論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子路問聞斯行諸子曰有父兄在如之何其聞斯行之冉有問聞斯行諸子曰聞斯行之公西華曰由也問聞斯行諸子曰有父兄在求也問聞斯行諸子曰聞斯行之赤也惑敢問子曰求也退故進之由也兼人故退之
- 「華」字:〔艹〕→〔十十〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子路問聞斯行諸/子曰有父兄在如之何其聞斯行之也/冉有問聞斯行諸子曰聞斯行之公西華曰由也問聞斯行諸子曰有父兄在求也問聞斯行諸子曰聞斯行之赤也惑敢問/子曰求也退故進之由也兼人故退之
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[子路問曰a:「聞斯行諸?「子曰:]」有父兄在,如之何其聞斯行286……也問聞斯行諸,子[曰],『有父兄在』;求也問聞斯行諸,287……曰,『聞斯行之』。赤也惑,[敢]問。」子曰:「求也退,故進之;由也288兼人,故退之。」289
- 曰、今本無。問、於簡上為后添補字。
標点文
子路問曰、「聞斯行諸。」子曰、「有父兄在、如之何其聞斯行之也。」冉有問、「聞斯行諸。」子曰、「聞斯行之。」公西華曰、「由也問、『聞斯行諸。』子曰、『有父兄在。』求也問、『聞斯行諸。』子曰、『聞斯行之。』赤也惑、敢問。」子曰、「求也退、故進之。由也兼人、故退之。」
復元白文(論語時代での表記)
惑
※論語の本章は、「惑」の字が論語の時代に存在しない。「問」「行」「如」「何」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子路問ふて曰く、斯を聞かば諸行はむや。子曰く、父兄在す有り、之の如きは何ぞ其れ斯を聞かば之を行はん也。冉有問ふ、斯を聞かば諸行はむや。子曰く、斯を聞かば之を行へと。公西華曰く、由也問ふ、斯を聞かば諸行はむやと。子曰く、父兄在す有りと。求也問ふ、斯を聞かば諸行はむやと。子曰く、斯を聞かば之を行へと。赤也惑ふ。敢て問ふと。子曰く、求也退く、故に之を進む。由也人を兼ぬ、故に之を退くと。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子路が問うた。「教えられた概要を聞いたらすぐに詳細なあれこれを実行していいですか。」先生が言った。「父兄がいる。なぜ概要を聞いただけで詳細なあれこれを行うのか。」
冉有が問うた。「教えられた概要を聞いたらすぐに詳細なあれこれを実行していいですか。」先生が言った。「教えられた概要を聞いたらすぐに詳細なあれこれを実行しなさい。」
公西華が問うた。「子路が問いました。教えられた概要を聞いたらすぐに詳細なあれこれを実行していいですかと。先生は父兄がいると言いました。冉有が問いました。教えられた概要を聞いたらすぐに詳細なあれこれを実行していいですかと。先生は教えられた概要を聞いたらすぐに詳細なあれこれを実行しなさいと言いました。私は迷います。失礼ながら問います。」
先生が言った。「冉求は引っ込み思案だ。だから前に進めた。子路は人を大勢支配したがる。だから後ろに下げた。」
意訳
子路「先生の政治構想を伺ったら、すぐさま具体的な手段をあれこれ始めていいですか?」
孔子「あのな、お前の家族にはまだ年上がいるだろ。危ないからやる時期をよぉく見計らってから、それも出来ることからやれ。」
冉求「先生の政治構想を伺ったら、すぐさま具体的な手段をあれこれ始めていいですか?」
孔子「ああその通り。手近なことからすぐ始めなさい。」
公西華「? どっちなんです?」
孔子「冉求は慎重な男だからまあいいが、向こう見ずな子路に発破かけてどうなる? 私は親御さんに会わす顔が無くなるかも知れないぞ?」
従来訳
子路がたずねた。――
「善いことをきいたら、すぐ実行にうつすべきでしょうか。」
先師がこたえられた。――
「父兄がおいでになるのに、おたずねもしないで、一存で実行するのはよろしくない。」
冉有がたずねた。――
「善いことをきいたら、すぐ実行にうつすべきでしょうか。」
先師がこたえられた。――
「すぐ実行するがよい。」
後日、公西華が先師にたずねた。――
「先生は、善事をきいたらすぐ実行すべきかどうかについて、由がおたずねした時には、父兄がおいでになる、とおこたえになり、求がおたずねした時には、すぐ実行せよ、とおこたえになりました。私には、どうも先生のお気持がわかりません。いったい、どちらが先生のご真意なのですか。」
