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論語詳解293顔淵篇第十二(15)ひろく文を’

論語顔淵篇(15)要約:人は何のために学ぶのか? お金にはならないお作法や古典を、なぜ勉強しなくてはならないのか? 孔子先生はその答えを、自分の居場所を作るためと言います。人は一人で生きられない。だから学ぶのだ、と。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰博學於文約之以禮亦可以弗畔矣夫

論語雍也篇(27)とほぼ重複。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰君子博學於文約之以禮亦可以弗畔矣夫

  • 正平本同。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

※ほぼ同文の論語雍也篇(27)では、「子曰君子博於文約之以禮亦可以弗之畔矣夫」となっており、「學」字を欠き、「弗之畔」と「之」字が加わっている。

標点文

子曰、「君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 君 金文子 金文博 金文学 學 金文於 金文文 金文 要 金文之 金文㠯 以 金文礼 金文 亦 金文可 金文㠯 以 金文弗 金文反 金文矣 金文夫 金文

※約→要・畔→反。論語の本章は、「可以」は戦国中期にならないと確認できない。「博」に”広い”の語義は春秋時代では確認できない。

書き下し

いはく、君子ていしひろふみまなび、これぶるによきつねもちゐば、そむるをもつてすかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「諸君は幅広く知識を学んで、それをまとめるのに貴族の一般常識を用いるならば、それでひとまず、背かないことができるだろうな。」

意訳

孔子 説教
諸君、幅広く勉強するとよいが、すればするほど、本によって言っていることが違うじゃないかと混乱するだろう。その時は貴族の常識に従ってどれを優先すべきか判断してくれ。そうすればまあとりあえず、相矛盾するように見える教えから外れる事は無いだろうよ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「ひろく典籍を学んで知見をゆたかにすると共に、実践の軌範を礼に求めてその知見にしめくくりをつけるがいい。それでこそ学問の道にそむかないといえるだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「廣泛學習、遵紀守法,就不會誤入歧途!」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「幅広く学び、規則を守れば、つまり間違った道に入ることがありえない。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

君子(クンシ)

論語の本章では、”諸君”という孔子から弟子に対する呼びかけ。「諸君子」の略と考えてよい。この語は唐石経を祖本とする現伝論語には欠くが、それ以前に日本に伝来した古注系論語には記す。本章は現存最古の前漢中期・定州竹簡論語に欠くので、最古の版本は日本伝承の古注系になるから、その文字列に従って校訂した。

論語の本章に関してもっとも古い古注系論語は清家本で、年代こそ唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えることから、唐石経を訂正しうる。従って「君子」があるものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

論語 徳 孟子
漢籍で一般的な”地位も教養もある立派な人”の語義は、孔子没後一世紀に現れた孟子が提唱した「仁義」を実践する者の語義で、原義とは異なる。孔子の生前、「君子」とは従軍の義務がある代わりに参政権のある、士族以上の貴族を指した。「小人」とはその対で、従軍の義務が無い代わりに参政権が無かった。詳細は論語における「君子」を参照。また春秋時代の身分については、春秋時代の身分秩序と、国野制も参照。

君 甲骨文 君 字解
「君」(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「𠙵」”くち”で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。「尹」に「𠙵」を加えた字形。甲骨文の用例は欠損が多く判読しがたいが、称号の一つだったと思われる。「先秦甲金文簡牘詞彙資料庫」は、春秋末期までの用例を全て人名・官職名・称号に分類している。甲骨文での語義は明瞭でないが、おそらく”諸侯”の意で用い、金文では”重臣”、”君臨する”、戦国の金文では”諸侯”の意で用いた。また地名・人名、敬称に用いた。詳細は論語語釈「君」を参照。

博(ハク)

博 甲骨文 博 字解
(甲骨文)

論語の本章では”幅広く”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”あまねくゆきわたる”。初出は甲骨文。ただし「搏」”うつ”と釈文されている。字形は「干」”さすまた”+「𤰔」”たて”+「又」”手”で、武具と防具を持って戦うこと。原義は”戦う”(「博多」って?)。”ひろい”と読みうる初出は戦国中期の竹簡で、論語の時代の語義ではない。詳細は論語語釈「博」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

文(ブン)

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

論語の本章では「武」に対する「文」で、”学問一般”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

約(ヤク)

約 楚系戦国文字 約 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”まとまりをつける基準にする”。同音は「要」”引き締まった腰”とそれを部品とする漢字群、「夭」”わかじに”とそれを部品とする漢字群、「葯」”よろいぐさ・くすり”。字形は「糸」+「勺」とされるが、それは始皇帝によって秦系戦国文字を基本に文字の統一が行われて以降で、楚系戦国文字の段階では「糸」+「與」の略体「与」で、糸に手を加えて引き絞るさま。原義は”絞る”。同音の「要」には西周末期の「散氏盤」に”まとめる”と読めなくもない用例がある。詳細は論語語釈「約」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”→”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”貴族の一般常識”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

孔子生前の「礼」は、書き記された教科書があったわけではない。しかも礼法や作法だけでなく、広く貴族の一般常識を指した。従って本章の場合、訓読は礼儀作法「ゐや」でなく、貴族の一般常識「よきつね」と読むのが適切。詳細は論語における「礼」を参照。

