論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
或謂孔子曰子奚不爲政子曰書云孝乎惟孝友于兄弟施於有政是亦爲政奚其爲爲政
校訂
諸本
- 武内本:釋文孝于一本孝乎に作る、漢石経孝于此本(清家本)と合す。於、後漢書郅惲伝引之に作る、於之同義、これとよむ。
- 論語集釋:皇本「乎」作「于」,漢石經亦作「于」。 釋文云:「孝于」,一本作「孝乎」。「是亦爲政」下有「也」字。白虎通德論、華氏、范氏兩後漢書孝傳引此文俱有「也」字。釋文:「奚其爲爲政也」,一本無一「爲」字。
東洋文庫蔵清家本
或謂孔子曰子奚不爲政/子曰書云孝于惟孝友于兄弟施於有政是亦爲政也奚其爲〻政也
※「友」字は〔友丶〕。「魏寇憑墓志」刻。
後漢熹平石経
或謂孔…子白書云孝于惟孝友于兄…
定州竹簡論語
……謂孔子曰:「子何不為正也a?」子曰:「《書》云:『孝乎b維c孝,友29……[弟],施於有正。是亦為正d,奚其為為正也e?」30
- 子何不為正也、阮本、皇本作「子奚不爲政」。
- 乎、漢石経、皇本、『釋文』均作「于」。
- 維、阮本、皇本皆作「惟」。維・惟通。
- 是亦爲正、皇本作「是亦爲政也」。
- 奚其為為正也、鄭本、阮本、皇本作「奚其爲爲政」。
標点文
或謂孔子曰、「子何不為正也?」子曰、「書云『孝乎惟孝、友于兄弟、施於有正』。是亦爲正、奚其爲爲正也?」
復元白文(論語時代での表記)
※施→𢼊(甲骨文)。論語の本章は、「或」「何」「書」「云」「奚」「其」の用法に疑問がある。
書き下し
或孔子に謂ひて曰く、子何ぞ正を爲さ不る也と。子曰く、書に云ふ、孝たれ乎惟だ孝たれ、兄弟于友なるは、有正於も施せと。是れも亦正を爲す、奚ぞ其れ正を爲すを爲さん也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
ある人が孔子に言った。「先生はなぜ政治を執らないのですか」。先生が答えた。「書経にあります、”目上に奉仕せよ、ひたすら目上に奉仕せよ、兄弟に対する対等の愛情を、同僚にも向けよ”と。これもまた政治です。なぜ改めて政治を執らねばなりませんか?」
意訳
ある人「先生はもう政治をお執りにならないのですか?」
孔子「よろしいかな、オホン。あー、かの『書経』に曰く、”コーなるかなこのコー、ケーテーにユーにして、ユーセーに施す”と。おわかりかな?」
ある人「いやもう全ッ然わかりませんが、有り難いお言葉でした。」
従来訳
ある人が先師にたずねていった。――
「先生はなぜ政治にお携りになりませんか。」
先師はこたえられた。――
「書経に、孝についてかようにいってある。『親に孝行であり、兄弟に親密であり、それがおのずから政治に及んでいる』と。これで見ると、家庭生活を美しくするのもまた政治だ。しいて国政の衝にあたる必要もあるまい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有人問孔子:「先生為何不從政?」孔子說:「孝啊,就是孝順父母、兄弟友愛,以這種品德影響政治,這就是參政,難道衹有做官才算從政?」
ある人が孔子に問うた。「あなたはなぜ政治に携わらないのですか。」孔子が言った。「孝という言葉がある。父母の言うことを良く聞いて仕え、兄弟には友情と愛情で付き合うことだ。こうした道徳は、政治にも影響する。だから孝行することが、つまりは政治に参加することだ。役人になって政治をいじることだけが、政治に携わることだと、まさか君も思うまい?」
論語:語釈
或(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”そう思うって言う”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
政(セイ)→正(セイ)
「政」(甲骨文)/「正」(甲骨文)
論語の本章では”政治”。初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「丨」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。
定州竹簡論語では「正」と記す。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。甲骨文では「正月」をすでに年始の月とした。また地名・祭礼名にも用いた。金文では、”征伐”・”年始”のほか、”長官”、”審査”の意に用いた。”正直”の意は戦国時代の竹簡からで、同時期に「征」”徴税”の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。
