論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
有子曰信近於義言可復也恭近於禮遠恥辱也因不失其親亦可宗也
校訂
東洋文庫蔵清家本
有子曰信近於義言可復也/㳟近於禮逺恥辱也/因不失其親亦可宗也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
有子曰、「信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。」
復元白文(論語時代での表記)
恥
※近→幾・恭→龏。本章は「恥」が論語の時代に存在しない。「也」「辱」「因」「失」「其」「親」の用法に疑問がある。論語の本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
有子曰く、信の義しき於近かば、言復む可き也。恭の禮於近かば、恥辱を遠ざくる也。因の其の親を失は不らば、亦た宗る可き也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
有先生が言った。「率直が事実に近づけば、発言を実行することが出来る。敬いの所作が貴族の常識に近づけば、屈辱を遠ざける。寄り集まるのに身内を取りこぼさなければ、それも結束することが出来る。」
意訳
有先生のお説教。「正直を貫くのに事実の裏付けがあれば、約束を実行できる。丁寧な立ち居振る舞いも貴族の常識の範囲で行えば、バカにされることがない。仲間を作るのに身内を含めるなら、含めないのと同様に結束を固めることが出来る。」
従来訳
有先生がいわれた。――
「約束したことが正義にかなっておれば、その約束どおりに履行出来るものだ。丁寧さが礼にかなっておれば、人に軽んぜられることはないものだ。人にたよる時に、たよるべき人物の選定を誤っていなければ、生涯その人を尊敬して行けるものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有子說:「信譽符合道義,才能兌現諾言;恭敬符合禮法,才能遠離恥辱;任用可信賴的人,才會取得成功。」
有子が言った。「信用が道徳と一致していて、やっと約束を果たすことが出来る。敬虔が礼法と一致していて、やっと恥辱から遠ざかることが出来る。信頼の置ける人に任せて、やっと成功をつかみ取ることが出来る。」
論語:語釈
有子(ユウシ)
論語の本章では、孔子の弟子とされる有若のこと。本章では有子=有先生と、孔子と同格の敬称で呼ばれている。実在性に疑いがある。詳細は論語の人物:有若子有を参照。
なお有若は孔門十哲の一人、冉求子有の別名である可能性がある。詳細は儒家の道統と有若の実像を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。なお「曰」を「のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”人に言って聞かせる”。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
近(キン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”近い”。初出は楚系戦国文字。戦国文字の字形は「辵」(辶)”みちのり”+「斤」”おの”で、「斤」は音符、全体で”道のりが近い”。同音には”ちかい”の語釈を持つ字が『大漢和辞典』にない。論語時代の置換候補は「幾」。部品の「斤」も候補に挙がるが、”ちかい”の用例が出土史料にない。詳細は論語語釈「近」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「烏」。現行字体の初出は春秋中期。その鳴き声を示し、”ああ”という感嘆詞に用いられた。”…において”の用法は、春秋時代末期から見られる。おそらく現行字形の出現と共に、その語義を獲得したとみられる。「オ」は”…において”の場合の呉音。詳細は論語語釈「於」を参照。
義(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”事実”。初出は甲骨文。
字形は「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”で、原義は儀式に用いられた、先端に羊の角を付けた武器。春秋時代では、”格好のよい様”・”よい”を意味した。詳細は論語語釈「義」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”できる”。積極的に認める意味ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。甲骨文で”できる”の意と地名を意味したが、”もし”の意は、戦国時代まで下る。詳細は論語語釈「可」を参照。
復(フク)
(甲骨文)
論語の本章では、”言ったことをなぞるように行う”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。
なお武内本に、「復とはいえることをふみ行う意」とある。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。「かな」と読んで詠嘆に解すれば、あるいは春秋時代での不在を回避できるが、論語の本章は「恥」字の論語時代での不在により、解釈を春秋時代の漢語に限定しなくても良い。
