論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
仲弓問仁子曰出門如見大賓使民如承大祭己所不欲勿施於人在邦無怨在家無怨仲弓曰雍雖不敏請事斯語矣
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
- 「請」字:〔青〕→〔靑〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
仲弓問仁子曰出門如見大賔使民如承大祭/己所不欲勿施於人在邦無怨在家無怨/仲弓曰雍雖不敏請事斯語矣
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……不欲,勿[施]於人也a312……
- 也、今本無。
標点文
仲弓問仁。子曰、「出門如見大賓、使民如承大祭、己所不欲、勿施於人也。在邦無怨、在家無怨。」仲弓曰、「雍雖不敏、請事斯語矣。」
復元白文(論語時代での表記)
※仁→(甲骨文)・欲→谷・施→(甲骨文)・怨→夗・請→靑。論語の本章は、「問」「如」「語」の用法に疑問がある。
書き下し
仲弓仁を問ふ。子曰く、門を出でては大き賓を見るが如くし、民を使ふには大き祭に承るが如くし、己の欲め不る所、人於施す勿れ也。邦に在りて怨無かれ、家に在りて怨無かれ。仲弓曰く、雍敏からずと雖も、請ふらくは斯の語を事とし矣を。
論語:現代日本語訳
逐語訳
仲弓が貴族の条件を問うた。先生が言った。「門を出たら(誰をも)高貴な外国使節を見たようにふるまい、民を使う時は大きな祭に(貴重な)生け贄を供えるように(大切に)取り扱い、自分の求めないことを人に押し付けることがないようにしなさいよ。国の人を怨まず怨まれず、家の人を怨まず怨まれないようにせよ。」仲弓が言った。「私は頭の回転が速くないですが、どうかこのお教えを原則にしたいです。」
意訳
冉雍が貴族の条件を問うた。
孔子「一歩外を出たら、誰もが国賓だと思え。民を労役に使う時には、天罰が下りかねないと思え。いやなことを人に押し付けるな。国内でも家庭内でも、恨み怨まれることのないように。」
冉雍「私は理解力がありませんが、今のお話しを肝に銘じましょう。」
従来訳
仲弓が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「門を出て社会の人と交る時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であるがいい。人民に義務を課する場合には、天地宋廟の神々を祭る時のように、恐懼するがいい。自分が人にされたくないことを、人に対して行ってはならない。もしそれだけのことが出来たら、国に仕えても、家にあっても、平和を楽しむことが出来るだろう。
仲弓がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
仲弓問仁。孔子說:「出門時要象會見貴賓一樣莊重,建工程時要象舉行盛大祭典一樣嚴肅。自己不願做的,不要強加於人。同事中相處融洽,親屬中和睦友愛。」仲弓說:「我雖不才,願照此辦理。」
仲弓が仁を問うた。孔子が言った。「門を出たときには貴賓と出会ったのと同様に態度を重々しくし、仕事を進めるときには大きな祭礼を執り行うのと同様におごそかにせよ。自分がされたくないことを、人に無理強いするな。仕事仲間とは互いに打ち解け、親族とはむつみ合え。」仲弓が言った。「私には才能がありませんが、この原則に従いたい。」
論語:語釈
仲 弓 問「仁」。子 曰、「出 門 如 見 大 賓、使 民 如 承 大 祭、己 所 不 欲、勿 施 於 人 也。在 邦 無 怨、在 家 無 怨。」 仲 弓 曰、「雍 雖 不 敏、請 事 斯 語 矣。」
仲弓(チュウキュウ)
孔子の弟子、孔門十哲の一人、冉雍仲弓のこと。詳細は論語の人物:冉雍仲弓を参照。『史記』弟子伝には「仲弓父,賤人」とあり、父親の身分が低かったという。ただし孔子も「吾少也賤」”私も若い頃は身分が低かった”と言った事に論語子罕篇6ではなっている。
冉耕子牛、冉求子有とともに、新興武装氏族である冉氏の一員で、父親は貴族と認められるほどの身分では無かったかもしれないが、素寒貧の出身ではない。仕官の記録がか細いことから、がめつく就職先を探さねばならないほど貧しくは無かったと思われる。孔子は「君主に据えてもよいほどだ」とその人格を賞賛した(論語雍也篇1)。
「仲」「中」(甲骨文)
「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。字形:は「丨」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。甲骨文の字形には、吹き流しを上下に一本だけ引いたものもある。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。甲骨文・金文では”兄弟の真ん中”・”次男”を意味した。論語語釈「中」も参照。詳細は論語語釈「仲」を参照。
「弓」(甲骨文)
「弓」の初出は甲骨文。字形は弓の象形。弓弦を外した字形は甲骨文からある。原義は”弓”。同音は無い。詳細は論語語釈「弓」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”(自家の)門”。初出は甲骨文。”一門の”の語義は春秋時代では確認できない。「モン」は呉音。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のように”。この語義は春秋時代では確認できない。字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
大賓(タイヒン)
論語の本章では”外国からの特命使節”。「賓」だけでも外国使節を意味するが、「大」をつけることによりその大いなる者、と解せる。
(甲骨文)
「大」の初出は甲骨文。字形は人の正面形で、原義は”成人”。甲骨文から”大きい”・”成人”の意に用いた。「ダイ」は呉音。詳細は論語語釈「大」を参照。
(甲骨文)
「賓」の初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「夫」”かんざしや冠を着けた地位ある者”で、外地より来て宿る身分ある者のさま。原義は”高位の来客”。金文では原義、”贈る”の意に用いた。詳細は論語語釈「賓」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”使う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”領民”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
承*(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”供え物を捧げる”。初出は甲骨文。字形は「卩」”かがんだ人”+「又」”手”2つ。生け贄の人を大勢で担ぎ挙げるさま。原義は”大勢でいけにえをささげる”。甲骨文の用例は語義が明瞭でない。西周の金文以降は人名のほか”うける”の意になったが、字形との関係は良く分からない。詳細は論語語釈「承」を参照。
本章では字形にまで遡らないと語義がよく分からない漢語=漢字で、殷代は盛んに人間を生け贄にしたが、周以降は嫌がられるようになった。それでも現在に至るまで、動物の生け贄は盛んに供えられている。生け贄となるのは牛・羊・豚・鶏や雁だが、ケチな供え物に怒るのは中国の神も西洋の同業と同じなので、供える者に取っては決して安い出費ではない。
つまり論語の本章の「使民如承大祭」とは、民を労役に動員して使役するに当たっても、安くはない生け贄を殺して捧げてしまうのと同じようなもったいなさを感じることで、日本で言う「百姓と油は絞れば絞るほど云々」とは全く別の感覚を説いている。
大祭(タイセイ)
論語の本章では”大規模な祖先の祭祀”。「チンチンドコドン」の”お祭り”ではない。祈願にせよ定期的な供養にせよ、中国の霊魂は供え物という具体的なブツがないと言うことを聞かないと思われていたし、不足を感じれば祟ったりした。字形は〔示〕”祭壇”の上に〔月〕”供え物の肉”を〔又〕”手”で載せるさま。「ダイサイ」は呉音。
(金文)
「祭」の初出は甲骨文。字形は「月」”肉”+「示」”位牌”+「又」”手”で、位牌に肉を供えるさま。原義は”故人を供養する”。甲骨文から春秋末期の金文まで、一貫して”祖先の祭祀”の意に用いた。中国では祖先へのお供え物として生肉などが好まれた。そのような祖先への供物を「血食」という。詳細は論語語釈「祭」を参照。
己(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”自分”。初出は甲骨文。「コ」は呉音。字形はものを束ねる縄の象形だが、甲骨文の時代から十干の六番目として用いられた。従って原義は不明。”自分”の意での用例は春秋末期の金文に確認できる。詳細は論語語釈「己」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”こと”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
欲(ヨク)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。
勿(ブツ)
(甲骨文)
論語の本章では”~するな”。初出は甲骨文。金文の字形は「三」+「刀」で、もの切り分けるさまと解せるが、その用例を確認できない。甲骨文から”無い”を意味し、西周の金文から”するな”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「勿」を参照。
施(シ/イ)
「施」(戦国時代篆書)/「𢼊」(甲骨文)
論語の本章では”作用を与える”。初出は殷代末期あるいは西周早期の金文。ただし一文字しか記されず語義が分からない。現行字体の初出は戦国秦の篆書。”ほどこす”場合の漢音は「シ」、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「セ」。”のびる”場合は漢音呉音共に「イ」。同音同義に「𢼊」(𢻱)が甲骨文から存在する。甲骨文「𢼊」の字形は”水中の蛇”+「攴」(攵)”棒を手に取って叩く”さまで、原義はおそらく”離れたところに力を及ぼす”。この語義に限り論語時代の置換候補になり得る。「施」は春秋末期までに、”のばす”・”およぼす”の意がある。詳細は論語語釈「施」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。自分以外の全ての人。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
也(ヤ)
唐石経・清家本には欠くが、現存最古の論語本である定州竹簡論語には記す。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では”…しなさいよ”。詠嘆の一種。念を押す語気を表す。「也」の初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~にいる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
邦(ホウ)
論語の本章では”くに”。現伝論語では「國」と「邦」を混用し、定州竹簡論語では「國」で統一しているが、これは漢の高祖劉邦のいみ名をを避諱したため。春秋時代の漢語としては、「國」が金文までは「域」とも記されたように、領土や地域などの場所を主に意味するのに対し、「邦」は神木と加冠した貴人の組み合わせで形成されるように、まつりごとを行う政府を持つ国家的存在を意味する。論語語釈「国」を参照。
(甲骨文)
「邦」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無くしなさい”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
怨(エン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”うらみ”。うらみのなかでも、いじめられたうらみを言う。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。「オン」は呉音。同音に「夗」とそれを部品とする漢字群など。論語時代の置換候補は「夗」。現伝の字形は秦系戦国文字からで、「夗」”うらむ”+「心」。「夗」の初出は甲骨文、字形は「夊」”あしを止める”+「人」。行きたいのを禁じられた人のさま。原義は”気分が塞がりうらむ”。初出の字形は「亼」”蓋をする”+うずくまった人で、上から押さえつけられた人のさま。詳細は論語語釈「怨」を参照。
家(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”一族”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。字形は「宀」”屋根”+〔豕〕”ぶた”で、祭殿に生け贄を供えたさま。原義は”祭殿”。甲骨文には、〔豕〕が「犬」など他の家畜になっているものがある。甲骨文では”祖先祭殿”・”家族”を意味し、金文では”王室”、”世帯”、人名に用いられた。詳細は論語語釈「家」を参照。
雍(ヨウ)
孔子の弟子、冉雍仲弓のあざ名。
(甲骨文)
「雍」の初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「囗」二つで、由来と原義は不明。同音は「雍」を部品とする漢字群、「邕」”川に囲まれたまち”、「廱」”天子の学び舎”、「癰」”できもの”。甲骨文では地名・人名に用い、金文では”ふさぐ”、”煮物”、擬声音に用い、戦国の竹簡では”ふさぐ”に用いられた。詳細は論語語釈「雍」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”ではあるが、それでも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
敏(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”素早い”→”知能が鋭い”。新字体は「敏」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭にヤギの角形のかぶり物をかぶった女性+「又」”手”で、「失」と同じく、このかぶり物をかぶった人は隷属民であるらしく、おそらくは「羌」族を指す(→論語語釈「失」・論語語釈「羌」)。原義は恐らく、「悔」と同じく”懺悔させる”。論語の時代までに、”素早い”の語義が加わった。詳細は論語語釈「敏」を参照。
請(セイ)
(戦国金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”修行する項目”。字の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では”これら”。個別のちまちました事柄だけではなく、孔子の示した精神全体を指す。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
語(ギョ)
(金文)
論語の本章では”交わされた言葉”。誰かから聞いた話。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋末期の金文。「ゴ」は呉音。字形は「言」+「吾」で、初出の字形では「吾」は「五」二つ。「音」または「言」”ことば”を互いに交わし喜ぶさま。春秋末期以前の用例は1つしかなく、「娯」”楽しむ”と解せられている。詳細は論語語釈「語」を参照。また語釈については論語子罕篇20余話「消えて無くならない」も参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”…してしまおう”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、漢語の用法には疑問点があるものの、内容的には孔子の教説と矛盾が無く、史実の孔子と冉雍仲弓の問答と解してよい。
解説
論語の本章は、論語の倫理を端的に記している。「されたくないことは、人にするな」。あらゆる倫理的な言葉の中で、これほど短く本質を言い切った言葉も珍しい。その根本には、身分制度の春秋時代にあって、孔子が人と人との平等を信じたからに他ならない。だがそれは、身分制度と矛盾しなかった。
君子=貴族として特権を享受するからには、世間にその特権を説明できる背景がなければならない。その一つが戦時の従軍だが、孔子の晩年は戦術の過渡期で、徴兵された庶民で編成された歩兵隊が、弩(クロスボウ)を渡されて主力の打撃戦力となる時代に入っていた。つまり貴族は従軍だけでは、世間に特権を説明できなくなっていた。
戦闘以外の貴族の教養、読み書きや計算や外国語を誇ることも出来たが、人は命も懸けない他人の属性に、尊敬できるような機能を持っていない。それどころか人は、他人が得意とする技能を、くだらないものと見たがる癖がある。人は自分が他人より劣りとは思えないからだ。
これは他の霊長類での実験でもそうらしい。サルはエサの量よりも、他のサルとの差別待遇に、もの凄く怒るという。朝三暮四の故事成句もある。孔子がサルを見てそれに気付いたわけではないだろうが、人を見て気が付きはしただろう。出身が社会の底辺だからだ。
宋有狙公者,愛狙,養之成群,能解狙之意;狙亦得公之心。損其家口,充狙之欲。俄而匱焉,將限其食。恐眾狙之不馴於己也,先誑之曰:「與若茅,朝三而暮四,足乎?」眾狙皆起而怒。俄而曰:「與若茅,朝四而暮三,足乎?」眾狙皆伏而喜。物之以能鄙相籠,皆猶此也。聖人以智籠群愚,亦猶狙公之以智籠眾狙也。名實不虧,使其喜怒哉!
宋に狙公(サルおやじ)という者がいて、サルを愛していた。一匹二匹と飼ううちに群れになり、サルの考えが分かるようになった。サルもまたおやじの心が分かるようになった。さらに趣味がつのって、家族のメシを減らしてまでサルに与えるようになった。
だがとうとう破産して、サルのエサを切り詰めなければならなくなったが、サルどもに見限られるのが嫌なので、こう切り出した。
「お前たちに与える団栗を、朝は三つ、暮れに四つとする。足りるか?」
サルどもはキーキー吠えて怒り狂った。そこですぐさま言い換えた。
「お前たちに与える団栗を、朝は四つ、暮れに三つとする。足りるか?」
サルどもは伏し拝んで喜んだ。
チエの有る者が無い者をたぶらかすのは、たいていこれとそっくりだ。聖人サマが智恵で馬鹿者どもをだましているのは、おやじがサルどもをだましたのと同じやり口である。結局貰える団栗は同じなのに、喜ばせたり怒らせたりする。(『列子』黄帝19)
※文末の「若實」は、『荘子』に従って「名實」と改めた。『荘子』にもほぼ同様の話がある。その現代語訳は論語微子篇13付記に掲載
社会変動に伴い、それまでの血統貴族には、政治が手に負えなくなった時代、それが孔子の現れた春秋後半の世の中だった。孔子塾生はほぼ全員が庶民の出であり、孔子から為政者に相応しい技能教養を身につけて春秋の世に出ていった。主要弟子のほとんどは仕官している。
仕官を認めたのは門閥で、儒者や漢学教授がデタラメに言うように、孔子は門閥と対立したわけでは無い。そもそも孔子が社会の底辺から宰相格に成り上がれたのは、門閥の後押し無しではありえなかったことだ。孔子が亡命を決意したのも、「男女が道を分け」なければならないほど陰険な支配をやらかして、魯国の朝野にこぞって嫌われたからであり、門閥はとりたてて孔子を追い出すようなことはしなかった。だから例えば、孔門の重鎮である冉有は宰相家の執事の職に止まっている。
それでもなお孔子が革命家であり得たのは、血統を問わず有能な人材を政界官界に差し向けられたからで、だからこそ既存の身分制度を否定する理由がなかった。能力によって仕官し授爵し受封できるなら、それでかまわなかったからである。例えば庶民出身の弟子の子路は、衛国で蒲邑の領主に収まっている。
ところが論語の本章の対話相手である冉雍仲弓は、どうやら仕官しなかったか、してもだいぶん遅れたらしい。冉雍の仕官を最初に記したのは、南北朝時代に書かれた『後漢書』で、あまり信用できる話ではない。しかし孔子はその人格を、高く評価した(論語雍也篇6)。
多分冉雍は、仕官しなかったのだろう。だが出身氏族は冉氏という、当時新興の武装集団でもある。戦時には魯の宰相家に戦士団を提供するなど、決して弱小氏族ではない(「孔門十哲の謎」参照)。孔子が塾で教習用に用いた戦車も、もちろん高価ゆえに、提供したとするなら冉氏一族がふさわしい。
その長老冉耕伯牛は、氏族の優れた若者として冉雍を孔子に預けたと見える。言い換えるなら冉雍は仕官して俸禄を得るのにやっきになるより、貴族らしい貴族になる修養を望んだお坊ちゃんだった。だからこその論語の本章の教えと理解出来る。
貴族の具体的な技能を教える話ではないものの、貴族らしい心構えは敬意と思いやり、そして誰とも恨む関係を作らないことだと教えたわけだ。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
仲弓問仁子曰出門如見大賓使民如承大祭註孔安國曰為仁之道莫尚乎敬也己所不欲勿施於人在邦無怨在家無怨註苞氏曰在邦為諸侯也在家為卿大夫也仲弓曰雍雖不敏請事斯語矣
本文「仲弓問仁子曰出門如見大賓使民如承大祭」。
注釈。孔安国「仁を実践するには、敬いの心を貴ぶよりほかにない。」
本文「己所不欲勿施於人在邦無怨在家無怨」。
注釈。包咸「在邦とは諸侯に対して、在家とは卿大夫に対して、の意である。」
本文「仲弓曰雍雖不敏請事斯語矣」。
包咸の注に釣られると、論語の本章の意味が分からない。「一歩うちを出たら誰をも尊重しろ」と教えを説き始めたからには、「自国での恨みをなくせ」「家での…」の教えは、同僚や同国人とも、家族や一族とも、恨みを残すようなことをしてはいけないという教えで、「諸侯やお偉方を怒らせるな」という役人根性ではない。
新注『論語集注』
仲弓問仁。子曰:「出門如見大賓,使民如承大祭。己所不欲,勿施於人。在邦無怨,在家無怨。」仲弓曰:「雍雖不敏,請事斯語矣。」敬以持己,恕以及物,則私意無所容而心德全矣。內外無怨,亦以其效言之,使以自考也。程子曰:「孔子言仁,只說出門如見大賓,使民如承大祭。看其氣象,便須心廣體胖,動容周旋中禮。惟謹獨,便是守之之法。」或問:「出門使民之時,如此可也;未出門使民之時,如之何?」曰:「此儼若思時也,有諸中而後見於外。觀其出門使民之時,其敬如此,則前乎此者敬可知矣。非因出門使民,然後有此敬也。」愚按:克己復禮,乾道也;主敬行恕,坤道也。顏、冉之學,其高下淺深,於此可見。然學者誠能從事於敬恕之間而有得焉,亦將無己之可克矣。
本文「仲弓問仁。子曰:出門如見大賓,使民如承大祭。己所不欲,勿施於人。在邦無怨,在家無怨。仲弓曰:雍雖不敏,請事斯語矣。」
敬意は自分を気高くし、思いやりは他者に及ぼすものだ。だから我欲は心の徳を完璧に仕上げるのには全く関わる余地がない。内外共に恨みを残すようなことが無く、そのようなことが無いように発言するには、自分で気を付ければ十分だ。
程頤「孔子は仁を説くにあたって、ただ門を出たら誰にも敬意を払い、民を使うには大規模な祭祀を執り行うように行えと教えた。そのように諭した精神はと言えば、必ず心はおおらかで体にもコリが無く、顔つきや立ち居振る舞いに片寄りが無かったことだろう。」
ある人「門を出て民を使役するときは、論語の本章の教えのようにすればいいでしょう。でも門内にいたまま民を使役するには、どうすればいいですか?」
程頤「これは厳かに事を考えたときに示された教えだ。それを理解してから行動すればいい。門を出て使役するときの心構えは敬意を払うこと、ここに書いてあるとおりだが、だからこそ門を出る前に、敬意の何たるかを知っておくことが出来る。門を出ないで使役しようとも、この教えの通り敬意を払えばよい。」
愚か者であるわたし朱子が考えるに、克己復礼(論語顔淵篇1)は天の常道である。敬意を払い思いやるのは地の常道である。顔淵や冉雍の学問の境地には、高下や深浅の違いがあったのがここから分かる。だから儒学を学ぶ者は、誠心誠意敬意と思いやりに気を付けて、そうするうちに会得するものがある。つまり自分を空しくして我欲に勝つのが肝心なのだ。
程頤は愚劣揃いの宋儒の中でも、確信犯的に頭のおかしな男で、科挙に受かる前から皇帝に説教文を送りつけたので、精神的病人だとみなされて不合格処分になった。だがなぜか同時代の儒者や後世の朱子などに人気が高いのだが、宋儒らしい空しい空威張りばかり言う男だった。論語の本章に書き付けられた問答を見て、その人格や脳みその下らなさを思うべきである。なお、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」も参照。
余話
(思案中)
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