前漢宣帝期の定州竹簡論語が「正」と記した理由は、恐らく前王朝・秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱)。前漢帝室の公式見解では、漢帝国の開祖・高祖劉邦は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、秦帝国の正統な後継者と位置づけていた。
だから前漢の役人である司馬遷は、劉邦と天下を争った項羽を本紀に記し、あえて正式の中華皇帝として扱った。項羽の残虐伝説が『史記』に記され、劉邦の正当性を訴えたのはそれゆえだ。そう書かなければ司馬遷は、ナニだけでなくリアルに首までちょん切られただろう。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで疑問の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
書(ショ)
(甲骨文)
論語の本章では『書経』、別名『尚書』のこと。この語義は春秋時代では確認できない。
文字の初出は甲骨文。甲骨文の字形は”ふでを取る手”+「𠙵」”くち”で、言葉を書き記すさま。原義は”記す”。金文では文書を意味し、また人名に用いた。甲骨文を筆記するには筆刀という小刀を使うが、木札や布に記す場合は筆を用いた。今日春秋時代以前の木札や竹札、字を記した布が残っていないのは、全て腐り果てたため。紙は漢代にならないと発明されない。詳細は論語語釈「書」を参照。
『書経』は歴史書の一種で、孔子時代までの為政者の宣言を集めたとされる。現在では二系統を残し他は失われており、とりわけ戦国時代以前の古文で書かれた系統は、後世の創作のみ伝わる(『偽古文尚書』)。『字通』によると次の通り。
虞夏殷周の政道に関する書。漢のとき今文二十九彌、欧陽氏、大・小夏侯の三家が学官として立てられた。他に孔氏壁中の古文十六彌がある。〔周書〕の部分には古い資料を含み、〔顧命〕は識体受霊の古儀を伝えるものであるが、他の諸彌には譌乱多く、かつ金文の文体と著しく異なる。〔尭典〕〔呂刑〕は神話を経典化したもの、〔文侯之命〕は晋の文公(前六三五―前六二哭在位)に対する策命で、当時の金文の様式と一致する。
論語の本章に引用された文言は、現存する『書経』には載っていない。その代わりよく似た箇所を、儒者は次のように指摘する。もし孔子が記憶を元に言ったなら、原典通りでなくても不思議は無いし、そもそも原典がどうだったかは、今となっては誰にも分からない。
古注『論語集解義疏』
引書以荅或人也然此語亦與尚書微異而義可一也
『尚書』を引用して人に答えている。ただしこの引用は、『尚書』とは異なっているが、それでも意味は同じだ。
新注『論語集注』
書周書君陳篇。
『尚書』の周書・君陳篇の引用である。
古注ははっきりとその箇所を指摘しないが、朱子は明記して以下だと言う。
王若曰:「君陳,惟爾令德孝恭。惟孝友于兄弟,克施有政。命汝尹茲東郊,敬哉!」
王(周の成王)はこのように言った。「君陳よ、そなたは自分の性格を孝行で慎ましく躾け、兄を敬い弟に力を貸した。さらには同僚にもそのように尽くした。だからお前を、新しい東の都城の代官に任ずる。まじめに任務を果たせ。」(『書経』周書・君陳)
『書経』は『詩経』と同じく孔子の編纂とも言われるが、そもそも『詩経』が孔子の編纂という証拠にされた論語為政篇2が後世の創作で、『書経』は論語にそのような論評すら一切無く、他人事のように取り扱っているので、極めて怪しい。
云(ウン)
(甲骨文)
論語の本章では”いう”。何かの文書や、誰それがそう言った、の場合に用いる。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「一」+”うずまき”で、かなとこ雲(積乱雲)の象形。甲骨文では原義の”雲”に用いた。金文では語義のない助辞としての用例がある。”いう”の語義はいつ現れたか分からないが、分化した「雲」の字形が現れるのが楚系戦国文字からであることから、戦国時代とみるのが妥当だが、殷末の金文に”言う”と解せなくもない用例がある。詳細は論語語釈「云」を参照。
孝(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”年下の年上に向けた愛情”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~であれよ”と訳し、詠歎を伴う命令を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
惟(イ)
(金文)
論語の本章では、「これ」と読んで強調の意。「ユイ」は呉音。初出は殷代末期の金文。ただし字形は部品の「隹」のみで、現行字体の初出は楚系戦国文字。戦国時代の金文に「惟」に比定されている字があるが、字形は「口」+「廿」+「隹」で、どうして「惟」に比定されたか明らかでない。金文では「唯」とほぼ同様に、”はい”を意味する肯定の語に用いられた。春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の意がある。詳細は論語語釈「惟」を参照。
