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論語詳解284顔淵篇第十二(6)子張明を問う*

論語顔淵篇(6)要約:後世の創作。出る杭は打たれるのが政界のならい、古代中国でも同じでした。まず当人の気付かぬうちにまわりに悪評が広まり、最後には名指しで悪口を言われて失脚します。仁義無き政界の生き残り法を、孔子先生に言わせた作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子張問明子曰浸潤之譖膚受之愬不行焉可謂明也巳矣浸潤之譖膚受之愬不行焉可謂逺也巳矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

子張問明子曰浸潤之譛膚受之愬不行焉可謂明也已矣/浸潤之譛膚受之愬不行焉可謂逺也已矣

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子張問明。子曰、「浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文大篆問 金文明 金文 子 金文曰 金文 浸潤之 金文譖 金文 膚 金文受 金文之 金文 不 金文行 金文 可 金文謂 金文明 金文也 金文已 矣 金文矣 金文 之 金文譖 金文 膚 金文受 金文之 金文 不 金文行 金文 可 金文謂 金文遠 金文也 金文已 矣 金文矣 金文

※張→(金文大篆)。論語の本章は「浸」「焉」の字が論語の時代に存在しない。「問」「明」「譖」「膚」「也」の用法に疑問がある。本章は前漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

子張しちやうあかきをふ。いはく、ひたみちそしりはだくるうつたへらば、あかしと已矣のみひたみちそしりはだくるうつたへらば、とほしと已矣のみ

論語:現代日本語訳

逐語訳

子張 孔子
子張が曇りのない洞察力(明)を問うた。先生が言った。「じわじわとしみ渡るような悪口、肌身に感じる苦情がなければ、ものがよく見えると言えるだろう。じわじわとしみ渡るような悪口、肌身に感じる苦情がなければ、遠くをよく見つめると言えるだろう。」

意訳

子張 人形 孔子 人形
子張「よくものが見える人とはどういう人ですか。」
孔子「気付かぬうちにまき散らされる自分の悪評、その仕上げに面と向かって言われるような悪口を、どちらも事前に起きないように丸め込んでしまえるやり手のことだな。」

子張「なぜです?」

孔子 かゆい
孔子「あのな、自分が権力者になったのをいい事に、聞き手の気分を思いやらず、先々を見通さないで好き勝手ばかりしているから、嫌われ妬まれ揚げ足を取られて、わんわんと大勢の蚊にたかられて逃げ出すような目に遭うんじゃないか。」

従来訳

下村湖人

子張が明察ということについてたずねた。先師はこたえられた。――
「水がしみこむようにじりじりと人をそしる言葉や、傷口にさわるように、するどくうったえて来る言葉には、とかく人は動かされがちなものだが、そういう言葉にうかうかと乗らなくなったら、その人は明察だといえるだろう。いや、明察どころではない、達見の人といってもいいだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張問明。孔子說:「暗中謠言、惡毒誹謗,傳到你這裏就行不通了,就算英明瞭,就算看得遠了。」

中国哲学書電子化計画

子張が明を問うた。孔子が言った。「陰でのデマ、陰険な悪口、それらがお前に聞こえてくるうちはよくものが見えない。もしものの道理が分かっているなら、遠くまで見える。」

論語:語釈

子張

論語 子張

孔子の弟子。「何事もやりすぎ」と評された。張の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞なので論語の本章を偽作と断定できない。詳細は論語の人物・子張参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

張 楚系戦国文字 張 字解
(楚系戦国文字)

「張」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、同音近音のあらゆる漢語が置換候補になり得る。字形は「弓」+「長」で、弓に長い弦を張るさま。原義は”張る”。「戦国の金文に氏族名で用いた例がある。論語語釈「張」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

明(メイ)

明 甲骨文 明
「明」(甲骨文)

論語の本章では、”はっきりと分かる方法”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は太陽と月の組み合わせ。原義は”明るい”。呉音(遣隋使・遣唐使より前に日本に伝わった音)は「ミョウ」、「ミン」は唐音(遣唐使廃止から江戸末期までに伝わった音)。甲骨文では原義で、また”光”の意に用いた。金文では”清める”、”厳格に従う”、戦国の金文では”はっきりしている”、”あきらかにする”の意に用いた。戦国の竹簡では”顕彰する”、”選別する”、”よく知る”の意に用いた。詳細は論語語釈「明」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

 

浸*(シン)

浸 金文 浸 字解
(戦国金文)

