言子成之言,乃君子之意。然言出於舌,則駟馬不能追之,又惜其失言也。文猶質也,質猶文也。虎豹之梈猶犬羊之梈。」
梈は其-郭の反切で読む。梈は毛を取り去った動物の皮である。子貢が言ったのはこうである。言葉も修飾も等価値で、どちらか無しというわけにはいかない。もし飾りというものを全て消し去ってしまえば、君子も小人と見分けが付かなくなってしまう。棘子成は当時の風潮を改めようとしたのだが、その主張通りにすればこうした無分別が避けられない。そこで子貢は子成の間違いを正してやったが、同時に根本と枝葉、重大なものとそうでもないものの違い、それを無いことにして仕舞う結果になった。

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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