論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰學如不及猶恐失之
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰學如不及猶恐失之
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……曰:「學如弗a及,猶恐[失之]。」207
- 弗、今本作「不」。
標点文
子曰、「學如弗及、猶恐失之。」
復元白文(論語時代での表記)
※恐→𢀜。論語の本章は、「如」「猶」「失」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、學は及ば弗るが如し、猶ほ之を失ふを恐る。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「学習は追いつけないものを追い掛けるようなもので、その上学び終えたことすら忘れてしまうのを恐れるものだ。」
意訳
甲
学んでも学んでもきりがない。
乙
で、あるからして諸君、あの呉国の連中のようなどうしようもない田舎者にならぬためには、ひたすら学ぼうとするしかないのである。
従来訳
先師がいわれた。――
「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「學習如同賽跑,惟恐趕不上,趕上了,又怕被超過。」
孔子が言った。「勉強は競走と同じだ。ただ追いつかないこと、追いついてしまったことを恐れ、また追い抜かされないかと恐れる。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
學(カク)
(金文)
論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
論語の本章では”~のようだ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
不(フウ)→弗(フツ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語は「弗」と記す。「弗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。
及(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”手が届く”→”学び取れる”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。
猶(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”さらに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「酉」”酒壺”+「犬」”犠牲獣のいぬ”で、「猷」は異体字。おそらく原義は祭祀の一種だったと思われる。甲骨文では国名・人名に用い、春秋時代の金文では”はかりごとをする”の意に用いた。戦国の金文では、”まるで…のようだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「猶」を参照。
恐(キョウ)
(戦国金文)
論語の本章では”不安がる”。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。字形は「工」”ふた”+「心」で、勢いを閉じられた心のさま。原義は”恐れる”。論語時代の置換候補は、同音同調の「𢀜」で、西周中期の金文より存在する。詳細は論語語釈「恐」を参照。
失(シツ)
(金文)
論語の本章では”うしなう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。同音は「室」のみ。字形は頭にかぶり物をかぶり、腰掛けた人の横姿。それがなぜ”うしなう”の意になったかは明らかでないが、「羌」など頭に角型のかぶり物をかぶった人の横姿は、隷属民を意味するらしく(→論語語釈「羌」)、おそらく所属する氏族を失った奴隷が原義だろう。西周早期の金文に、”失敗する”と読めなくもない例があるが、確定しない。”うしなう”の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「失」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、現伝の「學如不及…」であろうと定州竹簡論語の「學如弗及…」であろうと、春秋戦国時代どころか先秦両漢の引用や再録が一切無い。定州竹簡論語に含まれていたことから、前漢前半には論語の一章として成立していたことになるが、儒者や他学派の興味を一切引かなかったと見える。再出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』になる。
ただ文字史上は全て論語の時代に遡れ、内容も史実の孔子の教説と矛盾しないから、とりあえず論語の本章は史実として取り扱ってよい。
