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論語の人物:閔損子騫(びんそん・しけん)

孟子のうっかりで弟子にされてしまった孔子の大先輩

至聖先賢半身像「閔子騫」

国立故宮博物院蔵

略歴

『史記』などによればBC536ーBC487。孔子の弟子。姓は閔、いみ名は損、あざ名は子騫。『史記』によれば孔子より15年少。徳行を子に評価され(論語先進篇2)、孔門十哲の一人。

「閔」の字の初出は西周の金文。「子」の字の初出は甲骨文。「騫」の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。もし閔子騫が架空の人物でないなら、論語の時代は部品の「馬」または「黽」(ビン、初出甲骨文。論語先進篇12の定州竹簡論語がこう記す)と書かれたと考える以外に方法が無い。

カールグレン上古音は「閔損子騫」でmi̯wæn(上)・swən(上)・tsi̯əɡ(上)・kʰi̯an(平)。名について『字通』は次の通り言う。

孔門の閔損は字(あざな)は子騫(しけん)。騫は蹇足(けんそく)。員はもと圓(円)の初文で円鼎の意であるから、損とはその鼎足などを損する意であろう。(『字通』損条)

「であろう」と個人の当て推量を書いて済ませられても、納得できかねる。閔子騫について気になるのは、孔子は閔子騫を、他の弟子のように呼び捨てにしていないこと。

孝哉閔子騫﹅﹅。人不間於其父母昆弟之言。(論語先進篇4)→あざ名で敬称。

夫人﹅﹅不言、言必有中。(論語先進篇13)→「あのひと」と敬称。

他の弟子には、有り得べからざる言葉遣いである。弟子だったかどうかも怪しい。年下というのも疑われる。他にこのような敬称が確認できる「弟子」は、恐らく孔子より年長で、かつ冉一族の長老だった冉伯牛を呼んだ「斯人」=このひと、だけになる(論語雍也篇10)。

つまり閔子騫は孔子に従属していない。

種を明かせば、閔子騫は孔子の弟子ではあり得ない。むしろはるかな年長者で、それも分別に優れた知者として知られていた。上掲の通り「閔子騫」の論語の時代での表記が「閔子馬」だとするなら、その名は孔子生誕翌年の、『春秋左氏伝』にすでに見える。

季武子無適子,公彌長,而愛悼子,欲立之…季氏以公鉏為馬正,慍而不出,閔子馬見之曰,子無然,禍福無門,唯人所召。為人子者,患不孝,不患無所。敬其父命,何常之有,若能孝敬,富倍季氏可也,姦回不軌,禍倍下民可也,公鉏然之,敬共朝夕,恪居官次。


(BC550)季孫家の当主季武子には正妻に男子がなく、庶子では公弥(公ショとも)が年長だったが、別に悼子(コツとも)があって可愛がっていたから、悼子を跡継ぎに立てようとした。…季武子は公鉏を馬屋番にしたが、公鉏は腹を立てて真面目に勤めなかった。

閔子馬が公鉏に意見した。「おやめなさい。運不運はほかでもなく、自分の行為から始まるのです。人の子たる者は、不孝者にならないよう心がけ、地位が無いのを苦にしてはいけません。

父上の言いつけをしかと守り、いつも期待に背かず働き、天晴れ孝行者よと言われるようになれば、今の季孫家を倍にしたほど富み栄えることができましょう。やけになってぐれてしまい、親を怨んであだを為すようでは、下民と変わらないではありませんか。」

公鉏はなるほどと思って、言われた通り真面目に馬屋番を務めた。(『春秋左氏伝』襄公二十三年2)

孔子は若年時に季孫家の家臣として仕え、帳簿仕事をしたことが『史記』孔子世家に見えるが、孔子が満年齢で0歳か1歳かのころ、季孫家の若様に意見した閔子馬は、すでに分別を持った青年以上だった。つまり孔子の弟子ではなく、孔子の大先輩と見るべきだ。

また『春秋左氏伝』には次のような記事も見える。

昭公…十八年…秋,葬曹平公,往者見周原伯魯焉。與之語,不說學,歸以語閔子馬,閔子馬曰,周其亂乎,夫必多有是說,而後及其大人,大人患失而惑,又曰,可以無學,無學不害,不害而不學,則苟而可,於是乎下陵上替,能無亂乎,夫學,殖也,不學將落,原氏其亡乎。…

昭公二十九年…三月,己卯,京師殺召伯盈,尹氏固,及原伯魯之子。


昭公…十八年(BC524)…秋、曹の平公の葬儀があった。魯から弔問に出向いた使者が、周王の直臣である原伯魯と会談したが、伯は「勉強なんてもうこりごりだ」と言った。使者は帰国して閔子馬にこの話をした。

閔子馬「近いうちに周王室で騒動が起きる。そもそも、まっとうで喜んで受け容れるべき教訓は世に多くないはずがないし、それを学びつくすのは権力者にとっても不可欠だ。その権力者が学びを嫌がって受け容れず、デタラメを口にするようでは(おしまいだ)。

”無学でもかまわない、無学でも損はしない、損がないから学ばない”。そう言って開き直るのは一時的には通用するかも知れないが、目下の者には馬鹿にされ取って代わられるから、騒動が起きないではいられない。

学びとは、知恵を増やすことだ。智恵無しのままでいようというのだから、早晩没落がやって来る。原氏は滅ぶのではないか。」

(11年後の)昭公二十九年(BC513)…三月、つちのとうの日、周王室で騒動があり、召伯盈、尹氏固、それに原伯魯の子が殺された。(『春秋左氏伝』昭公)

ところで閔子騫の年齢を、『史記』弟子伝は「少孔子十五歲」と書き、論語と同様定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』七十二弟子解は「少孔子五十歲」と記す。『史記』は『家語』より若干時代が先行するが、ともに前漢中期の成立で、現伝文字列に後世のいじくりが皆無とは言えない。

それに目をつぶれば「十五」と「五十」は、どちらかが逆転して書き誤ったと考えられるが、「閔子騫」が「閔子馬」だったとすると、「少」でなく「多」”年上”と考えた方が理屈が通る。では孔子生誕の翌年に季孫家のぼっちゃんに意見したのが、十六歳か五十一歳か。

周王室の騒動を予見した時には、四十二歳か七十七歳ということになる。孔子が七十過ぎで世を去ったのを考えると、七十七歳は超老人と言ってよい。論語先進篇12は、あるいは閔子騫が子路の仕官を思いとどまらせるよう説得に来た話とも読み取れる。

孔子は五十一歳で地方の代官を務め、翌年中央政界デビューした。子路の仕官はその後と思われるから、閔子騫が「五十年長」だとするとまるで仙人のような長命になってしまう。『史記』弟子伝が言う通り、孔子との年齢差は15で、ただし閔子騫の方が年長だたっと考えるのが妥当ではないか。

BC 定公 孔子 魯国 その他
501 9 51 中都の宰=代官に任じられる 陽虎、斉、次いで晋に逃亡。
500 10 52 司空=治水頭、次いで大司冦(コウ)=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す 定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける
499 11 53 家老の少正卯(ボウ)を処刑する 季桓子と孟懿子、孔子を支持する。斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く
498 12 54 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗
497 13 55 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける 晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。衛、孔子を迎える

閔子騫を孔子の弟子だと言い出したのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子で、弟子でない者を弟子だと決めてしまった上、孔門十哲にまで入れてしまって、閔子騫孔子の弟子説を鉄筋コンクリート固めにしたことは、大いに後世を誤らせた。

公孫丑問曰…「宰我、子貢善為說辭,冉牛、閔子、顏淵善言德行。孔子兼之,曰:『我於辭命則不能也。』然則夫子既聖矣乎?」
曰:「惡!是何言也?昔者子貢、問於孔子曰:『夫子聖矣乎?』孔子曰:『聖則吾不能,我學不厭而教不倦也。』子貢曰:『學不厭,智也;教不倦,仁也。仁且智,夫子既聖矣!』夫聖,孔子不居,是何言也?」

