PRあり

論語詳解199泰伯篇第八(15)師摯の始*

論語泰伯篇(15)要約:後世の創作。呉国使節を接待中の孔子先生。音楽にことのほか造詣の深い先生は、奏でられている曲の聞き所を使節に解説します。ですが文字的には全くのでっち上げで、登場人物もデタラメに扱われています。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰師摯之始關雎之亂洋洋乎盈耳哉

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰師摯之始關雎之亂洋〻乎盈耳哉

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「師摯之始、關雎之亂、洋洋乎、盈耳哉。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 師 金文摯 甲骨文之 金文始 金文 關雎之 金文亂 金文 洋 甲骨文洋 甲骨文乎 金文 嬴 金文耳 金文哉 金文

※摯・洋→(甲骨文)・盈→嬴。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「始」「亂」「洋」「乎」の用法に疑問がある。本章は後漢の儒者による創作である。

書き下し

いはく、師摯ししはじめ關雎くわんしよはじめ洋洋乎やうやうことして、みみてるかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「魯の楽団長・師摯(シシ)が関雎(カンショ)の歌を演奏し、曲が始まると、音が広々として耳に充ちるなあ。」

意訳

(同上)

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「楽師の摯がはじめて演奏した時にきいた関雎の終曲は、洋々として耳にみちあふれる感があったのだが――」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「從音樂大師開始獨奏,到結尾的合奏,美妙的音樂充滿了我的耳朵!」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「宮廷楽団長が独奏を始め、最後の合奏に至ると、美しい音楽が私の耳に満ちあふれる。」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

師摯(シシ)

論語の本章では”音楽師の摯”を意味する。似た名の「大師摯」が、殷滅亡時に逃亡したことが論語微子篇12に見える。論語の本章は定州竹簡論語に無いことから、後漢になってつけ加えられた可能性が高く、微子篇を元に後漢儒が創作した全くの架空の話と理解するのが理に合う。

微子篇の話ももちろん紂王の暴君ぶりを宣伝するためのニセモノで、本章はニセモノのまがい物ということになる。「師摯」が誰なのかを追い求めることに、意味があるとは思えない。

架空の人物なのだから、甲金文・竹簡史料に「師摯」の名が出ないのは当然としても、先秦両漢の文献にも、論語のこの泰伯編と微子篇を除くと、後漢の王充が『論衡』で本章をそっくり引用しているほかは、ただ『史記』に記述があるのみに過ぎない。

太史公讀春秋歷譜諜,至周厲王,未嘗不廢書而嘆也。曰:鳴呼,師摯見之矣!紂為象箸而箕子唏。周道缺,詩人本之衽席,關雎作。


私司馬遷は、『春秋歷譜諜』(今では散逸した年代記)を読み進め、周の厲王のところまで来ると、本を投げ捨てて歎かなかったことはない。なんとまあ、師摯は厲王の暴政を見ていたのだ。殷の紂王が箸を象牙で作らせたとき、親族の箕子はその贅沢に危惧を抱き、周の政道が衰えると、詩人は夫婦で異にするべき座布団にかこつけて、関雎(ミサゴ)の歌を作った。(『史記』十二諸侯年表・序)

これだけしか書いてないので分かることだけを繋げれば、師摯は周の厲王の時代の人であること、当時周の政道が乱れていたこと、論語八佾篇20(偽作)で孔子が讃えたことになっているミサゴの歌は、当時の男女関係のみだらを歌った歌であると前漢前半に言われたと分かる。

厲王の在位はBC877-BC841とされるから、孔子が生まれるより500年ほど前の人物で、2022年から500年前と言えば、信長の家臣として有名な柴田勝家の生年で、世界周航に出掛けてボロボロになったマゼラン艦隊の生き残りが、やっとスペインに帰った年だった。

そしてミサゴの歌の歌詞には、どうやり繰りしても漢代より前には遡れない漢字があった。つまり歌そのものが漢儒のでっち上げで、楽師摯の名はあくまで伝説に過ぎず、やはり実在の誰かであろうと確定する努力は無駄で、実在人物として扱うのは間抜けと断じるほかはない。

