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論語詳解257先進篇第十一(4)孝なるかな閔子騫’

論語先進篇(4)要約:孔子先生の大先輩だった閔子騫ビンシケンを、先生は親孝行と讃えました。閔子騫は弟子でなく、孝行伝説も当時の記録に無く、先生没後四百年後に儒者が作ったラノベが最初。文字は論語の時代に存在しますが、内容が怪しい話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰孝哉閔子騫人不間於其父母昆弟之言

校訂

武内本

兄、唐石経昆に作る。釋文同じ。

東洋文庫蔵清家本

子曰孝哉閔子騫人不間於其父母兄弟之言

  • 正平本「兄弟」。

後漢熹平石経

子白孝…

定州竹簡論語

曰:「孝哉閔子騫!人不264……

標点文

子曰、「孝哉閔子騫。人不閒於其父母兄弟之言。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 孝 金文哉 金文閔 金文子 金文馬 金文 人 金文不 金文間 金文於 金文其 金文父 金文母 金文兄 金文弟 金文之 金文言 金文

※騫→馬。固有名詞の場合は論語時代の字形が無くとも存在したとして扱う。論語の本章は、「間」の用法に疑問がある。閔子馬(閔子騫)は孔子の弟子ではなく先達で、本章は後世の創作の疑いがある。

書き下し

いはく、このゐやなるかな閔子騫びんしけんひと父母かそいろはあにおととことばあづからず。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 閔子騫
先生が言った。「親孝行だなあ、閔子騫どのは。人はその父母兄弟の言葉と関わらない。」

意訳

孔子 閔子騫
閔子騫どのは孝行者として名が通っているから、彼の家族が閔子騫を何と言おうと、世間は相手にしない。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「閔子騫は何という孝行者だろう。親兄弟が彼をいくらほめても、誰もそれを身びいきだと笑うものがない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「閔子騫真孝順!外人都贊同他父母兄弟對他的稱贊。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「閔子騫はまことに孝行者だ。世間の者が皆、彼の父母兄弟が彼を讃えるのに賛同する。

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

孝(コウ)

孝 甲骨文 孝 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”年長者に対して年少者が奉仕するさま”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「艸」”草”または”早い”+「子」で、なぜこの字形が「孝」と比定されたか判然としない。金文の字形は「老」+「子」で、子が年長者に奉仕するさま。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。

論語の章立てでは、論語泰伯編21より久しぶりの登場。戦国後半に現れた漢語「忠」とともに、孔子が「忠孝」をうるさく説いたというのが嘘っぱちであると分かる。

論語「孝」分布図

論語「孝」分布図

本章は丁度真ん中あたりに位置するのだが、論語での「孝」は学而篇、為政篇に片寄って出てくるのを確認できる。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠嘆の語気を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

閔子騫(ビンシケン)

生没はBC536ーBC487とされ、孔子没後一世紀に生まれた孟子のうっかりにより、孔子の弟子にされてしまった人物。姓は閔、いみ名は損、あざ名は子騫。『史記』によれば孔子より15年少。徳行を子に評価され、孔門十哲の一人。

閔子騫
だがおそらく孔子の弟子だというのはウソで、孔子が生まれた翌年に、すでに「閔子馬」の名で、門閥の季孫家のお家争いを未然に防いだ賢者として登場する。架空の人物でないなら、「騫」は論語の当時「馬」または「黽」(ビン)と書かれた。詳細は論語の人物:閔損子騫を参照。

閔 金文 閔 字解
「閔」(金文)

「閔」の初出は西周の金文。字形は「門」+「文」で、「文」はおそらく”文様”ではなく”人”の変形。「大」と同じく”身分ある者”の意。閉じられた門に身分ある者が訪れるさまで、原義はおそらく”弔問”。日本語では「あわれむ」と訓読する。金文では人名に用い、戦国の金文では、中山国・燕国の方言として”門”の意に用いた。戦国の竹簡では姓氏名に用いた。詳細は論語語釈「閔」を参照。

騫 篆書 錯 字解
「騫」(篆書)

「騫」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。字形の由来・原義共に明瞭でない。固有名詞のため、置換候補は特定できず、かつ後世の捏造とは断定できない。架空の人物でないなら、論語の時代では部品の「馬」と表記されたと考える以外に方法が無い。詳細は論語語釈「騫」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

閒(カン)

間 金文 間 字解
(金文)