亦(エキ)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

論語の本章では”それでひとまず”。婉曲の意を示す。ただしこの語義は春秋時代以前には確認出来ない。字の初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。

可以(カイ)

論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「クーイー」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。ただし「以て…す可し」と読めば、春秋時代での不在を回避できる。

可 甲骨文 可 字解
「可」(甲骨文)

「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

弗(フツ)

弗 甲骨文 弗 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。

畔(ハン)

畔 楚系戦国文字 畔 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”道を外れる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は楚系戦国文字。字形は「田」+「半」”ほとり”で、耕地の境界・あぜの意。原義は”あぜ”。”そむく”と読みうる初出は戦国時代中期または末期の、楚の竹簡。”そむく”の語義は甲骨文から存在する近音「反」に当てた言葉遊び。詳細は論語語釈「畔」を参照。

弗之畔

論語の本章では、”これに背かない”。おそらくこの原文は漢語として壊れており、「之」の指示内容がそれ以前に無い。上掲意訳では”仲間割れしない”ととりあえず訳した。

冒頭の「君子」を指示内容とすれば、”君子らしさに背かない”と解釈出来るが、その代わり冒頭の「君子」を”諸君”と解することは出来ない。「君子」を欠くのみで本章と同文である論語顔淵篇15の存在を考えると、元来「君子」の語は無く、原文伝来の過程で情報の欠如があったと判断する。

「弗之畔」は否定辞+目的語+動詞の順で、上古漢語の特例で、否定文の場合、否定辞の後ろの動詞-目的語の順を倒置できる。論語には「不我知」の例が多数見られる。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”~である”。断定の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

夫(フ)

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

論語の本章では「かな」と読んで詠歎の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、現伝論語の文字列で言えば、論語雍也篇(27)とほぼ重複。

  • 子曰、「君子﹅﹅博學文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫。」(論語雍也篇)
  • 子曰、「博學以文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫。」(論語の本章)

下記する通り元は本章にも「君子」があった。ただし目的語を導くに本章はいずれも「以」を用いる。つまりその分修辞が単純で、古い言葉に近いと思わせるのだが、雍也篇は定州竹簡論語にあるが、本章は無い。焼けたり壊れたりしている可能性はあるが、無いものは無い。

だが文字史的には何とか論語の時代まで遡れ、内容的にも孔子の教説と矛盾が無いから、とりあえず史実として扱う。

なお雍也篇について武内本が「釋文、一本君子の二字なし」と言い、『経典釈文』は隋代の成立なので、日本に論語が入って間もない頃。『経典釈文』の時代、版本によってはどちらにも「君子」が無かったことになる。

解説

論語の本章について、古注では、前々章「訴えを聞くは」前章「子張政を問う」と一体化して記している。しかしこれは江戸儒者の根本武夷が足利本からそのように編集して根本本を編んでしまったからで、どうやら元は三つに分解されていたようだ。

根本の編集の特徴は、一つに各章ごとに要約のようなものを付けたことで、「中国哲学書電子化計画」のテキストは、根本本を祖本とするから、要約のようなものが残っている。この三ヶ章に付けられたのは「子曰至訟乎」。訴訟をなくしたいという孔子の言葉に言及したのみ。

要するに根本も本章が雍也篇と重複しているので、その扱いに困って「いいや、一緒の袋に詰め込んじゃえ」となったわけ。ちゃんと漢文が読めていたかどうか。江戸儒者というのは存外頼りない。以下中華書局本によって復元された、本章部分のみの古注を示す。

古注『論語集解義疏』

子曰君子博學於文約之以禮能以禮約束也亦可以弗畔矣夫畔違背也言人廣學文章而又以禮自約束則亦得不違背正理也
 弗畔不違道也


本文。「子曰君子博學於文約之以禮」。付け足し。礼法で締めくくることが出来る、の意である。
本文。「亦可以弗畔矣夫」。付け足し。畔とは背くことである。言う心は、人は幅広く文章を学んで、同時に礼法で自分を締めくくれば、とりもなおさずそれがまた、正しい道理に背かないことが出来るよう作用するのである。
注釈。弗畔とは道に背かないことだ。

大した事は分からないが、現伝の唐石経を祖本とする論語では、本章に無く雍也篇にはある「君子」が、唐石経より古い古注本章にはあり、古注の段階では二回目の「之」を除き同文が記されていたことになる。古注は中国では一旦滅びたが、日本に入ったのは遅くとも隋代だった(慶大本)。

つまり古注には、唐石経より古い文字列が保存されている可能性がある。清家本が「君子」を記すのはその反映でもある。なお新注『論語集注』は三ヶ章を分けているが、「君子」を記さず、注釈は「重出」のみとあっけない。「重出」の理由を説く気も無いらしい。

鄭玄
なお古注の注釈「弗畔不違道也」を誰が書いたかは、宮内庁書陵部蔵・北宋の邢昺『論語注疏』に「鄭曰」とあるので、鄭玄による注と知れる。ただその画像は、掲載手続きが面倒なのでここには記載しない。興味のある方は→書陵部画像公開システムをご覧頂きたい。

論語の本章、新注は次の通り。

新注『論語集注』

子曰:「博學於文,約之以禮,亦可以弗畔矣夫!」重出。


本文「子曰:「博學於文,約之以禮,亦可以弗畔矣夫!」
論語雍也篇27と同じで重なって記してある。

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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