先師はこたえられた。――
「求はとかく引込み思案だから、尻をたたいてやったし、由はとかく出過ぎるくせがあるから、おさえてやったのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子路問:「聽到就做嗎?」孔子說:「有父兄在,怎麽能聽到就做?」冉有問:「聽到就做嗎?」孔子說:「聽到就做。」公西華說:「仲由問『聽到就做嗎』,您說『有父兄在』;冉求也問『聽到就做嗎』,您卻說『聽到就做』。我很疑惑,請問這是為什麽?」孔子說:「冉求總是退縮,所以要鼓勵他;仲由膽大,所以要約束他。」
子路が問うた。「聞いたことはすぐ行うべきですか?」孔子が言った。「父兄がまだ生きておられる、なぜ聞いたことをすぐ行おうとするのか?」冉有が問うた。「聞いたことはすぐ行うべきですか?」孔子が言った。「すぐやりなさい。」公西華が言った。「仲由が”聞いたことはすぐ行うべきですか?”と問えば、先生は”父兄がまだ生きておられる”と答え、冉求が”聞いたことはすぐ行うべきですか?”と問えば、先生は却って”すぐやりなさい”と答えました。私は非常に混乱しています。教えて下さい、これはなぜですか?」孔子が言った。「冉求は何かと引っ込み思案、だから発破を掛けようとした。仲由は胆が太い、だから枠をはめようとした。」
論語:語釈
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”聞いて教わる”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
論語の時代、「聞」は間接的に聞くこと、または知らない事を教わって明らかにすることを意味した。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では「きは」と読み、”ある一定の範囲を持った概念”。単独にあれをせよ、これをせよと言われたことでは無く、孔子から教わった教説全般や、聞いた政治構想全体を指す。個別の知識や事項ではない。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”いろいろなこと”。教わった政治構想の、具体的な実行手段複数を指す。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。
聞斯行諸(きはをきかばもろもろおこなはむや)
論語の本章では、”先生の政治構想を聞いたら、それに必要なあれこれを実行していいですか”。
- 直前に「問」が付いているから、原文に疑問辞が無いが句末は「や」と疑問に読む。
- 質問者が孔子一門の中でも「政事」の達者に挙げられ(論語先進篇2)、ともに季孫家の執事などを務めた行政官の子路と冉有であることから、「聞」いたのは孔子による政治上の指示。
- 「斯」とはちまちました個別の指示ではなく、おおまかな政治構想全体。
- 「諸」は”具体的手段あれこれ”の意。
漢字は訓読が同じでも、字が異なれば意味が違うか、方言が違う。同一人物の口から出たからには方言の違いではないから、「斯」「諸」はともに「これ」と読んでも意味が異なる。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存命である”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
父兄(フケイ)
論語の本章では”同族内の男性の年長者”。
(甲骨文)
「父」の初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。
(甲骨文)
「兄」の初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「𠙵」”くち”+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”いる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
如之何(かくのごときはなんぞ)
