論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
言偃子游(げんえん・しゆう)
言偃,吳人,字子游。少孔子四十五歲。子游既已受業,為武城宰。孔子過,聞弦歌之聲。孔子莞爾而笑曰:「割雞焉用牛刀?」子游曰:「昔者偃聞諸夫子曰,君子學道則愛人,小人學道則易使。」孔子曰:「二三子,偃之言是也。前言戲之耳。」孔子以為子游習於文學。
言偃は、呉の人なり、字は子游。孔子より少きこと四十五歳。子游、既に已に業を受け、武城の宰と為る。孔子、過(よぎ)り、弦歌の声を聞く。孔子、莞爾(カンジ)として笑いて、曰く、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん。」子游曰く、「昔者、偃、諸を夫子に聞けり、曰く、『君子、道を学べば則ち人を愛す。小人、道を学べば則ち使い易し。』」孔子曰く、「二三子、偃の言は是なり。前言は之に戯るるのみ。」孔子、以為らく、子游は文学に習う、と。
言偃は、呉の人である*。字は子游。孔子より四十五歳年少。子游は学問を学び終えると、武城の代官になった。孔子が武城の近くを通り過ぎると、琴と歌の声が聞こえてきた。孔子はニッコリ笑って言った。「トリ鍋を作るのに牛斬り包丁を使うとはね。」
子游が言った。「昔、私は先生にこう教わりました。君子が人の道を学ぶと、人を愛するようになる。凡人が人の道を学ぶと、君子に使われやすくなると。」孔子が付き従っている弟子に言った。「諸君、子游の言う通りだよ。さっきのはからかっただけだ。」孔子は、子游は古典を真似したのだと思った。
*魯の人だという説もあって、訳者はこれを支持する。詳細は論語の人物:言偃子游を参照。
卜商子夏(ぼくしょう・しか)
卜商字子夏。少孔子四十四歲。子夏問:「『巧笑倩兮,美目盼兮,素以為絢兮』,何謂也?」子曰:「繪事後素。」曰:「禮後乎?」孔子曰:「商始可與言詩已矣。」子貢問:「師與商孰賢?」子曰:「師也過,商也不及。」「然則師愈與?」曰:「過猶不及。」子謂子夏曰:「汝為君子儒,無為小人儒。」孔子既沒,子夏居西河教授,為魏文侯師。其子死,哭之失明。
卜商、字は子夏。孔子より少きこと四十四歳。子夏問う、「巧笑、倩(セン)たり、美目、盼(ヘン)たり、素以て絢(あや)を為すとは、何の謂いぞ。」子曰く、「絵事は素に後る。」曰く、「礼は後か。」孔子曰く、「商、始めて與に詩を言う可し。」子貢問う、「師と商とは孰れか賢る。」子曰く、「師や過ぎたり、商や及ばず。」「然らば則ち師、愈(まさ)れるか。」曰く、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし。」子、子夏に謂いて曰く、「汝、君子の儒となれ、小人の儒と為る無かれ。」孔子既に没し、子夏、西河に居りて、教授す。魏の文侯の師と為る。其の子死して、之を哭して明を失う。
卜商、字は子夏。孔子より四十四歳年少。子夏が問うた。「巧みな笑顔が凛々しい、美しい眼が際だっている、おしろいが文様を作っている、この歌は何を言っているのですか」。先生が言った。「絵を描くのは下地の白を塗った後で、ということだ」。子夏が言った。「礼法も後ですか」。先生が言った。「子夏よ、やっと初めて共に詩を語れるようになった。」
子貢「子張と子夏はどちらが出来ますかね。」
孔子「子張はやり過ぎ、子夏はやりなさ過ぎ。」
子貢「では子張が上ですか。」
孔子「やり過ぎは足りないのと同じだ。」
孔子が子夏に言った。「お前は立派な学者になれ。冠婚葬祭屋になるな*。」
孔子没後、子夏は北の魏国の西河地方に住んで、学問を教えた。魏の文侯の相談役になった。その子に先立たれ、泣いた余り視力を失った。
*孔子出現まで、儒者とは冠婚葬祭業者とまじない師を兼ねたような職業だった。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。
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