論語の本章では”すき間(が空く)”→”抜けていくすきま風のように真に受けない”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「間」。ただし唐石経も清家本も新字体と同じく「間」と記す。ただし文字史からは旧字「閒」を正字とするのに理がある。「ケン」は呉音。初出は西周末期の金文。字形は「門」+「月」で、門から月が見えるさま。原義はおそらく”かんぬき”。春秋までの金文では”間者”の意に、戦国の金文では「縣」(県)の意に用いた。詳細は論語語釈「間」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”…について”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その者の”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

父(フ)

父 甲骨文 父 字解
(甲骨文)

論語の本章では”父親”。初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

母(ボウ)

母 甲骨文 母 字解
(甲骨文)

論語の本章では”母”。初出は甲骨文。「ボ」は慣用音。「モ」「ム」は呉音。字形は乳首をつけた女性の象形。甲骨文から金文の時代にかけて、「毋」”するな”の字として代用もされた。詳細は論語語釈「母」を参照。

昆*(コン)→兄(ケイ)

論語の本章では”あに”。同族中の年長男性。この語義は春秋時代では確認できない。唐石経は「昆弟」と記し、清家本は「兄弟」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝承しており、唐石経を訂正しうる。これに従い「兄弟」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

昆 金文
(金文)

「昆」の初出は西周末期の金文。論語では本章のみに登場。字形は何を表しているのか分からない。春秋時代までの金文では国名に用いた。「昆弟」”兄弟”の語は、戦国時代の竹簡から見られる。従って論語の時代の言葉ではない。詳細は論語語釈「昆」を参照

兄 甲骨文 兄 字解
(甲骨文)

清家本では「兄」と記す。論語の本章では”兄”。同族中の年長男性。初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「𠙵」”くち”+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。

弟(テイ)

弟 甲骨文 論語 戈
「弟」(甲骨文)

論語の本章では”弟”。同族中の年少男性。初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形はカマ状のほこ=「」のかねを木の柄にひもで結びつけるさまで、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になった。甲骨文・金文では兄弟の”おとうと”の意に用いた。詳細は論語語釈「弟」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

不間於其父母兄弟之言

論語の本章では「人」→”世間”が”父母兄弟の話を真に受けない”。

伝統的には「間」を「そしる」と読んで、”悪口を言う”の意に解する本がある。つまり”世間が閔子騫の家族の言い分に文句を言わない”とする。これは下掲の古注の受け売りで、本章前半の”閔子騫は孝行だ”の理由にもならない。孝行だから世間が文句を言わないという理屈も成り立たない。つまり分かったようで分からない、デタラメ極まる、訳「のようなもの」である。

「間」→”悪口を言う”/「言」→”発言”
閔子騫は孝行者 × 世間が家族の発言に悪口を言わない

儒者は閔子騫の孝行があまりに素晴らしいので、ろくでなしの家族の言うことに、閔子騫に免じて世間が悪口を言わないという。では自分事として考えてみよう。他人の息子の一人がいくら孝行者だといって、ろくでなしの親兄弟姉妹がろくでもない事を言うのを、我慢できずにいられるか。

そして閔子騫の家族のクズを言い立てたのは、他でもない儒者である。またこの理屈の逆、「世間が悪口を言わない」から「閔子騫は孝行者」も成り立たない。世間が黙っている家族の息子が全員孝行者と言えるだろうか。それが通るなら、残忍極まりない独裁権力者に、バカ息子は居ないことになる。甘やかされた人間は一般的に馬鹿になるという事実(論語子罕篇23余話「DK畏るべし」)とも合わない。諸賢はどう思われるか。

これに対し『大漢和辞典』では、「間」を「あづかる」と読んで”関わる”の語釈を立てている。出典は下記の通り左伝だから、論語の時代に通用しなかった証拠が無い。仮に本章が後世の偽作としても、すでにある語義だから矛盾が無い。

其鄉人曰,肉食者謀之,又何間焉。


村人が言った。「(いくさなど)普段肉を食いつけている貴族さまの考えることだ。また何で関わり合いになるのか。」(『春秋左氏伝』荘公十年)

「間」を”関わる”と解すれば、”孝行者で知られた閔子騫を家族が何と言おうと、世間は相手にしない”として文意が通じる。「何を言おうと」だから、閔子騫へのどういう悪口でも、褒めちぎりでもかまわない。逆の「世間は相手にしないから閔子騫は孝行」は理屈が通らないが、家族の評価にかかわらず、閔子騫は孝行者であることには変わりない、と世間が思っていることになる。これなら理が通る。

