PRあり

論語詳解302顔淵篇第十二(24)曽子曰く君子°

論語顔淵篇(24)要約:ほぼ後世の創作。君子たる者、文化的教養を磨いて同好の士と交わり、互いに切磋琢磨して仁義の実践に努めよう。言い出したのは弟子でもない曽子で、史実の春秋の君子は、いくさに忙しくてそんな暇はありません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

曽子曰君子以文會友以友輔仁

  • 「曽」字:〔八田日〕。

校訂

東洋文庫蔵清家本

曽子曰君子以文會友/以友輔仁

  • 「曽」字:〔八田日〕。
  • 「友」字:〔友丶〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

曾子曰:「君320……

標点文

曾子曰、「君子以文會友、以友輔仁。」

復元白文(論語時代での表記)

曽 金文子 金文曰 金文 君 金文子 金文㠯 以 金文文 金文会 金文友 金文 㠯 以 金文友 金文輔 金文仁 甲骨文

※仁→(甲骨文)。論語の本章の語り手・曽子は、孔子の弟子ではなく儒者でもない。春秋時代の「仁」は戦士を兼ねる貴族を意味し、「文」で集まっても「仁」らしさを高める助けにならない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

曾子そうしいはく、君子もののふふみもちゐともあつめ、とももちゐなさけたすく。

論語:現代日本語訳

逐語訳

曽子
曽子が言った。「君子は文化的趣味で友人を集め、友人と交わる事で常時無差別の愛(仁)を養成する。」

意訳

曽子
曽子「君子は高尚な趣味で集い、そのような友と付き合う事で世間に仁を広める。」

従来訳

下村湖人

曾先生がいわれた。――
「君子は、教養を中心にして友人と相会し、友情によって仁をたすけあうものである。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

曾子說:「君子以知識結交朋友,以朋友輔助仁義。」

中国哲学書電子化計画

曽子が言った。「君子は知識で友人を集め、その友人とともに仁義が流行るようなことをする。」

論語:語釈

、「 。」


曾子(ソウシ)

新字体は「曽子」。後世、孔子晩年の高弟とされた人物。その実は孔子家の家事使用人。「○子」との呼び名は、孔子のような学派の開祖や、大貴族に用いる。孔子は論語先進篇17で、曽子を”ウスノロ”と評している。詳細は論語泰伯編3の語釈、また論語の人物・曽参子輿を参照。

曽 甲骨文 曽 語釈
(甲骨文)

「曾」(曽)の初出は甲骨文。旧字体が「曾」だが、唐石経・清家本ともに「曽」またはそれに近い字体で記している。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「ショウ」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では”身分ある教養人”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

文(ブン)

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

論語の本章では「武」に対する「文」で、”学問芸術一般”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

會(カイ)

会 甲骨文 会 語釈
(甲骨文)

論語の本章では”会う”。同好の士が集まること。初出は甲骨文。字形は「亼」”ふた”+「四」+「𠙵」で、「四」「𠙵」の由来は不明ながら、全体として蓋を容器にあわせるさま。原義は”合う”。甲骨文では”会合させる”、西周の金文では人名・地名の例が複数見られる。春秋末期の金文では”あわせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「会」を参照。

友(ユウ)

友 甲骨文 友 字解
「友」(甲骨文)

論語の本章では”同好の士”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。

輔*(フ)

輔 金文 輔 字解
(金文)

論語の本章では”盛んになるよう手助けする”。論語では本章のみに登場。上古音で同音の「扶」は殷代からあり、その字形は「人」+「又」”手”で、人を手助けすること。

「輔」の初出は西周中期の金文。字形は「車」+「又」”手”+「用」”桶”。車軸に注ぐ油を手に取って車を整備するさまか。”車を補強するそえぎ”の語義は、『春秋左氏伝』に見え、次いで後漢初期の『漢書』、同じく後漢の『釈名』に見えるが、いずれも物証としてはいつまで遡れるか不明で、おそらく後漢になってからの漢語と思われる。同音に「扶」「夫」「父」「釜」など。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「ブ」、「ホ」は慣用音。西周の金文から”補佐(官)”の意に用いた。詳細は論語語釈「輔」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”常にあわれみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は文字史的に全て論語の時代に遡れるから、史実の曽子の言葉として扱ってもよさそうなものだが、500章以上もある論語の中で、孔子と曽子の対話は1章のみ、しかも曽子は「」と一言言ったのみで、加えてその章は偽作である(論語里仁篇15)。

曽子と言えば孔子の教説のうち、親孝行の道を最もよく受け継いで『孝経』を記した重要な直弟子、だったと後世の儒者は言いふらしたが、弟子ではないから孔子との問答が記録されなかった。実在の人物だったにせよ、せいぜい孔子家の家事使用人に過ぎない。論語の人物:曾参子輿を参照。

また論語の本章は、孔子の教説とはまるで懸け離れている。孔子が弟子に六芸を教えたのは、貴族らしい技能教養を身につけてやり、仕官させるためだった。そして春秋の貴族は社会に自分の特権を説明するために、必ず戦時に従軍したから、「文で合う」ようなお花畑でいられたわけがない(論語における「君子」)。

これは論語の本章の、「輔」の用法からも説明できる。春秋末期までの用例では、「輔」は”補佐(する)”・”補佐官”の意のみで、補佐する対象は主君など人間や天という具体的存在であり、業務や教養などの形の無い状態ではない。これは上古音で同音で、かつ殷代から存在する「扶」の字が、「夫」”成人した男性貴族”に手を貸す形であることからも言える(甲金文では、人一般は横向きに「人」と描き、正面形である「大」系統の漢字は貴人に限られる。詳細は論語語釈「大」論語語釈「人」を参照)。

扶 金文
「扶」父辛卣・殷代末期

そして当時の「仁」は”武装した貴族”に他ならなかった。つまり春秋の漢語なら、「輔仁」は”貴族を補佐すること”としか解しようがないが、脳みそにメルヘンをこじらせた連中がいくら集まろうとも、戦場では役立たずで政争ではいらんことしいで、外交では背伸びしてしくじるのがせいぜいだろう。とうてい「輔仁」などできそうにない。

孔子没後一世紀、儒家は消滅同然になっていたが、そこで生まれたのが孟子で、孟子は自分の情報商材に儒家を選び、戦国諸国に売り歩いた。すでに戦争は徴兵され歩兵による集団戦へと切り替わっており、孟子自身もひょろひょろで、喧嘩一つ出来ない男だったらしい。

今有同室之人鬬者,救之,雖被髮纓冠而救之,可也。鄉鄰有鬬者,被髮纓冠而往救之,則惑也,雖閉戶可也。

孟子
孟子が申しました。「…同居人が急に誰かと喧嘩することになって、とっさにその助太刀でざんばら髪になって立ち回るのは、まあ行きがかり上しょうがない。だが近所の者が喧嘩するからと言って、同じ様な立ち回りをするのは、血迷ったと言うべきだ。玄関をぴっちり閉じて、知らんふりをしなさい。」(『孟子』離婁下57)

孟子の主張した「仁義」の範疇に、普段お世話になっているご近所さんの助太刀は入らないようである。だから孟子は儒教を売りに出すに当たって、自分が正統な売人であることを強調するために「曽子先生の学派を引き継いだ」と言い(論語解説「儒家の道統と有若の実像」)、孔子塾の必須科目だった六芸から、武道体育系の科目をすっぽり切り落として、ただの文化的教養や道徳的お説教に仕立てた。

とんでもない世間師だが、その代わり庶民をしいたげないなどの人道主義を強調したから、存外後世の儒者に好かれて現在に至る。庶民にも好かれたであろう。孟子も人間ですからね、嘘もついたしでっち上げもしたが、よいこともまた、言ったのだった。

解説

論語の本章、新古の注は次の通り。メルヘンが集まって高まり合うなど、いくら「曽子がそうしました」といわれても、儒者は「キモいから口にするのもイヤ」だったらしい。

古注『論語集解義疏』

曽子曰君子以文㑹友註孔安國曰友以文徳合也以友輔仁註孔安國曰友有相切磋之道所以輔成己之仁也


本文「曽子曰君子以文㑹友」。
注釈。孔安国「友とは文化的教養でその深さが近しい者をいう。」

本文「以友輔仁」。
注釈。孔安国「友というものは、互いに切磋琢磨しあうものだ(論語学而篇15)。それが自分の仁義を修養する助けになる。」

孔安国は高祖劉邦のいみ名を避諱しないなど、実在の人物とは思えない。時期的には司馬遷や董仲舒と同時代人とされるが、その注があったからと言って、論語の本章が前漢中期に成立していた証拠にはならない。ただし幸いにも(?)論語の本章は前漢宣帝期の定州竹簡論語に残簡があるので、それまでには成立したことが分かる。

おそらく孔安国は、後漢儒や古注の「集解」を編んだ三国魏の何晏の手によって、前漢儒の総体として擬人化された人物だろう。

古注はおおむね前後の漢帝国の儒者による注釈をまとめたもので、僅かに王粛や何晏など三国初期の人物による書き込みがある。これに南北朝・梁にいたるまでの付け足し「疏」が書き加わって現伝の古注『論語集解義疏』が成立したわけだが、前後の漢儒は本章について、何ら興味を抱かなかった可能性がある。

というのは古注の「注」には、「そんなこと分かりきってるだろ」といいたくなる下らない注釈が少なくないからで、後漢が滅ぶまで全く注無しだった可能性がある。全く無しでは注釈書として格好が付かないので、何晏が勝手な注をこしらえて、孔安国の名で書き込んだ形跡が古注にはちらほらある。

つまり論語の本章の、「君子は文化的教養でつるんでそれで互いに仁義を磨く」という話を聞いて、漢儒は「どうでもいい話だろが」と価値を認めなかったのだ。ただし前漢の劉向は、論語の本章の風味をやや臭わせながら、まるで法政大学の校歌のようなことを書いている。

賢師良友在其側,詩書禮樂陳於前,棄而為不善者,鮮矣。義士不欺心,仁人不害生;謀泄則無功,計不設則事不成;賢士不事所非,不非所事;愚者行間而益固,鄙人飾詐而益野;聲無細而不聞,行無隱而不明;至神無不化也,至賢無不移也。上不信,下不忠,上下不和,雖安必危。求以其道則無不得,為以其時則無不成。

劉向
偉い先生と性根のいい友達が側にいて、学ぶべき儒教の経典が目の前に並んでいる。ここまで環境が整っていれば、勉強に見向きもしない者はまれだ。正義の人は人をだまさず、愛の人は生き物をいじめない。

計画が漏れたら成功せず、計画が不十分でも成功しない。賢者は悪いことをしない。仕事に励むのを厭わない。愚人は暇を持て余してますます馬鹿になり、田舎者は人をだましてますます下卑てくる。音は隠そうとも聞こえるし、行いは隠しきることは出来ない。

偉い人に学べば性根がよくなるし、賢い人に学べば欠点は消える。権力者がウソばかり付けば、しもじもは言うことを聞かない。こんなままでは、無事に見えても安全とは言えない。この世の原則を追い求めれば、分からないなどということはない。いつかきっと分かる日が来る。(『説苑』談叢12)

こんなしおらしいことを書いた劉向だが、当人は結構うさんくさい人物で、王族に生まれたことから前漢中興の祖・宣帝に仕えたが、怪しい𠂊ス刂作りに熱を上げたので、現実主義者の宣帝は即座にクビにした。のちゆるされて官途に戻ったが、性根が治ったと言えるかどうか。

劉向
『説苑』のこの章がいつ頃書かれたかは分からないが、晩年は不遇で隠居同然だったと言うから、少しはものが見えたかも知れないが、環境が整っても一向に学ばない者の方が多い、という事実を無視して、お説教を垂れている。やはりお坊ちゃん育ちは生涯治らなかったようだ。

時代が下って新注は次の通り。

新注『論語集注』

曾子曰:「君子以文會友,以友輔仁。」講學以會友,則道益明;取善以輔仁,則德日進。


本文「曾子曰:君子以文會友,以友輔仁。」
儒学を講釈するからという名目で同好の士を集め、そうすると儒教道徳はますますはっきりと理解出来る。交わされた議論の中で良いものを選び、それで仁義の修養の助けとする。そうすれば道徳は日に日に高まる。

漢儒も宋儒も偽善が大好きで、加えて宋儒は自分を棚に上げ他人に道徳を押し付けるのが大好きだった(論語学而篇7余話「塩漬けニシン」)。従って「仁義」と聞けば、夏場の剥いた果物に小バエがたかるように、よってたかってどうでもいいウンチクを垂れるのが通例なのに、やはり本章には興味を引かれなかったらしい。曽子がそうしましたと書いてあってもそうしたくなかったのだ。

さて論語の本章についてはもう一つ、言えることがある。それは定州竹簡論語が現伝論語と同じく「曾子曰」で始まりながら、現代中国の編者が「•」記号を「曾」の字の上につけなかったということは、本章が簡を改行した行頭から始まっていないことを意味する。

これはどういうことか? あるいは論語の本章は、子貢が「友」を問うた前章についての、曽子による注釈と漢代中期には思われていたふしがあると言うことだ。つまり本章は論語の本文ではなく、あくまでも注で、漢代中期の儒学界では、曽子はあるいは子貢や子張や有子といった直弟子とは違い、論語に本文として言葉が載せられるような偉い人物と思われていなかったことになる。

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇おわり

お疲れ様でした。

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました