論語:原文・書き下し
原文
子貢問友子曰忠吿而善道之不可則止毋自辱焉
校訂
東洋文庫蔵清家本
子貢問友子曰忠吿而以善道之𠘶則止無自辱焉
- 「友」字:〔友丶〕
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子貢問友。子曰、「忠告而以善導之、否則止、無自辱焉。」
復元白文(論語時代での表記)
忠 焉
※貢→(甲骨文)。論語の本章は、「忠」が論語の時代に存在しない。「焉」も存在しないが無くとも文意に大きな違いは無い。「問」「辱」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子貢友を問ふ。子曰く、忠に吿げ而以て善く之を導き、否まば則ち止め、自ら辱むる無かり焉よ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子貢が交友を問うた。先生が言った。「まじめに言葉を告げてやって、能力の限り導いてやり、こばまれたらすぐにやめる。自分から恥を掻いてしまってはいかん。」
意訳
子貢「友達づきあいはどうしたらいいですかね。」
孔子「精一杯、まじめに相手のためになる事を言え。」
子貢「聞かなかったら?」
孔子「それまでだ。卑屈になってまで付き合う必要は無い。」
従来訳
子貢が交友の道をたずねた。先師はこたえられた。――
「真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子貢問怎麽交友。孔子說:「忠心地勸告,善意地引導,不聽則止,不要自取其辱。」
子貢が交友をどうすればいいか問うた。孔子が言った。「真心から勧告して、善意で導け。聞き入れられなかったら止めろ。自分からバカにされに行くことは無い。」
論語:語釈
子貢(シコウ)
BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を孟子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。
『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。
孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木賜と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子贛」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章丮」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。
『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「」と記す。本章はその部分が欠損しているが、おそらくその一例。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
友(ユウ)
「友」(甲骨文)
論語の本章では”友達づきあい”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
忠(チュウ)
「忠」(金文)/「中」(甲骨文)
論語の本章では”忠実”。初出は戦国末期の金文。ほかに戦国時代の竹簡が見られる。字形は「中」+「心」で、「中」に”旗印”の語義があり、一説に原義は上級者の命令に従うこと=”忠実”。ただし『墨子』・『孟子』など、戦国時代以降の文献で、”自分を偽らない”と解すべき例が複数あり、それらが後世の改竄なのか、当時の語義なのかは判然としない。「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。詳細は論語語釈「忠」を参照。
吿(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。字形は「辛」”ハリまたは小刀”+「口」。甲骨文には「辛」が「屮」”草”や「牛」になっているものもある。字解や原義は、「口」に関わるほかは不詳。甲骨文で祭礼の名、”告げる”、金文では”告発する”の用例がある。詳細は論語語釈「告」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
善(セン)
(金文)
論語の本章では”よろしい”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
道(トウ)→導(トウ)
論語の本章では”みちびく”。
(甲骨文)
「道」は、動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。この語義は春秋時代では確認できない。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。動詞としての用例は戦国時代の竹簡から。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。詳細は論語語釈「道」を参照。
(金文)
古注系論語では「導」と記す。初出は春秋早期の金文。「ドウ」は呉音。原義は「道」+「寸」”手”で、「道」の動詞形、”みちびく”。詳細は論語語釈「導」を参照。