字の初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
恭(キョウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”つつしみ”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「共」+「心」で、ものを捧げるような心のさま。原字は「龏」とされ、甲骨文より存在する。字形は「䇂」”刃物”+「虫」”へび”+「廾」”両手”で、毒蛇の頭を突いて捌くこと。原義は不明。甲骨文では地名・人名・祖先の名に用い、金文では人名の他は「恭」と同じく”恐れ慎む”を意味した。詳細は論語語釈「恭」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では「よきつね」と訓読して”(貴族の)常識”。”礼儀作法”「ゐや」はその一部。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
儒家の主張する礼儀作法は、論語の時代では、ものすごく妙ちきりんに見えて、笑いものにされたと他学派の証言にある。ただしその証言は戦国時代以降と見られ、孔子が本当にそんなことをしたのかは分からない。だが儒者は孔子の時代からそういう作法があったとして、偽作をこしらえて孔子に言わせている。
礼儀作法通りに主君に仕えると、まわりからバカにされてしまう。(論語八佾篇18・偽作)
遠(エン)
(甲骨文)
論語の本章では”遠ざかる”。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、道のりが遠いこと。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。ただ同音の「爰」は、離れたお互いが縄を引き合う様で、”遠い”を意味しうるかも知れない。詳細は論語語釈「遠」を参照。
恥(チ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”はずかしめ”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「耳」+「心」だが、「耳」に”はじる”の語義は無い。詳細は論語語釈「恥」を参照。
辱(ジョク)
(甲骨文)
論語の本章では”恥をかかされる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「辰」”大鎌”+「又」”手”で、原義は「くさぎる」、つまり大ガマで草を刈ることで、転じて”刈り取る”の意か。現在ではその意味には「耨」を用いる。”はじ”の語義は戦国時代から。詳細は論語語釈「辱」を参照。
同じく「はじ」と訓む漢字には次のようなものがある。
- 羞は、はじて心が縮まること。
- 愧は、はずかしくて心にしこりがあること。「慚愧(ザンキ)」と熟して用いる。
- 辱も柔らかい意を含み、はじて気おくれすること。
- 怍(サク)は、心中で強くはじらうこと。
- 忸(ジク)は、心がいじけて、きっぱりとしないこと。
- 恧(ジク)は、強い心でいられず、おずおずすること。
- 慙(ザン)は、心にじわじわと切りこまれた感じ。
因(イン)
(甲骨文)
論語の本章では”つるむ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。カールグレン上古音はʔi̯ĕn(平)。
甲骨文の字形は「囗」”寝床”+「大」”人”だが、異形字体に寝床が掻い巻きや寝袋になっているものがある。原義は”床に就く”。甲骨文では”南方”を意味し、金文では西周中期に接続詞”…だから”の用例がある。ただし”…によって”の用例は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「因」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
失(シツ)
(金文)
論語の本章では”うしなう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。同音は「室」のみ。字形は頭にかぶり物をかぶり、腰掛けた人の横姿。それがなぜ”うしなう”の意になったかは明らかでないが、「羌」など頭に角型のかぶり物をかぶった人の横姿は、隷属民を意味するらしく(→論語語釈「羌」)、おそらく所属する氏族を失った奴隷が原義だろう。詳細は論語語釈「失」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は農具の箕。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。”それ・その”のような人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
親(シン)
(金文)
論語の本章では、”親族”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。
論語の本章では、語順から「因」は動詞、「親」は名詞と解するしかない。
従って「因」は”たよる・したしむ”、「親」は”身内”と解釈した。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”それもまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
宗(ソウ)
(甲骨文)
論語の本章では”集まる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「宀」”屋根”+「示」”先祖の位牌”。原義は一族の祖先を祀った祭殿。西周中期から、”祖先の霊”の用法があり、戦国時代の竹簡から”尊ぶ”、また地名の用例がある。詳細は論語語釈「宗」を参照。
”尊ぶ”と解釈する論語本が多い。これは儒者の受け売りで、「因不失其親=身内同士で親しく付き合うことを「亦可宗也」=大いに尊ぶ事が出来る、と解する。では儒者が何と言っているか参照してみよう(論語学而篇13注釈)。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰因親也言所親不失其親亦可宗敬也
孔安国曰く、宗とは尊ぶ事だ。この章は、親族と親しむことを語っている。つまり親族間の和気が失われないことこそ、尊び敬うべきことなのだ。
新注『論語集注』
宗,猶主也。言約信而合其宜,則言必可踐矣。致恭而中其節,則能遠恥辱矣。所依者不失其可親之人,則亦可以宗而主之矣。此言人之言行交際,皆當謹之於始而慮其所終,不然,則因仍苟且之間,將有不勝其自失之悔者矣。
宗とは、お仕えするようにする、ということだ。親しむべき人と疎遠にならないよう、尊びお仕えするのだ。これは交際の要点を語っている。初めからおしまいまで、よく注意するのだ。さもないと、ほんの些細なことから、親しむべき人を失ってしまうではないか。
どちらも、注釈者の個人的信念の表明ではあっても、そう解釈する根拠を言っていない。真に受けないでいいだろう。
敬(ケイ)
唐石経を祖本とする中国伝承、ならびに現在通用の論語は「亦可宗也」記し、いずれも「敬」字を記さない。日本伝承本のうち、本願寺坊主の手になる文明本以降は、「亦可宗敬也」と「敬」字を記す。先行する日本伝承の清家本、正平本、龍雩本は記さない。文明本は本章以外にも改竄を加えており、筆写した者は信用出来ない。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
論語の本章では”尊敬する”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
宗敬(たふとび・ゐやまふ)
論語の本章では”神聖な者として尊重され、随恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗敬也。うべき人として尊敬される”。古注を参照した結果「敬」の字が増えたわけだが、ここは受身に読まないと意味が通じない。ただし春秋時代の漢語は一字一語が原則で、熟語は無いはずとして読まねばならない。
「亦可宗敬也」は前句の「遠恥辱也」と対を為している。
- 恭近於禮、遠恥辱也。
- 因不失其親、亦可宗敬也。
つまり前句は恥辱を遠ざける法を言い、後句は尊敬を集める法を言う。従って”貴ばれ、敬われる”と解するのが妥当。
論語:付記
検証
論語の本章は定州竹簡論語に無く、前漢の『史記』が有若の言葉として再録するまで誰も引用せず、その後劉向が『説苑』で「孔子曰、恭近於禮、遠恥辱也」を記す(脩文5)に止まる。論語が有若の言葉として載せた話を、劉向が孔子の発言として記したのは学而篇2と同じ。
文字史からも本章は戦国以降の創作と思われ、『史記』以前に誰かの手によって創作されたと考えるのが筋が通る。ただし内容については有子(有若)や孔子が語るにふさわしく、孔子在世時の儒家の教説と矛盾しない。おそらくこのような伝説は、春秋の当時からあったと想像していい。
解説
論語の本章の第一句、”正直に事実の裏付けがある”とは、正直と事実がまま違う人間の世を反映している。歩いていて子猫が現れたら、猫好きにとっては「ニャンコちゃん!」と喜ぶのが「信」”正直”だが、猫嫌いにとっては「こわいこわい」、「あっちいけ」が「信」になる。
ミッドウェー海戦で大敗を喫した日本海軍は、「大勝利」とウソを大本営発表したが、「国民をがっかりさせない→既得権を失わない」という「信」に従えばこれもまた”正直”で、ただし事実の裏付けが無いから、「神国必勝」の「言」は「復」むことが出来なかった。
第二句、”敬礼の所作に常識の裏付けがある”とは、まことに有子(有若)らしい発言と言える。有子はおそらく冉有と同一人物だが(儒家の道統と有若の実像)、その出身氏族は新興武装勢力で、武力は持っていたが成り上がりで、貴族らしい常識を持った人材が一族に欠けていた。
だから長老の冉耕伯牛が孔子に接触し、教習用の戦車その他の機材・人材を提供する代わりに、一族から選ばれた若者である冉有と冉雍仲弓の教育を委ねた。つまり冉有はもと「禮」”貴族の常識”に欠けていたわけで、お辞儀一つとってもやり方が常識外れで、「恥」をかいたのだろう。
だが孔子に教わった「禮」に従えば、貴族から文句を言われなくなった。第三句も冉有らしい発言で、孔門の有力弟子として「親」”一族”ではない組織の中でも頭角を現し、また「親」の冉雍仲弓と共に孔門をまとめ、孔子没後は「親」でない子貢と協力しながら指導的立場に立った。
だが有子は頭が悪かったので孔門の指導者から下ろされたと『孟子』が言い出したが、孔子の逝去から一世紀のち、すでに滅亡同然だった儒家を商材に選んで世間師稼業をした孟子の言うことを、まるまる信用するわけにはいかない。偽作を論語に押し込んだ疑惑さえ孟子にはあるからだ。
孟子が申しました。「(孔子先生が亡くなって、三年の喪が明けた。)しばらくして、子夏と子張と子游が、有若の顔が聖人に似ているからと言って、孔子と同様に師匠として仰ごうとし、曽子にも”お前もそうしろ”と言った。
曽子は”いやですね。大河でジャブジャブ洗った上に、秋の陽にカンカンと晒した布のように、有若の頭の中は真っ白だ。こんな馬鹿を拝むなんてとんでもない”と言った。」(『孟子』滕文公上4)
この話は司馬遷も図に乗って、下掲の通り輪を掛けた話を『史記』に記しているが、司馬遷は論語その他をせっせと偽作して武帝に取り入った董仲舒の下っ端働きをした男で、ナニをちょん切られて男でなくなったが、中華役人にふさわしいウソつきであること、他の中国人と変わらない。
詳細は論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。いわゆる正史だからといって、必ずしも史実が書いてあるわけではない。論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。
孔子が亡くなった。弟子は思慕のあまり、有若の見た目が孔子に似ていたので、相談して有若を二代目の師匠に据えた。一門が有若を敬う態度は、孔子と同じだった。ある日、ある弟子が有若に問うた。
「昔、孔子先生がお出かけになる時に、お天気だったのですが、弟子に雨具を持たせたことがありました。そうしたら雨が降りました。弟子が孔子先生に問いました。先生はどうして分かったんですか、と。そうしたら孔子先生は、詩にあるだろう、畢の月が終われば、大雨が降ると。昨晩、月は畢の位置にあっただろう、と。しかし別の日、月は畢にありましたが、とうとう雨は降りませんでした。
また商瞿が歳を取ったのに、子が無いので、その母がめかけを取ろうとしました。孔子先生が商瞿を斉へ使いに出そうとすると、母親がめかけを下さいと願いました。そうしたら孔子先生は、心配するな、四十歳を過ぎたら、丈夫な五人の男の子に恵まれるよ、と言いました。この予言も当たりました。そこでです、なぜ孔子先生はこれらが分かったのですか。」
有若は黙ったまま、答えられなかった。弟子は立ち上がって言った。
「有先生、その座を降りなさい。そこはあなたが座っていい場所ではありません。」(『史記』仲尼弟子列伝98)
なお本章の史実性はともかく、
- ウソつかなければ約束は守れる
- 常識の範囲内で行動すれば笑われずに済む
- 身を寄せ合うのに親族を交えれば言うことを聞いて貰える
のは事実と言ってよい。3.は剥き身の人間が一人では生きていけなかった古代社会ではなおさらで、最後に信じられるのは自分に他ならないが、その次に信じられるのは親族だろう。これは遺伝子の乗り物たる動物であるからにはどうしようもない現実だ。
だがもし、春秋の孔子一門の言葉だったらと仮定してみよう。孔子塾は平民が入って貴族にふさわしい技能教養を身につけ、卒業して仕官して貴族に成り上がるための場だが、孔子の弟子は新参者として貴族界に入っていくわけで、それゆえに人一倍正直でないと信用されない。
血統貴族には家門や領地といった担保があるから、少々のうそデタラメは見逃して貰えるかも知れないが、新参者はそうもいかない。また新参者は、血統貴族以上に礼儀作法をカッチリと守る必要があった。「あんだあいつの下品は」と言われてはそこでおしまいだからだ。
だが礼儀作法はやり過ぎるとかえって「慇懃無礼」にもなる。それゆえに孔子塾で教えた「礼」には、礼儀作法だけでなく貴族界の常識も含まれていた。その常識の範囲を踏み外さないように行動するなら、「あやつもなかなかやるではないか」と評価されることになる。
「つるむなら親族と」というのは、中国ではその徹底が過ぎて、何事にも身内びいきが横行し、それは帝政時代から現在に至るまで何も変わっていない。自然環境も人間の気性も厳しい中国社会では、同族でないと信用ならないと言うのは、致し方のない現実なのだろう。
余話
今文学派と古文学派
本章を孔子の言葉として記録した劉向は、漢帝室の一人に生まれながら、煉丹術に手を出して失敗し、牢屋へ放り込まれるなど、なかなかお茶目な人物で、司馬遷までは疑われなかった有若の言葉を、孔子のそれへと書き換えたのには、劉向なりの「正義」があっただろう。
漢学史から見ると、劉向は今文学派と古文学派との交代期の人物で、それまで古典は当時通用の隷書=今文で読み書きしていたのが、前漢武帝ごろに孔子の旧宅などから「発見」された古い字体=古文で記された文献の方がより「正しい」とする主張が広まりつつあった。
それを熱心に主張したのが劉向の息子の劉歆で、前漢を乗っ取った王莽もそれを支持したことから、新代は古文学派が有力になったが、「発見」された「古文」文書が、後世一つ残らず焼けてしまったというのはいかにも不可解で、武帝期に急に「発見」されたのも怪しい話。
この背景には、当時の利権争奪がある。漢帝国は今文で儒学を講義する者を博士官に取り立てていたが、その定員には限りがあった。博士官になりたがる者は常に定員より多かったから、何かと理由を付けて定員の増加を図った。急に「発見」されたのもそれゆえである。
後漢になると、王莽を否定する必要から、古文学派は博士官から外れたが、かえって民間で流行った。後漢の盛時に生きた馬融は、博士官にはならなかったが、「古文を明らかにした」という名を売り、崩壊期に生きた鄭玄は、古文と今文をまとめることに成功したと称された。
その結果後漢末以降、古文と今文の対立は一旦解消している。
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