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論語詳解278B先進篇第十一(26)求なんじは何如*

論語先進篇(26)要約:後世の創作。ある日の孔子塾でのおしゃべり風景。まだ年若い冉有ゼンユウと公西赤に、政治への抱負を尋ねる孔子先生。控えめな二人はそれぞれに、控えめな答えを返しました、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

求爾何如對曰方六七十如五六十求也爲之比及三年可使足民如其禮樂以俟君子赤爾何如對曰非曰能之願學焉宗廟之事如會同端章甫願爲小相焉

※「禮」字のへんは「礻」。

校訂

東洋文庫蔵清家本

求爾何如對曰方六七十如五六十/求也爲之比及三年可使足民也如其禮樂以俟君子/赤爾何如對曰非曰能之也願學焉宗廟之事如會同端章甫願爲小相焉

※「禮」字のへんは「礻」。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

「求!壐何]如?」對曰:「[方六七十,如五六十,求也為]301……對曰:「非曰能之也a,願學焉。宗廟之事,[如會同,端]302……甫,願為小相焉。」

  1. 也、今本無。

標点文

「求、壐何如。」對曰、「方六七十、如五六十、求也爲之、比及三年、可使足民也。如其禮樂、以俟君子。」「赤、爾何如。」對曰、「非曰能之也。願學焉。宗廟之事、如會同、端章甫、願爲小相焉。」

復元白文(論語時代での表記)

求 金文 爾 金文何 金文如 金文 対 金文曰 金文 方 金文六 金文七 金文十 金文 如 金文五 金文六 金文十 金文 求 金文也 金文為 金文之 金文 比 金文及 金文三 金文年 金文 可 金文使 金文足 金文民 金文也 金文 如 金文其 金文礼 金文楽 金文 㠯 以 金文君 金文子 金文 赤 金文 爾 金文何 金文如 金文 対 金文曰 金文 非 金文曰 金文能 金文之 金文也 金文 学 學 金文 宗 金文廟 金文之 金文事 金文 如 金文会 金文同 金文 耑 金文 父辛耑觚 <img src=章 金文甫 金文 為 金文小 金文相 金文

※壐→爾・端→耑。論語の本章は「俟」「願」「焉」の字が論語の時代に存在しない。「何」「如」「比」「足」「其」「章甫」「相」の用法に疑問がある。本章は前漢の儒者による創作である。

書き下し

きうなんぢなんかん。こたへていはく、かく六七十、しくは五六十、きうこれをさまば、三ねんおよころほひたみ使かなゐやいとたけごときは、君子よきひとつをもちゐむ。せきなんぢかん。こたへていはく、これあたふとふにあらざるかなまなぶをねがなん宗廟おたまやことしくは會同よりあひに、章甫かぶりただし、小相すけものつとめるをねがなん

論語:現代日本語訳

逐語訳

〔承前〕

孔子 冉求 冉有
先生が言った。「冉求ゼンキュウよ、お前は何が望みだ。」冉有が答えて言った。「四方六七十、あるいは五六十の小国があり、私が治めれば、三年ほどで、民の衣食住を満たしてやりますよ。(しかし)その国の礼楽の教育は、誰か君子の方にお任せすることにします。」

孔子 公西赤
先生が言った。「公西赤よ、お前は何が望みだ。」子華が答えて言った。「私に(冉有さんが言う)それ(=礼楽の教育)が務まるとは言えないのですよ。(それより礼楽の)勉強や稽古をしたいものです。国君の祖先祭殿の事、あるいは諸侯の会合の席で、冠を正しくかぶって、司会者の補助をし(て実地演習し)たいと思います。」

意訳

論語 孔子 人形 冉有
孔子「冉求や、お前は。」
冉求「小さな国を任せて頂き、三年ほどで衣食住に不自由しないようにしてやりたいです。お作法や音楽の教育についてはちょっと…自信のある方にお願いします。」