論語の本章”そんな状態でどうじて”。「如何」”どうしよう”の間に目的語の「之」を挟んだ形、ではない。直近の物事を指す「之」=「有父兄在」”父兄が健在である”「如」ような状態なのに、「何」で、の意。「如何」も同じく「いかん」と訓読する「何如」も、反射的に「いかん」と読むのはもうやめよう。語義の全然違う漢語を、過去の日本の漢文業者が真面目に読まなかった怠惰を真似することになるからだ。
「如何」と「何如」の違いは次の通り。
- 「如・何」→従うべきは何か→”どうしましょう”・”どうして”。
- 「何・如」→何が従っているか→”どう(なっている)でしょう”
「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
「之」(甲骨文)
「之」は論語の本章では”これ”。孔子の指示のうち、個別の事柄。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
「何」(甲骨文)
「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”なんでまあ”という詠嘆の意。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章、「行之也」では「や」と読んで疑問の意。「由也」「求也」「赤也」では”…こそは”。主格の強調。「なり」と読んで断定の意”~である”や、「かな」と読んで詠嘆”だなあ”の意もあるが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
如之何其聞斯行之也
論語の本章では、”構想の一部なんか行ってどうする、そうやって構想の全体を聞いて一部を行うのは”。すぐさま取りかかったりせず、実行するのにふさわしい時を待てという孔子の指示。直前に「父兄在」があることから、”政治いじりは危ないのだから、すぐに取りかからず時期を待て”ということ。
- 「如之何」の「之」は「斯」”政治構想全体”の一部を指す。初めに手をつけるべき、ちまちました事柄。政治改革に例えるなら多数派工作をするなどのこと。”なんでまあ、そんなちまちましたことをするのだ”の意。
- 「其」は”そうやって”。
- 「聞斯行之」は”全体を聞いて一部に手を付ける”。子路の問いと微妙に言葉が異なる。
- 子路:「聞斯行諸」”構想全体を聞いたら「諸」=この場で行う”
- 孔子:「聞斯行之」”構想全体を聞いたら「之」=一部を行う”
- 「也」は疑問辞。
子路には押しとどめた孔子だが、同じ冉有の問いに対しては「聞斯行之。」”全体構想を聞いたら一部を行え”と答えた。さっさと始めなさい、一部でいいから手を付けなさい、の意。
冉有(ゼンユウ)
孔子の弟子、冉求子有のこと。論語の本章ではあざ名で呼んでおり敬称。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく孟子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
論語での「冉求」「冉有」の表記揺れについては、論語雍也篇12語釈を参照。
公西華(コウセイカ)
BC509?ー?。孔子の弟子。姓は公西、名は赤、字は子華。論語の本章ではあざ名で呼んでおり敬称。見た目が立派で外交官に向いていると孔子に評された。詳細は論語の人物:公西赤子華を参照。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
(甲骨文)
「西」の初出は甲骨文。字形は西日が差す日暮れになって鳥が帰る巣の象形と言われる。呉音では「サイ」。春秋末期までに、”にし”の意に用いた。詳細は論語語釈「西」を参照。
「華」(金文)
「華」の初出は西周早期の金文。字形は満開に咲いた花を横から描いた象形で、原義は”花”。金文では地名・国名・氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「華」を参照。
由(ユウ)
論語の本章では、子路の本名(いみ名)。発言者の公西赤子華にとって、子路は先輩格で敬称を用いるべき所、聞き手がそれより上の孔子であるため、卑下した呼び方であるいみ名を用いている。
(甲骨文)
「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
求(キュウ)
冉求子有のいみ名。いみ名を用いた事情は子路と同じ。
「求」(甲骨文)
「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。
