論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰興於詩立於禮成於樂
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰興於詩/立於禮/成於樂
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……於詩,立於禮,成於樂。」199……
標点文
子曰、「興於詩、立於禮、成於樂。」
復元白文(論語時代での表記)
※詩→辭。
書き下し
子曰く、詩於興り、禮於立ち、樂於成る。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「詩に始まり、貴族の常識にのっとり、音楽に終わる。」
意訳
学問の学び方でござるか? まず古い詩でも口ずさんでみるとよろしい。そうすると古典や外国語を習おうかという気になる。それが進むと、貴族としてのたしなみが知りたくなる。ここで礼法を学びなされ。その上音楽の素養もあるとなれば、人から頭のいい人だと思われるようになりますぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「詩によって情意を刺戟し、礼によって行動に基準を与え、楽によって生活を完成する。これが修徳の道程だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「以吟誦詩篇抒發熱情、以堅守禮法建功立業、以聆聽音樂娛悅身心。」
孔子が言った。「詩を口ずさむことで熱い思いを表現し、礼法を堅く守ることで功績を挙げ成果を出し、音楽を拝聴することで心身を楽しませる。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
興(キョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”始める”。「コウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)で、漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)の方が拗音な珍例。初出は甲骨文。字形は「同」”乗り物のこし”+「又」”手”四つ。四人でこしを担ぎ挙げるさま。甲骨文から”勢いが盛んになる”の意があり、このほか地名氏族名人名に用いた。詳細は論語語釈「興」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
詩(シ)
(金文大篆)
論語では、孔子が編纂したとされる歌集『詩経』(『毛詩』)のこと。それまでの歌詞三千から、孔子が三百編を選んで収めたとされるが疑わしい。ただし個々の詩は孔子の手による、加筆・削除・改編があったと思われる。論語八佾篇で子夏が問うた詩がその一例に見えるが、実はこの八佾篇の章は後世の創作。
初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は近音の「辞」。字形は「言」+「寺」”役所”のものや、「之」”ゆく”+「口」などさまざまある。原義が字形によって異なり、明瞭でない。詳細は論語語釈「詩」を参照。
立(リュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”(その上に)立つ”の派生義として”従う”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”貴族の常識”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。
成(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”完成する”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。
樂(ガク)
(甲骨文)
論語の本章では”音楽”。初出は甲骨文。新字体は「楽」原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語にあり、文字史上では全て論語の時代にまで遡れるものの、春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。
孔子生前の「君子」とは、まず戦士だった(論語における「君子」)。そんな春秋の君子が、詩やら礼儀作法やら音楽やら、花鳥風月を愛でつつ暮らしたなどあり得ない話で、内容的に本章には疑わしい点がある。
それでも、国際公用語としての「詩」、貴族の一般常識としての「禮」(礼)、教養の完成としての「樂」(楽)が孔子一門にとって重要だったには違いない。方言の多い中国では、外交官として「詩」の教養が必須だったことは『春秋左氏伝』のあまたの例が示しているし、「禮」も礼儀作法に限られず、戦士・役人としての一般常識をも意味した(論語における「礼」)。