友(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”友人として援助する”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。
於(ヨ/オ)→于(ウ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
定州竹簡論語は「友…弟」と「…」部分を欠く。横書きにして示せば下記の通り。
……謂孔子曰子何不為正也子曰書云孝乎維孝友(簡29号)
……弟施於有正是亦為正奚其為為正也(簡30号)
簡29号は「友」の下に判別不能部分が無いことが示されている。従って簡30号の冒頭は「○兄」となっていたと思われるが、○について古注は「友于兄弟」と記す。この部分については、諸本の内最も先行する古注に従い校訂した。
「于」(甲骨文)
「于」の初出は甲骨文。字形の由来と原義は不明。春秋末期までに”~に”の用例がある。詳細は論語語釈「于」を参照。
兄弟(ケイテイ)
(甲骨文)
論語の本章では”きょうだい”。
「兄」の初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「口」+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。
「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形の真ん中の棒はカマ状のほこ=「戈」で、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になったとされる。西周末期の金文で、兄弟の”おとうと”の意に用いている。詳細は論語語釈「弟」を参照。
施(シ/イ)
「施」(戦国時代篆書)/「𢼊」(甲骨文)
論語の本章では”およぼす”。初出は殷代末期あるいは西周早期の金文。現行字体の初出は戦国秦の篆書。”ほどこす”場合の漢音は「シ」、呉音は「セ」。”のびる”場合は漢音呉音共に「イ」。同音同義に「𢼊」(𢻱)が甲骨文から存在する。甲骨文「𢼊」の字形は”水中の蛇”+「攴」(攵)”棒を手に取って叩く”さまで、原義はおそらく”離れたところに力を及ぼす”。春秋末期までに、”のばす”・”およぼす”の意がある。詳細は論語語釈「施」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では助辞で意味が無いとされる。この語義は春秋時代では確認できない。おそらくは下記の通り誤字。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
有政→有正
論語の本章では”同僚”。『字通』によると、『周初の金文〔大盂鼎(だいうてい)〕に「殷の正百辟」という語がみえ、官長たる諸侯の意。官の同僚を「友正」という』とある(正字条)。友gi̯ŭɡ(上)は有gi̯ŭɡ(上)と同音同調で、語源も近い。何のことはない、「有政」とは”同僚”である。同様の例は、論語学而篇1「有朋」→「友朋」にも見られる。
孝乎~有正
論語に書き付けられた、根拠を書かない、書いても論理的思考力皆無の、古今日中の儒者・漢学教授の個人的感想を全て切り飛ばし、戦国末期までの中国語として解釈すると次の通り。
孝乎”目上に奉仕せよよ”惟孝”ひたすら奉仕せよ”、友于兄弟”兄弟に向けた帯刀の愛情は”、施於有正”(同僚の)役人にも及ぼせ”。
是(シ)
(金文)
論語の本章では、”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」”見つめる”+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”…もまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
奚(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɡʰieg(平)。字形は「𡗞」”弁髪を垂らした人”+「爪」”手”で、原義は捕虜になった異民族。甲骨文では地名のほか人のいけにえを意味し、甲骨文・金文では家紋や人名、”奴隷”の意に用いられた。春秋末期までに、疑問辞としての用例は見られない。詳細は論語語釈「奚」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、「書曰」以降が後漢前期の『白虎通義』に再録されるまで、先秦両漢の誰も引用していない。孔子の生前、「奚」に疑問辞の用法が無いこともあり、その他春秋時代にはあり得ない語の用法があまたあることから、史実の孔子の発言とは考えがたい。
定州竹簡論語にあることから、前漢前半には出来ていたことになるが、その時期は儒者がせっせと儒教経典を偽造した時期でもある。おそらく作った『書経』に権威を持たせるため、前漢儒がこしらえた話だろう。
解説
仮に論語の本章が史実とする。政界から引退した孔子に、「もう政治には関わらないのですか」と聞かれて、孔子は古典を引用して返答にしたのだが、その古典の要点は次の通り。
- 孝乎惟孝(ひたすら目上に奉仕せよ)
- 友於兄弟(兄弟に向けた対等の愛情)
- 施於有正(同僚の役人にも向けよ)
孔子の父は実は誰だか分からず、おそらく母の客だった(孔子の生涯1)。そして孔子が物心つく頃にはすでに世を去っていた。母も孔子がまだ十代の頃世を去ったが、ねんごろに弔った「だろう」と『史記』が書いている(『史記』孔子世家1)。
だから1.はその通り「だろう」事が現代では言えるだけで、孔子自身がどう思っていたかは分からない。また論語学而篇11で世の親に説教したように、孔子は親不孝は説かなかったが、一方的な奴隷孝行を言い回る人物では決して無かった。だから普通に孝行者だったのだろう。
2.については孔皮という名の母違いの兄がいたという伝説があり(『孔子家語』本姓解1)、兄は足が悪かったという。だから孔子が何かしたという話も無いが、孔子が家族関係についてまともでなかったという伝説も無いから、おそらくは俸給を分けて兄やその家族を養っただろう。
3.については全くそのような伝説は無い。ただし、殺し合いの春秋政界にあって、政争に負けた孔子は捕らえられも殺されもせず、自主的に亡命するだけで済んだ。『春秋左氏伝』を読む限り、それはものすごい温情と言っていい。その遠因となる陰徳を施していたのだろうか。
以上、1.~3.は全て「だろう」でしかない。
さて三ヶ条を孔子が満たしていたとして、それがなぜ「政治を執ること」になるのだろうか。政治とは孔子が論語為政篇1で述べたように、人界の資源を分配する仕事を言うから、兄弟や同僚に利益分配をすることは、すなわち政治だ、と孔子は主張したのだろうか。
だがそれは引退前の孔子には当てはまっても、隠居の身には当てはまらない。つまり孔子は答えるのが面倒だから、古典を引いて相手を煙に巻いたと考えられる。話は仕官前の若い頃だったとしても変わらないが、この場合はウンチクを垂れる若造のニオイがプンプンする。
若い頃の孔子は、のし上がろうとしてものすごい熱意をたぎらせていたはずで、そうでなければ身分制度の厳しい春秋時代に、宰相代理までのし上がれるわけがない。だから論語の本章は、もうすっかり政治に嫌気が差して隠居した、晩年の話とする方がふさわしい。
次に引用された『書経』に関してだが、上掲通り現伝の『書経』にはでっち上げの疑いが濃厚にある。だが全部が全部捏造ではないことは、おそらく論語と事情を同じくしているだろう。孔子が引用したとされる部分も、同じ周王朝時代のことだから恐らく史実だろう。
だがそれ以前の殷や夏、さらにその前の虞について語った部分は、ものすごく怪しい。論語に次いで『書経』に言及したのは、孔子と入れ替わるように春秋末戦国時代を生きた墨子で、その言行録『墨子』は儒者に無視されたおかげで、かえって後世の改竄を免れたと言われる。
だがそれは、墨子やその弟子がでっち上げを書かなかったという証拠にはならない。
故雖上世之聖王,豈能使五穀常收而旱水不至哉?然而無凍餓之民者,何也?其力時急而自養儉也。故《夏書》曰:「禹七年水。」《殷書》曰:「湯五年旱。」此其離凶餓甚矣。
だから太古の聖王だろうと、穀物の不作や洪水などの天災を免れることは出来なかったはずだ。それでも餓えたり凍えたりする民が出なかったのは、聖王が緊急事態に全力で当たり、自分の食い扶持を後回しにしたからに他ならない。だから『書経』にも、夏書部で「禹の時代、七年間の洪水があった」とあり、殷書部で「湯王の時、五年間の日照りがあった」とあるわけだ。だからこうした聖王の施策を、「激甚災害救済事業」と言うのである。(『墨子』七患)
現伝の『書経』には「禹七年水」も「湯五年旱」も無い。もう一つ例を掲げる。
且夫食者,聖人之所寶也。故《周書》曰:「國無三年之食者,國非其國也;家無三年之食者,子非其子也。」此之謂國備。
そもそも食糧とは、聖人が天下に不可欠の宝として重んじるものだ。だから『書経』周書部に言う。「国に三年分穀物の蓄えが無ければ、それは国ではない。家に三年分穀物の蓄えが無ければ、貴族はその家を保てない」と。国がまず何を備えるべきか、よく分かるだろう。(『墨子』七患)
「國無三年…」も現伝の『書経』に無い。つまり現在『書経』の類とされる本は、学派によって全然違うのが創作されたり、伝承されたりしていたことになる。現伝『書経』は漢代の儒家による編集だから、墨家系統の『書経』を全く無視したとしても不思議は無い。
それも編集された漢代に伝わっていれば、という仮定の話だ。そもそも孔子やその同時代人は、古くは夏王朝まで知っていたが、漢字発明前の殷や夏王朝の詳細は知らなかった。創作される前だったからである。
孔子は周王朝を興した文王・武王や、その後の王朝を支えた周公旦を、太古の聖人だとして持ち上げた。これに対抗した墨子が創作したのが、夏王朝始祖の禹の伝説。禹が墨家の得意とした土木技術に長けていたとされるのはこのためだ。だがもちろん儒家も反撃した。
孔子より一世紀後の孟子は、顧客である田氏の斉王がまだ国を乗っ盗って日が浅かったため、その家格に箔を付けるために、田氏の祖先として聖王の舜を創造した。舜は禹を見込んで後継者に据えたとされるが、それゆえに墨家が持ち上げる禹より偉いというわけである。
そして何より当人が、『書経』は怪しいと言い出した。
孟子曰:「盡信《書》,則不如無《書》。吾於《武成》,取二三策而已矣。仁人無敵於天下。以至仁伐至不仁,而何其血之流杵也?」
孟子曰く、「盡く書を信ぜば、則ち書を無みするに如か不。吾武成於、二三策を取り而已む矣。仁なる人は天下於敵無し。仁に至れるを以いて仁なら不るに至るを伐ち、し而何ぞ其の血之杵を流わん也」と。
孟子が申しました。「書経を全て鵜呑みにするなら、全部でっち上げだと断じた方がましだ。たとえば武成篇で言えば、私は二三行を史実だと思うに過ぎない。仁の情けに溢れた人は、天下に無敵だという。それが本当なら、仁者が不仁な者を討伐したあと、血に濡れた大盾を洗ったとあるのは変ではないか。(仁者がなぜそんなむごいことをしたのだろう。)」(『孟子』尽心下篇)
一々もっともではあるが、戦国時代の『書経』は、世間師の詐欺の元ネタにされたり怪しいと言われたり、少なくとも真に受ける本であるとは思われていなかった。孔子の時代はそうでもあるまいが、お経のように唱えて人をだまくらかすような本であったとは言えるだろう。
最後に武内本に言う『後漢書』郅惲伝の引用部分を記しておく。
(鄭)敬曰「…盡學問道,雖不從政,施之有政,是亦為政也。吾年耄矣,安得從子?」
鄭敬曰く、…學を盡くし道を問わば、政に從わ不と雖も、之れ有政に施ぶ、是れ亦た政を為す也。吾れ年耄い矣るも、安ぞ子に從うを得んや。
鄭敬が言った。「学問を学び尽くして人の歩むべき道を問うなら、政治に関与しなくても、政治に関わったようなもので、これもまた政治だ。私はもう年寄りだが、どうしてあなたに従いましょうか。」(『後漢書』郅惲伝31)
余話
理科の先生
古代の中国人として最も世界に知られた孔子だが、それだけに『論語』に何が書いてあるかは諸国民の興味を引いたらしい。英訳はもちろんあるようだし、ドイツ語で読んだと訳者の友人は言った。だがいかんせん、欧米人は漢字の問題があって「検証的に」読むことが出来ない。
訳者は高校を卒業するとき、お世話になった理科の先生から次のようなはなむけの言葉を頂いた。「君は早稲田で漢籍を専攻するのか。それはとてもいいことだ。漢文と現代科学がともに理解出来るのは、日本人の特権だ。頑張りなさい。」その通り、中国人は科学が分からない。
加えて漢字や漢籍に親しんで、かつ中国的言論弾圧から自由でいられるのは、日本人ぐらいだろう。朝鮮人やベトナム人はとうの昔に漢字文化を手放したし、当時の台湾はまだ独裁政権が統治していた。台湾出身の留学生の、言論への怯えようも大変なものだった。
以上を踏まえ、ここではA. E. ルキヤノワによるロシア語訳を例に取り上げる。英独仏伊西葡語ではなくロシア版を引用したのは訳者の趣味だからだが、それ以上にロシア語以外の欧米語を、隻言半句も読めないからだ。ロシア語すら辞書を引くのが精一杯というのに。
だが英語で歌いたい歌は無いが、ロシア語にはいっぱいある。
ある者が孔子に質問した
先生、なぜあなたは政治に携わらないのですか?
先生は答えた
『書経』にこうある
親孝行を行うべきときに
親孝行を実践した
兄弟に愛情を実践した
これらは政治への注力である
これもまた政治への対処である
それなのに、私はまだ政治に携わることに注目すべきなのか?
※大人の事情により原文と発音の掲載削除
論語はともかく『書経』まで引用されるとお手上げで、中国の「常識」に従って訳すしかないようだ。もちろんルキヤノワ女史の知性が優れていないわけが無く、ただ日本人の方が漢文読解に有利なだけだ。問題は自分で読もうとする意志があるかどうかにかかっている。
今の中国の横暴を許したのは、ひとえにアメリカを始めとする欧米諸国が、中国をまるで知らなかったからだが、よそ様のことをあまり言えない。今より漢文教育が充実していた戦前、日本のインテリは中国をまるで知らずに馬鹿にした。その結果が壊滅的な敗戦を招いた。
たぶん理科の先生は、地獄のようなその体験から訳者を励まして下さったと信じている。
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