「間」→”関わる”/「言」→”発言”
閔子騫は孝行者 家族が何を言おうと世間は相手にしない
×

上掲従来訳や現代中国での解釈例のように、「間」を”疑う”と解しても理屈は通じるが、それには「家族が閔子騫を褒めちぎる」という条件があらねばならない。条件は少ない方が「オッカムのカミソリ」に合うから賛成しがたい。しかも逆は通用しないのは訳者の解と同じ。なお「間」を”疑う”と解釈する本もあるが、従来訳同様、下掲新注の受け売りである。

「間」→”疑う”/「言」→”褒め言葉”
閔子騫は孝行者 家族が閔子騫を褒めちぎろうと世間は疑わない
×

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあり、文字史的には全て論語の時代に遡れる。ただし後世の引用・再録は定州竹簡論語にやや先行する『史記』弟子伝と、前漢末期の『論衡』のみ。しかも閔子騫→閔子馬の置換が間違いなら、論語の時代に存在せず前漢儒による創作が確定する。置換が正当でも、閔子騫は孔子の先達であり弟子ではない。

ひとまず史実の孔子の発言として扱う。

解説

論語の本章は、文字史的には孔子の肉声を疑う要素が無い。閔子騫は孔子の弟子ではなく、孔子は親孝行を説かず、閔子騫が家族に虐待された話も論語の時代に確認できない。

論語先進篇は、閔子騫を複数箇所で記述しており、いずれも、いみ名=本名の「閔損」ではなく敬称の「閔子騫」との記載であることから、本篇を閔子騫の弟子による編集とする説がある。だが『荀子』非十二子篇に「閔子之儒」が無く、仮に閔子騫派なるものが存在したとしても、戦国末期には消滅していた可能性が高い。

ただ閔子騫の評価について気になるのは、論語先進篇13で孔子が閔子騫を「夫人」→”あの人”、と敬称していること。

古注は上掲の通り、「間」を「そしる」と読むニオイの元だが、偽善者の集まりだった後漢の儒者は、閔子騫があまりに孝行だから、「悪い」閔子騫の家族の言葉にも、世間が文句をつけなくなったと解した。後漢儒の偽善については後漢というふざけた帝国を参照。

ただその「悪い」伝説は、孔子没後402年後に生まれた劉向の『説苑』が初出で、もちろん史実ではなく、劉向のこしらえたラノベである。

閔子騫に兄弟が二人いた。母が死んで父は再婚した。継母に連れ子が二人いた。子は合計四人。ある日子騫は父のために車を御して轡(くつわ)を失った。父が子騫の手を持つと、衣がなはだ粗末だった。

父はすぐさま帰って、継母とその子を呼び、それらの手を持つと、衣はたいそう厚くて暖かいものだった。父はその場で妻に言った。「私がお前をめとったのは、子のためなのに、今お前は私をあざむいた。すぐに出て行け。」

そこへ子騫が進み出て言った。「母がいて私の衣が粗末なのは、母が去って四人の子が凍えるよりはましです。」父は黙ってしまった。だから孔子は言った。「孝行者だな、閔子騫は。たった一言で母を家に止め、また三人の子が暖く過ごせた。」(『説苑』佚文篇)

さて九去堂など奇怪千万な奴の訳など信用できない、どうしても新旧の儒者の言う通りに論語の本章を解釈したいと言うならば、一つだけそれが通る法がある。先に論語先進篇2で見たように、先進篇には、孔子の肉声とそれに対する注釈が、一緒に本文化してしまった例がある。

それを本章にも適用すればいいのだ。これまでさんざん挙げてきたように、新古の注は実は注釈ではなく、論語にまつわる言いたい放題を、儒者が勝手に書き付けたもので、必ずしも本文の説明になったり、本文と関わりがあるわけではない。風味さえあれば何でもいいのだ。

先生が言った。「親孝行だなあ、閔子騫どのは。」
儒者の注釈。(…)。

カッコ内には新でも古でも、儒者どもの口から出任せを、好きなように入れるとよろしい。なんなら拙訳でも何でもよろしい。ではその、儒者の注釈を記しておく。

古注『論語集解義疏』

註陳群曰言閔子騫為人上事父母下順兄弟動靜盡善故人不得有非閒之言也疏子曰呈之言 閒猶非也昆兄也謂兄為昆昆明也尊而言之也言子騫至孝事父母兄弟盡於美善故凡人物論無有非閒之言於子騫者也故顔延之云言之無閒謂盡美也