論語 弟子 孟子
弟子の公孫丑「宰我や子貢は口車が回り、冉牛と閔子と顔淵は、道徳の行いに優れていました。孔子はどちらも出来ましたが、”わしは公の命令文を書くのは苦手だ”とも言いました。ということは、孔子先生も万能の聖人ではなかったのですか?」

孟子「つまらんことを言うね、君は。むかし子貢が孔子に尋ねたことがある。”先生は万能の人ですか?”孔子は答えて”万能なんてとんでもない。わしはよく勉強して、教えるのにうんざりしたことがないだけだ”とね。すると子貢が言い返した。”勉強が苦にならないのは智恵者で、教えてうんざりしない者は情け深い仁義の人です。仁義で智恵者なら、先生はやっぱり万能ですね”と。もし孔子が万能の聖人でなかったら、一体誰が聖人だというのかね。」(『孟子』公孫丑2)

公孫丑も孔子も、「閔子騫」とは言わずに「閔子」とだけ言っていることから、現伝『孟子』筆記者は論語の「閔子騫」の存在と、『春秋左氏伝』の「閔子馬」の存在を両方知っていて、その矛盾を誤魔化すためにあえて「閔子」で止めたのだろう。宋儒の仕業を訳者は疑う。

公孫丑が「閔子」を孔子の弟子と疑っていないのは、もちろん師匠の孟子にそう教わったからで、中国史上初めて「閔子なんちゃら」を孔子の弟子だと言い張ったのが、孟子であるのは疑いない。存外孟子は『春秋左氏伝』を読んでおらず、それは勉強不足か、あるいはまだ『左氏伝』が出来る前だったからだろう。

論語には雍也篇15「孟之反ほこらず」のように、孔子の弟子ではない人物の逸話も記されている。論語に出て来る人物だからといって、誰も彼も孔子の弟子ではない。閔子騫が弟子になってしまったのは孟子のうっかりに始まり、その後に出来た『史記』や『孔子家語』による弟子伝説は、孟子のうっかりも、司馬遷に語った「古老」のデタラメも疑わなかったからで、それが今なお後生大事に史実と扱われているだけだ。

論語での扱い

魯国門閥家老筆頭の季氏から、その根拠地費邑の代官にと望まれたが、断ったと雍也篇にある。しかし『孔子家語』には、費の代官になったと記されている。下記の通り出来の悪い家族に囲まれたが、閔子騫の徳行で世間の悪口を防いだと論語の先進篇にいう。また魯国の宮殿改築を批判した言葉を孔子が評して、「夫人(かのお人)」と尊称しており、若いながら師から敬意を持たれていたように書かれている。

他の典籍での扱い

『二十四孝』に継母とその子に虐待されたが耐えたという伝説がある。後漢の劉向が書いた『説苑』佚文では以下の通り。劉向は孔子没後402年後に生まれた人物で、もちろんこの話は史実と受け取れるわけがなく、儒者のおとぎ話のたぐい。

閔子騫兄弟二人,母死,其父更娶,復有二子。子騫為其父御車,失轡,父持其手,衣甚單。父則歸,呼其後母兒,持其手,衣甚厚溫,即謂其婦曰:「吾所以娶汝,乃為吾子,今汝欺我,去,無留!」子騫前曰:「母在一子單,母去四子寒。」其父默然。故曰:「孝哉閔子騫,一言其母還,再言三子溫。

劉向

閔子騫に兄弟が二人いた。母が死んで父は再婚した。継母に連れ子が二人いた。子は合計四人。

ある日子騫は父のために車を御して轡(くつわ)を失った。父が子騫の手を持つと、衣がなはだ粗末だった。父はすぐさま帰って、継母とその子を呼び、それらの手を持つと、衣はたいそう厚くて暖かいものだった。