解説
論語や孔子の教説に不満を持つ者でも、孔子が大変な勉強家であったことは認めないわけにいかないだろう。生涯学び続けたから、聖人=万能の人、と言われるようになった。論語述而篇16の、「私にもう数年の寿命を加えて、五十になっても学べば、大きな間違いをしなくて済むだろう」がそれ。ただしこの章は後世の偽作で、「孔子かくあるべし」の期待でこうなった。
古代の日本人には中国を先進国として崇め奉った者が多く、論語も一切疑わず生真面目に信じた。だからこの偽作は、日本の伝教大師最澄が「我れ鄭重に此の間託生して、一乗を習学し一乗を弘通せん」(もう一度生まれ変わっても勉強がしたい)と言ったのに似ている。
ペニシリンの無い時代に70過ぎまで生き、身長2mの超人孔子は、勉強が苦にならない体質だった。だから弟子は圧倒された。論語為政篇11で「古くさい知識を洗い落として、新しい学問に通じるなら、それでやっと教師稼業が務まる」と自慢したのももっともだ。
ただしそれは孔子のような超人、あるいは最澄のような不思議な能力者だから出来ることだし、言えることで、訳者にはどうしても、最澄と顔淵が重なって見えて仕方がない。最澄時代の天才と言えば弘法大師空海こそまさにそれで、論語で言えば子貢に当たるのだろうか。
さてこの論語泰伯編は、もと孔子と呉使節の応接として作られたのは明らかで、主に後漢儒が余計な偽作をねじ込んだから分かりにくくなっているだけ。従って本章もその文脈で捉えてよく、孔子の独白が唐突に入る違和感は意訳乙のようにすれば解決する。
前章
やれやれ終わった終わった。田舎者はたちが悪い。すぐカッとなるくせに小ずるい。幼稚でダサいくせに見栄を張る。無知なくせにウソをつく。知らんよ、あんな連中。
本章
で、あるからして諸君、あの呉国の連中のようなどうしようもない田舎者にならぬためには、ひたすら学ぼうとするしかないのである。
この論語泰伯篇はこれ以降、架空の人物である古代の聖王を取り上げて、孔子の愚にも付かないつぶやきを載せている。つまりまるでここまでと毛色が違う。本篇に収められた曽子の説教が全部後世の偽作であるように、以降のつぶやきも後世の膨らましと見るべきだ。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語義疏』
子曰學如不及猶恐失之註學自外入至熟乃可長久如不及猶恐失之耳疏子曰至失之 言學之為法急務取得恒如追前人欲取必及故云如不及也又學若有所得則戰戰持之猶如人執物恒恐去失當録之為意也李充曰學有交勞而無交利自非天然好樂者則易為懈矣故如懼不及猶恐失之況可怠乎繆協稱中正曰學自外來非夫內足恒不懈惰乃得其用如不及者已及也猶恐失者未失也言能恐失之則不失如不及則能及也 註學自至之耳如注意則云如若也言人學宜熟若學而不及於熱雖得猶恐失之也
本文「子曰學如不及猶恐失之」。
注釈。学問とは自分の外から入ってくるからそれが熟するには時間が掛かる。忘れるのを恐れるのももっともだ。
付け足し。先生は失うことの極致を言った。学ぶことを言ってそれを急務としたのは、会得とはいつも前の人に追いつくようなもので、追いつきたいと思えば必ず追いつく。
だから「及ばざるが如し」と言った。またもし学問を会得しても、直ちにガタガタ震えが来るのは、好ましいものを持っていて失うのを恐れるのと似ている。それが本章を記した意義だ。
李充「学問はマゾになって学ぶべきもので、欲得ずくで学んではならない。生まれつきの学問好きでなければ、どうせだらけるに決まっているのだ。だから”追いつかないのを恐れるように”学ばねばならぬ。怠けるなどとんでもない。
繆協は中正の教えを唱えて言った。「学問とは外から取り込むもので、勝手に満足してはならない。恒にサボらず学んでやっと、ものの役に立つ。」
如不及とはすでに及んでいることだ。猶恐失とはまだ失っていないことだ。その心は、失うのを恐れていれば失わないし、まだ及んでいないことも及ぶことが出来る。
続いて新注。
新注『論語集注』
言人之為學,既如有所不及矣,而其心猶竦然,惟恐其或失之,警學者當如是也。程子曰:「學如不及,猶恐失之,不得放過。纔說姑待明日,便不可也。」
本章の心とはこうだ。人は自分が知っていると思っていることでも、足りない点が必ずある。だから心に怯えがあり、ひたすら無い知恵を失うことを恐れる。そう言って学ぶ者を戒めたのだ。
程子「学は及ばざるが如く、なおこれを失うを恐る。知ったかぶりを自覚して、もの言う前に一日考えても、やはり不始末を仕出かすものだ。」
程頤が何を言っているかは、実はさっぱり分からない。
日本で言えば西田キタローと同類で、読む側の「自分の頭が足りないかも」という恐怖に便乗して読者をだます、悪質な手口といってよい。一つだけ程頤ら宋儒を弁護してやるなら、宋代には諌官といって、人にケチを付けて地位を落としたり辺境に流したりするのが役目の陰険な役人がおり、中国版「国家安康」をさかんにやっていた。それを恐れたに違いない。
余話
羊頭狗肉