註。陳群曰く、閔子騫の人と為りや上は父母に事え下は兄弟に順い動靜善を盡す、故に人之を非閒そしるの言有るを得不る也と言う。疏。子之を呈する言を曰う。閒は猶お非るのごとき也。昆は兄也。兄を謂いて昆と為す。昆は明也。尊び而之を言う也。子騫孝を至して父母兄弟に事え美善於盡す。故に凡そ人物は論じて子騫於非閒之言有る者無き也。故に顔延之云わく、之を言いて閒る無きを美を盡くすと謂う也と。

古注 皇侃 儒者
注釈。陳群「閔子騫の人柄は上は父母に仕えて下は兄弟に従い行動は善いことばかりだった。だから人は彼をそしる言葉を言うことが出来なかった。」
付け足し。孔子様は隠れた善行を褒め称えたのだ。間とは悪口を言うことだ。昆とは兄だ。兄を昆と言ったのだ。昆とは明るいことだ。尊んで兄をそう呼んだのだ。閔子騫は孝行を実践して父母兄弟に仕えて善行ばかり行った。だからその人柄は評論されても彼の悪口を言う者が居なかった。顔延之「悪口を言う者がいない者を、善行ばかりの人と言う。」

新注『論語集注』

胡氏曰:「父母兄弟稱其孝友,人皆信之無異辭者,蓋其孝友之實,有以積於中而著於外,故夫子歎而美之。」

胡氏曰く、父母兄弟其の孝友を稱え、人皆な之を信じてことばを異しむ者無し。蓋し其の孝友之實は、中於積み而外於著わるるを以いる有れば、故に夫子歎じ而之をたたう」と。

胡寅
胡寅「父母兄弟が閔子騫の孝行と兄弟思いを讃えたが、人々はみなそれを信じて怪しむ者がいなかった。たぶん閔子騫の孝行とは、隠れた善行が表に現れたものだったのだろう。だから孔子先生が褒め讃えたのだ。」

余話

リンゴとミカン

機関全速、振り返るな!

上記「間」の語釈に見えるように、儒者や漢学教授が古来から現在までデタラメを記してきたのは頭が悪いからだが、記憶力が無いゆえの頭の悪さではない。しかも記憶力は、データベースと検索技術がある現在、頭の良さの指標にはほぼならない。要るのは論理演繹能力。

記憶からものを言うのは記憶に制限されてそれ以上の事が言えない。ナントカの一つ覚えと同様で、「またその話か」とうんざりされる。うんざりされると世間師の稼業に差し支えるから、「記憶にございません」あれこれのうそデタラメを語る。油断もすきも無い。

欺されてしまうのを防ぐには記憶量がものを言うが、言ったハッタリはいずれバレるし、それが怖いから権威にすがって空威張りもする。だが論理能力は既存の知識から未知の何かを推量することが出来る。その推量に「当たり」の検証データが積み重なると、実用的な力になる。

つまり科学技術だが、儒者や漢学教授にそれが出来ないのは、おおざっぱに言ってこういう数学が出来ないからだ。頭がおおざっぱだから出来ないと言ってもよいが、その淵源はあるいは漢字の呪縛にある。中国とそれでめしを食う者は、ざっと3,500年表意文字を使ってきた。

つまり文字の意味内容に縛られて、抽象的にものを考えることが出来ない。現存する中国最古級の算術書『九章算術』は、小学校の先生がリンゴとミカンの例えを出さないとわからない児童に語るように、しかもおそらく徴税のための計算と見えて、土地の広さで語り始める。

今有田廣十五步,從十六步。問為田幾何?答曰:一畝。


ここに横幅十五歩、縦幅十六歩の畑がある。この面積はいくらか。答え。一畝。(『九章算術』方田)

話が単純な数式でも、算用数字や記号に比べ、漢字が面倒なことは明らかだ。

今有十八分之十二。問約之得幾何?答曰:三分之二。


12/18=2/3(『九章算術』方田)

現在のUTF-16コードでは、この数式は『九章算術』で48バイト*で算用数字で9バイト。記述に5倍以上の情報量が要る。人の歩みはほぼ時速5km、自転車はほぼその5倍なのを考えると、同じ文明の古さを誇っても、数千年のうちに取り返しの付かない遅れが出る道理になる。

