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論語詳解009学而篇第一(9)終わりを慎み°

論語学而篇(9)要約:後世の創作。孔子家の家事使用人、曽子が、後世の儒者におかしな事を言わされています。葬儀や法事を派手にやると、民がおとなしくなると言うのです。でも中国人は古代から、そんなおとなしい人々ではありません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

曽子曰愼終追逺民德歸厚矣

  • 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱

校訂

東洋文庫蔵清家本

曽子曰愼終追逺民德歸厚矣

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

曾子曰、「愼終追遠、民德歸厚矣。」

復元白文(論語時代での表記)

曽 金文子 金文曰 金文 慎 金文終 金文追 金文遠 金文 民 金文徳 金文帰 金文厚 金文矣 金文

※論語の本章の発言者、曽子は孔子の弟子ではない。「遠」「德」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

曾子そうしいはく、をはりつつしとほきをはば、たみすぢあつきにかへたらん。

論語:現代日本語訳

逐語訳

曽子
曽子が言った。身近な親族の葬儀を鄭重に行い、遠い先祖の供養も行うなら、民の道徳はきっと温厚になるだろう。

意訳

曽子 ニセ
カシコいボクちゃんたち儒者が言う通り、みながチンチンポコポコと身内の葬儀や法事を盛大に行うと、下民どもは素直でおとなしくなるのであるぞよ。

従来訳

下村湖人
(そう)先生がいわれた。――
「上に立つ者が父母の葬いを鄭重にし、遠い先祖の祭りを怠らなければ、人民もおのずからその徳に化せられて、敦厚な人情風俗が一国を支配するようになるものである。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

曾子說:「認真辦理喪事、深切懷念先人,社會風氣就會歸於純樸。」

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曽子が言った。「真面目に葬儀を行い、じっくりと先人について好ましい思いを致せば、社会の風潮はすぐに素直でしとやかになることができる。」

論語:語釈

、「 。」

曾子(ソウシ)

曽子 ウスノロ

孔子から「ウスノロ」と評された(論語先進篇17)、後世になって孔子の弟子とされた人物。仮に実在したとしても、その実態はおそらく孔子家の家事使用人で、儒者でも弟子でもない。

『論語』の原始形は、弟子が各自記した講義のメモだが、曽子が記した孔子の講義メモは1通しかない。その1通である論語里仁篇15は、論語の時代にあり得ない漢字を用いており、後世の創作が確定している。つまり曽子が孔子の弟子であった証拠は存在しない。詳細は論語の人物:曽参子輿を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。なお「曰」を「のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

愼(シン)

慎 金文 慎 字解
(金文)

論語の本章では”つつしむ”・”重大なこととして考える”。新字体は「慎」。初出は西周中期の金文。論語の時代に通用した字体では、「真」と書き分けられていないものがある。字形は「阝」”はしご”+「斤」”近い”+「心」。はしごを伝って降りてきた神が近づいたときのような心、を言うのだろう。詳細は論語語釈「慎」を参照。

終(シュウ)

終 甲骨文 終 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”人生の終わり”。つまり葬儀。初出は甲骨文。字形はひもの先端を締めくくったさまで、すなわち”おわり”が原義となる。詳細は論語語釈「終」を参照。

追(ツイ)

追 甲骨文 追 字解
(甲骨文)

論語の本章では”故人を供養する”。初出は甲骨文。字形は「𠂤」”軍隊”+「止」”あし”で、軍隊が追撃することを示す。西周早期の金文では、”故人に供え物をして祭る”の意が加わった。詳細は論語語釈「追」を参照。

遠(エン)

遠 甲骨文 遠 字解
(甲骨文)

論語の本章では”先祖”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、距離が遠いこと。時間が遠いことではない。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。詳細は論語語釈「遠」を参照。

追遠

論語の本章では”遠い祖先の供養をする”。「慎終」と対を為す概念で、身近な親族に対し、会ったことの無い遠い祖先の冥福を祈る行為を言う。論語の時代は則ちブッダが悟りを開いた時期にあたるので、中国にまだ仏教は入っていなかったが、祖先崇拝は盛んだった。

