論語詳解280顔淵篇第十二(2)仲弓仁を問う°

論語顔淵篇(2)要約:人格者の弟子の仲弓。孔子先生は具体的な例を挙げて、仲弓に仁の修練法を説きます。仁とは貴族に相応しいふるまい。これを身につければ、自分もまた貴族に相応しい敬意を持って貰えると説くのでした。

このページの凡例

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

仲弓問仁。子曰、「出門如見大賓、使民如承大祭、己所不欲、勿施於人、在邦無怨、在家無怨。」仲弓曰、「雍雖不敏、請事斯語矣。」

校訂

定州竹簡論語

……不欲,勿[施]於人也a312……

  1. 也、今本無。

→仲弓問仁。子曰、「出門如見大賓、使民如承大祭、己所不欲、勿施於人也。在邦無怨、在家無怨。」仲弓曰、「雍雖不敏、請事斯語矣。」

復元白文

仲 金文弓 金文問 金文仁 甲骨文 子 金文曰 金文 出 金文門 金文如 金文見 金文大 金文賓 金文 使 金文民 金文如 金文承 金文大 金文祭 金文 己 金文所 金文不 金文谷 勿 金文論語 矢 金文於 金文人 金文 在 金文邦 金文無 金文夗 怨 金文 在 金文論語 家 金文無 金文夗 怨 金文 仲 金文弓 金文曰 金文 雍 金文雖 金文不 金文敏 金文 青 金文事 金文斯 金文語 金文已 矣金文

※仁→(甲骨文)・欲→谷・施→矢・怨→夗・請→靑・矣→已。

書き下し

仲弓ちうきうじんふ。いはく、もんでては大賓たいひんるがごとく、たみ使つかふには大祭たいさいつかうまつるがごとく、おのれほつせざるところひとほどこなかくにりてうらみかれ、いへりてうらみかれ。仲弓ちうきういはく、ようからずといへども、ふらくはことのはこととしたるを。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 冉雍 孔子
仲弓が貴族の条件を問うた。先生が言った。「門を出たら高貴な賓客を見たようにふるまい、民を使う時は大きな祭を執り行うように振る舞い、自分の求めないことを人に押し付けることがないように。国の人を怨まず怨まれず、家の人を怨まず怨まれないようにせよ。」仲弓が言った。「私は頭の回転が速くないですが、どうかこのお教えを原則にしたいです。」

意訳

冉雍が貴族の条件を問うた。

論語 孔子 キメ
孔子「一歩外を出たら、誰もが国賓だと思え。民を労役に使う時には、天罰が下りかねないと思え。いやなことを人に押し付けるな。国内でも家庭内でも、恨み怨まれることのないように。」
冉雍「私は理解力がありませんが、今のお話しを肝に銘じましょう。」

従来訳

論語 下村湖人

仲弓が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「門を出て社会の人と交る時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であるがいい。人民に義務を課する場合には、天地宋廟の神々を祭る時のように、恐懼するがいい。自分が人にされたくないことを、人に対して行ってはならない。もしそれだけのことが出来たら、国に仕えても、家にあっても、平和を楽しむことが出来るだろう。
仲弓がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

仲弓問仁。孔子說:「出門時要象會見貴賓一樣莊重,建工程時要象舉行盛大祭典一樣嚴肅。自己不願做的,不要強加於人。同事中相處融洽,親屬中和睦友愛。」仲弓說:「我雖不才,願照此辦理。」

中国哲学書電子化計画

仲弓が仁を問うた。孔子が言った。「門を出たときには貴賓と出会ったのと同様に態度を重々しくし、仕事を進めるときには大きな祭礼を執り行うのと同様におごそかにせよ。自分がされたくないことを、人に無理強いするな。仕事仲間とは互いに打ち解け、親族とはむつみ合え。」仲弓が言った。「私には才能がありませんが、この原則に従いたい。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語では、二つの意味をもっている。孔子の生前では、”貴族らしさ”。孔子没後百年の孟子が「仁義」を唱えてからは、”常時無差別の愛”。本章の場合、史実と思えるので前者。詳細は論語における仁を参照。

大賓

論語 大 金文 賓 金文
(金文)

論語の本章では、”国賓級の高貴な客”。

日本漢語では「賓客」と言ってどちらもお客だが、「賓」とは高貴な身分の客であり、「客」とはよそ者一般を意味する。そこに大が付いているから、大いに高貴なお客様、つまり”国賓”。詳細は論語語釈「賓」を参照。

『学研漢和大字典』によると「客」は会意兼形声文字で、各とは、足が四角い石につかえてとまった姿を示す会意文字。客は「宀(やね、いえ)+(音符)各」で、他人の家にしばし足がつかえてとまること。また、その人。格(つかえる木)・閣(門のとびらをとめるくい)・擱(カク)(つかえてとまる)などと同系のことば、という。

大祭

論語 大 金文 論語 祭 金文
(金文)

論語の本章では”国家級の重大な祭祀”。

日本漢語ではアキンドの大売り出しも祭りに入ってしまうが、本来は神をまつることであり、「大祭」とは国家規模で行う尊い神・国君の祖先を祀るような大祭祀を言う。論語語釈「祭」も参照。