*1byte=8bit。bitは0か1かを区別する情報単位。上掲『九章算術』の数式を記述するには、比較的短く済むUTF-16でも、0/1で384桁が必要になる。UTF-8なら576桁。つまりお使いのPCやスマホは、短くても下の384桁の0/1を解釈して上の文字列を出力しているわけだ。

010011101100101001100111000010010101001101000001010100010110101101010010000001100100111001001011010100110100000101001110100011000011000000000010010101010100111101111101000001000100111001001011010111111001011101011110011111100100111101010101111111110001111101111011010101000110011011110000111111110001101001001110000010010101001000000110010011100100101101001110100011000011000000000010

中国人は思考の抽象化に失敗した。抽象とおおざっぱは違って、ミカン1個とリンゴ1個では個数の範疇で同じ”1”とするのが抽象化で、リンゴ1個98円の金を払った客に「はいミカン1個ね」と82円の品を渡すのがおおざっぱだ。それでは客ともめることになる。

にもかかわらず儒者や漢学教授がおおざっぱを押し通せたのは、権力ずくや相手の無知に付け込んだからだ。おおざっぱを抽象化と区別するのは場合分けで、中国人は普段どんな阿呆でもゼニかねには途端に鋭敏になるから、算術はそこそこ発達したが数学は大成しなかった。

カネで瞬時に阿呆が明哲に変身した例は論語八佾篇12解説を参照。話を文字に戻せば、現行の欧州文字の淵源はフェニキア文字、さらにはエジプト文字にあるという。つまり始まりは絵文字だったわけだが、各文明が競い合う古代オリエントだから表音文字を生み出せたらしい。

メソポタミアの楔形文字も、初めは絵を単純化した記号だったのが、やがて表音文字に変化したという。算用数字の淵源がインドにあることはよく知られる。どちらも字形に音と意味が常につきまとう漢字と比べて、情報コストの安さは明らかだ。

人類は電子計算機を発明して情報コストを思い知らされた。「youtubeが途切れる」のは遅い回線速度に過剰な情報量がのしかかるからであり、電子機器がフリーズするのは演算しきれない情報をいつまでも処理終了に出来ないからだ。電池が切れると飛ぶデータも少なくない。

同様の理由で漢字を用いて自国語を記してきた中国の周辺民族も、日本人が漢字仮名併用に移行し、ベトナム人も万葉仮名的なチュノム、さらには表記をまったくラテン系文字に置き換えて現在に至る。漢字であらゆる事柄を示すのは無理で、国内なのに話が通じなかったからだ。

半坡文字

半坡文字

中国にも表音文字の事例が無いではない。BC6千年~BC4千年ごろの半坡文字は、あるいは表音文字だったかも知れない。だがこの文字は失伝して解読不能なので何とも言えない。だが漢字そっくりの文字は、半坡文字よりさらに古いBC6,600ごろの賈湖契刻文字に見られる。

賈湖契刻文字

甲骨文や金文に親しんだ者なら、「目八失曰」と釈文し「はらいうせるをみていわく」と訓読し”切り払われ失われるのを見て言った”と解してしまいそうだ。だがこの文字と漢字の連続を認めない意見も多いようで、甲骨文字のさらに先祖と、今のところは言い難いらしい。

中国人も清朝までは、他族他国と比べて圧倒的に経済的に豊かだったから、おおざっぱな連中に権力をゆだねても不思議に思わなかった。だがアヘン戦争でコテンパンにやられると、社会の痴呆化の原因が漢字にあるのではと疑われた。識字率の絶望的な低さも課題になった。

訳者は現在の中共政府の横暴をいささかも許す気になれないが、それでも歴代王朝と違って人民に簡体字を教育し、帝政が漢字を為政者だけで独占して社会の痴呆化を放置したのとはわけが違うのは認める。中共はさらにすすんで、中国語の表記をローマ字化するのも検討した。

だが実行はしなかったし、未だに出来ていない。中国語には同音異義語が多すぎるからで、声調を区別して表記できるピンインでも、なお異義語が多すぎて実用的でない。裏を返せば中国語が古来、漢字と不分離で発達してきた痕跡でもあり、表音文字化は無理というものだ。

ゆえに日本語は、かなが出来てからやっと日本語になった、と思っている。

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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