赤(セキ)
論語の本章では、孔子の弟子、公西赤子華のいみ名。自称のため師の孔子に対してへり下っていみ名を用いている。
(甲骨文)
「赤」の初出は甲骨文。字形は「大」”身分ある者”を火あぶりにするさまで、おそらく原義は”火祭り”。甲骨文では人名、または”あか色”の意に用い、金文でも”あか色”に用いた。詳細は論語語釈「赤」を参照。
惑(コク)
(金文)
論語の本章では”まよう”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ワク」は呉音。同音に語義を共有する漢字は無い。字形は「或」+「心」。部品の「或」は西周初期の金文から見られ、『大漢和辞典』には”まよう・うたがう”の語釈があるが、原義は長柄武器の一種の象形で、甲骨文から金文にかけて地名・人名や、”ふたたび”・”あるいは”・”地域”を意味したが、「心」の有無にかかわらず、”まよう・うたがう”の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「惑」を参照。
敢(カン)
(甲骨文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。
退(タイ)
(甲骨文)
論語の本章、「求也退」では”消極的である”。「故退之」では”後ろに下げる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「豆」”食物を盛るたかつき”+「夊」”ゆく”で、食膳から食器をさげるさま。原義は”さげる”。金文では辶または彳が付いて”さがる”の意が強くなった。甲骨文では祭りの名にも用いられた。詳細は論語語釈「退」を参照。
故(コ)
(金文)
論語の本章では、”だから…”。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。初出は西周早期の金文。ただし字形が僅かに違い、「古」+「攴」”手に道具を持つさま”。「古」は「𠙵」”くち”+「中」”盾”で、”口約束を守る事”。それに「攴」を加えて、”守るべき口約束を記録する”。従って”理由”・”それゆえ”が原義で、”ふるい”の語義は戦国時代まで時代が下る。西周の金文では、「古」を「故」と釈文するものがある。詳細は論語語釈「故」を参照。
進(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”前へ進める”。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。
兼*(ケン)
(金文)
論語の本章では”大勢を支配する”。たばねること。論語では本章のみに登場。部品としての初出は西周早期の金文。単独では春秋末期の金文。字形は「禾」”実った穀物の穂”2本+「又」”手”。実った穀物の穂をたばねるさま。同音は「蒹」”穂の出ていない荻”のみ。春秋の金文では、”兼ねる”の意に用いた。詳細は論語語釈「兼」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人の仕事”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語にあり、同じく定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』に一部が載る。またやや先行する『史記』弟子伝にもおおむね同文が載る。
ただ文字史的には論語の時代に「惑」の字が存在せず、後世の創作と判断するしかない。内容的には孔子の教説と反しないので、あるいはいずれ春秋時代以前の「惑」の字が発掘されるかもしれない。
解説
通説ではがらっ八な男とされている子路は、本章では「兼人」”何事に付け人を指揮する先頭に立ちたがる”と記されている。上記語釈の通り、実ったわら束を何本も手に掴むように、人々を仕切りたがったというのだ。そのやり過ぎは『孔子家語』致思3に記され、時代が下って『韓非子』では笑い話に仕立てられている。
季孫相魯,子路為郈令。魯以五月起眾為長溝,當此之為,子路以其私秩粟為漿飯,要作溝者於五父之衢而餐之。孔子聞之,使子貢往覆其飯,擊毀其器,曰:「魯君有民,子奚為乃餐之?」子路怫然怒,攘肱而入請曰:「夫子疾由之為仁義乎?所學於夫子者仁義也,仁義者,與天下共其所有而同其利者也。今以由之秩粟而餐民,不可何也?」孔子曰:「由之野也!吾以女知之,女徒未及也,女故如是之不知禮也!女之餐之,為愛之也。夫禮,天子愛天下,諸侯愛境內,大夫愛官職,士愛其家,過其所愛曰侵。今魯君有民而子擅愛之,是子侵也,不亦誣乎!」言未卒,而季孫使者至,讓曰:「肥也起民而使之,先生使弟子令徒役而餐之,將奪肥之民耶?」孔子駕而去魯。