論語 孔子 人形 公西赤
孔子「公西赤よ、お前は。」
公西赤「お作法や音楽の教育は私にはとても無理です。ただし興味はあるので、国の祖先祭殿とか、外交の席で、きちんと礼服を着て、小役人でいいですからそう言った場に出て学びたいです。」

従来訳

下村湖人

そして、いわれた。
「求よ、お前はどうだ。」
冉求はこたえた。――
「方六七十里、あるいは五六十里程度のところでしたら、三年ぐらいで、人民の生活を安定させる自信があります。尤も、礼楽といった方面のことになりますと、私はそのがらではありませんので、高徳の人の力にまたなければなりません。」
先師、――
「赤よ、お前はどうだ。」
公西華がこたえた。――
「まだ十分の自信はありませんが、稽古かたがたやって見たいと思うことがあります。それは、宗廟のお祭りや、国際会談といったような場合に、礼装して補佐役ぐらいの任務につくことです。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

「冉求,你怎樣?」答:「方圓幾十里的地方,我來治理,衹要三年,可使百姓衣食充足,至於精神文明,要等能人來教化。「公西赤,你怎樣?」答:「我不敢說能幹好,但願意學習。祭祀的事,外交的事,我願穿著禮服,做個助理。

中国哲学書電子化計画

「冉求、お前はどうする?」答えた。「数十里四方の土地を、私が治めたら、たったの三年で、住民の衣食を完備し、精神文明方面については、その能の有る人に来て貰って教育して貰います。」「公西赤、お前はどうする?」答えた。「私には言い出すほどの才能はありませんが、実地に演習がしたいです。祭祀の事、外交の事で、私は礼服を着て、助手の一人になります。」

論語:語釈

求(キュウ)

孔子の弟子、冉求子有のこと。いみ名が「求」であざ名が「子有」。目上の孔子が呼びかけるので、いみ名を呼んだ。また冉有が孔子にへり下って自称として用いている。

冉有は後世、子路と共に政才を評価され新興武装士族だった冉一族のおそらく当主。武将としても活躍した。詳細は論語の人物・冉求子有を参照。

求 甲骨文 求 字解
「求」(甲骨文)

「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。

爾(ジ)→壐(ジ)

爾 甲骨文 爾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。

壐 秦系戦国文字 壐 字解
(秦系戦国文字)

定州竹簡論語の「壐」の初出は斉系戦国文字。ただし字体は「鉨」。現行字体の初出は秦戦国文字。下が「玉」になるのは後漢の『説文解字』から。字形は「爾」”はんこ”+「土」または「玉」で、前者は封泥、後者は玉で作ったはんこを意味する。部品の「爾」が原字。「璽」は異体字。同音は無い。戦国最末期「睡虎地秦簡」の用例で”印章”と解せる。論語時代の置換候補は部品の「爾」。詳細は論語語釈「壐」を参照。

「爾」にもったいを付けた漢儒のハッタリで、「土」が付いたことに特に意味は無い。

何如(なんぞしかん)

何如 字解 如何 字解

論語の本章では”何が実現する(のが望みだ)”。「何」が「如」=”その通りになる”か、”どうでしょう”、の意。対して「如何」は”何をその通りにすべきか”→”どうしましょう”。どちらも「いかん」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、語義が異なり混乱の元だし、読めない漢文を読めると世間をたばかり続けた、おじゃる公家やくそ坊主の猿真似で間抜けだから、もうやめよう。通説が「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のようになる”。または単独で”あるいは”。これらの語義は春秋時代では確認できない。

”あるいは”の語義は前回の「率」と同様、前漢儒者のやらかしたハッタリで、本章を古くさく見せるため、「與」ȵi̯o(平)”~と”→”あるいは”と書くべきところ、音の近い「如」zi̯o(上)を引っ張ってきて、無理やり”~と”という語義をこしらえた。こんな読み方は、後世の猿真似を除けば、やはり前漢儒者がでっち上げた『儀礼』の「公如大夫」ぐらいしかない。

字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

對曰(こたへていはく)

論語の本章では”回答として言った”。論語では多くの場合、目上から問われて答える場合に用いるが、論語憲問篇14のように身分同格の年長者が答える場合にも用いており、身分差を示す言葉ではない。