論語の本章では”ひたひたと水に浸かるような”。「浸」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文だが西周に一旦絶え、再出は戦国文字からで、一旦消滅した漢語と見た方がいい。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。甲骨文の字形は「𡨦」で、「宀」”屋根”+”水”+”箒”。雨漏りの様。楚系戦国文字の字形は多様で、現行字形は秦系戦国文字から。「漢語多功能字庫」は河川名または地名とする。同音は「祲」(平/去)”災いを起こす気”「綅」(平)”いと”。甲骨文の用例は一件のみで、損傷が激しく語義を確定しがたい。戦国の竹簡で”おかす=不都合を押し付ける”と解せる。詳細は論語語釈「浸」を参照。

潤*(ジュン)

潤 隷書 潤 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”水のように染み渡る”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「氵」+「閏」”はみ出る”。「閏」の初出は戦国時代。文献上の初出は論語の本章。戦国早期の『墨子』、中期の『孟子』『荘子』、末期の『荀子』『韓非子』にも、ともに”濡れる・濡らす”・”潤う”として見られる。詳細は論語語釈「潤」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
「之」(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

譖*(シン)

譖 金文 譖 字解
(金文)

論語の本章では”悪意のあるウソ”。人を落とし入れるための悪口のこと。論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。ただし何を言っているか分からない。字形は「言」+「朁」”けもの2つ+𠙵”。原義不明。「清華大学蔵戦国竹簡」に「又(有)賞罰,善人則由,朁(譖)民則伓(背)。」とあり、”ウソをつく”と解せる。詳細は論語語釈「譖」を参照。

浸潤之譖(シンジュンのそしり)

論語の本章では、政界官界で当人が気付かない間に、周囲にまき散らされて定着してしまった悪評。その後はたいてい地位を失い、悪くすると処刑された。「浸」は「浸水」というように、ひたひたと広範囲に広がること。「潤」は”うるおう”というより”濡れる”で、「浸潤」はどこを見てもすっかり濡れて染まりきってしまうこと。論語の本章が創作された前漢朝廷の雰囲気をよく伝える語。

漢代の漢語として「譖」をいくつか挙げる。

專權擅政,薄國威德,反以怠惡,譖其賢臣,劫惑其君。


(孔子の上司であった宰相家の季孫家を悪党に仕立てて董仲舒が言った。)権力を独占して政治を勝手に行い、殿さまと国をバカにし、役立たずの悪党ばかり出世させ、政界の賢臣の悪口を言い、殿さまを軽んじて途方に暮れさせた。(『春秋繁露』五行相勝)

衛靈公問孔子:「居魯得祿幾何?」對曰:「奉粟六萬。」衛人亦致粟六萬。居頃之,或孔子於衛靈公。靈公使公孫余假一出一入。孔子恐獲罪焉,居十月,去衛。


衛霊公が(亡命してきた)孔子に「魯ではどれぐらい俸禄を受け取っていた?」孔子「アワ六万です。」衛の者もアワ六万を孔子に寄こした。そうしてしばらくした頃、ある者が衛霊公に孔子の悪口を言った。霊公は家臣の公孫余に、孔子の滞在先で人の出入りを一々見晴らせた。孔子は罪をかぶせられるのを恐れて、十ヶ月居ただけで衛を離れた。(『史記』孔子世家)

永斗筲之材,質薄學朽,無一日之雅,左右之介,將軍說其狂言,擢之皂衣之吏,廁之爭臣之末,不聽浸潤之譖,不食膚受之愬,雖齊桓晉文用士篤密,察父悊兄覆育子弟,誠無以加!


(前漢末期、谷永は外戚の権勢家だった大将軍王鳳に取り入って、光禄大夫(政務議官)にまで出世した、お返しに王鳳のゴマをすった上奏文を出した。)谷永めは小役人の才しかなく、人間は不出来で学問もでたらめで、ただの一日も居住まいを正せず、皇帝陛下の側近など務まりませんのに、王将軍はやつがれのデタラメを諭し、下働きをしておりましたやつがれを抜擢し、政務議官の末席に加え、やつがれの周囲に広がった悪評を聞かず、やつがれの耳に入る悪評も取り挙げません。覇者として名を挙げた斉の桓公や晋の文公は、家臣を信頼して政治を預けただけでしたが、王将軍は父に孝行し年長者を敬い、年少者はねんごろに教育するまでなさっている。まことに、何一つつけ加えるべき点の無い最高の人格です。(『漢書』谷永伝)