父はその場で妻に言った。「私がお前をめとったのは、子のためなのに、今お前は私をあざむいた。すぐに出て行け。」

そこへ子騫が進み出て言った。「母がいて私の衣が粗末なのは、母が去って四人の子が凍えるよりはましです。」父は黙ってしまった。だから孔子は言った。「孝行者だな、閔子騫は。たった一言で母を家に止め、また三人の子が暖く過ごせた。」(『説苑』佚文)

『説苑』より前、前漢初期の『漢詩外伝』にも、同じくおとぎ話が載る。

閔子騫始見於夫子,有菜色,後有芻豢之色。子貢問曰:「子始有菜色,今有芻豢之色,何也?」閔子曰:「吾出蒹葭之中,入夫子之門,夫子內切瑳以孝,外為之陳王法,心竊樂之;出見羽蓋龍旂裘旃相隨,心又樂之;二者相攻胸中,而不能任,是以有菜色也。今被夫子之文寖深,又賴二三子切瑳而進之,內明於去就之義,出見羽蓋龍旂旃裘相隨,視之如壇土矣,是以有芻豢之色。」《詩》曰:「如切如瑳,如琢如磨。」


閔子騫が初めて孔子のお目にかかったとき、青菜のように顔色が悪かった。それを覚えていた子貢が後日閔子騫に会うと、まぐさを食い飽きた家畜のように元気がよい。

子貢「前は真っ青だったのに、なんともはやご気分のよろしい様子で。いったいどういうわけです?」

閔子騫「私は貧乏に生まれ、先生に弟子入りしました。先生は自己修養のために孝行を薦め、政治方針としていにしえの聖王の道を説きます。そのお話を伺って心楽しい気分でおりましたが、一歩外に出れば素寒貧の身、王侯の行列を見て、ああなりたいなとうらやみもしました。二つの気分がカチ合って、それで顔色が悪かったのです。

ですが先生の教えを深く受けるうちに、弟子仲間と互いに高め合ううちに、先生のお教えこそがまことの道で、外で王侯の行列を見ても鼻で笑えるようになりました。だから今は顔色が良いのです。」

『詩経』に「玉を刻むように、磨くように、整形するように研ぐように」とあるのはこのことである。(『韓詩外伝』巻二5)

儒者はこういう出来の悪い絵空事を、よくもまあ量産できたものだとそういう方面から感心する。訳者とは精神構造が、ずいぶん違うように出来ているらしい。前漢中期には成立していた『孔子家語』の閔子騫伝説は次の通り。あまりに下らないので抄訳で勘弁してください。

閔子騫が費の代官になって、政治を孔子に問うた。

孔子「德と法に従いなさい。そもそも德と法は、民を従える道具であり、馬を操るくつわや手綱のようなものだ。主君が御者で、役人がくつわで、刑罰がムチだ。つまり人を治めるとは、くつわやムチを手にするようなことに過ぎない。」

子騫「すみませんが、いにしえの政治の道をご教示下さい。」

孔子「(おうおう、よくぞ聞いてくれた、嬉しいな!)ウムそれはじゃな、くどくどくどくどくど…。」(『孔子家語』執轡1)

なお上掲の通り閔子騫=閔子馬とした場合の、『春秋左氏伝』の残りの記事は次の通り。

昭公十八年…秋,葬曹平公,往者見周原伯魯焉。與之語,不說學,歸以語閔子馬,閔子馬曰,周其亂乎,夫必多有是說,而後及其大人,大人患失而惑,又曰,可以無學,無學不害,不害而不學,則苟而可,於是乎下陵上替,能無亂乎,夫學,殖也,不學將落,原氏其亡乎。


昭公十八年(BC524)秋、曹の平公の葬儀に各国の使者が集まった。そこには周王の使者の原伯魯もいたが、「もう勉強など意味の無い時代になった」と言った。魯国の使者が帰国して閔子馬にこの話をすると、閔子馬は言った。

「周王室はいずれ乱れるでしょうな。そもそも、役立つものごとを喜ぶ分別があって、ひとかどの人物と言えるのです。そういう人物は、やけになったりうろたえたりするのを嫌うものです。