「やってもやってもきりがない。」論語の本章の孔子の言葉は、何かの技に打ち込んだことがある者なら、誰でも納得するだろう。資格や学位の存在しない論語の時代、例えば漢文の読めない漢学教授のような、「出来る事になっている」という、看板と事実の齟齬はなかった。
- 論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」
こういう客ダマシを漢文では「羊頭狗肉」という。ヒツジの看板を掲げてイヌの肉を売ることだ。論語の時代も現在同様、最も高価なのが牛肉で、次いで羊肉、豚肉と続き、犬肉はありふれた食材だったが鶏肉と並んで安価とされた。この故事成句の元ネタの一つは次の通り。
晏子對曰:「君使服之於內,而禁之于外,猶懸牛首于門,而賣馬肉于內也。公何以不使內勿服,則外莫敢為也。」
春秋時代後半、斉国の家老・晏嬰が主君の霊公に苦言した。
「殿の好みで宮女を男装させるのはかまいませんが、同じ事を領民には禁じるとは聞こえませぬ。牛の頭を看板に掲げ、売るのは実は馬の肉、という肉屋のインチキと同じでございますぞ。領民に禁じたいなら、なんで殿中から禁じないのですか。」(『晏子春秋』雑編)
「出来る」を武道で言えばまず歩き方の困難を克服しなければならないが、武道らしく歩けるようになったとき、世界がまるで違って見える。それ以前には思いもしなかった縮地法など「出来る事」の増加に驚くけしきだが、だからさらにもっと多くの「出来ない事」に気付く。
その「出来ない事」を一つ一つ潰していく過程は、倍々ゲームで「出来ない事」が増えていく道のりでもある。勉強や技術とはそういうものだが、このような「出来る事」を目指さず、「出来る事になっている」で満足してしまう者には、論語の本章は決して腹に落ちない。
例を変えれば上掲した程頤の発言も同様で、信じ難い傲慢と自己中にまみれた人格の発言は、当人以外が読んでもわけが分からない。読んだそばから「なんでそうなる」と脳が不快感を覚え、人格防禦のためそれ以降の文字列を解釈するのを自ずと拒否してしまうからだ。
- 論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」
これは言語的に分からないのではない。どういう話かは理解出来ても、自分の体験として体得できないわけだ。それにしても訳者のような凡俗が、孔子のような超人の気分を体得できるのは、考えてみればすごいことだ。ひとえに言語のおかげで、文字のおかげでもある。
人はいつサルから別れたのだろう。言語や数の概念は、サルでない動物にさえあるらしいから、言語や数で区別は出来ない。多分火を使えるようになったことが、人とサルとの分かれ道ではないか。その次がたぶん文字だろうし、その次はおそらく安価な記録媒体=紙だろう。
もちろん色々な見解があろう。ただ記されたものは記した者の死後まで残るから、人類は膨大な知見を蓄積できた。それなしで、電気やペニシリンの発明があり得たとは思えない。同時に人に害を与える筆記物が、人界に存在するのも否めない。本だから偉いとは言えないわけだ。
日本のDK世代が担ぎ回ったフランス男に、ジャック・ラカンという詐欺師がいて、二次大戦後の雰囲気を反映して頭が真っ赤だった。redの特徴はまじめに数学を勉強しないのに自分を科学的だと言い張ることで、もちろんハッタリだが、同時に数学への劣等感を白状してもいる。
そのラカンがそうした卑屈な真っ赤の連中に向け、次のように書いてたぶらかした。
S(記号表現)/s(記号内容) = s(言表されたもの)、
S = (-1) によって、 s = √-1 が得られる(橘玲『”読まなくてもいい本”の読書案内』)
ラカンは自らの理論を数式として表すことを好んだが、物理学者アラン・ソーカルらは、これが数学的にはまったくのデタラメであり、科学的な外観を装う虚飾であると批判した。(wikipediaジャック・ラカン条)
かように文字情報の真偽や当否は、出来るなら自分で分別できた方がいい。親子兄弟だろうと所詮は他人で、価値判断を他人に任せたままでは、人は生涯奴隷のままで終わる。幸福な奴隷の生涯はあり得るが、その代わり襲い来る不幸を全て他人のせいにしなければならない。
グチグチと愚痴を言って死なねばならない。どんなに辛い生涯でも、自分で選び取ったと確信できるなら、納得して死ぬことが出来るだろう。「貧は士の常、死は人の終」という環境は変えられくても、訳者はそういう自分のせいに出来る死を、下らなくない死だと思っている。
ほんの半世紀前、人類の半分は強いられた生を生き、強いられた死を死なねばならなかった。生きなければならない、死なねばならないのは今なお変わらないが、人に出来る事は時代と共に、確実に増えてきた。その分出来ない事も発見されたが、出来ない→不幸ではなくなった。
なぜなら出来ない事の意義が知れたからだ。古代にそれを言った孔子は、やはり偉大だ。
参考動画
…と書き終えたら、「信じ難い傲慢と自己中にまみれた」DKの「わけが分からない」行状が。
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