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に欠き、現存最古の文字列は中国系は唐石経、日本系は宮内庁蔵清家本。論語は隋の頃日本に古注系が伝わり、ほぼそのまま日本に伝承されたが、中国では唐石経で少なからぬ書き換えがあり、その後古注系の版本は滅んだ。従って現存最古の文字列は宮内庁蔵清家本と判断し、校訂した。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
不可(フウカ)→否(フウ)
論語の本章、現伝論語「不可」の場合は”出来なければ”。古注系論語「否」の場合は”こばめば”。現伝「不可則止」は論語先進篇23と同じ言い廻し。
(甲骨文)
「不」は漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
(金文)
「否」の初出は西周末期の金文。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「フウ」で”いな”を、「ヒ」で”わるい”を意味する。金文では「不」と同じ”…でない”・”否定する”の意に用いた。詳細は論語語釈「否」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”…ならばすぐさま”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
止(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”やめる”。もうやらない、の意。初出は甲骨文。字形は足の象形。甲骨文から原義のほか、”やむ”・”とどまる”と解しうる用例がある。また祭りの名の例も見られる。詳細は論語語釈「止」を参照。
毋(ブ)→無(ブ)
論語の本章では”~しない”。
(金文)
唐石経を祖本とする現伝論語は「毋」と記す。また論語の本章では欠いているが、前漢中期の定州竹簡論語でも通常は「毋」と記す。「毋」は戦国時代以降「無」を意味する言葉として用いられた。初出は西周中期の金文。「母」と書き分けられていない。現伝書体の初出は戦国文字。論語の時代も、「母」と書き分けられていない。同訓に「無」。甲骨文・金文では「母」の字で「毋」を示したとし、西周末期の「善夫山鼎」にもその用例が見られる。詳細は論語語釈「毋」を参照。
(甲骨文)
古注系論語は「無」と記す。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
自(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”自分から”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”~から”・”~により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。
辱(ジョク)
(甲骨文)
論語の本章では”恥をかかせる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「辰」”大鎌”+「又」”手”で、原義は「くさぎる」、つまり大ガマで草を刈ることで、転じて”刈り取る”の意か。現在ではその意味には「耨」を用いる。”はじ”の語義は戦国時代から。詳細は論語語釈「辱」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「つ」と読んで、”…てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
なお日本古語「ぬ」は他動的な完了、「つ」は意志的な完了を意味する。
論語:付記
検証
論語の本章は、「焉」字の論語時代の不在はともかく、「忠」はどうやりくりしても戦国時代までしか遡らないから、戦国時代以降の儒者による創作と断じるしか無い。また傍証ながら、前漢中期の定州竹簡論語からも漏れており、その時代までに論語の一章として成立していた物証が無い。「先秦甲骨金文簡牘詞彙資料庫」サイトで「問友」を引いても、戦国時代を含めヒットしない。ただ古注に包咸が注をつけているから、前漢末期ごろまでには論語の一章として成立していたことになる。
だがそれでも、儒者がこのような話を偽作する動機が見つからない。仮に「忠告」ではなく「中告」”ただしい言葉”だったとするなら、両字はともに甲骨文から存在するから、本章にも史実の可能性が出て来る。その場合の訳は次の通り。
子貢友を問う。子曰く、「中く告げ而以て善く之を導き、否まば則ち止め、自ら辱むる無き焉よ。」
子貢が交友について問うた。先生が言った。「事実を告げて力の限り友を導き、言い分を拒まれたらすぐにやめ、自分からバカにされてしまうようなことをするな。」
解説
論語は次章に代表されるように、孔子が「友」を説いた史実の話は少なく、むしろ弟子でもなかった曽子に「友」を語らせた話が多い。後世の儒者の弟子評では、孔子の道徳的な部分を最も受け継いだのが曽子で、その反対に金儲けばかりしていたのが子貢ということになっている。
もちろん史実ではないが、現伝儒教的解釈から見れば、子貢と「友」は相性が悪いと言える。悪いからこそ、論語の本章が儒者の作文である確率が下がるように見えるのだが、孔子の直弟子の中で最も栄達を果たした子貢にも、現代の中学生のような悩みがあったと考えると微笑ましい。
孔子は広く誤解されているような、実利の期待も無いのに道徳を説く間抜けではなかったし、墨子が証言しているように、成果が見込めるなら、ためらわず政治的陰謀にも手を染めた。だがそれだけだったと見なすのも、また人間孔子を見失うことになる。
子貢は春秋諸侯国間での外交ばなしなど、華々しさが過ぎて、こういう素朴な悩みを持ちそうに見えないが、『史記』弟子伝に従うなら、孔子から見れば31も年下で、当時の寿命を考えれば、年取ってからの子に等しい若さの弟子だった。本章のような問答があってもおかしくはない。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子貢問友子曰忠告而善𨗳之否則止無自辱焉註苞氏曰忠告以是非告之也以善導之不見從則止必言之或見辱也
本文「子貢問友子曰忠告而善𨗳之否則止無自辱焉」。
注釈。包咸「忠告とは正しいか間違っているかを告げることである。そのようにして善へと導いても、従わないようならすぐに止める。そうしないと、必ず告げた話にケチを付けられバカにされることがあるいはあるからである。」
新注『論語集注』
子貢問友。子曰:「忠告而善道之,不可則止,無自辱焉。」告,工毒反。道,去聲。○友所以輔仁,故盡其心以告之,善其說以道之。然以義合者也,故不可則止。若以數而見疏,則自辱矣。
本文「子貢問友。子曰:忠告而善道之,不可則止,無自辱焉。」
告は工-毒の反切で読む。道は尻下がりに読む。
付け足し。友とは助け合って仁義を実践する間柄で(論語顔淵篇24・偽作/論語子張篇16・偽作)、だから真心を尽くして忠告してやり、善其說以道之”主義主張を正してやって相手を導く”。つまり正義に従う仲間だから、そのようにしても導けなかったらやめる。それなのにしつこく説教すれば嫌がられ(論語里仁篇26・偽作)、必ず自分から恥ずかしい目に遭わされるようなことをするはめになる。
余話
乞食よりはマシ
宋末から元の時代を生きた陳天祥は、もと宋人の儒者にしては面白いことを本章について書き残している。何と論語の新注に噛みついているのである。
善其說以道之語意不明不知如何是善其說道
「善其説以道之」と書いてあるが、何のことやらさっぱり分からない。いったいどうすれば、他人の思想がよくなると言うのだ。(『四書辨疑』巻六)
陳天祥について訳者はよく知らないが、生きた時代については思う所がある。世界唯一の文明だとうぬぼれ切っていた中国人が、これほど自信を失った時代は空前で、そして今のところ絶後である。アヘン戦争以降の西洋文明に対してさえ、中体西用と言い張っていたのに。
「奴らが優れているのは所詮道具だけだ。人間の根本である精神は、やはり我らの方が優れているのだ。」そう言い放って、軍艦の建造・維持費を欲張り婆さん・西太后の趣味に浪費、いざ戦争となって主砲のタマが2発しか無いお粗末となり、結局下関で屈辱的な講和を結んだ。
これがきっかけで清帝国は崩壊するが、周知の通り清は満洲人の征服王朝、他に有名なのが陳天祥の生きた元の時代で、中国はモンゴル帝国の一部だった。実は中国史上、異民族の征服王朝は珍しくなく、世界帝国の栄華を誇った隋唐帝国も、鮮卑人の王朝である。
つまり秦によって帝政が始まって以降、中国史の半分近くは征服王朝だったのだが、その中でもモンゴルは特別だった。鮮卑人や満洲人が、中国文明に対ししおらしい生徒の立場に立ったのに対し、ハナから馬鹿にして学ばず、科挙すら初めは行わなかった。
教科書的にはその理由を、中国征服以前にイスラム文明を知っていたからだ、と説明される。その通りではあるが、元は中国文明や儒教や論語に、ちょっと信じがたいおとしめ方をした。儒者は九儒十丐と言って、”乞食よりはましな連中”とさげすまれたとされる。
一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猎、八民、九儒、十丐。
一に高級官僚、二に下役人、三に坊主、四に道士、五に医者、六に職人、七に猟師、八に庶民、九に儒者、十に乞食。(鄭思肖『心詩』)
ご覧の通りこの言葉、モンゴル人が言い放ったのではなく、滅ぼされた側の南宋の詩人、鄭思肖が言い出したとされる。南宋が滅亡したとき38歳だった鄭思肖は、あるいは儒学の地位喪失を歎いて記したのかも知れないが、「中国哲学書電子化計画」では未校訂で、一々読む根気が今は無い。
鄭思肖は科挙の中間試験を突破して、国立大学の学生だったうちにモンゴル軍の侵攻を迎えたのだが、抗戦派だったと言われ、宋滅亡後は仙人のような生活を送ったと言うから、察するに「儒者が情けないから、こんな有様になってしまったのだ」と歎いたのだろうか。
ともあれモンゴル人は、政権が危なくなるまで徹底的に、中国文明を無視し続けた。それまで儒者が馬鹿にしていた物語や小説の類(論語顔淵篇22付記参照)が「元曲」として花開くのはこの時代で、理由は食い詰めた儒者が仕方なく、戯曲の台本を書き始めたからだ。
映画監督志望の若者や女優志望の娘が、運に恵まれずAV業界に身を投じるのに似ている。それほど中国人にとって、モンゴル支配は苛烈だった。もちろん民衆はしぶとく生き続けたが、少しでもインテリを気取る者は、みな一様に茫然自失し、奴隷根性を根付かせることになった。
日本帝国の敗戦と似ている。上記「中」と「忠」の違いが、前者は誰が何と言おうと、であるのに対し、後者が私はどう思おうと、であるように、何がよいのか正しいかを、自分で決めようともしなくなったのを、奴隷根性と言う。これが現代中国人にも、根深く見え隠れする。
中国人にいわゆる大人はめったに居ない。その淵源が、九儒十丐にあると思う。
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