孔子塾は庶民が貴族に成り上がるための塾だった。そこでの学びの仕上げが「樂」(楽)であるのはやや不可解だが、声楽も器楽も生まれつきによるところが大きく、難しかったからだろう。逆に言えば、楽を習得し終えるころには、他の技能も身についているはずだ、ということでもある。
だがやはりなお、論語の本章に帝国儒者風味のうさんくささがあるのは、春秋之君子にとって当たり前だった文武両道の、文の側面しか記していないからだ。「詩」「礼」「楽」はその知識と技能を帝国の儒者が独占したから、一人前になるにはわれわれ儒者に頭を下げ、金を払って教われと図々しい方向に論語を書き換えた可能性がある。
しかし文字史的にすべて論語の時代に遡れること、孔子の教説と矛盾がないことから、史実の孔子の発言と捉えてよい。
解説
君子の教養が音楽で完成するというのは、まるまるのウソでなければ孔子の趣味だからかもしれない。孔子が最も好んだ趣味は音楽であったらしく、敵対勢力に包囲されたときも、平気な顔をして琴を奏でていたという(『史記』孔子世家)。
また春秋時代までは、「言」と「音」は書き分けられなかった。両者が書き分けられるのは、始皇帝の時代に漢字が整理統一されるまで遅れる。字形は「辛」”針”+「𠙵」”くち”または「曰」”ものをいう”または「甘」”口に含む”で、甲骨文では時間の順序を示す記号に用いた。
甲骨文:殷代 | 金文:周代 | 篆書:秦代 | 隷書:漢代 |
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論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰興於詩註苞氏曰興起也言修身當先學詩也立於禮註苞氏曰禮者所以立身也成於樂註孔安國曰樂所以成性也疏子曰至於樂 此章明人學須次第也云興於詩者興起也言人學先從詩起後乃次諸典也所以然者詩有夫婦之法人倫之本近之事父逺之事君故也又江熙曰覽古人之志可起發其志也云立於禮者學詩已明次又學禮也所以然者人無禮則死有禮則生故學禮以自立身也云成於樂者學禮若畢次宜學樂也所以然者禮之用和為貴行禮必須學樂以和成己性也 註孔安國曰樂所以成性也 王弼曰言有為政之次序也夫喜懼哀樂民之自然應感而動則發乎聲歌所以陳詩採謡以知民志風既見其風則損益基焉故因俗立制以達其禮也矯俗檢刑民心未化故又感以聲樂以和神也若不採民詩則無以觀風風乖俗異則禮無所立禮若不設則樂無所樂樂非禮則功無所濟故三體相扶而用有先後也侃案輔嗣之言可思也且案內則明學次第十三舞勺十五舞象二十始學禮惇行孝悌是先學樂後乃學禮也若欲申此注則當云先學舞勺舞象皆是舞詩耳至二十學禮後備聴八音之樂和之以終身成性故後云樂也
本文「子曰興於詩」。
注釈。苞氏「興は起きるである。その心は、身を修めるにはまず死を学ぶべきだということである。
本文「立於禮」。
注釈。苞氏「礼は身を立てる手段である。」
本文「成於樂」。
注釈。孔安国「音楽は人格を完成させる手段である。」
付け足し。先生は音楽の極みを言った。この章は人が学ぶ順序を明らかにした。「興於詩」とあり、興は起きることだ。その心は、人が学ぶにはまず詩経を学び、その後でその他の経典を学ぶべきだということだ。その理由は、詩経には夫婦の掟や人としての軌範が書いてあるからで、これに親しむことで家内では父に仕え外では君主に仕える法を学べるからである。また江熙が言った。「詩経に書かれた昔の人の志を見ると、それを真似て自分も志を立てることが出来る。」
「立於禮」とは、詩経を十分学び終えたら次に礼を学ぶべきだということだ。その理由は、礼を知らねば人は死んだも同然で、礼あればこそ生きられるからだ。だから礼を学ぶのはそれで自分の身を立てるためだ。
「成於樂」とは、礼を学び尽くしたら次に音楽を学ぶとよい、ということだ。その理由は、礼の目的は調和にあるから(→論語学而篇12)、必ず音楽を学んで礼を調和させねばならないからだ。それで自分の人格を調和させるのだ。
注釈。孔安国「音楽は人格を完成させる手段である。」
王弼「これは政治の順序を言ったものだ。喜び・恐れ・悲しみ・楽しみの心は、民は心のままに表し、心のままに行動する。つまり心のままに歌う。だから詩経の歌詞をつらつら学ぶことで、民の心を知れる。すでにその心を知ったら、そうした感情の行き過ぎを調整するため、正しい風俗を確立し、民を礼法で規制する。悪習は改め、刑罰でけじめを付ける。民がそのように躾けられないなら、音楽で頭を洗脳して大人しくさせる。もし詩を読まなかったら、民の心が分からず、ろくでもない風習が流行るままになり、礼法に従わせることも出来ない。礼法が立たないなら、音楽も正しくなくなり、礼法に外れた音楽は、どんなにチンチンどんどんと奏でても、世を治める役に立たない。だから詩と礼と音楽は互いに助け合う関係にあり、使う順序に前後があるだけだ。」
