論語詳解272先進篇第十一(19)子張人と善くする道*

論語先進篇(19)要約:後世の創作。どうすれば人と仲良くなれますか、と問う子張に、まず付き合いを絶やさないこと、同時に相手を気遣って、私生活や本心にずかずか踏み込むようなことはしないこと、と孔子先生。親しき仲にも礼儀あり、というお説教。

論語:原文・書き下し

原文

子張問善人之道。子曰、「不踐跡、亦不入於室。」

校訂

定州竹簡論語

張問善人之道。子[曰:「不淺a跡,亦不入於室。」子]曰:「284[是]與?君子者乎?亻亡 外字狀[者]?」285

  1. 淺、今本作”踐”。淺借為踐。

※論語の本章と次章を、一体化して記述している。


→子張問善人之道。子曰、「不淺跡、亦不入於室。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文問 金文善 金文人 金文之 金文道 金文 子 金文曰 金文 不 金文𨒪 金文 亦 金文不 金文入 金文於 金文室 金文

※張→(戦国末期金文)。論語の本章は「張」の字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、同音近音のあらゆる音が置換候補になりうる。「淺」の字が論語の時代に存在しない。「問」「踐」(淺)の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

子張しちやうひとくするみちふ。いはく、あとあさくれ、ゐまれと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子張 孔子
子張が人と良好な関係を作る道を問うた。先生が言った。「付き合いを浅くするな。同時に、居間に入るな。」

意訳

子張 孔子 居直り
子張「どうやったら人と仲良く出来るでしょう。」
孔子「付き合いをしっかりと途切れないように続けろ。ただし相手の私生活に、ずかずかと踏み込んではいかん。親しき中にも礼儀あり、というだろう。」

従来訳

下村湖人

子張がたずねた。――
「天性善良な人は、べつに学問などしなくても、自然に道に合するようになる、というようにも考えられますが、いかがでしょう。」
先師がこたえられた。――
「どうなり危険のない道を進むことは出来るかも知れない。しかし、せっかく先人に開拓してもらったすばらしい道があるのに、その道を歩かないというのは惜しいことだ。それに、第一、そんな自己流では、所詮、道の奥義をつかむことは出来ないだろう。」

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張問做善人的方法。孔子說:「不踏著前人的腳印走,學問也就難以精通。」

中国哲学書電子化計画

子張がよい人になる方法を聞いた。孔子が言った。「前の人の足跡を踏まないで歩くと、学問も精通するのは難しい。」

論語:語釈

子張

論語 子張

孔子の弟子。「何事もやりすぎ」と評された。張の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞なので論語の本章を偽作と断定できない。詳細は論語の人物・子張参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

張 楚系戦国文字 張 字解
(楚系戦国文字)

「張」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、同音近音のあらゆる漢語が置換候補になり得る。字形は「弓」+「長」で、弓に長い弦を張るさま。原義は”張る”。「戦国の金文に氏族名で用いた例がある。論語語釈「張」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。詳細は論語語釈「問」を参照。

善人(センジン)

論語の本章では”人との関係を良くする”。論語では、論語述而篇25ほかにも見える語だが、仮に本章が史実の孔子師弟の対話であれ、漢代の創作であれ、「善人」とはいわゆる”いい人”ではない。

孔子生前の春秋時代の歴史を伝える、『春秋左氏伝』や『国語』での、「善」の用法を見てみよう。

鄭伯請成于陳,陳侯不許,五父諫曰,親仁善鄰,國之寶也,君其許鄭。


鄭の国君が陳の領内に砦を造りたいと願い出たが、陳の国公は許さなかった。それを(家臣の)五父が諌めて言った。「貴族同士の親しみ、隣国との良い関係こそ、国の宝と言うべきです。殿は鄭に許可してやるべきです。」(『春秋左氏伝』隠公六年)

