論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子使漆雕開仕。對曰、「吾斯之未能信。」子說。
復元白文
※雕→周・開→啓・仕→事・說→兌。
書き下し
子漆雕開を使て仕へしめむとす。對へて曰く、吾之を斯きて未だ信ずること能はずと。子說ぶ。
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逐語訳
先生は漆雕開を仕官させようとした。答えて言った。「私は自分を考えると今なお信じることが出来ない状態です」。先生は喜んだ。
意訳
漆雕開に仕官を勧めたら、まだ自信がないと断った。あやつめ、出来る!
従来訳
先師が漆雕開に仕官をすすめられた。すると、漆雕開はこたえた。――
「私には、まだ役目を果すだけの自信がありません。」先師はその答えを心から喜ばれた。
現代中国での解釈例
孔子要漆雕開當官。漆雕開說:「我還沒自信。」孔子聽後很高興。
孔子が漆雕開を官職に就かせようとした。漆雕開が言った。「私はまだ自信がありません。」孔子は聞き終えてたいそう喜んだ。
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
漆雕開(シツチョウカイ)
(金文大篆)
BC540ー?。孔子の弟子。姓は漆雕、名は啓。漢景帝の名が同じく啓なので、後世名を開と言い換えた。『孔子家語』によると、孔子より11年少。『漢書』芸文志によると、漆雕開の弟子が記した『漆雕子』という書物があったという。また『韓非子』によると、儒家八派のひとつに漆雕氏の儒があったという。
雕の初出は後漢の『説文解字』、カールグレン上古音は子音のtのみ、開の初出は戦国文字、カールグレン上古音はkʰər。同音に豈を部品とする漢字群で、論語の時代に遡れる文字は無い。豈(kʰi̯ər)もまた初出は戦国文字。強いて置換候補を挙げるなら、啓(kʰiər)となる。
ところで、自動詞と他動詞の違いを無視すれば、雕の部品の周の字には、調に通じて”ととのう”の語釈を『大漢和辞典』が載せ、彫刻は素材を整える作業と言えなくは無い。さらに”ほる”意を持つ漢字で、チョウと音読みするものに、彫・琱(金文あり)・錭がある。琱(カ音tのみ)の初文は周とされるから、周(カ音ȶのみ)に”ほる”意があると解することは可能。
仕
この文字の初出は戦国早期の金文で、ギリギリ論語の時代にあったかどうか、というところ。カールグレン上古音はdʐʰi̯əɡで、同音に事があって”仕える”の語義がある。詳細は論語語釈「仕」を参照。
斯之(シシ)
(金文)
「斯」に動詞として”わける”意があることから、論語の本章では「之」を自分として、自分を切って観察する=”自分を振り返ってみると”と解した。伝統的には、”…において”の意と解し、「吾斯之」を「われここにおいて」と読む。
藤堂本では「斯ち之を未だ信ずること能わず」と読み、「之」に「出仕する心構えなど」と注を付けている。しかしそれなら語順が「吾斯之未能信」ではなく「吾斯未之能信」になるはずで、むしろ「之」は倒置の記号とし、「斯」を”これ”という指示詞と解した方が理がある。
吾斯之未能信。(吾れ斯を之、未だ信じる能わず。)
→「吾未斯能信」の倒置。客語(≒目的語。object)が代名詞の否定文は、漢文では否定辞+客語+動詞になるのが通例。
論語語釈「斯」も参照。
說(説)
(金文大篆)
論語の本章では「悦」に音が通じて”よろこぶ”。論語の時代に用いられた金文では、「説」と「悦」は書き分けられていない。初出は戦国文字だが、部品の兌は論語の時代に存在し、”よろこぶ”の語義がある。原義は言葉で頭のもやが晴れること。詳細は論語語釈「説」を参照。
論語:解説・付記
既存の論語本では吉川本に、「公務員になりたい人はいつの世にも多いが、その責任の重さを思えば、良心のある人は躊躇の気持を持つのが当然である」とある。それはそうかも知れないが、そういうことは、自分が先ず京大教授を辞めてから言うべきだと思う。
注釈と称して、論語に偉そうな説教をせっせと書き込んだ中国の儒者同様、「最後の儒者」を自称した吉川や、その亜流の漢学教授の多くは、道徳は他人がするものと心底信じ込んでいる節があり、およそまともな人間の感覚では理解しかねるから、真に受けない方がいい。
孔子が就職しない弟子を喜んだについては、できる・できないの話として解すると面白く無い。そうではなく、自分の手足となって革命の闘士になってもらいたいからであり、その愚痴が論語泰伯篇12の「三年もウチの塾にいると、もうさっさと就職してしまう」に現れている。
ところが弟子にとっては仕官と出世こそ望みであり、その意味では孔子は迷惑な教師だった。しかし孔子も塾の経営者である以上、弟子の進路を放置するわけにはいかず、本章のように口があれば弟子を推薦した。それが孔子の目指す、政治革命の手段でもあったからなおさら。
孔子の政治革命論は、血統を誇る従来の貴族層に、自分が養成した人材を割り込ませることで実践した。この人材を論語では士といい、当時の身分秩序の中で、最下級の貴族を指す士とは意味が違う。孔子が貴族としての技能と教養、高潔な人格を身につけさせた弟子を指す。
さらにそうした士が、孔子の政治論に共鳴して、革命の闘士たる志士になってくれれば、孔子にとって一層都合がよい。論語の本章に挙げられた漆雕開を、孔子は孔門十哲には挙げなかったが、後にその学派が残る程度には、学者として優れていたのだろう。
一説に孔子の弟子は三千人と言われ、孔子一人の手には余る。当然、助教が必要で、孔子は弟子に革命の闘士ばかりを期待したのではなく、一門を維持するための学者も必要とした。その一人が漆雕開であり、仕官せずとも孔子にとって、手元に置きたい人だったのだろう。
コメント
[…] 漆雕憑:孔子の弟子、漆雕開(→論語公冶長篇5)の縁者か、と古来言われる。まるで記録が無いから、そうとしか言いようが無いのだ。 […]