論語詳解301顔淵篇第十二(23)子貢友を問う°

論語顔淵篇(23)要約:弟子一番のやり手の子貢。友情はどうあるべきかを孔子先生に問いました。誰それには何かと尽くしてやったのに…なぜ? 孔子先生は「自分から卑屈になるな」と教えた、という一節。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子貢問友。子曰、「忠吿而善道*之、不可*則止、毋*自辱焉。」

校訂

武内本

唐石経、導を道、否を不可、無を毋に作る。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文江 金文問 金文友 金文 子 金文曰 金文 中 金文告 金文而 金文善 金文道 金文之 金文 不 金文可 金文則 金文止 志 金文 母 金文自 金文辱 金文安 焉 金文

※貢→江・忠→中・焉→安。

書き下し

子貢しこうともふ。いはく、まめこれみちびき、かざらばすなはむ、みづかはづかしむるかれ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 子貢 孔子
子貢が交友を問うた。先生が言った。「まじめに言葉を告げてやって、能力の限り導いてやり、出来なければやめる。自分をおとしめてまで言う事はない。」

意訳

ニセ子貢 ニセ孔子
子貢「友達づきあいはどうしたらいいですかね。」
孔子「まじめに相手のためになる事を言え。」

子貢「聞かなかったら?」
孔子「それまでだ。卑屈になってまで付き合う必要は無い。」

従来訳

論語 下村湖人

子貢が交友の道をたずねた。先師はこたえられた。――
「真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子貢問怎麽交友。孔子說:「忠心地勸告,善意地引導,不聽則止,不要自取其辱。」

中国哲学書電子化計画

子貢が交友をどうすればいいか問うた。孔子が言った。「真心から勧告して、善意で導け。聞き入れられなかったら止めろ。自分からバカにされに行くことは無い。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

」。 、「 。」


子貢

論語 子貢 遊説

孔子の弟子。一門きっての有能な弟子で、アキンドとして、また外交官として大活躍した。詳細は論語の人物・端木賜子貢を参照。

論語 友 金文
(金文)

論語の本章では”友達づきあい”。「友」の原義は、横並びに互いに腕を出してかばい合うことで、対等の関係を言う。詳細は論語語釈「友」を参照。

論語 告 金文 論語 吿 解字
(金文)

論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。『学研漢和大字典』によると、『説文解字』では、牛の角に付けた棒が、人に危険を告知することから、ことばで告知する意を生じたとする、という。詳細は論語語釈「告」を参照。

忠吿

論語 忠 金文 論語 吿 金文
(金文)

論語の本章では、まじめな勧告”。

日本語として「チューコク」になってしまっているのに安心しては、論語など古典を読んだ事にならない。「忠」は、孔子の生前では「中」と書き、まごころ、自分に嘘をつかないことだから、欠点や間違いを指摘するだけでなく、有利な話をしてやるのも「忠告」に含まれる。

ただし本章は後世の創作が判明しているので、「忠」の字の解釈、つまり”まじめ”。自分がどう思おうが、まわりの空気にしたがって精を出すこと。詳細は論語語釈「忠」を参照。

善道之

論語 善 金文
「善」(金文)

論語の本章では、”善い方向へ導く”。

ここでの「道」は動詞の”みちびく”。「善」は副詞。「能」と同じく”可能”を示すと読むのもいいが、それでは言葉を違えて「善」とした理由に説明がつかない。中国語は原則として、文字=言葉=概念だから、文字が異なれば意味内容が異なる。

『学研漢和大字典』による「善」の原義は”美しいこと”。美しく友を導いてもしょうがないので、次いでの意味の”能力”と解した。”力の限り、ためになる事を言ってやる事”。詳細は論語語釈「善」を参照。

論語 可 金文
(金文)

論語の本章では”話を聞いて従う”。原義は受け入れがたいことを受け入れ、認めることで、論語の時代を含めて中国の君主は、臣下の進言に裁可を与える際、「可」と言った。従って「可」は従うことで、可能の意味を持ったのは派生義。詳細は論語語釈「可」を参照。

毋(ブ)

論語 毋 金文大篆
(金文)

論語の本章では”~するな”。音が同じ「無」と意味も同じ。詳細は論語語釈「毋」を参照。

辱(ジョク)

論語 辱 金文
(出典不明金文)

論語の本章では”辱める・おとしめる”。初出は甲骨文。春秋時代の金文では、「言+辱」の字形。近音の「匿」に、”縮む”の語釈があり、縮こまるような思いをさせられること、と解せる。『学研漢和大字典』によると「辰(やわらかい貝の肉)+寸(手。動詞の記号)」の会意文字で、強さをくじいて、ぐったりと柔らかくさせること、という。詳細は論語語釈「辱」を参照。

論語:解説・付記

宋末から元の時代を生きた陳天祥は、儒者にしては面白いことを本章について書き残している。何と論語に噛みつき、それも孔子先生に文句を垂れているのである。

善其說以道之語意不明不知如何是善其說道

「善其説以道之」と書いてあるが、何のことやらさっぱり分からない。いったいどうすれば、説教の言葉がよくなると言うのだ。(『四書辨疑』巻六)

陳天祥について訳者はよく知らないが、生きた時代については思う所がある。世界唯一の文明だとうぬぼれ切っていた中国人が、これほど自信を失った時代は空前で、そして今のところ絶後である。アヘン戦争以降の西洋文明に対してさえ、中体西用と言い張っていたのに。

「奴らが優れているのは所詮道具だけだ。人間の根本である精神は、やはり我らの方が優れているのだ。」そう言い放って、軍艦の建造・維持費を欲張り婆さん・西太后の趣味に浪費、いざ戦争となって主砲のタマが2発しか無いお粗末となり、結局下関で屈辱的な講和を結んだ。

これがきっかけで清帝国は崩壊するが、周知の通り清は満洲人の征服王朝、他に有名なのが陳天祥の生きた元の時代で、中国はモンゴル帝国の一部だった。実は中国史上、異民族の征服王朝は珍しくなく、世界帝国の栄華を誇った隋唐帝国も、鮮卑人の王朝である。論語 歴代王朝と孔子

つまり秦によって帝政が始まって以降、中国史の半分近くは征服王朝だったのだが、その中でもモンゴルは特別だった。鮮卑人や満洲人が、中国文明に対ししおらしい生徒の立場に立ったのに対し、ハナから馬鹿にして学ばず、科挙すら初めは行わなかった。

教科書的にはその理由を、中国征服以前にイスラム文明を知っていたからだ、と説明される。その通りではあるが、元は中国文明や儒教や論語に、ちょっと信じがたいおとしめ方をした。儒者は九儒十カイと言って、”乞食よりはましな連中”とさげすまれたとされる。

一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猎、八民、九儒、十丐。

鄭思肖
一に高級官僚、二に下役人、三に坊主、四に道士、五に医者、六に職人、七に猟師、八に庶民、九に儒者、十に乞食。

実はこの言葉、モンゴル人が言い放ったのではなく、滅ぼされた側の南宋の詩人、鄭思肖が『心詩』に記したのが初出だとされる。南宋が滅亡したとき38歳だった鄭思肖は、あるいは儒学の地位喪失を歎いて記したのかも知れないが、原文が参照できずなんとも言えない。

鄭思肖は科挙の中間試験を突破して、国立大学の学生だったうちにモンゴル軍の侵攻を迎えたのだが、抗戦派だったと言われ、宋滅亡後は仙人のような生活を送ったと言うから、察するに「儒者が情けないから、こんな有様になってしまったのだ」と歎いたのだろうか。

ともあれモンゴル人は、政権が危なくなるまで徹底的に、中国文明を無視し続けた。それまで儒者が馬鹿にしていた物語や小説の類(論語顔淵篇22付記参照)が「元曲」として花開くのはこの時代で、理由は食い詰めた儒者が仕方なく、戯曲の台本を書き始めたからだ。

映画監督志望の若者や女優志望の娘が、運に恵まれずAV業界に身を投じるのに似ている。それほど中国人にとって、モンゴル支配は苛烈だった。もちろん民衆はしぶとく生き続けたが、少しでもインテリを気取る者は、みな一様に茫然自失し、奴隷根性を根付かせることになった。

日本帝国の敗戦と似ている。上記「中」と「忠」の違いが、前者は誰が何と言おうと、であるのに対し、後者が私はどう思おうと、であるように、何がよいのか正しいかを、自分で決めようともしなくなったのを、奴隷根性と言う。これが現代中国人にも、根深く見え隠れする。

中国人にいわゆる大人タイジンはめったに居ない。その淵源が、九儒十丐にあると思う。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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