従って冥土の祖先に生者同様のお供えをする習慣も盛んだった。お供えにはいけにえの動物が好まれ、これを「血食」という。

ただしその表記は「追考」”父親に供養する”「追孝于己白」”自分の叔父に供養する”など具体的個人と特定するのが通常で、「遠」だけで”先祖一般”を意味した例を春秋末期までに確認できない。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

德(トク)

徳 甲骨文 孔子 TOP
(甲骨文)

論語の本章では”道徳”。新字体は「徳」。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔コン〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文では”進む”として用いられており、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。詳細は論語語釈「徳」を参照。

孔子の生前では、”道徳”を意味しない。権力や人生経験や技能教養に裏打ちされた、隠然とした人格的圧力=人間の機能。武力もその背景となる。さらに人格から進んで、政治力や現世的利益「得」をも意味する。詳細は論語における「徳」を参照。

ただし本章の発言者は曽子であり、後世の創作が確定するので、”道徳”として訳すのが妥当。

歸(キ)

帰 甲骨文 帰 字解
(甲骨文)

論語の本章では”戻っていく”。新字体は「帰」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠂤タイ」”軍隊”+「シュウ」”ほうき→主婦権の象徴”で、軍隊が王妃に出迎えられて帰還すること。詳細は論語語釈「帰」を参照。

厚*(コウ)

厚 甲骨文 厚 字解
(甲骨文)

論語の本章では”充実したさま”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「厂」”がけ”+”酒壺”で、崖の洞穴で酒を醸し、味が濃厚になることだと言うが、その他諸説あって原義は不明。金文の段階で”多い”・”大きい”を意味した。詳細は論語語釈「厚」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「終りを慎むこと始めの如し」という言葉は戦国時代の『荀子』にあるが、「愼終追遠」を誰も引用せず、後漢初期の『白虎通義』になって、やっと「所以慎終重喪也」の語が見られる『孔子家語』の「慎終之規」は、あるいは前漢まで遡るかも知れない。

だが「民德歸厚」は、後漢末の徐幹による『中論』にならないと現れない。「民德」は荀子が次のように言う。

以從俗為善,以貨財為寶,以養生為己至道,是民德也。

荀子
地元の習慣に従うのを善とし、財貨を宝とし、健康維持を自分の人生の目的とする。これが民の徳である。(『荀子』儒功14)

この「民德」は”民の道徳”と解せないことはないが、”民の機能”→”民とはそうする者だ”とも解せる。あるいはさっさと「徳」=「得」という春秋時代以来の語義に従い、”民はそういうことを自分の利益だと思っている”と解した方がおそらく正しい。いずれにせよ論語の引用ではない。

また論語の本章の発言者の曽子は、孔子家の家事使用人で、弟子でも学者でも政治家でも役人でももの書きでもない。

次に論語の本章は、「民德厚矣」と言い、「民德厚矣」とは言わない。つまり民の徳はもともと厚く、一時的に薄くなってもいずれ元の厚さに帰って行く、という性善説が前提になっている。これは孔子の教説ではなく、孔子没後一世紀に生まれた孟子の教説。

漢帝国以降の官僚儒者は、孟子の系統を引くから、本章をこしらえ、あるいはおかしいと思わない感性を持っているが、孔子は人が本来善とも悪とも言っていない。

孔子
中国人というものは、夏・殷・周王朝がウソのない政治で治めてきた人々なのだから、根は素直で仕事をごまかしはしないから。(論語衛霊公篇25・偽作)
論語 孔子 水面キラキラ
人の世を生きるには、真っ直ぐに生きなさい。後ろ暗い事をして生きているのは、たまたまお目こぼしされているだけだ。(論語雍也篇19)

善人だろうと悪人だろうと、技能教養を身につけたなら真っ直ぐに生きられるし、二つが伴えば貴族として一人前だというのが、孔子の教説だった。以上、発言者や内容から見て、論語の本章は定州竹簡論語に無いこともあり、成立は恐らく、後漢まで下ると思われる。