季康子が魯の宰相だったとき、子路が郈のまちの代官になった。魯では毎年五月、住民を動員して大きな水路を掘ることになっていたが、子路は自分の財布をはたいて、汁物付きの弁当を作り、五父という街角で動員された民に配った。
孔子がこの話を聞き、子貢を呼んで「鍋をひっくり返し、茶碗を叩き割ってきなさい」と命じた。子貢が面白がってそうするついでに、「魯の殿様が民の主です。兄者が何で弁当を配りなさる?」と言った。子路が真っ赤になって怒りだし、孔子の屋敷にすっ飛んで行き、文句を言った。
子路「先生は私めが情けを行うのをイカンと言うのですか? 仁義の情けは先生が教えたことでしょう? 仁義とは、天下の民とものを分かち合い、利益を共にすることではありませんか。いま私めが自分の財布をはたいて弁当を出すのが、何でいけないのです?」
孔子「お前なあ、分からず屋にもほどがある。もう分かっていたと思っていたんだがな。こういうことをすると、礼法破りになるんだぞ。民に弁当を配ったのは、民を可愛がったからだろうが、礼法の決まりではそうはいかん。王陛下は天下を愛し、殿様方は領民を、家老各位は部下を、士族のみなは家族を愛するのが掟だ。範囲外を愛するのは”出しゃばり”というんだ。今いる民は魯の殿様の領民で、勝手に可愛がるのは出しゃばりだ。殿様(がケチだとそ)の悪口を言うのも同じじゃないか。それにな…。」この説教が終わらない間に季孫家の使いが来た。
使い「宰相は自分の意志で民を動員したのですが、先生は弟子に命じて民に弁当を配りました。宰相を取って代わるおつもりですかな?」
孔子はびっくりして、車を走らせて魯国から逃げた。(『韓非子』外儲説右上142)
『孔子家語』では「與民脩溝洫」とあるから、子路は現場監督に出ただけでなく、自分ももっこを担いで工事に当たったことになる。事の真偽は確かではないが、子路の「兼人」とはたぶんこういうことで、”何でもかんでも、自分でやろうとするんじゃない”というのが論語の本章の趣旨だろう。
孔子一門の本質は政党で、それも革命政党だった。革命と言っても殿様の首を斬るような革命ではなく、それまで家職として世襲されていた公職を、教育を受けた庶民にも開放しろ、というもので、つまりは能力主義と、官僚制のはしりを主張した。
フランス革命やロシア革命に比べればずいぶん穏健で、だからこそ当初は門閥からも支持された。社会が複雑化して手に負えなくなった家職を、うまく切り回してくれる孔子の弟子は重宝したからだ。だがそれでも革命で、孔子一門の進出に伴って、家職を失う者が出るのは避けられなかった。
論語の本章で孔子が「聞」かせた「斯」とは、役人としての技能全般で、それを聞いた子路は、「兼人」=旧貴族をも仕切りたがる性格だった。これでは忌み嫌われて、命まで狙われかねない。だから「父兄がまだご存命だろ」と孔子は子路を諭したわけ。
対して「求や退く」と言われた冉有だが、実務家や武将としては勇敢な男で、大国斉の侵入軍に切り込んでいったし(『春秋左氏伝』哀公十一年)、税制改革に当たっては反対派にひるまなかった。フランス革命の発端が税制改革だったように、こういう仕事は時に命に関わる。
だが冉有は師の孔子の反対にもかかわらず、改革をやり遂げた。論語先進篇16解説を参照。
余話
塹壕(マイダーン)から出してくれ
論語の本章で、年少の弟子である子華は、年長弟子の子路や冉求を、いみ名=本名で呼び捨てにしている。これは論語編集の過程でそうなったのか、春秋時代の敬語法としてそうだったのかは分からない。上掲戦国末期『韓非子』での子貢は、先輩の子路を「子」”先生”と呼んでいる。
孔子と同時代を生きたインドの賢者、ブッダの臨終の記録『大パリニッバーナ経』では、それまで互いを対等に「きみよ」と呼んでいた仏弟子同士に、長老に対しては「尊い方よ」と呼ぶよう、ブッダが言い残したことを記している。春秋の漢語ではどうだったのだろうか。
漢語には日本語のような尊敬の助動詞が無く、「たまふ」のような尊敬の補助動詞もない。「子曰」を「しのたまわく」と敬語に訓読するのは日本人の都合で、「曰」はただ”言う”を意味するに過ぎない。ただ動作主体に「子」や「陛下」のような接頭辞・接尾辞を付けて尊敬の意味を示す。