皇侃「私の感想では、輔嗣(=王弼)の言ったことを思うべきである。また、『礼記』内則篇は学ぶ順序を明確にしており、十三歳で勺の舞を舞い、十五歳で象の舞を舞い、二十になってから礼を学び、真面目な生活のためには、まず音楽を学び、その後で礼を学ぶとされている。もし孔安国の言う通り、音楽で人格を完成させるなら、その前に必ず勺や象を舞わねばならない。この二つは舞うための歌詞に過ぎず、二十歳になって礼を学んだ後、八つの器楽を習い覚えて、その後は生涯、人格を和ませて完成となる。だから最後に音楽だと言ったのだ。」
新注『論語集注』
子曰:「興於詩,興,起也。詩本性情,有邪有正,其為言既易知,而吟詠之間,抑揚反覆,其感人又易入。故學者之初,所以興起其好善惡惡之心,而不能自已者,必於此而得之。立於禮。禮以恭敬辭遜為本,而有節文度數之詳,可以固人肌膚之會,筋骸之束。故學者之中,所以能卓然自立,而不為事物之所搖奪者,必於此而得之。成於樂。」樂有五聲十二律,更唱迭和,以為歌舞八音之節,可以養人之性情,而蕩滌其邪穢,消融其查滓。故學者之終,所以至於義精仁熟,而自和順於道德者,必於此而得之,是學之成也。按內則,十年學幼儀,十三學樂誦詩,二十而後學禮。則此三者,非小學傳授之次,乃大學終身所得之難易、先後、淺深也。程子曰:「天下之英才不為少矣,特以道學不明,故不得有所成就。夫古人之詩,如今之歌曲,雖閭里童稚,皆習聞之而知其說,故能興起。今雖老師宿儒,尚不能曉其義,況學者乎?是不得興於詩也。古人自洒埽應對,以至冠、昏、喪、祭,莫不有禮。今皆廢壞,是以人倫不明,治家無法,是不得立於禮也。古人之樂:聲音所以養其耳,采色所以養其目,歌詠所以養其性情,舞蹈所以養其血脈。今皆無之,是不得成於樂也。是以古之成材也易,今之成材也難。」
本文。「子曰、興於詩。」
興とは始めることである。詩は当人の心をよく表す。よこしまでも正しくても、言葉に出せば本心は容易に知れる。しかもそれを歌にして吟じるのだから、声の上げ下げや繰り返しに、その歌い手の情緒に同感し没入しやすい。だから学問の始めに位置づけられたのだが、この習得によって善を好み悪を憎む心が養われる。ひとりでにそのような心が持てない者は、こうやって修養を始めるのだ。
本文。「立於禮。」
礼は恭しい仕草と謙遜の心を基本とする。作法のこまごまとした掟は、学ぶ者の外見と中身の修養となる。だから学びの二番目に位置づけられる。そのようにして凡俗から高々とそびえ立ち、下らないあれこれに心が乱されることがない。そのためには礼儀作法の習得が不可欠だ。
本文。「成於樂。」
音楽には五つの鳴り物の音と十二の音階がある。さらに楽器に合わせて声で歌う。こうして歌う・舞うの八つの掟が定まる。これは情操教育に役立ち、下らない心を洗い流し、そのような悪徳をすっかり消し去る。だから学問の締めくくりに位置づけられ、正義と仁義の心を養い、宇宙の原則と我が身を一体化して道徳を身につけるには、音楽が必要なのである。こうして学問は完成する。
いま儒学の規定を参照すると、十歳で初歩を学び、十三歳で器楽と歌詞を覚え、二十歳で礼儀作法を学ぶ。つまりこの三者の順で学ぶので、『小学』を学び終えねば『大学』をいくら読んだところでものにならない。学びには学ぶ順番と難易があるからだ。
程頤「天下の英才は少ないとは言えない。だが正しい手続きを践んで学ばないと、学問はものにならない。結局何のために学んだのか意味が無くなる。
古人が残した歌詞は、当時は歌うための言葉だった。だから田舎のはな垂れガキでも、誰でも知っていたし、何を歌ったのか知っていた。だから学びの始めでもあり得たのだ。だが今では歌の意味が忘れられ、老先生と言われる人でも可死の意味が分からない。まだ勉強が途中の者ならなおさらだろう? だから学びを詩から始めることが出来ないのだ。
また古人は普段の掃除から人との応対、冠婚葬祭の儀式に至るまで、全て礼法にのっとって行った。だがその例法外までは廃れてしまい、その結果人でなしが大手を振って歩き、家政を治めるにも原則が無い。だから今の人間は礼法で身を立てられないのだ。
古人の音楽は、耳を養うようなよい音色で、描く世界も目に美しく、歌の調子は心を穏やかにし、舞は体を丈夫にした。今ではぜんぜんこんな事が無い。だから音楽で学びを完成できないのだ。だから昔は人材育成が容易だったが、今では難しくなったのだ。」
…オイ程頤、じゃあその古人の詩や礼や楽をやってのけろ。知りもしないことを知っているとウソをついて、ただ世間に不満をぶちまけているだけではないか。かような宋儒の壊れた人間性については、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」参照。
また宋儒そっくりなことしている不届き者については、論語泰伯編1余話「あるDKの厚顔無恥」を参照。
余話
あっちへ持っていけ
武道では、十年掛けて稽古するより、十年掛けて良師を探せと言う。実技はどれも同様、訳者はほんの数日帆走実習航海に出たことがあるが、叩けばカンカンと音を立てそうな頼もしい女性ボースン(水兵長)殿に、怒鳴られながらマスト登りをしたのを懐かしく思い出す。
