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論語詳解283顔淵篇第十二(5)司馬牛憂いて曰く*

論語顔淵篇(5)要約:後世の創作。弟子の司馬牛が、世間の誰でも兄弟はいるのに自分だけいないと歎きます。実は立派なお兄さんがいるのですが、それをない振りして弟弟子の子夏が慰めます。虚構を重ねたお芝居。

 

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

司馬牛憂曰人皆有兄弟我獨亡子夏曰商聞之矣死生有命富貴在天君子敬而無失與人恭而有禮四海之内皆兄弟也君子何患乎無兄弟也

  • 「敬」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

諸本

  • 武内本(猪飼)敬所云下句によって之を推すに、此の所「執事」の二字を脱するか。

東洋文庫蔵清家本

司馬牛憂曰人皆有兄弟我獨亡/子夏曰商聞之矣死生有命冨貴在天君子敬而無失與人恭而有禮四海之内皆兄弟也君子何患乎無兄弟也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

司馬牛憂曰、「人皆有兄弟、我獨亡。」子夏曰、「商聞之矣、『死生有命、富貴在天』君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也、君子何患乎無兄弟也。」

復元白文(論語時代での表記)

司 金文馬 金文牛 金文憂 金文曰 金文 人 金文皆 金文有 金文兄 金文弟 金文 我 金文亡 金文 子 金文夏 金文曰 金文 商 金文聞 金文之 金文矣 金文 死 金文生 金文有 金文命 金文 富 甲骨文貴 金文在 金文天 金文 君 金文子 金文敬 金文而 金文無 金文失 金文 与 金文人 金文龏 金文而 金文有 金文礼 金文 四 金文海 金文之 金文內 内 金文 皆 金文兄 金文弟 金文也 金文 君 金文子 金文何 金文圂 金文乎 金文無 金文兄 金文弟 金文也 金文

※富→(甲骨文)・恭→龏・患→圂。論語の本章は、「獨」字が論語の時代に存在しない。「貴」「失」「與」「也」「何」「乎」の用法に疑問がある。「四海」の概念が春秋時代に存在しない。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。

書き下し

司馬牛しばぎううれへていはく、ひとみな兄弟けいていり、われひとしと。子夏しかいはく、せうこれたり死生しせいめいり、富貴ふうきてんりと。君子もののふゐやまうしなはず、ひとゐやにしのりあらば、四かいうちみな兄弟けいていなり君子もののふなん兄弟けいていうれへむ

論語:現代日本語訳

逐語訳

司馬牛 子夏
司馬牛が憂いて言った。「人には皆同世代の理解者がいる。私だけにはいない。」子夏が言った。「商(子夏)はこう聞いています。生き死にには運命が伴います。富貴は天が定めます。君子は行動を慎んでその態度を失うことが無く、人に味方するにはうやうやしく礼儀を伴っていれば、世界中がみな兄弟となります。君子たる者、なんで兄弟がないことを憂うる必要がありましょうか。」

意訳

司馬牛「誰にでも同世代に理解者がいる、なのに私にはいない。」
子夏「そうでもないでしょう。生きるも死ぬも運命です。亡命で地位と財産を無くされたそうですが、富貴だって同じです。君子は君子らしく振る舞えば、世界中が兄弟です。それが礼法の教えというものです。」

司馬牛「ハハハハハ。君はいいな。何もわかっちゃいない。」

従来訳

下村湖人

司馬牛が沈んだ顔をして子夏にいった。――
「誰にも兄弟があるのに、私だけにはない。」
すると、子夏が慰めていった。――
「死生や富貴は天命だときいているが、兄弟に縁のうすいのも、やはり天命だろう。おたがいに道に志して、心につつしみを持ちつづけ、礼をもって社会生活の調和を保って行くならば、四海のいたるところに兄弟は見出せるではないか。道に志す者が何で肉親の兄弟に縁のうすいのをくよくよ思う必要があろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

司馬牛憂傷地說:「別人都有兄弟,唯獨我沒有。」子夏說:「我聽說過:『死生有命,富貴在天』。君子敬業而不犯錯誤,對人恭敬而有禮。四海之內,皆兄弟。君子擔心什麽沒有兄弟?」

中国哲学書電子化計画

司馬牛が悲しげに言った。「他の人はみな兄弟がいる。ただ私だけが居ない。」子夏が言った。「私はこう聞いたことがあります。”死ぬも生きるも天の定め、富や地位は天が決める”と。君子は行いを慎んで間違いをしないようにし、人に対して恭しく礼節があれば、世界中がみな兄弟です。君子がどうして兄弟がいないことを憂えるのですか?」

論語:語釈

司馬牛(シバギュウ)

孔子の弟子。あざ名はコウ。孔子塾生には珍しく貴族の出身で、姓の通り宋国の将軍職を務める家柄だった。兄は宋国元帥で、孔子を襲撃したことになっているカンタイ(論語述而篇22)。『春秋左氏伝』によると、宋国の政変で桓魋が失脚すると、司馬牛も地位や領地を捨て、それも桓魋を避けるように放浪し、なぜか魯国に来て孔子に見せつけるように自ら命を絶った。詳細は論語の人物・司馬耕子牛を参照。なお漢文では「司馬」で”将軍”を意味し、その職を世襲する者が氏族名にもした。

司 甲骨文 司 字解
(甲骨文)

「司」の初出は甲骨文。字形は「𠙵」”口に出す天への願い事”+”幣のような神ののりしろ”。原義は”祭祀”。春秋末期までに、”祭祀”・”王夫人”・”君主”・”継ぐ”・”役人”の意に用いた。詳細は論語語釈「司」を参照。

馬 甲骨文 馬 字解
(甲骨文)

「馬」の初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。

牛 甲骨文 牛 金文
「牛」甲骨文/牛鼎・西周早期

「牛」の初出は甲骨文。字形は牛の象形。原義は”うし”。西周初期まで象形的な金文と、簡略化した金文が併存していた。甲骨文では原義に、金文でも原義に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「牛」を参照。

憂(ユウ)

憂 金文 憂 字解
(金文)

論語の本章では”うれう”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される”言う”を意味する語。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”他人”。自分以外の全ての人。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

皆(カイ)

皆 甲骨文 皆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”誰もすべて”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。上古音の同音は存在しない。字形は「虎」+「𠙵」”口”で、虎の数が一頭の字形と二頭の字形がある。後者の字形が現行字体に繋がる。原義は不明。金文からは虎が人に置き換わる。「ジュウ」”人々”+「𠙵」”口”で、やはり原義は不明。甲骨文・金文から”みな”の用例がある。詳細は論語語釈「皆」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いる”・”ある”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

兄弟(ケイテイ)

兄 甲骨文 弟 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”きょうだい”。

「兄」の初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「口」+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。

「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形の真ん中の棒はカマ状のほこ=「」で、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になったとされる。西周末期の金文で、兄弟の”おとうと”の意に用いている。詳細は論語語釈「弟」を参照。

我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

獨*(トク)

独 秦系戦国文字 獨 独 字解
睡虎地簡11.25

論語の本章では”ひとりだけ”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形はけものへん+”目を見開いた人”+”虫”または”へび”。字形の意味するところは不明。「ドク」は呉音。同音に「蜀」を部品とする漢字群、「賣」を部品とする漢字群多数。戦国の竹簡から”一人で”・”孤立して”の意に用いた。詳細は論語語釈「独」を参照。

亡(ボウ)

亡 甲骨文 亡 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見えない”→”いない”。初出は甲骨文。「モウ」は呉音。字形は「人」+「丨」”築地塀”で、人の視界を隔てて見えなくさせたさま。原義は”(見え)ない”。甲骨文では原義で、春秋までの金文では”忘れる”、人名に、戦国の金文では原義・”滅亡”の意に用いた。詳細は論語語釈「亡」を参照。

子夏(シカ)

孔子の弟子。本の虫、カタブツとして知られ、文学に優れると子に評された(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。主要弟子の中では若年組に属する。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

子 甲骨文 夏 甲骨文
(甲骨文)

「子」は貴族や知識人への敬称。開祖級の知識人や大夫(家老)級以上の貴族は場合は孔子や孟懿子のように「○子」”○先生”・”○さま”と呼び、弟子や一般貴族は子夏のように「子○」”○さん”と呼ぶ。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「子」を参照。

「夏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

商(ショウ)

論語 子夏
孔子の弟子、子夏のいみ名。論語の本章では、子夏の自称だから、年長の司馬牛を目上として「商」と謙遜して名乗った。

商 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

「商」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「𠙵」を欠くものがある。字形は「辛」”針・刃物”+「丙」だが、由来と原義は不明。甲骨文では地名・人名に用い、金文では国名、人名、”褒め讃える”、戦国の金文では音階の一つの意に用いた。詳細は論語語釈「商」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”聞いています”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

論語の時代、「聞」は間接的に聞くこと、または知らない事を教わって明らかにすることを意味した。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
「之」(甲骨文)

論語の本章では”こういう話”・”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では”すでに…し終えている”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

死生(シセイ)

論語の本章では”死と生”。

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

「死」の初出は甲骨文。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

生 甲骨文 生 字解
(甲骨文)

「生」の初出は甲骨文。字形は「テツ」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。

命(メイ)

令 甲骨文 令字解
「令」(甲骨文)

論語の本章では”天命”。初出は甲骨文。ただし「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。詳細は論語語釈「命」を参照。

論語の本章の場合、他の文字史から後世の偽作が確定するので「命」を”天命”と解してよいが、「命」と聞けば条件反射のように”天命”と解釈するのはどうかと思う。「天命」の書籍上の初出は『孟子』だが、該当箇所は『詩経』の引用であり、漢代に手を加えられ、あるいは偽作・竄入の可能性がある。論語の本章と同じ「億」の字を使うなど、本物と確信しがたい。地の文でも天命らしきものを担ぎ挙げてはいるが、楚系戦国文字が初出である「恥」を使うなど、訳者にはこれが孟子の肉声だと断じる手立てがない。

自分の言葉として「天命」を言い出したのは荀子で、その名もズバリ「天命篇」で取りあげるのだが、荀子の主張は天命をあてにするなと言い、天命を担ぎ回ったのではない。

つまり天命を担ぎ回ったのは前漢の儒者に始まり、具体的には天人感応説(災異説)を提唱した董仲舒による。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

富貴(フウキ)

論語の本章では”財産と高い身分の決定権”。

富 甲骨文 富 字解
(甲骨文)

「富」の初出は甲骨文。字形は「冖」+「フ」は呉音。「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。

貴 金文 貴 晋系戦国文字
(金文)/(晋系戦国文字)

「貴」の初出は西周の金文。”高い地位”の語義は春秋時代では確認できない。現行字体の初出は晋系戦国文字。金文の字形は「貝」を欠いた「𠀐」で、「𦥑キョク」”両手”+中央に●のある縦線。両手で貴重品を扱う様。おそらくひもに通した青銅か、タカラガイのたぐいだろう。”とうとい”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「貴」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~にある”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

天(テン)

天 甲骨文 天 字解
(甲骨文)

論語の本章では”天界の神”。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では”教養のある地位ある者”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

敬(ケイ)

敬 甲骨文 敬 字解
(甲骨文)

論語の本章では”つつしむ”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…が無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

失(シツ)

失 金文 失 字解
(金文)

論語の本章では”失態を犯す”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。同音は「室」のみ。字形は頭にかぶり物をかぶり、腰掛けた人の横姿。それがなぜ”うしなう”の意になったかは明らかでないが、「キョウ」など頭に角型のかぶり物をかぶった人の横姿は、隷属民を意味するらしく(→論語語釈「羌」)、おそらく所属する氏族を失った奴隷が原義だろう。西周早期の金文に、”失敗する”と読めなくもない例があるが、確定しない。”うしなう”の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「失」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では…に”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

恭(キョウ)

恭 楚系戦国文字 恭 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”つつしみ深い”。現行字形の初出は楚系戦国文字。その字形は「共」+「心」で、ものを捧げるような心のさま。原字は「キョウ」とされ、甲骨文より存在する。字形は「ケン」”刃物”+「虫」”へび”+「廾」”両手”で、毒蛇の頭を突いて捌くこと。原義は不明。甲骨文では地名・人名・祖先の名に用い、金文では人名の他は「恭」と同じく”恐れ慎む”を意味した。詳細は論語語釈「恭」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”礼儀正しさ”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。

四海(シカイ)

論語の本章では、”中国を取り巻く四つの海”=”世界”。「四海」の概念が現れるのは戦国時代からで、春秋時代には確認出来ない。

昔三弋(代)之明王又(有)四海之內(「上海博物館蔵戦国楚竹簡」中弓18)