師 甲骨文 師 字解
(甲骨文)

「師」の初出は甲骨文。甲骨文は部品の「𠂤タイ」の字形と、すでに「ソウ」をともなったものとがある。字形の「𠂤」は兵糧を縄で結わえた、あるいは長い袋に兵糧を入れて一食分だけ縛ったさま。原義は”出征軍”。「帀」の字形の由来と原義は不明だが、おそらく刀剣を意味すると思われる。全体で兵糧を担いだ兵と、指揮刀を持った将校で、原義は”軍隊”。用例:もともと”軍隊”を意味する語で、日本語での「師団」とはその用法。甲骨文の段階ではへんの𠂤だけでも”軍隊”を意味した。それが”教師”の意に転じた理由は、『学研漢和大字典』では明確でなく、『字通』では想像が過ぎる。”将校”→”指導者”と考えるのが素直と思う。甲骨文の語義は不明。金文では原義の他、教育関係の官職名に、また人名に用いられたという。さらに甲骨文・金文では、”軍隊”の意ではおもに「𠂤」が用いられ、金文でははじめ「師」をおもに”教師”の意に用いたが、東周になると「帀」を”技能者”の意に用いた。詳細は論語語釈「師」を参照。

摯 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

「摯」の初出は甲骨文。字形は「執」+「手」。「執」は手かせをはめられて跪く人の姿。全体で捕らえた様。甲骨文には複数の用例があるが、欠損が激しくて語義が分からない。西周~春秋の金文は発掘されておらず、論語の時代での語義は不明。戦国の竹簡は全て「執」と解されている。「執」の異体字として扱ってよかろう。詳細は論語語釈「摯」を参照。

下を「鳥」に変えると「鷙」=”猛禽”となり、音は同じ「シ」。三国呉の孫権が武将呂蒙を讃えて「鷙鳥百をひゃくぬるも一ガクに如か不」といい、呂蒙=ミサゴ=關雎より弱い鳥として例えられている。漢代まではれっきとした恐ろしい鳥として描かれたのにどういうことだろう。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

始(シ)

始 金文 始 字解
(金文)

論語の本章では”序曲”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。ただし字形は「㚸 外字」。字形は「司」+「女」+〔㠯〕”農具のスキ”。現伝字形の初出は西周末期の金文。ただし部品が左右で入れ替わっている。女性がスキをとって働くさま。原義は不詳。金文で姓氏名に用いられた。詳細は論語語釈「始」を参照。

武内本には、「始は治に通ず」とある。だが「治」は「始」と異なり、秦系戦国文字までしか遡れない。治は「水+(音符)㠯」で、河川に人工を加えて流れを調整すること。㠯・以・台・治などはすべて人工で調整する意を含むとされる。詳細は論語語釈「治」を参照。

仮に武内本が正しいとすると、「師摯之始」は、”師摯による演奏”と解せるが、上記の通り師摯は前漢前半では孔子より500年も前の人物とされており、荒唐無稽も甚だしい。

關雎(カンショ)

関 金文 雎 隷書
「關」(金文)/「雎」(前漢隷書)

論語では、『詩経』の開巻第一に記されている古詩で偽曲(戯曲の誤字ではない)。

「關」の新字体は「関」。初出は戦国初期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は慣・串など。字形は「門」+「カン」で、門を閉じたさま。「卝」の初出は後漢の『説文解字』。詳細は論語語釈「関」を参照。

「雎」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は「且」を部品に持つ漢字群。字形は「且」(音符)+「鳥」で、ミサゴを意味するとされる。上掲の隷書はおそらく、戦国末期の縦横家范雎の名を記したもの。詳細は論語語釈「雎」を参照。