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

方(ホウ)

方 甲骨文 論語 方 字解
(甲骨文)

論語の本章では”四角の一辺”。「方○○」で「○○四方の面積」を意味する。論語の本章では、「方六七十、如五六十」とは、”六十・七十里四方、あるいは五十・六十里四方の領地”を意味する。『学研漢和大字典』によると「周代の一里は三百歩で約四○五メートル」とあるから、五十里四方で410km2、七十里四方で803.72km2になる。宇都宮市の面積が416.85km2、東京都区部の面積が627.53km2、京都市の面積が827.83km2であることから、だいたいの広さが想像できる。

ただし「方」が面積を意味する用例は『春秋左氏伝』には見えないが、西周早期の金文から見られる。字の初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、字形は「人」+「一」で、甲骨文の字形には左に「川」を伴ったもの「水」を加えたものがある。原義は諸説あるが、甲骨文の字形から、川の神などへの供物と見え、『字通』のいう人身御供と解するのには妥当性がある。おそらく原義は”辺境”。論語の時代までに”方角”、”地方”、”四角形”、”面積”の意、また量詞の用例がある。”やっと”の意は戦国時代の「中山王鼎」まで下る。秦系戦国文字では”字簡”の意が加わった。詳細は論語語釈「方」を参照。

六七十/五六十(リクシツシュウ、ゴリクシュウ)

論語の本章では”六十か七十ほど”/”五十か六十ほど”。「ロクシチジュウ」「ゴロクジュウ」は呉音。日本古語で「二十」を「はたち」、「三十」を「みそち」、「四十」を「よそち」と読んだ例はあるようだが、「五十」の「いそち」「いか」を別として、「六十」「七十」をなんと読んだか訳者は知らない。おそらく「六十」が「むそち」、「七十」が「ななそち」で、「六七十」は「むななそち」、「五六十」は「いむそち」なのだろうが、典拠が不案内なのでとりあえず漢音読みする。

六 甲骨文 錯 字解
(甲骨文)

「六」の初出は甲骨文。「ロク」は呉音。字形は「入」と同じと言うが一部の例でしかないし、例によって郭沫若の言った根拠無き出任せ。字形の由来と原義は不明。屋根の形に見える、程度のことしか分からない。甲骨文ですでに数字の”6”に用いられた。詳細は論語語釈「六」を参照。

七 甲骨文 切 字解
(甲骨文)

「七」の初出は甲骨文。「シチ」は呉音。字形は「切」の原字と同じで、たてよこに入れた切れ目。これがなぜ数字の”7”を意味するようになったかは、音を借りた仮借と解する以外に方法が無い。原義は数字の”なな”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文から戦国の竹簡まで一貫して、数字の”なな”の意で用いられている。詳細は論語語釈「七」を参照。

十 甲骨文 十 甲骨文
(甲骨文1・2)

「十」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には二種類の系統がある。横線が「1」を表すのに対して、縦線で「10」をあらわしたものと想像される。「ト」形のものは、「10」であることの区別のため一画をつけられたものか。「ジュウ」は呉音。甲骨文から数字の”じゅう”を意味した。西周では地名・人名の例が、また殷末から戦国にかけて族徽(家紋)に用いた。詳細は論語語釈「十」を参照。

五 甲骨文 五 甲骨文
(甲骨文1・2)

「五」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には五本線のものと、線の交差のものとがある。前者は単純に「5」を示し、後者はおそらく片手の指いっぱいを示したと思われる。音読みは呉音でも漢音でも「ゴ」。甲骨文の時代から数字の「5」を意味した。西周以降に、人名や官職名の例が見られる。詳細は論語語釈「五」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章、「求也爲之」では「や」と読んで強調の意、”…こそが…”。「A也B」で”AこそがBする”の用法は春秋の金文に見られる。「可使足民也」「非曰能之也」では「かな」と読んで詠嘆の意、”~よ”。詠嘆の意は強調の派生義と解せるが、断定「なり」”~である”の語義は春秋時代では確認出来ない。

字の初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章、「求也爲之」では”する”→”統治する”。「願爲小相焉」では”する”→”…の役を務める”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章、「爲之」では”これ”。直前の「方六七十、如五六十」の国を指す。「能之」は”そんな大それた事”。詳細は後述。「宗廟之事」では”…”の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

比(ヒ)

比 甲骨文 比 字解
(甲骨文)

論語の本章では「ころあい」と読んで”時期”。…となったその後には、の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」二つ。原義は”ならぶ”。甲骨文では「妣」(おば)として用いられ、語義は”先祖のきさき”。また”補助する”・”楽しむ”の意に用いた。金文では人名・器名の他”ならべる”・”順序”の意に用いた。詳細は論語語釈「比」を参照。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~に達する”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

三年(サンデン)

論語の本章では”三年間”。「サンネン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。

三 甲骨文 三 字解
(甲骨文)

「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

年 甲骨文 年 字解
(甲骨文)

「年」の初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。

可使足民(たみをたらしむべし)

論語の本章では”民に不足をなくさせます”。衣食住を十分にしてやるような政治を行います、の意。論語の本章前回の子路の答え、「勇あらしめ、かつみちを知らしめるべき也」と対になっている。子路が民政の綱領として「軍事と正義」を掲げたのに対し、「生活」を掲げた、というわけ。「たみをしてたらしむべし」と「…して」を挟んで訓読してもよい。

冉有のこの発言は、おそらく以下が元ネタ。

孔子 慈愛 冉有
(孔子と冉有が衛国に出掛けた。)
孔子「人が大勢いるなあ。」
冉有ゼンユウ「そうですね。どうしてやります?」
孔子「財布を膨らませてやるとするかな。」
冉有「ふふ。膨らんだらどうしてやります?」
孔子「ものを教えてやるとするかな。」(論語子路篇9・史実を疑う要素無し)
論語の本章を偽作した前漢の儒者は、ここで孔子が「正義を教えるより生活が先」と言ったのを重々承知しているはずで、ここでも子路筋肉ダルマ説を補強するようなことを書いたわけ。

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

「使」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

「足」の初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では漢音で「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

「民」の初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それの”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

禮樂(レイガク)

論語の本章では”行儀作法”。本章の偽作が確定しているので、漢代の語義で解釈してかまわない。

孔子生前では、肉体的技能を除いた”貴族の教養”。孔子塾での必須科目は六芸と呼ばれ、礼(貴族の社会常識)・楽(音楽と詩歌)・射(弓術)・御(戦車の操縦)・書(歴史と古典)・数(算術)だった。いずれも当時の役人と戦士を兼ねた君子に必要な技能教養で、詩歌が必要だったのは、当時の国際語として古語が話せないと、外交交渉をしくじったからだった。

いわゆる儒教の国教化が進んだ漢帝国では、「礼」は礼儀作法だけになり、君子が戦士だったことも忘れられ、「射」と「御」は抜け落ちて、「書」に加えて「春秋」が「五経」に加えられ、楽譜は散逸したから歌詞だけ「詩経」として残り、「数」の代わりに「易」が入った。

六芸

貴族の社会常識

音楽と詩歌

弓術

戦車の操縦

古典と歴史

算術
五経
礼経
礼儀作法
詩経
ポエム
書経
古典と歴史
春秋
歴史
易経
占い

つまり儒学が儒教または儒術に、武術を伴う技芸からからひょろひょろの口車に、語学からメルヘンに、数理からオカルトになったのである。従って「礼楽」とは確かに”作法と音楽”の意ではあるが、「楽」は「礼」にともなうチンチンどんどんに過ぎなくなり、対等な「礼」と「楽」ではなくなった。つまり、「礼楽」を”お作法”と解してぜんぜんかまわない。

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

「禮」の新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。

楽 甲骨文 楽 字解
(甲骨文)

「樂」の初出は甲骨文。新字体は「楽」原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。「以俟君子」で”君子の言う通りにすると言う手段を使います”。

字の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

俟(シ)

俟 隷書 俟 字解
(前漢隷書)

論語の本章今回部分では”人の指図に従う”。この漢字そのものが春秋時代に存在しない。同じく「まつ」と訓読しても、論語郷党篇14では、単に”時間を待つ”の意だが、ここではより原義に近くなっている。

初出は戦国の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「亻」+「矣」”去る”。立ち去る者に人が付き従うさま。同音に「士」「仕」「戺」”戸軸を持つ木”、「涘」”水際”、「事」。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『孟子』『列子』にも用例がある。戦国の竹簡では、”へつらう”の意に用いた。詳細は論語語釈「俟」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では”教養のある地位ある者”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

赤(セキ)

論語の本章では、孔子の弟子、公西赤子華のいみ名。師の孔子ゆえにいみ名で呼びかけている。

赤 甲骨文 奚 字解
(甲骨文)

「赤」の初出は甲骨文。字形は「大」”身分ある者”を火あぶりにするさまで、おそらく原義は”火祭り”。甲骨文では人名、または”あか色”の意に用い、金文でも”あか色”に用いた。詳細は論語語釈「赤」を参照。

非(ヒ)

非 甲骨文 非 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。「非曰能之」とは、兄弟子二人がすでに「之」を”民政”として回答したので、”わたくしには民政が出来るとは申しません”というへり下った回答になる。公西華には行政に携わった伝説が無く、論語雍也篇4(偽作)で斉国への外交使節として派遣された話があるだけだから、論語の本章を偽作した前漢儒もそれに添った回答を子華に言わせているわけ。

字の初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

非曰能之也

論語の本章では”之=そんな大それた事が出来るとは言えないのですよ”。「之」はもと”行く・足を止める”ことで、音を借りて”これ”を意味するようになった。ただし直近の事物を指す「此」(これ)、やや遠い事物を指す「其」(それ)に対して、倒置や強調に使われるなど語義にいささかの違いがある。

本章の場合、孔門の先輩である冉有が”礼楽の教育は他の君子にお任せします”と言ったあとでの発言であり、孔子に”お前は何が望みだ”と聞かれたのを考慮すると、”冉有さんの仰った礼楽の教育など、そんな大仕事とうてい私には務まりますまいが”といった回答と解すると筋が通る。

しかもこの発言のあと、祭祀や接待=礼楽が特に求められる場面での補助役を務めて、”実地に稽古をして学びたい”と言っているのだから、「非曰能之也」の「之」とは、いみじき”これ”、つまり大先輩の冉有でさえ自信が無い”礼楽”と解すると話が通る。

なお現代北京語では”これ”を「チェー」(這)と記すが、もと誤字だという。

学研漢和大字典「這」条

  1. 指示詞}《俗語》これ。この。▽宋(ソウ)代に「これ」「この」という意味の語を遮個・適個と書き、その遮や適の草書体を誤って這と混同した。「這個(シャコ)(これ)」「這人(シャジン)(この人)」。

願(ゲン)

願 燕系戦国文字 願 字解
(燕系戦国文字)

論語の本章では”願う”。初出は燕系戦国文字。現行字体の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ガン」は慣用音、「ゴン」は呉音。同音は元や原を部品とする漢字群だが、”願う”の語義を持った文字は無い。部品の「原」には、”たずねる・根本を推求する”の語釈を『大漢和辞典』が載せるが、春秋時代以前の用例が無い。同音同訓「愿」の初出は後漢の『説文解字』。初出の字形は「月」”にく”+「复」”麺類生地の延べ棒”だが、字形から語義を導くのは困難。詳細は論語語釈「願」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”勉強する”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「ぬ」と読んで、”…てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

宗廟(ソウビョウ)

論語の本章では”国公の祖先祭殿”。魯は周の初代武王の弟・周公が開祖で、その子が領地を与えられて成立した。宗廟は祖先の霊魂を祀るだけでなく、国公主催の政治的な会議も行われた。従って宗廟は政府をも意味し、また廟堂とも呼ばれた。

宗 甲骨文 宗 字解
(甲骨文)

「宗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「宀」”屋根”+「示」”先祖の位牌”。原義は一族の祖先を祀った祭殿。西周中期から、”祖先の霊”の用法があり、戦国時代の竹簡から”尊ぶ”、また地名の用例がある。詳細は論語語釈「宗」を参照。

廟 金文
(金文)

「廟」の初出は西周中期の金文。字形は「广」”屋根”+「𣶃」(「潮」の原字)で、初出ごろの金文にはさんずいを欠くものがある。「古くは祖先廟で朝廷を開くものであった」という通説には根拠が無く、字形の由来は不明。原義は”祖先祭殿”。金文では人名のほか原義に用いた。詳細は論語語釈「廟」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”雑用”。ある事柄につきまとうこまごまとした仕事のたぐいを言う。話の筋立て上、外交使節にしかなったことの無い子華には、”会合のこまごまとした事務や下働きしかできません”と論語の本章を偽作した漢儒が言わせたわけ。

字の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

會*同(カイトウ)

論語の本章では”会合”。外交使節や諸侯の会合を言う。

会 甲骨文 会 語釈
(甲骨文)

「會」の初出は甲骨文。字形は「亼」”ふた”+「四」+「𠙵」で、「四」「𠙵」の由来は不明ながら、全体として蓋を容器にあわせるさま。原義は”合う”。甲骨文では”会合させる”、西周の金文では人名・地名の例が複数見られる。春秋末期の金文では”あわせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「会」を参照。

同 甲骨文 同 字解
(甲骨文)

「同」の初出は甲骨文。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。甲骨文・金文の字形には下部の「𠙵」を欠くものがある。上部は人がかついで乗るこしで、貴人が輿に乗って集まってくるさま。原義は”あつまる”。甲骨文では原義に、また「興」の略字として”おきる”の意に用いた。金文では原義のほか、戦国の金文では”そろえる”の意に用いた。詳細は論語語釈「同」を参照。

端(タン)

端 楚系戦国文字 端 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”正しくする”→”(冠を)礼儀作法にかなってきちんとかぶる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。”はし”の語義では論語時代の置換候補がないが、”正しくする”の意味では部品で同音の「タン」。その初出は甲骨文。字形は根を含む植物が雨に潤うさまで、原義は”みずみずしく美しい”。「端」は”みずみずしく美しい位置に立つ”。原義は”端正”。「耑」は甲骨文では国名に、金文では酒器の一種を意味し(義楚觶・春秋末期)、また人名に用いた。戦国時代の竹簡では、「端」を「耑」と記し、また「短」として使われた。詳細は論語語釈「端」を参照。

章甫*(ショウホ)

孔子家語 五経図彙 章甫之冠
『五経図彙』

論語の本章では”かんむり”。「甫」を「ホ」と読むのは慣用音。『大漢和辞典』『学研漢和大字典』はさまざまな儒者が言った出任せをまとめあげて、”殷代の冠で、黒色。孔子がかぶってから儒者の冠になった”というが、考古学的物証の裏付けがあるわけではない。

漢代の漢語としては「甫」=”長老”であることを「章」=”視界にあきらかにする”と読め、偉い人間であることをまわりに示すための冠を意味する。だが殷代で通用した甲骨文では、「甫」を”長老”と解釈出来る例は無い。

「章甫」が明確にかぶり物として記された初出は戦国初期の『墨子』で、歴史人物としての墨翟は孔子の死没ごろに生まれたとされる人物で、ぎりぎり孔子生前に「章甫」がかぶり物を意味した可能性はある。しかし現伝の『墨子』は文字史から見て、いつ記されたのか明瞭でない。

公孟子戴章甫,搢忽,儒服,而以見子墨子曰:「君子服然後行乎?其行然後服乎?」


公孟子が章甫をかぶり、笏を脇に挟み、ぞろぞろした儒者の服を来て、墨子大先生*に言った。「君子は身なりを整えてから仕事をするか、またはその逆かどちらです?」(『墨子』公孟3)