四 甲骨文 四 字解
甲骨文

「四」の初出は甲骨文。字形は横線を四本引いた指事文字。現行字体の初出は春秋末期の金文。甲骨文の時代から数字の”4”を意味した。詳細は論語語釈「四」を参照。

海 金文 海 字解
(金文)

「海」の初出は西周早期の金文。新字体は「海」。中国・台湾・香港では新字体がコード上の正字として扱われている。字形は「氵」+「每」”暗い”。原義は深く暗い海。金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「海」を参照。

內(ダイ)

内 甲骨文 内 字解
(甲骨文)

論語の本章では”内側”。新字体は「内」。ただし唐石経・清家本とも「内」と新字体で記す。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ダイ」で”うちがわ”、「ドウ」で”入れる”を意味する。「ナイ/ノウ」は呉音。初出は甲骨文。字形は「ケイ」”広間”+「人」で、広間に人がいるさま。原義は”なか”。春秋までの金文では”内側”、”上納する”、国名「ゼイ」を、戦国の金文では”入る”を意味した。詳細は論語語釈「内」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「皆兄弟也」では「なり」と読んで断定の意”~である”、「無兄弟也」は「や」あるいは「かな」と読んで詠嘆”…よ”の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”どうして”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

患(カン)

患 楚系戦国文字 患 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では、”気に病む”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「毋」”暗い”+「心」。「串」に記すのは篆書以降の誤り。論語時代の置換候補は近音の「圂」または「困」。詳細は論語語釈「患」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~に”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「獨」字の初出が戦国最末期の「睡虎地秦簡」であることから、成立をそれ以前に遡らせることが出来ず、「四海」の概念も戦国時代の楚の竹簡からしか見られない。定州竹簡論語にも欠いていることから、前漢前半に存在した証拠もないが、前後の漢帝国の交代期を生きた包咸が古注に注記しているので、前漢後半に創作されたと考えるのが理にかなう。

解説

論語の本章は、三章続いた司馬牛話の終わりで、うっかり釣り込まれると、まるで司馬牛が「悪党」の実兄桓魋の「蛮行」を憂いたあげくに魯の都城の門前で死を選ぶという、『春秋左氏伝』と組み合わせると歌舞伎かハムレットのような悲劇話に見えるが、全部漢儒のでっち上げである。

現在物証が確認されている中国最古の王朝は殷だが、殷はむやみに周辺の異民族を火あぶりにして喜ぶ野蛮性を持っていたが、その君主は自分が天子=天の子であるなどと図々しいことを言わなかった。言い出したのは殷に取って代わった周である(論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」)。

自分の所在地が世界の中心=中国と言い出したのも周王朝である。以下は「中国」の初出。

隹珷王既克大邑商,𠟭廷吿于天,曰:『余𠀠宅𢆶𠁩或,自之辥民。』


さて武王はすでに殷の都を陥落させ、心を引き締めて天に告げた。いわく、「わたしはこの中国に住まい、みずから民を統治いたします。」(西周早期「𣄰尊」集成6014)

そしてその中国が、東西南北四つの「四海」に囲まれているというモノガタリは、論語の本章に次いで戦国初期の『墨子』、中期の『孟子』『荘子』、末期の『荀子』『韓非子』にも見られるが、上掲語釈の通り物証としては戦国時代までにしか遡らない。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

司馬牛憂曰人皆有兄弟我獨亡註鄭𤣥曰牛兄桓魋行惡死喪無日我獨為無兄弟也子夏曰商聞之矣死生有命富貴在天君子敬而無失與人恭而有禮四海之內皆為兄弟也君子何患乎無兄弟也註苞氏曰君子疎惡而友賢九州之人皆可以禮親也


本文「司馬牛憂曰人皆有兄弟我獨亡」。
注釈。鄭玄「牛の兄は桓魋で行いが悪く死去するまで日にちも無かった。だから自分だけ兄弟がいないと言ったのである。」

本文「子夏曰商聞之矣死生有命富貴在天君子敬而無失與人恭而有禮四海之內皆為兄弟也君子何患乎無兄弟也」。
注釈。包咸「君子は悪を遠ざけ賢者を友とすれば、全中国の人がぜんぶ敬意を払い合う親族になるのである。」

鄭玄
後漢の大儒として「鄭玄馬融」と並び称されることの多い鄭玄だが、その活動時期はと言えば三国志の悪役董卓が権勢を振るった頃であり、後漢社会も儒者業界も腐りきっていた。だから鄭玄もそうした腐れ儒者の一人で、真面目に勉強せずいい加減な事を書き散らしているさまについては、論語解説「後漢というふざけた帝国」にまとめて書いた。