マストの上り下りはものすごく恐ろしいが、どうするかを教えて貰えた。答えは1/4。

航海学校
「詩に興る」と論語の本章は言うが、何が興るか書いていない。教授を本業とすべき教師の言葉としては失格で、訳者も歴代の儒者同様、やむなく「学問」と解したのだが、これは本章を偽作した漢儒の気持を推し量ってのことで、儒者の猿真似をしたわけでは全くない。
猿真似と言えば、儒者の猿真似をして一切自分では調べなかった馬鹿者漢学教授に、戦前の漢文の権威で帝大総長でもあった服部卯之吉がいるが、その訓読をwikisourceのテキストデータは「與」”ともに”と「興」”おこる”で混同している。だがこういう間違いは昔からあった。
有主人以米數石。延蒙師。與之約。讀一別字。罰米一升。至散館。計一年所讀退却。僅存米二升。主人取置案上。師大失望。嘆曰。是何言興與是何言興。主人頋童子曰。連二升一併拿進。
ある家の主人が子供に読み書きを習わせようと、家庭教師の儒者を雇った。契約では年に米数石(明清の1石は約104ℓ)を給与としたが、間違いを一字教えるたびに、罰として一升(同・1.04ℓ)差し引くこととした。
そうして一年が過ぎて清算すると、わずか二升しか残っていなかった。主人が机の上に米二升を乗せると、儒者は大いに失望して歎いた。「これ何の言興る。これ何の言興る。」主人は振り返って子供に言った。「オイ、二升ともあっちへ持っていけ。」(『笑府』巻二・読別字)
※元ネタは「是何言與」。「興」ではない。
つまりこの儒者、ほぼ毎日子供にうそデタラメを教えていたわけだ。そういえば訳者の小学生時代、教師は真顔で「北朝鮮はこの世の天国だ」と児童に擦り込んでいた。教師は権力の手先でしかないから、国歌斉唱に立たないなど子供じみた自己顕示をしてはみても、所詮は自分でものを判断できる能をめったに持たず、擦り込まれたのを擦り込み直しているだけだ。
教師の宿命として、人格の成長は停止する。多くは退化もする。理由は世間が先生々々と下手に出るからで、叱ってくれる者が誰も居ないまま爺婆になる。そのような人生を十何年か送ると、論語泰伯編4余話に挙げたような、矯正不可能な完全無欠の人間のクズが出来上がる。
人格も武術と同じ。痛い目に遭わなければ、何事も上達する道理が無い。いわゆるモンスターペアレントが現れた理由は、一昔前まで内申書とかその他あれこれで、子供を奴隷扱いしていた教師が、歯止めがないからあまりにむごいことを平気で続けてきた反動からだ。
詳細は論語子罕篇23余話「DK畏るべし」を参照。そしてこのように仕上がった動物は、たいてい自分で自分を不幸だと思っている。他人をさんざん不幸にしておきながら、自分には罪が無いと思っている。つまりおのれの愚かさで、自分とまわりの人生を台無しにしているのだ。
論語述而篇24余話「嫌われてるとも知らないで」を参照。無論、立派な先生も世には居る。だが元から立派な人がたまたま教師になっただけで、凡俗はよほど自覚しない限り、愚劣化を免れない。つまり教師に人格を求めるのは間違っている。論語の本章はそれを示している。
教師は自分勝手な都合を言い立てるのが、むしろ当たり前なのだ。学識を期待するのも間違っている。教師とは世の中のお約束で、自分の人生を通り過ぎていくだけの存在に過ぎない。大多数の人間は教師でなく、愚劣な教師に消耗できるほど、人の生涯は長くはないのだから。
漢語「恕」とは「如」相手と”同じように”「心」”気持”を推量することだが、教師を「恕」すれば容易に判明する。人の話など聞きたくないから教師稼業などしているのだ。もっともだが、人格の成長はカネにならんと知ってもいるのだ。それより異性といちゃつくのに忙しい。
世に立派な人間は誰一人いない。だから期待しない。そう覚悟すると、人生は楽になる。
話を引用の儒者のセンセイに戻すと、読み間違えたのは『礼記』や『孝経』にある曽子の台詞、「これ何の言ぞ與」なのだが、本を書き残すほどの儒者はともかく、大部分の儒者の漢文知識はこの程度で、日本の漢文業者もこの程度で世間をたぶらかして飯を食っている。
つまり世間もその程度しか漢文に期待していないわけで、それはそれで健全な判断だ。論語の本章のような内容的に明らかな偽作は、偽作者の気持ちになって解釈しなければならないわけで、春秋時代の漢語がどうこうと余計な小理屈をこね回す必要は無い。
まして現在の論語業者のように、聖人の有り難いお教えと解するのは、間抜けにもほどがある。それに比べればあっちへ持って行かされた儒者センセイは、ただ頭が悪いだけで人格はまだまともと言える。自分の人格破綻に自分で気づけない者が、まさに人格破綻者なのだ。
どうして人格が破綻するかって? そりゃ上記の通り、世間が甘やかすからだ。
参考記事
- 論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」
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