現伝の歌詞は次の通り。

關關雎鳩、在河之洲。 窈窕淑女、君子好逑。
參差荇菜、左右流之。 窈窕淑女、寤寐求之。
求之不得、寤寐思服。悠哉悠哉、輾轉反側。
參差荇菜、左右采之。窈窕淑女、琴瑟友之。
參差荇菜、左右芼之。窈窕淑女、鍾鼓樂之。


カン關となく雎鳩ミサゴは、河之洲に在り。 窈窕たる淑女は、君子の好きつれあい
かつながくかつみじか荇菜アサザは、左右に之をもとむ。 窈窕たる淑女を、てもめても之を求む。
之を求めて得られ不、寤ても寐めても思いがる。ヨウ悠哉と、輾轉てんてんねがえりをばつ。
かつながくかつみじか荇菜アサザは、左右に之をる。窈窕たる淑女を、琴瑟のごとく之を友とせん。
かつながくかつみじか荇菜アサザは、左右に之をる。窈窕たる淑女を、鍾鼓のごとく之を樂ません。

關雎の歌が現伝の『詩経』に載っているからと言って、必ずしも論語の時代にあったとは言えない。また『定州論語』には、八佾篇を含め關雎の歌の記述が無い。その部分の簡が欠けてしまった可能性はあるが、ともあれ現伝最古の論語に記載が無い。

この歌詞に、春秋時代にあり得ない漢字がボコボコと使われている件については、論語八佾篇20解説参照。つまり前漢儒による全くのでっち上げである。

亂(ラン)

亂 金文 乱
(金文)

論語の本章では、”序曲”。この語義は春秋時代に確認できない。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「イン」を欠く「𤔔ラン」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。

通説では”音楽の終わりごろ”と解するが、根拠は儒者の根拠無き出任せで、信じるに値しない。古注の儒者は「亂」が何を意味しているかだんまりを決め込んでいる。新注で朱子が「亂,樂之卒章也。史記曰、關雎之亂以為風始。」(乱とは音楽の終わり部分のことである。史記は言う、ミサゴの歌の乱は”風の始まり”になる、と)と書いているが、風の始まりとは多分世間の風紀が乱れたのをミサゴの歌で皮肉って、風紀を整えることを言うのだろう。だからといって「亂」が”おしまい”の意であることの証拠にはぜんぜんならない。

ここで恐縮ながら漢語の上古音を取り扱う。「亂」のカールグレン上古音はlwɑn(去)、同音は異体字の他は「卵」(上)。又近音に「濫觴」(はじまり)の「濫」があり、glɑm(上/去)。「卵」といい「濫」といい、”はじまり”は意味するが”おしまい”はぜんぜん意味しない。

洋*洋乎(ヨウヨウコ)

論語の本章では、海洋のように広々としているさま。名詞の繰り返し+乎で”名詞のようなさま”を意味する用例は、甲骨文・金文はもちろんのこと戦国の竹簡にも見られない。つまりこのような修辞があることが、論語の本章が帝政期の捏造であることを証明している。

洋 甲骨文 洋 字解
(甲骨文)

「洋」の初出は甲骨文。金文は未発掘。字形は「羊」+「水」。「羊」で音を表し、「水」で水の関わる語であることを示す。全体で”海洋”。甲骨文では”海洋”の意に用いた。詳細は論語語釈「洋」を参照。

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

「乎」は論語の本章では”~であるさま”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

盈(エイ)

盈 石鼓文 給 字解
(石鼓文)

論語の本章では”満ちる”。初出は春秋末期の石鼓文。字形は「夃」+「皿」。「夃」は「人」+「又」”手”で、全体で皿に盛り付けるさま。同音に「嬴」”みちる”が存在する。春秋末期までの用例は断片の石鼓文しかなく語義未詳。戦国最末期の「睡虎地秦簡」倉律24に「入禾未盈萬石而欲增積焉」とあり、”満たす”と解せる。詳細は論語語釈「盈」を参照。

耳(ジ)