これは”sir”や”your majesty”などで尊敬を表す英語に似ているが、訳者が辞書を引ける印欧語は英語とロシア語だけだから、印欧語の通例と言えるか分からない。しかもロシア語を学び始めたのはソ連時代だったから、そもそもロシア語に敬語が否定されていた。
(ボリショイ劇場のソリスト・ピロゴーフが、鉄道本線から支線で30キロ、それから歩いて40キロという故郷に帰省する途中、「コルホーズの会計係だ」と正体を隠し、支線の車内で歌うのを聞いて、著名な作家のバウストフスキーが、それと知らずにモスクワの高等音楽院に紹介しようと申し出た。)
「そんな声をもちながら、こんなかたいなかにくすぶって才能をうもれさせるのは罪悪ですよ。」…革命前に存在した多種多様な「敬称」がすべてご破算となり、師団長「閣下」も小隊長「殿」も、その他国家の最高元首にたいする敬称もすべてただひとつ「タバーリシチ」の一語に統一されてしまったソ連社会だからこそ、右のようなことが日常茶飯事になっているのです。(東郷正延『ロシア語のすすめ』)
閲覧者諸賢には、すでに「コルホーズ」が”共産政権下の共同農場”であるとご存じない若い方もおいでだろう。東郷先生のおっしゃるような、「タバーリシチ」”同志”の「サユース」”同盟”がソ連の実態でなかったのは明らかだが、当時は「鉄のカーテン」の向こうで分からなかった。
その東郷先生の編んだ『研究社露和辞典』のгосподин(”殿”・”様”)条には「現在では外国人にのみ使用」と但し書きがある。また二人称тыを複数形выとすれば敬称になるし、接尾辞-сは(旧)と但し書きがあるものの、「任意の語の後につけ丁重・卑下の意を表す」とある。
だが「まれにおどけ・皮肉の意も加わる」ともある。「おありがとう」と言われたら腹が立つのと同じ理屈だ。だがこれも人によるかも知れない。訳者は「ご案内」と自分が言うのは抵抗がないが、「ご挨拶」と言うのには、塹壕を踏み越えるような抵抗を感じる。
くだくだしいながら余計な事を言えば、「案内」は相手の「案内」”了解範囲内のこと”でもあり得るからで、「挨拶」するのはどこまでも自分で、自分に「ご」を付けるのは図々しいと感じ取ってしまうからだ。だが分かっていながら、お他人様がそう言うのをとがめる気にもならない。
とがめるほど自分が偉い人間かと、やはり気になってしまうからだ。昨今調剤薬局などに行くと、椅子に座った客に、薬剤師がそれより低いしゃがんだ姿勢で説明をすることがある。あれもやり過ぎではないだろうか。専門家を見下すなんて、と訳者はいたたまれなくなってしまう。
ただそれは、その専門家が素人を欺さないという信頼がある場合に限る。論語の本章など「斯」を使う章は多いが、儒者は語義のない助辞だと片付け、怠惰な漢学教授は現在でも儒者に下駄を預けてデタラメに訳している。上記の通り、「斯界」というように”場”の意味がちゃんとあるのに。
「其聞斯行之」。「それこれをきいてこれをおこなう」。あまりにおおざっぱに「それ」「これ」と読み下すのは、同じ消毒薬だからといって、腹の寄生虫に漂白剤を飲むのと変わらない。そんなことを専門家が勧めるなんてことが、漢文業界では今なおまかり通っているわけだ。
こういう世の人を欺して食っている者なら、訳者はいくら足蹴にしても気にならないのだが。
参考動画
Переведи меня через майдан.”私を塹壕から出してくれ”。下掲動画は帝政崩壊後の赤白内戦を舞台に選び、同胞が殺し合う(多分親子が双方で分かれている)地獄を描きつつ、塹壕を越え同じ歌を彼我が歌うさま。
wikipediaによると、原歌詞は1981年にウクライナ語で書かれたとされる。майданの語は「マイダン革命」として日本にも知られ、一般的語釈は”交易広場”。ただし上掲ロシア語訳の歌はおそらくそうでない。『研究社露和辞典』майдан条に(旧・方)として”(森林中に穴を掘った)タール製造場”の語釈があり、演じている情景(1917年直後の内戦)から”塹壕”と解した。
この歌も「ポーリュシカ・ポーレ」同様、種類にいくつかの露語訳詞がある。戦争中の今は、書けば親露派の烙印を押されるので日本語訳を記すことが難しい。「私を塹壕から出してくれ。」早く平和が戻ってくれるといいのだが。
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