全て「政敵を落とし入れるために言い回る悪評」と解せる。

膚*(フ)

膚 甲骨文 膚 金文
合集41866.1/引尊・西周早期或中期

論語の本章では”素肌で”。初出は一説に甲骨文。現行字形の初出は西周の金文。甲骨文に比定されている字形は、「酉」”さかつぼ”+「火」に見える。金文の字形は「虍」”虎の頭”+「月」”にく”。語義不明。春秋末期までの用例は、人名と思われるもののほかは語義がよく分からず、明確に”はだ”の意が確認出来るのは戦国時代から。詳細は論語語釈「膚」を参照。

受(シュウ)

受 授 甲骨文 受 字解
(甲骨文)

論語の本章では”受ける”。初出は甲骨文。初出の字形は上下対になった「又」”手”の間に「舟」。「舟」の意味するところは不明だが、何かを受け渡しするさま。甲骨文の「舟」は”ふね”ではなく国名。”ふね”と釈文される「舟」の甲骨文は存在するが明らかに字形が違い、ほとんど現行の「舟」字に近い。論語の時代、「授」と書き分けられていない。「ジュ」は慣用音、呉音は「ズ」。春秋末期までに、”受け取る”・”渡す”の意に用いた。詳細は論語語釈「受」を参照。

愬(ソ)

愬 隷書 愬 字解
(隷書)

論語の本章では”苦情を言い立てる”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「訴」は同音同調異体字。字形は「朔」+「心」で、原義は不明。呉音は「ス」。熟語「愬愬」”ぎくりと驚く”の漢音は「サク」、呉音は「シャク」で去声となる。その同音同調に「泝」”さかのぼる”。文献上の初出は論語の本章。次いで戦国中期の『孟子』、戦国末期の『荀子』『韓非子』。異体字の「訴」は戦国時代を通じて編まれた『列子』に見えるが、いつ記されたのか分からない。墨家・道家・法家の書に見えないから、前漢になって現れた字と見るのが理にかなう。詳細は論語語釈「愬」を参照。

膚受之愬(フジュのうったえ)

論語の本章では、ついに当人にも聞こえるようになった悪評。人を落とし入れるにはまず周囲に悪評を定着させ、当人が気付いたときにはすっかり悪評が定着しきってどうにもならなくなる。これも前漢朝廷の雰囲気をよく伝える言葉。

「膚受之愬」は「浸潤之譖」が単に形容詞2つ+「之譖」で意味が取りやすいのに対し、関係代名詞を理解出来る程度の中学生程度の脳みそが無いとわけが分からない。「膚受」はSV関係で”肌が受ける”、全体で”肌が受けるの訴え”→”当人自身が関知できる訴え”の意。

なお先秦両漢で「膚受之愬」の用例は、上掲『漢書』谷永伝のほかは一例しか無い。

今陛下承明繼成,委任公卿,群臣連與成朋,非毀宗室,膚受之愬,日騁於廷,惡吏廢法立威,主恩不及下究。


(前漢武帝の娘、蓋長公主が、重臣の霍光の悪口を武帝に告げ口した。)今陛下は漢帝国の威光を受け継ぎ保ち、政治を重臣に任せていますが、家臣どもは勝手に政党を作り、帝室の悪口こそ言いませんが、当人に直接聞かせる悪口は、毎日朝廷で言い合われています。悪党の小役人はそれをいいことに、法を無視して勝手に威張り返り、皇帝陛下のお恵みは、下々に届いておりません。(『漢書』武五子伝)

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まかり通る”。漢代の漢語では「行車」のように、障害なく進む、あるいは進ませる事を意味した。論語の本章に限れば、「膚受之愬」と「浸潤之譖」が、好き勝手に出回ること。

字の初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「ぬ」と読んで、”…てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”…であると評価する”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

也已矣(ヤイイ)

論語の本章の文末を、唐石経は「也巳矣」と記す。清家本は「也已矣」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。これに従い「已」字へ校訂した。唐代の頃、「巳」「已」「己」字は相互に通用した。事実上の異体字と言ってよい。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

「也已矣」を逐語訳すれば「であるに、なりきって、しまった」。アルツハイマーに脳をやられた大隈重信が、演説で「あるんであるんである」と言ったように、もったいの上にもったいを付けたバカバカしい言葉。断定を示したいなら「也」「已」「矣」のどれか一字だけで済む。

つまり大げさに言って読む者聞く者をびっくりさせ、儒者を信じさせてしまおうという、見え透いた悪辣の表現。

座敷わらし おじゃる公家
漢文業界では「也已」の二字で「のみ」と訓読する座敷わらしだが、確かに「也已」は”であるになりきった”の意だから「のみ」という限定に読めなくはないが、それは正確な漢文の翻訳ではない。意味の分からない字を「置き字」といって無視するのと同じ、平安朝の漢文を読めないおじゃる公家以降、日本の漢文業者が世間を誤魔化し思考停止し続けた結果で、現代人が真似すべき風習ではない。

曹銀晶「談《論語》中的”也已矣”連用現象」(北京大学)によると、「也已矣」は前漢宣帝期の定州論語では、そもそもそんな表現は無いか、「矣」「也」「也已」と記されたという。要するに、漢帝国から南北朝にかけての儒者が、もったいを付けて幼稚なことを書いたのだ。論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

也 金文 也 字解
(金文)

「也」初出は事実上春秋時代の金文。ただし断定の語義は春秋時代では確認できない。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

巳 甲骨文 巳 字解
(甲骨文)

「巳」(シ)の初出は甲骨文。字形はヘビの象形。「ミ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文から十二支の”み”を意味し、西周・春秋の金文では「已」と混用されて、完了の意、句末の詠嘆の意、”おわる”の意に用いた。詳細は論語語釈「巳」を参照。

已 甲骨文 已 字解
(甲骨文)

「已」の初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。

矣 金文 矣 字解
(金文)

「矣」の初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

遠(エン)

遠 甲骨文 遠 字解
(甲骨文)

論語の本章では”遠くを見通す”。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、道のりが遠いこと。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。ただ同音の「爰」は、離れたお互いが縄を引き合う様で、”遠い”を意味しうるかも知れない。詳細は論語語釈「遠」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「愬」字の存在で前漢以降の創作は明らかで、古注に前漢時代の注釈が無いことから、後漢になっての成立の可能性がある。論語の本章を除く「浸潤之譖」の初出は後漢初期の『漢書』五行志で、「孔子曰」として「浸潤之譖」から「可謂明矣」までを引用している。「膚受之愬」の初出も『漢書』になる。ただ前漢末期の劉向『新序』雑事篇に「譖愬不行,斯為明也。」とあり、前漢末までには言葉としてはあったらしい。それがいつ論語の一章として取り入れられたかは、前漢末期から後漢初期とみるのが理にかなう。

解説

論語の本章は、漢代の偽作だと気が付かない限り、全く文意が分からない。

「浸潤之譖」=当人の周囲にバラ撒かれる悪評、「膚受之愬」=当人の耳にも聞こえるようになった悪評とは、前漢の政界官界を生き延びるには決して「行われ」てはならないことで、そうならないように事前に味方を増やし、利権やワイロをバラ撒き、権門に取り入るのはごく当然の生命保険だった。いわゆる前漢での儒教の国教化を進めたとされる董仲舒も、同じ儒家から足元を崩され、殺されかけている(論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」)。

後漢帝国のロクでも無さは「後漢というふざけた帝国」を参照していただきたいが、前漢もろくなものではなく、名君とうたわれた文帝・景帝も、気軽に家臣を牢に放り込んだり、親戚を殴り殺したりしている。常人未満の知性しかなかった武帝ならなおさらで、司馬遷がナニをちょん切られたのが軽く見えるほど平気で無実の家臣を一族皆殺しにした(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)。

のちに中国史を丸めて書いた南宋の曽先之は、『十八史略』に「武帝が気軽に宰相を殺し続けたので、なり手がいなくなってしまった。困った武帝は公孫賀が泣いていやがるのを無理やり宰相に据えたが、結局殺してしまった」と書いている。

政界に身を置く以上、「浸潤之譖」=悪口を言われるのは避けられず、乱暴な皇帝ばかりの朝廷では、「膚受之愬」=悪口が当人の耳に入った頃には、もうおしまいだったのだ。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子張問明子曰浸潤之譖膚受之愬不行焉可謂明也已矣註鄭𤣥曰譖人之言如水之浸潤以漸成人之禍也馬融曰膚受之愬皮膚外語非其內實也浸潤之譖膚受之愬不行焉可謂逺也已矣註馬融曰無此二者非但為明其徳行高逺人莫能及之也


本文「子張問明子曰浸潤之譖膚受之愬不行焉可謂明也已矣」。
注釈。鄭玄「人をおとしめる言葉は、水のように染み渡って、時間を掛けて人に災いをもたらす。
馬融「膚受之愬とは、皮膚の外で語られ、人の心中で思われることではない。」

本文「浸潤之譖膚受之愬不行焉可謂逺也已矣」。
注釈。馬融「この二者は悪だくみが動機でないことがないが、明は人の道徳を高めるものの、遠はおよそ人間に出来ることではない。

上掲董仲舒の言葉や、班固が引用した公主の言葉から、「浸潤之譖」「膚受之愬」は前漢武帝時代の政界で流行った言葉だと分かるが、後漢中期の馬融にも、「人の口に戸」はほとほと難しいと思われていたらしい。おとしめるであれたかるであれ、出世した者に蚊柱のように人が寄ってきてあれこれ注文を付けるのは、何も古代中国に限らない、人類の普遍現象だ。

新注『論語集注』

子張問明。子曰:「浸潤之譖,膚受之愬,不行焉。可謂明也已矣。浸潤之譖膚受之愬不行焉,可謂遠也已矣。」譖,莊蔭反。愬,蘇路反。○浸潤,如水之浸灌滋潤,漸漬而不驟也。譖,毀人之行也。膚受,謂肌膚所受,利害切身。如易所謂「剝床以膚,切近災」者也。愬,愬己之冤也。毀人者漸漬而不驟,則聽者不覺其入,而信之深矣。愬冤者急迫而切身,則聽者不及致詳,而發之暴矣。二者難察而能察之,則可見其心之明,而不蔽於近矣。此亦必因子張之失而告之,故其辭繁而不殺,以致丁寧之意云。楊氏曰:「驟而語之,與利害不切於身者,不行焉,有不待明者能之也。故浸潤之譖、膚受之愬不行,然後謂之明,而又謂之遠。遠則明之至也。書曰:『視遠惟明。』」


本文「子張問明。子曰:浸潤之譖,膚受之愬,不行焉。可謂明也已矣。浸潤之譖膚受之愬不行焉,可謂遠也已矣。」
譖は莊-蔭の反切で読む。愬は蘇-路の反切で読む。浸潤とは、水がひたひたとひたすように、ゆっくり漬かることで急な行動ではない。譖とは、人をおとしめるための行動である。膚受とは、いわゆる肌身に感じることで、身を切るような利害が生じた状態を言う。『易経』にいう、「剝の卦は、寝込んでしまうさまを示し、災いが差し迫っているきざしである」と同じである。愬は、自分の冤罪を訴えることである。人を落とし入れようと企む者は、じわじわと事を進めて急がない。だからその話を聞く者はうっかり信用し、ついには信じ込んでしまう。対して冤罪を訴える物は身の火の粉にせわしくならざるを得ないから、人は最後まで話を聞いてくれない。そして「こいつは悪党だ」とさらし者にする。浸潤之譖と膚受之愬は、どちらも存在や当否を明らかに知ることは難しいが、もし出来るなら、精神がものごとをはっきりと認識する作用を感じ取ることが出来、何者にも邪魔されないで明らかにあらゆることを認識できる状態に近い。また本章は、間違いなく話の背景に子張の失敗があり、それを相談されたから言葉を重ねて諭し、しかも子張を叱らず、そうやってものごとの処理をきちんきちんと行っていく大切さを説いた。

楊時「慌ててものを言うのに、利害が差し迫っていない話は、他人に聞いて貰えるわけがなく、明の境地に達した者でなくとも語り得る。だから浸潤之譖と膚受之愬を通用させないでいられて、やっとその者を明、あるいは遠の境地にある者と評価できる。遠とは明の究極の境地である。『書経』にいわく、”遠くを見通せる者、それを明というのだ”と。」

なお漢学教授連による「浸潤之譖」「膚受之愬」の解釈は一通り目を通したが、その多くは馬鹿すぎて話にならない上に、まともな解説も論語の本章が漢代の創作であることに気付かず、孔子の発言として説いているから、オトツイの方角を講釈している(論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」)。

論語の本章について上掲のような解釈を記したのはたぶん訳者が世界でただ一人で、こんな奴の解釈なぞ信用ならんというのはもっともだが、狐につままれて踊り狂う人につままれていると言うのは、つままれているゆえに無駄だから、閲覧者諸賢の好きなように解釈すればいいいと思っている。

キツネ 化かされる

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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