耳 甲骨文 耳 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”みみ”。限定を意味する。この用法は春秋時代では確認できない。「耳」の初出は甲骨文。初出は甲骨文。字形はみみを描いた象形。原義は”みみ”。甲骨文では原義と国名・人名に用いられ、金文でも同様だったが、”…のみ”のような形容詞・副詞的用法は、出土物からは確認できない。詳細は論語語釈「耳」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、定州竹簡論語に漏れていることから、前漢前半までは存在しなかったことになる。また春秋戦国の誰一人引用も再録もせず、ほぼ全文を後漢の王充が『論衡』に再録したのが、先秦両漢で唯一の例となる。文字史的にも論語の時代に遡れず、漢字の用法にも怪しい点がてんこ盛りの上、ろくに時代考証もせず師摯を取り扱っている。

ゆえに本章は、後漢儒によるデタラメ極まりない捏造と断じうる。論語解説・後漢というふざけた帝国も参照。

解説

論語の本章の製作意図は、後漢儒がこの泰伯編を膨らませたかっただけとしか言いようが無い。本章が史実である可能性は全くないが、後漢儒が呉の使いの接待の場面と読ませたがったのは分かる。

孔子 へつらい
ほれお聞きなされ。摯どののミサゴの歌の演奏は、ここからの終わり頃が聞き所ですぞ。わだつみのように広々と、何ともすばらしいではござらぬか。

呉王夫差
呉はその王・夫差こそ、「呉王有墨」(『春秋左氏伝』哀公十三年)とあるように、野蛮な入れ墨をしていたが、文化人がいなかったわけではなく、季札(公子札・延陵季子とも)という王族は、孔子8歳の時魯・斉・衛・晋を巡り、作法にかなった発言や教養を披露している。

魯国では、季札に次々と由緒ある名曲を聴かせたが、それぞれごとに適切な批評を言い、『春秋左氏伝』に長々と記録されている(襄公二十九年・BC544)

当時の楽師は盲人が務めた。孔子は音楽の手ほどきを、師襄子から受けたと『史記』にある。しかし本章に名が残る楽師は摯であり、師襄子とは別人と考えるべきだろう。

新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰師摯之始關雎之亂洋洋乎盈耳哉註鄭𤣥曰師摯魯太師之名也始猶首也周道既衰微鄭衛之音作正樂廢而失節魯太師摯識關雎之聲而首理其亂者洋洋乎盈耳哉聴而美也疏子曰至耳哉 師魯太師也摯太師名也始首也闗雎詩篇也洋洋聲盛也于時禮樂崩壞正聲散逸唯魯太師猶識關雎之聲而首理調定使聲盛盈於耳聴也侃謂即前篇孔子語其樂曰樂其可知始作翕如之屬而其受孔子言而理之得正也


本文「子曰師摯之始關雎之亂洋洋乎盈耳哉」。
注釈。鄭玄「師摯は魯国の楽団長の名である。始とははじめのことである。周の権威はすでに衰えて、鄭や衛では(みだらな)音楽を作って、正しい音楽が廃れけじめを失った。魯の太師摯は關雎の音色を知っており、始めの整った音調から終わりの急調子まで、洋洋と耳に響いたので、聞いて美しかったのだ。」

付け足し。先生は聞くことの極致を言った。師は魯国の楽団長である。摯は楽団長の名である。始ははじめである。闗雎は詩の名である。洋洋とは音が盛んなさまである。当時(正しい)礼法と音楽は廃れ、曲も滅びかかっていたが、ただ魯の楽団長だけが關雎の曲を知っていた。そしてはじめに整って奏で、音を耳によく響かせた。

皇侃「前篇で孔子は音楽を語って”音楽のコツは、始めは各楽器を揃って奏でさせよ”と言った(→論語八佾篇23)。この通り奏でられるようになったので、その結果孔子は”音楽が正しくなった”と言った(→論語子罕篇15)。」

新注『論語集注』

子曰:「師摯之始,關雎之亂,洋洋乎!盈耳哉。」摯,音至。雎,七余反。師摯,魯樂師名摯也。亂,樂之卒章也。史記曰「關雎之亂以為風始。」洋洋,美盛意。孔子自衛反魯而正樂,適師摯在官之初,故樂之美盛如此。