学問なしで世を渡れるなら、無学でもかまいません。学ばなくとも害がないなら、あるいは無学でもかまわないでしょう。ですが今は身分秩序が揺らいでいます。無学では領地を治めることは出来ないでしょう。

学問とは能力を高める営みであり、こんな世の中で無学のままでは、没落するのは目に見えています。原伯魯どののお家は、没落を免れないでしょうなあ。」(『春秋左氏伝』昭公十八年2)

この年、孔子は数えで28歳。

確かに、当時は鉄器と小麦と弩(クロスボウ)の普及によって、経済が活性化し下剋上が甚だしくなっていた(論語における「君子」)。しかもこの年、不吉な火星が夕焼け空に止まったままで、各国に大火事があったことが『春秋左氏伝』の同年の記事に記されている。

また『春秋左氏伝』には「閔馬父」なる人物も登場し、その記事は次の通り。

昭公二十二年…六月…丁巳葬景王王子朝因舊官百工之喪職秩者,與靈景之族以作亂。…閔馬父曰,子朝必不克,其所與者,天所廢也。


昭公二十二年(BC520)…六月…ひのとみの日、周の景王の葬儀に乗じて、王子朝が景王の遺臣で免職された者や、霊王・景王の遺族を引き連れて反乱を起こした。…閔馬父「子朝は間違いなく勝てない。配下の者どもは天が見捨てた者だからだ。」(『春秋左氏伝』昭公二十二年2)

この時、孔子は数えで30歳。内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難中(『史記』孔子世家)。

二十六年…十一月,辛酉,晉師克鞏,召伯盈逐王子朝。…王子朝使告于諸侯曰,昔武王克殷,成王靖四方,康王息民,並建母弟,以蕃屏周…。…閔馬父聞子朝之辭曰,文辭以行禮也,子朝干景之命,遠晉之大,以專其志,無禮甚矣,文辭何為。


昭公二十六年(BC516)、十一月かのととりの日、すでに即位していた周の敬王に命じられて晋国の軍が鞏のまちを攻略し、召伯盈が王子朝を敗走させた。…王子朝は諸国に使いを出してふれ回った。

「むかし武王が殷を滅ぼし、成王が四方を統一し、康王が民の休養に努め、同母弟たちを諸侯に取り立ててやり、それを周王室の守りとした。クドクドクドクド…。」

聞いた閔馬父「子朝の言葉遣いは常識にかなっているが、子朝は父王陛下の命令に背き、遠くから来た晋の大軍に叩き潰されたのに、まだ自分に都合の良いことばかり言い回っている。常識外れにもほどがあり、言い廻しだけ工夫したところでどうにもならない。」(『春秋左氏伝』昭公二十六年2)

この時孔子は数えで36歳。斉で音楽を聴き、「三ヶ月肉の味を知らず」(論語述而篇13)。斉の景公に仕官が内定するが、家老・晏嬰アンエイが反対して取りやめ(『墨子』非儒下篇)。

この二つの記事の閔馬父が閔子馬=閔子騫であろうとなかろうと、閔馬父と閔子馬が孔子よりはるかな年配で、分別のある智恵者であり、孔子の弟子ではあり得ないことに変わりはない。

論語での発言

1

ご家老さまが私を費邑の代官に、ですと? お使者どの、私に代わって、よくお断り下さい。再びお招きがあれば、私は汶水を渡って斉国に逃げさせて頂きます*。(雍也篇)

*ただし『孔子家語』によれば、ちゃっかり代官に収まっている。

2

お殿さまが別邸をお建てになると? もとのおやかたを改築すればよろしいのに。どこにそんな金がありますか。(先進篇)

論語での言及

1

孔子「徳行に閔子騫。」(先進篇)

2

孔子「閔子騫どのは孝行者として名が通っているから、彼の家族が閔子騫を何と言おうと、世間は相手にしない。」(先進篇)

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