夫固國者,在親眾而善鄰,在因民而順之。


(のちの晋の文公が使者に言った。)「そもそも国というものは、国人に親しみ隣国と良い関係を築き、民衆に頼ってその意向に従うものだ。」(『国語』晋語二)

現代でも「善隣外交」というが、「善○」を”○との良い関係”の意で用いている。「善人」でも同じ用法が、戦国時代の『孟子』尽心下「善人也,信人也。」や、『荀子』大略に「取友善人」として見えている。

次に前漢の漢語として判読する場合の材料を、いわゆる儒教の国教化を進めた、前漢中期・董仲舒の言い分から見てみよう。

是故孔子曰:「善人吾不得而見之,得見有常者斯可矣。」由是觀之,聖人之所謂善,未易當也,非善於禽獸則謂之善也。使動其端善於禽獸則可謂之善,善奚為弗見也?夫善於禽獸之未得為善也,猶知於草木而不得名知。


だから孔子は言った。「善人は見かけないが、常のある者はそこらに見かける」と(論語述而篇25)。この言葉から考えると、聖人の言う善人とは、そう簡単になれるものではない。トリやケダモノを可愛がってやれば、善人というわけではないのである。トリやケダモノでも心を正しく入れ替えさせることが出来るのを、善の現れと言わないで何と言おうか。トリやケダモノを可愛がるだけでは、まだ善ではなく、草木の姿は知っているが、何と言う草木か知らないのと同じだ。(『春秋繁露』深察名号)

つまり人柄が善いだけでは「善人」ではなく、能力を伴った者を「善人」と言っている。

論語の本章は、春秋時代における「淺」の字の不在から、戦国最末期以降の創作と判断せざるを得ないのだが、「善人」の解釈については、春秋以来の”人との良い関係”か、または”有能な人”の二通りあることになる。しかも定州竹簡論語が本章と次章を一体化して記述していることから、次章の孔子の発言が、「善人之道」の答えであらねばならない。

次章・論語先進篇20
論祝是與。君子者乎、亻亡 外字狀者乎。


自分の意見に賛成してくれるのは、つまり味方になったということだ。だがその者が、君子らしい筋を通して賛同した者か、それとも真意を隠して賛成する振りをしている者かは、一応検討した方がよい。

この孔子の答えが、”人柄の善い人になる方法”や、”有能な人になる方法”とは言えないだろう。だが”付き合ってよい者を見分ける方法”ではありうるだろう。従って消去法的に、論語の本章の「善人」とは、”人との良い関係”であると読むほかないわけだ。

従来訳のように”人格がよろしい人”と解するのは新注によるもので、古注では、”古人に従った上で、新しいことを始められる人”と書いている。書き手は架空の人物である孔安国で、ゴーストライターである後漢儒にも、実は「善人」とは何だかよく分からなかったらしい。そのとばっちりで、古注の「疏」”付け足し”でも、ああでもなくこうでもないと、わけが分かっていなかったのを白状している。

善 金文 善 字解
(金文)

「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義は”これ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”みち”→”やり方”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「道」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

踐(セン)→淺(セン)

論語の本章では”浅くする”。現伝論語が「踐」と記すのは後漢からで、おそらく前後の漢帝国の交代期に起こった、中国全土の壊滅的社会崩壊に伴って、論語の本章と次章の一体化が忘れられ分断された結果、解釈に困った後漢儒によって、「淺」→「踐」と書き換えられたと思われる。

踐 金文 戔 甲骨文
(戦国金文)/「戔」(甲骨文)

「踐」は論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。越王勾践の名を「戔」と記した例は春秋末期にあるが、”踏み行う”の意はそれ以前に確認できない。初出の字形は「戈」+「土」+「𠙵」”くち”2つ+「䇂」”細い刃物”で、語義は明らかでない。現行字形の初出は秦系戦国文字で、「足」+「戔」”代わる代わる斬り付ける”。幾度も同じ場所を踏むこと。新字体は「践」。同音に「錢」、「諓」”よくもの言う”、「餞」”みおくる・はなむけ”、「俴」”あさい・はだか”、「賤」。用例では人名のほかは、語義が明瞭でない。詳細は論語語釈「践」を参照。

淺 金文 錯 字解
(戦国金文)

定州竹簡論語は「淺」と記す。初出は戦国早期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国早期の金文に「越王勾践」を「𫑛王鳩淺」と記し、春秋末期の金文に「越王句戔」と記すことから、初出を春秋末期とする説もあるが、さんずいを含まず、”浅い”の意でもない。字形は「氵」+「戔」+「自」。原義は不明。同音に「遷」(平)。戦国文字で”浅い”の意に用いた。詳細は論語語釈「浅」を参照。

跡*(セキ)

𨒪 金文 跡 字解
(金文)

論語の本章では”(付き合いの)形跡”。交友関係のこと。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。ただし字形は〔𢓣+止〕。現行字形の初出は論語の本章。初出の字形は「彳」”道”+「朿」”貫く”+「止」”足”。道をその通りに進むさま。同音に「借」、「踖」”ふむ”。春秋末期までに”道をたどる”の意に用い、戦国最末期になって”形跡”の意に用いた。詳細は論語語釈「跡」を参照。

亦(エキ)

亦 金文 学而 亦 エキ
(金文)

論語の本章では”同時に”。初出は甲骨文。字形は人間の両脇で、派生して”…もまた”の意に用いた。”おおいに”の意は甲骨文・春秋時代までの金文では確認できず、初出は戦国早期の金文。のちその意専用に「奕」の字が派生した。詳細は論語語釈「亦」を参照。

入(ジュウ)

入 甲骨文 入 字解
(甲骨文)

論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”…に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”…において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

室(シツ)

室 甲骨文 室 字解
(甲骨文)

論語の本章では”居間 ”。個人の本心を含めた、人には隠しておきたい事柄。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に載るが、春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。文字史的にも、論語の時代に遡ることが出来ない。上記語釈の通り、「淺」(浅)の字は戦国早期、場合によっては春秋末期まで遡る可能性はあるが、人名としか解せない。戦国中末期になって、やっと”浅い”と解せる用例がある。

訳者の心証としては、史実の孔子の発言である可能性を思いたいが、物証が出ないのはどうにもならず、本章は戦国末期以降の創作と断じるしかない。

解説

論語の本章は、定州竹簡論語によって文意が大きく異なる結果になる一例で、現伝の文字列「不踐跡」”以前の足跡をたどらない”→”古人に見習わない”は、「不淺跡」”以前の足跡を浅くしない”→”昔からの付き合いを浅くしない”へと変化した。

「踐」dzʰi̯an(上)と「淺」tsʰi̯an(上)は同調で近音だが、漢代でも明らかに濁音と清音の違いがあって別の言葉。『大漢和辞典』による語釈の共有も”浅い”を除いて無い。

「踐」「淺」
  1. 踏む。(足を地に着ける。踏みつける。歩く。(職に)就く。(位に)のぼる。まもる。ふみおこなう。したがう。おさえる。
  2. あたる。(任ずる。)
  3. ならぶさま。つらなる。
  4. そこなう。いためる。
  5. きる。ころす。
  6. はだし。
  7. あさい。
  8. たな。住まい。
  9. よい。よしとする。

 

  1. あさい。(底が浅い。奥へ浅い。詳しくない。あさはか。おろか。軽い。短い。少ない。薄い。まばら。あわい。弱い。ねんごろでない。丁寧でない。まじわりがうとい。あらわ。)
  2. 水流の浅いさま。
  3. 水の流れるさま。
  4. けがしそそぐ。
  5. みずをはねかける。

定州竹簡論語では、本章と次章は一体化して記されていた。横書きにして記せば次の通り。

張問善人之道子曰不淺跡亦不入於室子曰 (簡284号)

是與君子者乎亻亡 外字狀者          (簡285号)

文字上の「•」は、文字列の頭か尾である印で、文字の前後に簡の破損が無く、そこで文字列が始まり/終わったことを示している。だから本章と次章は一体化して解釈しなければならないし、後漢儒もそう思っていたことが古注から知れるが、肝心の語義が分からなかったらしい。

そこで解釈に困った後漢儒は、「淺」を「踐」に書き換えてお茶を濁したついでに、「善人」を”善い人”と解することで辻褄を付けた。春秋時代の漢語としても、前漢時代の漢語としても、「善人之道」を”善人になる方法”と解せなくは無いのだが、それでは次章の意味が分からなくなる。

そこでまず行うべきは、後漢儒の行った勝手な書き換えを、定州竹簡論語に従って元に戻すことで、その結果は次の通り。

子張問子曰
善人之道不淺跡、亦不入於室。
”跡を浅くしない。また、居間に入らない。”
論祝是與。君子者乎、亻亡 外字狀者乎。
”論が味方するのは味方することである。君子である者か、真意を隠す者か。”

「子曰」は原文と逐語訳を併記したが、本章も次章も、どうやりくりしても「子張問」は”善人になる方法”になりそうにない。ないから、後漢儒は勝手に書き換えたわけでもある。以降の儒者は書き換えを踏襲したのだが、後漢儒にも情状酌量の余地があった。

なぜなら”首都長安ですら人通りが絶えた”と『漢書』が記すほど、前後漢の交代期には人口の大量絶滅があったからで(論語先進篇8余話「花咲かじいさん」参照)、論語が本文ごと失われてもぜんぜんおかしくなかった。むしろよく保存したと、リンク先のような当時の儒者に感心してよい。

赤眉軍が暴れ回っている中をノコノコ通りがかった包咸はあっさり捕まって、牢に放り込まれた。そのまま十日あまりも放置されたが、包咸は日夜儒教経典を口ずさんで平気な顔をしていたので、赤眉軍も「このお人はさわらん方がええじゃろ」と言って牢から出した。(『後漢書』儒林伝・包咸条)

飢えた民の集まりである赤眉軍が、包咸を捕らえたのは食うため以外の理由が見つからず、「さわらん方がええじゃろ」もむしろ「食わん方がええじゃろ」と訳した方が正確かも知れない。論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子張問善人之道子曰不踐迹亦不入於室註孔安國曰踐循也言善人不但循追舊跡而已亦多少能創業然亦不能入於聖人之奥室也


本文「子張問善人之道子曰不踐迹亦不入於室」。
注釈。孔安国「踐とは従うことである。本章で善人とは、ひたすら昔の足跡に従うだけだと言う。しかも多少は自分での創意工夫が要る。しかもそれでも、聖人の奥義に入ることは出来ない。

新注『論語集注』

子張問善人之道。子曰:「不踐跡,亦不入於室。」善人,質美而未學者也。程子曰:「踐跡,如言循途守轍。善人雖不必踐舊跡而自不為惡,然亦不能入聖人之室也。」張子曰:「善人欲仁而未志於學者也。欲仁,故雖不踐成法,亦不蹈於惡,有諸己也。由不學,故無自而入聖人之室也。」


本文「子張問善人之道。子曰:不踐跡,亦不入於室。」
善人とは、素質がよくてまだ学んでいない者である。

程頤「踐跡とは、道に従い、わだちをたどるようなことを言う。善人は必ずしも古人の足跡を踏む必要は無いし、自分から悪に染まることはないが、それでもやはり聖人の奥義には入ることができない。」

張載「善人とは、仁に志してまだ学んでない者を言う。人を志すからには、定石を踏まなくとも、やはり悪の道を踏まない。自分だけで完結する。だが学ばないから、ひとりでに聖人の奥義には入ることが出来ない。」

論語:余話

Open mind

「見せないよ~ん」「おととい来やがれカルト野郎」

人には誰でも、他人に見せたくない心の奥底があるものだが、独裁政権やカルト宗教や昭和の企業研修では、「心を開け放つ」ことがしばしば強要された。個人を集団の中に閉じこめて、その中での掟として隠し事を禁止し、黙っているのが悪事であるかのように洗脳するのである。

いずれも構成員を奴隷化するのが目的だが、「我を讃えよ」と初めから心証を要求する独裁政権はまだしも、「さあ、心を開け放って。Open mind!」とか怪しい横文字で言う集団も求めは同じで、開け放った結果「お前ら𠮷外だ」とでも言ったら、袋叩きにしようと待ち構えている。

だからOpen mindの振りをし、なお心で舌を出せる図々しさが無いと、昭和的風土の日本の大組織では生き残るのが難しかった。大組織に限らず、誰も行きたがらないような寒村で、今なお派遣医をいびり出しているような山奥では、隠し事が悪事であるかのような「常識」がまかり通っている。

自分もそういう連中の仲間入りして生涯を終える覚悟が出来ないなら、出ていくしかないのが理の当然で、今世紀に入ってからの地方の過疎化は、その速度が加速し地域を問わなくなった。つまり前世紀までの日本が、程度の差はあれどこもカルト教団のような社会だったことになる。

さすがにそれが知れ渡って、カルトを強要すると人材が逃げ出すようになったので、企業統治の方法としてはOpenなんたらを「情報の共有」とか「見える化」とか、日本語にし始めたのが今世紀というもので、人材が逃げ出した結果、企業そのものがあっさり崩壊した例も少なくない。

企業に限らず地方自治体も同様で、人口が500人を切るなど限界集落化したかつての「都会」も少なくない。だがそれは住民が因習にまみれているのが原因とは限らない。日本は前世紀のからくりにたまたま相性がよかったから大国化し、今世紀はそうでなくなって縮んでいるだけだ。

そもそも都鄙を問わず慣習の無い社会などなく、都合の悪い慣習を因習と呼ぶだけで、そうでなければ美風と持ち上げもする。評論家が自分では決して実践しないのに評論だけするようなもので、世にふざけた人間がいないとは言わないが、たいていの人は一生懸命生きている。

それでも誰にもどうしようもないから衰退するので、うまくいった時代もあったのだから、栄枯盛衰はセットで出てくると心得た方がいい。個人も同様で、成功するかどうかは運が決める。成功者は運がよかっただけで、その成功論は他人が真似しても、成功できる道理がない。

時空が違うし、コネなど人間関係が違うのだから、行動が同じでも結果が違って当たり前だからだ。だから成功論を説く店がカルト教団じみてくるのは当たり前で、心の弱い人を食い物にしないと生きていけないからには、「お前本当は見破ってるだろ」と問い詰めにかかってくるわけだ。

言い換えるなら成功論の店主は、自分の成功に実は自信が無く、論語の本章が言う「室」=心の奥底では、運が味方したからだと知っている。希有な運を掴んだからこそ、二度とこの幸運はめぐってこないと思い、今の成功にのしかかって、他人に焼き畑農法のようなことをするわけだ。

そこへ「こいつはインチキを語っています」と言われると商売あがったりだから、ずかずかと他人の心へ踏み込んでくる。そうされると誰でも不愉快なはずだが、成功論者の言うとおりにすると成功できるかもと、はかない希望があるから必死で不愉快でない振りをしたりもする。

だがいつまでも続くわけはない。昭和い大企業は、そうやって滅んでいったのだ。あぶない𠂊ス刂のように、脳の快楽回路をおかしくされていない限り、人は本心など見せはしない。訳者の心証では論語の本章と次章は史実の孔子の発言だが、そのあたりをよく分かっていたようだ。

身を以て現実政治に苦労したからで、孔子は儒者が言うような、脳天気な道徳業者ではない。

参考動画

訳者は確かに食べた記憶があるのだが、どのような味か思い出せないのがもどかしい。

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