本章に限って言うなら、「兄桓魋行惡死喪無日」とはどう読んでも桓魋の死期が迫っているとしか読みようが無いが、『春秋左氏伝』によれば桓魋は亡命こそしたものの、その後もピンシャンと生きており、何らかの事情で鬱がたまって自死したのは司馬牛の方でしかない。

一方包咸の方はまじめ儒者として名が通っており、人食いも辞さなかった赤眉軍に捕まっても平気な顔で儒学の講義を牢内でぶつぶつはじめたので、「このお人はさわらん方がええじゃろ」と暴徒も遠慮して解放したという逸話がある(論語先進篇8余話「花咲か爺さん」)。

そこまで修羅場をくぐったなら、「君子は悪を遠ざけ賢者を友とすれば、全中国の人がぜんぶ敬意を払い合う親族になるのである」という絵空事を語っても説得力があるが、現代社会では「悪」「賢者」の判別が極めて難しいから、人生の教訓になるとは思えない。

新注『論語集注』

司馬牛憂曰:「人皆有兄弟,我獨亡。」牛有兄弟而云然者,憂其為亂而將死也。子夏曰:「商聞之矣:蓋聞之夫子。死生有命,富貴在天。命稟於有生之初,非今所能移;天莫之為而為,非我所能必,但當順受而已。君子敬而無失,與人恭而有禮。四海之內,皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也?」既安於命,又當修其在己者。故又言苟能持己以敬而不間斷,接人以恭而有節文,則天下之人皆愛敬之,如兄弟矣。蓋子夏欲以寬牛之憂,故為是不得已之辭,讀者不以辭害意可也。胡氏曰:「子夏四海皆兄弟之言,特以廣司馬牛之意,意圓而語滯者也,惟聖人則無此病矣。且子夏知此而以哭子喪明,則以蔽於愛而昧於理,是以不能踐其言爾。」


本文「司馬牛憂曰:人皆有兄弟,我獨亡。」
牛には兄弟がいたのにこのように言ったのは、兄の起こそうとする騒動を心配し自分は死にそうだったからだ。

本文「子夏曰:商聞之矣:蓋聞之夫子。死生有命,富貴在天。命稟於有生之初,非今所能移;天莫之為而為,非我所能必,但當順受而已。君子敬而無失,與人恭而有禮。四海之內,皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也?」
すでに天命を受け容れてそれで満足したなら、人生修行の対象も自分一人で他人は関係が無い。だからもしそうやって自分を高い境地に立たせ、途切れること無く慎みの気持を保ち、他人には敬意を払って言葉を飾るにも節度があれば、必ず天下の人は皆その人を愛するようになり、兄弟同然である。たぶん子夏は牛の心配を慰めようとして、自分でもまだ出来ていないことを説いたのであり、本章を読む者はそこに悪意を感じてはならない。

胡寅「子夏が言った、四海皆兄弟という言葉は、司馬牛のふさぎ込みを和らげようとしたからであり、優しい心からポツポツと語った。こういう憂いは、聖人でなければ逃れられない。また子夏は聖人ならざる者の運命を知りつつも、のちに我が子を失い悲しみから失明した。つまり愛情のあまりもののことわりを忘れてしまったわけで、ここからも本章の発言は自分では出来なかったことが知れる。」

何というか、宋儒は子夏に恨みでもあるのだろうか。「出来もしないことを他人に説教する」のは宋儒の通例だったのだが。

論語 胡寅 吉川幸次郎
胡寅は似顔絵にも現れているように、人でなし揃いの宋儒の中でも極めつけの悪党だった。子供の頃からずる賢く、北宋滅亡時の戦乱中は大学に引き籠もって隠れ、南宋が成立した途端にノコノコ現れて官職をたかった。日本で言えば戦時中は中国人の仮装をして京大構内に隠れさらには国外逃亡して徴兵から逃げ廻り、戦後になって出てきて論語の権威としてデタラメを書き散らした吉川幸次郎に似ている。

しかも胡寅は逃げたくせにわあわあとウソ泣きしながら、強硬論ばかりわめくので、うんざりした宰相により左遷された(『宋史』胡寅伝)。宋儒については論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」も参照。

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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