解説

孔子の生前、「徳」とは”機能”の意だったが、”道徳”と言い出したのは、孔子没後一世紀に現れた孟子。

孟子曰:「以力假仁者霸,霸必有大國,以行仁者王,王不待大。湯以七十里,文王以百里。以力服人者,非心服也,力不贍也;以服人者,中心悅而誠服也,如七十子之服孔子也。《詩》云:『自西自東,自南自北,無思不服。』此之謂也。」

孟子
孟子が申しました。「武力で仁義のふりをする者を覇者と言い、覇者は必ず大国の主だ。道徳で仁義を行う者を王者と言い、必ずしも大国の主ではない。殷の開祖湯王はたったの七十里四方、周の開祖文王はたったの百里四方しか領地がなかった。

武力を見せつけられて人に従った者は、腹では舌を出しているし、従えた者を決して敬おうとはしない。道徳で人に従った者は、心から喜んでいるし、心から従おうとする。七十人の弟子が孔子に従ったのがそれだ。

『詩経』にいう、”東西南北、誰一人従いたがらない者はいない”と。それが道徳の力だ。」(『孟子』公孫丑上3)

孟子は戦国の世間師として、儒学を儒教に作り替えて諸侯に売り歩いたが、売り歩くにあたっても威嚇用の手下が必要で、そして彼らを養わねばならなかった。道徳など孟子にとってはどうでもよく、つまり諸侯を口から出任せでだましたのである。

(孟子が世間師商売をしているのを見て、寄食先国の役人がイヤミを言った。)
彭更「先生は数十両の車を従えて、お付きの者が数百人、そうやって諸侯の間を説き回ってはめしを食っていますが、いつまで続くものですかね?」(『孟子』滕文公下9)

もちろん、真に受けた諸侯は少ない。そこまで間抜けではなかったからだ。少しだけ聞く振りをした斉国は孟子のせいで一旦国が滅び、殿様は惨殺されるに至った。全面的に真に受けたトウの文公は、国を滅ぼす結果になった。

論語の本章について従来訳の解釈は、ほぼ朱子=新注の受け売りと言っていい。本章では「民」となっているのが、新注では「下民」になっている。

新注『論語集注』

慎終者,喪盡其禮。追遠者,祭盡其誠。民德歸厚,謂下民化之,其德亦歸於厚。蓋終者,人之所易忽也,而能謹之;遠者,人之所易忘也,而能追之:厚之道也。故以此自為,則己之德厚,下民化之,則其德亦歸於厚也。

朱子
慎終とは、礼法にかなった葬儀をすることだ。追遠は、誠実な祭祀を行うことだ。民徳帰厚は、下民にこのことわりを教えることを言い、そうした道徳が丁寧に行われるようになることを指している。
ところが私の感想では、人は自分の死を考えないようにして生きている。しかし我ら君子は、死を身近に捉えることが出来る。人は遠い先のことを考えないで生きている。しかし我ら君子は、それをあらかじめ考える事が出来る。
これが下民に道徳を行き渡らせる道だ。だからこの二つを考える習慣を身につけると、自分の道徳が高まる。それを教えれば、下民でさえ道徳的になるだろう。

けだし」=個人の感想では、と朱子が白状しているように、従来訳のように解釈せねばならない根拠は何もない。しかも”下民どもに我ら賢い儒者がものを教えてやる”という態度は感心できない。だが本章に限るなら、創作した儒者が朱子同様「下民」と思っていた可能性はある。

朱子は孔子より1679年後の人物だが、それより前の儒者官僚の民衆観も同じだろう。孔子も論語を読む限り民主主義者でなく、民を「教えてやる﹅﹅」つもりだった(論語子路篇9)。だが決して「下民」とは言っていない。朱子の口吻は、儒者の高慢ちき中国史上最高潮を反映している。

朱子の生きた宋帝国では、儒学が他学派を完全に圧倒し、官僚兼政治家のほぼ全てが、儒教的知識人=儒者で占められるようになった。縁故ではなく試験を自力で突破してきただけに、儒者は万能感に包まれていた。ゆえに開祖の孔子をも凌ぐ、高慢ちきになるのも当然だった。

それとは対称的に、むしろ皇帝の方が腰が低かった。失政を素直に謝っている。

恩倖持權,貪饕得志,縉紳賢能陷於黨籍,政事興廢拘於紀年。賦歛竭生民之財,戍役困軍旅之力。多作無益,侈靡成風。利源酤榷已盡,而牟利者尚肆誅求;諸軍衣糧不時,而冗食者坐享富貴。災異謫見而朕不悟;衆庶怨懟而朕不知。追惟己愆,悔之何及!…咨爾萬方、體予至意!