*訳者がおちょくっているのではなく、「墨子」だけでも”墨先生”なのに、墨家だけは開祖を「子墨子」という。

ただし戦国末期の荀子が墨子の言葉として引用しているから、その頃にはかぶり物の意で用いられていただろう。

墨子曰「…紳、端、章甫,舞韶歌武,使人之心莊。…」


墨子が言ったそうだ。「…正式な帯や官服や章甫を身につけて、艶やかな舞を舞い、勇ましい音楽を奏でたら、聞いた者は気が大きくなってしまう。…」(『荀子』楽論6)

章 金文 章 字解
(殷代金文)

「章」の初出は殷代末期の金文。字形は〔䇂〕(漢音ケン)”筆刀”+亀甲で、亀甲に文字を刻むさま。原義は”文章”。「漢語多功能字庫」によると、金文では”玉器”(㒼簋・西周中期)の意に用いた。詳細は論語語釈「章」を参照。

甫 甲骨文 甫 字解
(甲骨文)

「甫」の初出は甲骨文。字形は「田」”はたけ”に苗が生えたすがた。漢音は「フ」、「ホ」は慣用音。甲骨文では”作付け地”、また”捕らえる”と解せる。西周・春秋の金文では地名・人命と解せる例が見える。詳細は論語語釈「甫」を参照。

小相(ショウショウ)

論語の本章では”下役の補助者”。「小」で”下役”を、「相」で”補助者”を意味するが、後者の語義は春秋時代では確認できない。”チマチマと下働きを致しましょう”と子華がへり下ったように演出している。

小 甲骨文 小 字解
(甲骨文)

「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。

相 甲骨文 相 字解
(甲骨文)

「相」の初出は甲骨文。「ソウ」は呉音。字形は「木」+「目」。木をじっと見るさま。原義は”見る”。甲骨文では地名に用い、春秋時代までの金文では原義に、戦国の金文では”補佐する”、”宰相”、”失う”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”相互に”、”補助する”、”遂行する”の意に用いられた。詳細は論語語釈「相」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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前回に引き続き、論語の本章は長いので分割して記す。この章、つづく。

検証

論語の本章は文字史からも漢語の用例からも、戦国最末期より前には遡れない。前回同様、前漢儒による偽作と判断するのが理が通る。

解説

論語の本章今回部分、古注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

求爾何如對曰方六七十如五六十註求性謙退言欲得方六七十如五六十里小國治之而已也求也為之比及三年可使足民也如其禮樂以俟君子註孔安國曰求自云能足民而己謂衣食足也若禮樂之化當以待君子謙之辭也赤爾何如對曰非曰能之願學焉宗廟之事如㑹同端章甫願為小相焉註鄭𤣥曰我非自言能也願學為之宗廟之事謂祭祀也諸侯時見曰㑹殷見曰同端𤣥端也衣𤣥端冠章甫諸侯日視朝服也小相謂相君禮者


本文「求爾何如對曰方六七十如五六十」。
注釈。「冉求の性格は引っ込み思案なので(論語先進篇21・偽作)、六七十か五六十里四方の小国を治めるだけで手一杯ですと言った。」

本文「求也為之比及三年可使足民也如其禮樂以俟君子」。
注釈。孔安国「冉求は民を満足させることが出来るだけだ、と言った。つまり衣食を十分にすることである。礼儀作法によって民を儒教的クルクルパーに躾けるのはほかに立派な君子に任せますと言った。これも謙遜の言葉である。」

本文「赤爾何如對曰非曰能之願學焉宗廟之事如㑹同端章甫願為小相焉」。
注釈。鄭玄「自分には才能が無いと言ったのである。その代わり学びたいと言った。宗廟の事とは、祖先祭のお供えやチンチンドンドンをいう。諸侯が時折他の諸侯を訪ねるのを㑹という。大勢の諸侯が集まるのを同という。端とは玄端(=黒色の喪服)である。玄端を着て章甫をかぶったのである。この格好が、毎日諸侯と家臣が会見するときの制服である。小相とは主君の礼儀作法を介添えする役のことである。

注釈の冒頭は無記名だから、三国魏の何晏の筆と断じてよいが、孔門の高弟である冉有を、まるで孔子と同じ立場から見下げるように「冉求」といみ名で読んでいる。貴公子として甘やかされて育ち、ナルシストとしても知られた何晏らしいと言えば不思議は無い。

訳者は「端章甫」を「章甫をただす」とV-O関係に読んだ。古代から現在に至るまで、漢語がSVO構造の言語だからだが、ここに見える鄭玄の注のようなデタラメがまかり通ってから、漢文はどうとでも読めるわけが分からないものになってしまった。詳細は後漢というふざけた帝国を参照。

鄭玄の言い分は視覚的にも納得がいかない。「玄端」は”黒い喪服”と解するのが一般的な解釈だが、無慮二千年以上にわたり、それぞれの儒者が勝手なことを書き散らした結果、あるいは朝廷の制服と解されるようになった。朝廷とは本来参列が誇らしい、晴れがましい場のはずである。それなのに一年三百六十五日、君臣が揃いも揃って真っ黒な喪服を着て開かねばならない朝廷とは、いったいどのようなものだろう。

新注『論語集注』

「求!爾何如?」對曰:「方六七十,如五六十,求也為之,比及三年,可使足民。如其禮樂,以俟君子。」求,爾何如,孔子問也,下放此。方六七十里,小國也。如,猶或也。五六十里,則又小矣。足,富足也。俟君子,言非己所能。冉有謙退,又以子路見哂,故其辭益遜。「赤!爾何如?」對曰:「非曰能之,願學焉。宗廟之事,如會同,端章甫,願為小相焉。」相,去聲。公西華志於禮樂之事,嫌以君子自居。故將言己志而先為遜辭,言未能而願學也。宗廟之事,謂祭祀。諸侯時見曰會,眾覜曰同。端,玄端服。章甫,禮冠。相,贊君之禮者。言小,亦謙辭。


本文「求!爾何如?對曰:方六七十,如五六十,求也為之,比及三年,可使足民。如其禮樂,以俟君子。」
求なんじは何如とは、孔子の問いである。目下であるからこのような言い方をした。方六七十里とは小国のことである。如とは、それともあるいは、の意である。五六十里では、これもまったく小さい領地に過ぎない。足とは、十分になるの意である。俟君子と言ったのは、自分の出来ることではないからである。冉有は引っ込み思案で、その上子路が孔子に笑われたのを見て、ますます縮こまった言い方をしたのである。

本文「赤!爾何如?對曰:非曰能之,願學焉。宗廟之事,如會同,端章甫,願為小相焉。」
相は尻下がりに読む。公西華の希望は礼儀作法の習得にあり、役人になれればいいという考えを嫌った。だから自分の抱負を言い始めるに当たって、はじめに謙遜の言葉を述べ、”まだよく知りませんから勉強したい”と言った。宗廟の事とは、祖先祭のお供えやチンチンドンドンをいう。諸侯が一人ずつ互いに会うのを會といい、大勢で集まるのを同という。端とは玄端の服のことである。章甫は、儀礼にかぶる冠である。相とは、主君の礼儀作法を介添えする者である。「小」という言い方も、謙遜ゆえの言葉である。

前回、朱子は「哂,微笑也」と記し、孔子が子路の答えをあざけり笑ったわけではないと注記した。しかしここでは、”冉有は子路が笑われたのにビビって言葉を控えた”と書いている。武将としても名を馳せた冉有がビビルマンになるほどに、孔子の笑いには攻撃性があったという事になる。

これをどう整合させたらよいか。「微」の字をいくら辞書をひっくり返して調べても、攻撃性のある何かという解釈にはなりようがない。むしろ”優しいほほえみ”とは解せるのだが。つまり整合していないのは朱子の脳みそで、その時の思い付きを何年にもわたって論語に書き付けたり書き直したりしたのだから、整合性がとれていなくてあたりまえで、後世の論語読みが振り回されなければならない義理は微塵も無い。

余話

(思案中)

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