初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はɕia(平/去)またはdia(去)で、前者の同音は鉈(ほこ・なた)・弛(ゆるむ)と施を部品とする漢字群。後者の同音は移などだが、いずれも”ほどこす”意を持ち、論語の時代に存在した文字は無い。論語時代の置換候補は、「矢」ɕi̯ər(上)。詳細は論語語釈「施」を参照。

己所不欲、勿施於人

論語 欲 金文大篆 論語 欲
「欲」(金文)

論語の本章では、”されたくないことは、人にするな”。

同じ言葉を子貢が発言した際、孔子は「お前に出来ることではない」とたしなめたという作り話がある(論語公冶長篇11)。となるとこの言葉は、孔子塾でのはやり言葉だった可能性がある。もちろん出所は孔子だろう。

論語 怨 睡虎地秦墓竹簡 論語 怨 篆書
(秦系戦国文字・篆書)

論語の本章では”うらむ”。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、同音の夗を用いて夗心と二文字で書かれた可能性がある。詳細は論語語釈「怨」を参照。

文字の上半分は土下座させられた人。下は心。『学研漢和大字典』によると、押さえつけられて晴らせない気持のこと。『字通』によると、心に憂えることがあって、祈るような心情。詳細は論語における「うらみ」を参照。

なおこの言葉は論語に頻出するが、甲骨文・金文は未発掘で、秦や楚の戦国文字に初めて見られる。その字形はかなり異なっており、出所不明の古文に至っては、「怨」とどうやって判別したのか首をかしげる。
論語 怨 楚系戦国文字 論語 怨 古文
(楚系戦国文字・古文)

不敏

論語 不 金文 論語 敏 金文
(金文)

論語の本章では、”さとくないこと”。詳細は論語語釈「敏」を参照。

論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しないが、論語の時代には「(言)青」と書いた可能性があり、こちらは論語時代の金文が存在する。また平声(カールグレン上古音dzʰi̯ĕŋ:うける)の同音に靜(静)の字がある。『大漢和辞典』によるその語釈に”はかる”があり、四声を無視すれば音通する。詳細は論語語釈「請」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章は、論語の倫理を端的に記している。「されたくないことは、人にするな」。あらゆる倫理的な言葉の中で、これほど短く本質を言い切った言葉も珍しい。その根本には、身分制度の春秋時代にあって、孔子が人と人との平等を信じたからに他ならない。

君子=貴族として特権を享受するからには、世間にその特権を説明できる背景がなければならない。その一つが戦時の従軍だが、孔子の晩年は戦術の過渡期で、徴兵された歩兵が弩(クロスボウ)を渡されて打撃戦力となる時代に入っていた。従軍だけではやましくなっていたわけだ。

戦闘以外の貴族の教養、読み書きや計算や外国語を誇ることも出来たが、人は命も懸けない他人の属性に、尊敬できるような機能を持っていない。それどころか人は、他人が得意とする技能を、くだらないものと見たがる癖がある。人は自分が他人より劣りとは思えないからだ。

これは他の霊長類での実験でもそうらしい。サルはエサの量よりも、他のサルとの差別待遇に、もの凄く怒るという。朝三暮四の故事成句もある。孔子がサルを見てそれに気付いたわけではないだろうが、人を見て気が付きはしただろう。何せ出身が社会の底辺なのだ。

宋有狙公者,愛狙,養之成群,能解狙之意;狙亦得公之心。損其家口,充狙之欲。俄而匱焉,將限其食。恐眾狙之不馴於己也,先誑之曰:「與若茅,朝三而暮四,足乎?」眾狙皆起而怒。俄而曰:「與若茅,朝四而暮三,足乎?」眾狙皆伏而喜。物之以能鄙相籠,皆猶此也。聖人以智籠群愚,亦猶狙公之以智籠眾狙也。名實不虧,使其喜怒哉!

宋に公(サルおやじ)という者がいて、サルを愛していた。一匹二匹と飼ううちに群れになり、サルの考えが分かるようになった。サルもまたおやじの心が分かるようになった。さらに趣味がつのって、家族のメシを減らしてまでサルに与えるようになった。

だがとうとう破産して、サルのエサを切り詰めなければならなくなったが、サルどもに見限られるのが嫌なので、こう切り出した。

「お前たちに与える団栗を、朝は三つ、暮れに四つとする。足りるか?」
サルどもはキーキー吠えて怒り狂った。そこですぐさま言い換えた。

「お前たちに与える団栗を、朝は四つ、暮れに三つとする。足りるか?」
サルどもは伏し拝んで喜んだ。

チエの有る者が無い者をたぶらかすのは、たいていこれとそっくりだ。聖人サマが智恵で馬鹿者どもをだましているのは、おやじがサルどもをだましたのと同じやり口である。結局貰える団栗は同じなのに、喜ばせたり怒らせたりする。(『列子』黄帝19)

※『荘子』にもほぼ同様の話がある。文末の「若實」は、『荘子』に従って「名實」と改めた。

なお論語の本章の「邦」は、定州竹簡論語の該当部分が欠けているが、おそらくは「國」(国)と書き換えられていたはず。漢の高祖劉邦の避諱(いみ名=本名を避ける)のためである。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)