お気に入りの者ばかりをひいきしたので、そやつ等が得たりとばかりに社会を食い荒らし、世を善導すべき儒者たちも、派閥争いばかりに身をやつした。政治は放置されてしまい、時運の上がり下がりも干支次第というありさまで、政府は何の役にも立たなかった。

むごい取り立てに諸君は苦しみ、むやみにその身をこき使われたので、戦いに耐える者とてなく、国軍はガタガタになってしまった。政府のやることなすこと無駄ばかりで、そればかりか浮ついた風潮ばかりが世に流行った。

社会の資源は尽き果てたのに、暴利を貪る連中がはびこって、さらなる取り立てを激しくした。それゆえ国軍には兵粮も軍衣も行き渡らず、なのに何一つしない連中ばかりがますます富み栄えた。

天災人災が度々起こり、朕の目を覚まさせようとしたにもかかわらず、朕は悟らず放置した。諸君に怨まれていることすら気が付かず、ついにこの有様だ。

今になってどんなに悔やもうとも、もう取り返しがつきそうにない。…ああ民百姓の諸君、どうか予(わたし)を許してくれ!(北宋徽宗「罪己詔」

最後に「朕」”わし”=皇帝専用の一人称でなく、「予」”わたし”と言ったのに注目。

徽宗だけではない。朱子の仕えた宋の開祖趙匡胤も、主君だった高宗も、政治の不行き届きを民にわびた。それゆえだろう、北宋の滅亡を救わんと、民百姓はこぞって義勇軍に参加した。政府との信頼が徹底的に損なわれている現代中国には、あり得べからざる壮観があった。

余話

多数派がものを言う

現代日本での役人は公僕という事になっている。その公僕が国会で「コクミンのミナサマ」と棒読みで言うのを聞くと、何となく腹が立つのは訳者だけだろうか。だがさすがの高級官僚も、朱子の真似して「下民」と口に出そうものなら、袋叩きに遭って辞めさせられるだろう。

さらに官僚諸氏が腹の中で何を思っているかは、問わないのがまともな憲政というものだ。だが伝統中国では、役人と庶民の間に主人と奴隷の如き差別があった。中国社会の悪として、まずホンパンチン幇などの秘密結社が挙がるが、役人の横暴から身を守る必要悪でもあった。

中国の儒者官僚や江戸の役人が平気で「下民」と言えたのは、社会もそういうものだと思っていたからだが、その気分は戦前の「陛下の官僚」にも引き継がれた。威張っていたのは軍人だけではなかった。だがこと広報になると、陸軍省ですら庶民に丁寧な言葉を使った。

議会を備えた国民国家の政府は、国民にそっぽを向かれると戦争に負けてしまい、君主や政府要人の身すら危ない事実の反映だった。同様に論語の時代、春秋の貴族は時に庶民を殺しもしたが、家臣や領民にそっぽを向かれると、まず天寿を全うできなかった。

春秋時代、斉国公は四割が殺されている

伝統中国の君臣関係は、「総統が命じ、我は順う」方式では決してなかった。都合の悪い皇帝はしばしば暗殺された。春秋時代も同様で、孔子の友人の子だった孟武伯は、当主を継ぐと主君である魯の哀公にインネンをつけ、震え上がった哀公は国外逃亡、まもなく客死している。

孔子若年時の魯の昭公も同様で、君主も貴族も、威張れば務まる気楽な身の上ではなかった。大貴族の家は現代で言う財団法人で、領地領民家臣家職を含めた家産を守るのが、当主に求められた役割で、それが果たせない当主は、必ず地位を追われ多くは殺された。

殺されて竹やぶに捨てられた斉の懿公の例もある。論語雍也篇16余話を参照。

『論語』学而篇:現代語訳・書き下し・原文
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