本文「師摯之始,關雎之亂,洋洋乎!盈耳哉。」摯は、至の音で読む。雎は、七と余の反切である。師摯は、魯の楽師の名である。乱は、音楽の終わり部分である。史記では、「ミサゴの歌の終わり部分によって世の風紀をただす始まりとなった」という。洋洋とは、美しさが盛んであることをいう。孔子は衛から魯に帰国して音楽を正し(論語子罕篇15)たが、官途に就いた初期に師摯に弟子入りして音楽を習ったほどだったので、だから師摯の奏でる曲はここまで素晴らしかった。

余話

レレレのおじさん

論語の本章と、関わってきた儒者の愚劣は覆いようも無いが、それでも論語の本章「洋々乎として耳にみてるかな」は、あるいは語学を学ぼうとする人にとってよいきっかけになるかも知れない。訳者にとって唯一辞書が自由に引ける印欧語、ロシア語がまさにそれに当てはまる。

少年期の訳者は勉強が大嫌いで、とりわけ英語が嫌いだった。一方で当時は山奥の寒村でも本屋の商売が成り立ち、ずらりと取りそろえられた新書の棚に、東郷正延先生の『ロシア語のすすめ』があり、背表紙は当時とあって、赤地に金の鎌とハンマーがあしらってあった。

ふと手に取ったのは、下卑極まりない中学教師への反発からだったかも知れないが、まず目を引いたのは、なんと面白い字を使っているのだろう、という驚きだった。買い求め夢中で読み、まだ頭が柔らかかったからほぼ暗記してしまった。以降英語より出来るようになった。

だがそこで行き止まりだった。画像としてロシア語を覚えはしたが、発音が分からない。NHKのテレビやラジオの講座はあったが、訳者はどういうわけか語学系の通信講座と相性が悪く、続けて見たり聞いたりする根気が無い。だから東郷先生の話にも分からない所があった。

「ドイツ語は男と話すによく、フランス語は女と話すによい、スペイン語は神と話すにふさわしい、ところがロシア語はその全てに適している。」

これはロシア人のお国じまんです。もともと「お国じまん」などというものには誇張はつきものですから、いちいちこういうことばにめくじらをたてることもありますまいが、私のように「病こうこうに入」った人間の耳には、ロシア人のこの「お国じまん」は「まことにごもっとも」にきこえるから妙なものです。

トゥルゲーネフは
「祖国の運命を疑い、物くるおしく思いなやむとき、つえとも柱ともたのむのはいつもおまえだけだ、おお、偉大な、力づよい、真実の、自由なロシア語よ! おまえというものがなかったら、祖国の現状をみてどうして絶望のふちにおちいらずにおられようか。しかし、偉大な国民でもないのにこのようなことばが授かっているとは信ずることができない!」
といっています。(東郷正延『ロシア語のすすめ』p34-35)

フランス革命の頃、文字が読めるロシア人の間では、片や「我らは遅れた野蛮人ではないか?」と恐れ、片や「堕落した西欧文化に対抗できるのは、古代ギリシア・ローマを引き継いだロシア文化である」と胸を張った。両者の対決は政治にも及んでのちの革命に影響した。

ツゥルゲーネフの発言はその中間に立つものと言えそうだが、それでもロシア語への信仰は揺るぎなかったことが見て取れる。しかしロシア語の音を聴き慣れていなければ、いくら文豪が言おうとそのまま鵜呑みにするわけにもいかなかった。だが、ロシア語の歌がこれを変えた。

訳者がいわゆるロシア民謡を知ったのは偶然で、帰省したとき店じまい直前のレコード屋で投げ売られていたCDを買ってからだった。聞いてすぐに魅了された。なんと美しい言葉だろう! そこで東郷先生の本に立ち返って改めて納得した。文法上、詩歌でもないのに常に韻を踏む!


