論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
樊須子遲(はんしゅ・しち)
樊須、字は子遅。孔子より三十六歳年少。
樊遅が聞いた。「どうやったら穀物がたくさん取れるんでしょう?」
孔子「知らんよ私は。お百姓さんに聞きなさい。」
樊遅「どうやったら畑がうまく耕せるんでしょう?」
孔子「知らんよ私は。お百姓さんに聞きなさい。」
樊遅が私の前を下がったので、孔子が言った。
「人物が小さいな、樊遅は。もし上の者が 礼儀正しければ、民はむやみに無礼を働かない。無茶しなければ、民はむやみに刃向かわない。信頼されていれば、民はむやみにズルをしない。その通りに出来れば、四方の民が赤ん坊を背負い、来たって領民になりたがる。自分で耕す必要がどこにあろう。」
樊遅が常時無差別の愛(仁)を問うた。
孔子「人を愛することだ。」
智を問うた。
孔子「人を理解することだ。」
有若
有若、孔子より四十三歳年少。
有若「作法の目的は、人間関係を和ませることにある。我々が模範とすべき古えの聖王も、作法を通じた和みをよしとされ、何事も、なごみを目指して作法に励んだ。しかしそれでは作法が無意味になる場合がある。和めばいいと考えるのがそれで、作法でけじめをつけなければ、作法に大した意味はなくなってしまう。」
有若「正直を貫くにも、正義に従っていれば、言ったことを実行できるのである。恭しさも作法にかなっていれば、恥ずかしい思いをしなくて済むのである。誰かとつるむにも、親族とつるむようにしていれば、たいそう仲むつまじく過ごせるのである。」
孔子が亡くなった。弟子は思慕のあまり、有若の見た目が孔子に似ていたので、相談して有若を二代目の師匠に据えた。一門が有若を敬う態度は、孔子と同じだった。ある日、ある弟子が有若に問うた。
「昔、孔子先生がお出かけになる時に、お天気だったのですが、弟子に雨具を持たせたことがありました。そうしたら雨が降りました。弟子が孔子先生に問いました。先生はどうして分かったんですか、と。そうしたら孔子先生は、詩にあるだろう、畢の月が終われば、大雨が降ると。昨晩、月は畢の位置にあっただろう、と。しかし別の日、月は畢にありましたが、とうとう雨は降りませんでした。
また商瞿が歳を取ったのに、子が無いので、その母がめかけを取ろうとしました。孔子先生が商瞿を斉へ使いに出そうとすると、母親がめかけを下さいと願いました。そうしたら孔子先生は、心配するな、四十歳を過ぎたら、丈夫な五人の男の子に恵まれるよ、と言いました。この予言も当たりました。そこでです、なぜ孔子先生はこれらが分かったのですか。」
有若は黙ったまま、答えられなかった。弟子は立ち上がって言った。
「有先生、その座を降りなさい。そこはあなたが座っていい場所ではありません。」