スラウシャー、アチェーチェストワ・ナーシ・スワボードナイ


名誉あれカッコよくないとイヤです、我らの自由な祖国”(ソ連邦/囗連邦国歌)

※第一句”名誉あれ”(形容詞の命令形)と第二句”祖国”(中性名詞)の語尾が[a]のような音で終わるのは偶然、もしくは作詞家があえて”祖国”に女性名詞родинаロージナを当てなかったため。仮にродинаを用いたら、第三句と四句も「ナーシャ」「スワボードナヤ」となって全句韻を踏む。

「オー」とよべば「オー」とこたえる

Волгаヴォールガ, Волгаヴォールガ, мать マーチ роднаяラドナーヤ,
Волгаヴォールガ ―― русскаяルースカヤ рекаレカー!

これは日本でひろく愛唱されているロシア民謡「ステンカ・ラージン」のなかから引いたものですが、いまこれをローマ字で書きかえてみると次のようになるでしょう。

Vólga, Vólga, mat’ rodnáya,
Vólga ―― rússkaya reká!

どうです。なんという[a]音のはんらんでしょうか。…ロシア語では、名詞と形容詞(あるいは形容詞的代名詞)のあいだはつねにこのような、「呼応関係」が存在するのです。(『ロシア語のすすめ』p113-p114)

それから歌詞カードを、辞書と首っ引きで解読する日が始まった。まずふりがなを付けた、まさに仮名垣魯文。次いで音声と聞き比べて校正し、口に出して歌えるようにした。単語本来の長音と、歌うための長音を区別する間に、ロシア語の自然な調子が分かるようになった。

もともと、ロシア語の綴りと発音には原則として食い違いが無い。ペウゲオットがなぜプジョーになるかの理由を知る必要がない。論語の本章のような偽作とともに、世界の半分に高慢ちきどもを広めたアカデミー・フランセーズが何を言ったか、訳者にはどうでもいい。

もちろんロシア語の綴りにも、いくつかの例外はあるから、訳者は間違って覚えていた発音も多いが、歌って補正すれば、おおむね当を得た音が自ずと覚わる。そういうわけで何曲かそらで歌えるようになった。「洋々乎として耳にみち」ていたからだ。

ロシア語の文法は一般的に、欧米語の中では難しいとされる。だが好きで学ぶ者に取っては、そんなものは一々辞書を引けば分かる。辞書を引く手間を苦痛に感じないかどうかが、語学習得の分かれ道と言ってよい。ただし漢文同様、よい辞書を持つことは絶対に必要だ。

ロシア語の場合は次の通り(漢文についてはこちらを参照)。

  1. 研究社 東郷正延編『研究社露和辞典』
    ※露和辞典の究極。これを持っていないと話にならない。ソフト版は持っていないが、よい評判を聞かない。
  2. 大学書林 和久利誓一編『ロシヤ語小辞典』
    ※コンサイス版の露和兼和露辞典。普段使いならこれで十分露文が読める。

このほかにも何冊か持っているが、結局この二冊に落ち着いた。話をロシア語の音に戻すと、上京して学校を出て日が過ぎ自分の事務所前の歩道を掃き掃除していたら、向こうから日本人と明らかにスラヴ人と分かる女性二人連れがロシア語を話しつつ歩いてきた。

思わず聞き惚れ「なんて綺麗なロシア語!」と口に出した。二人は一斉にこちらを向いて目を白黒し、訳者は日本人の方となにがしか言葉を交わし、彼女がスラヴ人に事の次第を説明しつつ歩み去ったことがある。レレレのおじさんに聞き取られて、さぞ驚いたであろうことよ。

語学を学ぶのに、歌から入るのも悪くない。

訳者が始めて丸暗記した歌だが、このoriga版も、男声版(→youtube)もまことに美しい。

中国語版の音源も入手できたから訳しておいた。訳文は字幕をonにしてどうぞ。

参考記事

『論語』泰伯篇:現代語訳・書き下し・原文
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました