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『孟子』現代日本語訳:滕文公・上篇4

原文

有為神農之言者許行,自楚之滕,踵門而告文公曰:「遠方之人聞君行仁政,願受一廛而為氓。」文公與之處,其徒數十人,皆衣褐,捆屨、織席以為食。

陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕,曰:「聞君行聖人之政,是亦聖人也,願為聖人氓。」陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉。

陳相見孟子,道許行之言曰:「滕君,則誠賢君也;雖然,未聞道也。賢者與民並耕而食,饔飧而治。今也滕有倉廩府庫,則是厲民而以自養也,惡得賢?」

孟子曰:「許子必種粟而後食乎?」曰:「然。」

「許子必織布而後衣乎?」曰:「否。許子衣褐。」

「許子冠乎?」曰:「冠。」

曰:「奚冠?」曰:「冠素。」

曰:「自織之與?」曰:「否。以粟易之。」

曰:「許子奚為不自織?」曰:「害於耕。」

曰:「許子以釜甑爨,以鐵耕乎?」曰:「然。」

「自為之與?」曰:「否。以粟易之。」

「以粟易械器者,不為厲陶冶;陶冶亦以其械器易粟者,豈為厲農夫哉?且許子何不為陶冶。舍皆取諸其宮中而用之?何為紛紛然與百工交易?何許子之不憚煩?」曰:「百工之事,固不可耕且為也。」

「然則治天下獨可耕且為與?有大人之事,有小人之事。且一人之身,而百工之所為備。如必自為而後用之,是率天下而路也。故曰:或勞心,或勞力;勞心者治人,勞力者治於人;治於人者食人,治人者食於人:天下之通義也。

「當堯之時,天下猶未平,洪水橫流,氾濫於天下。草木暢茂,禽獸繁殖,五穀不登,禽獸偪人。獸蹄鳥跡之道,交於中國。堯獨憂之,舉舜而敷治焉。舜使益掌火,益烈山澤而焚之,禽獸逃匿。禹疏九河,瀹濟漯,而注諸海;決汝漢,排淮泗,而注之江,然後中國可得而食也。當是時也,禹八年於外,三過其門而不入,雖欲耕,得乎?后稷教民稼穡。樹藝五穀,五穀熟而民人育。人之有道也,飽食、煖衣、逸居而無教,則近於禽獸。聖人有憂之,使契為司徒,教以人倫:父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信。放勳曰:『勞之來之,匡之直之,輔之翼之,使自得之,又從而振德之。』聖人之憂民如此,而暇耕乎?

「堯以不得舜為己憂,舜以不得禹、皋陶為己憂。夫以百畝之不易為己憂者,農夫也。分人以財謂之惠,教人以善謂之忠,為天下得人者謂之仁。是故以天下與人易,為天下得人難。孔子曰:『大哉堯之為君!惟天為大,惟堯則之,蕩蕩乎民無能名焉!君哉舜也!巍巍乎有天下而不與焉!』堯舜之治天下,豈無所用其心哉?亦不用於耕耳。

「吾聞用夏變夷者,未聞變於夷者也。陳良,楚產也。悅周公、仲尼之道,北學於中國。北方之學者,未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年,師死而遂倍之。昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,築室於場,獨居三年,然後歸。他日,子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,彊曾子。曾子曰:『不可。江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而學之,亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷遷于喬木者,末聞下喬木而入於幽谷者。《魯頌》曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之學,亦為不善變矣。」

「從許子之道,則市賈不貳,國中無偽。雖使五尺之童適市,莫之或欺。布帛長短同,則賈相若;麻縷絲絮輕重同,則賈相若;五穀多寡同,則賈相若;屨大小同,則賈相若。」曰:「夫物之不齊,物之情也;或相倍蓰,或相什伯,或相千萬。子比而同之,是亂天下也。巨屨小屨同賈,人豈為之哉?從許子之道,相率而為偽者也,惡能治國家?」

書き下し

神農之言を為す者に許行有り、楚自り滕に之きて、門に踵(いた)り而文公に告げて曰く、「遠方之人、君の仁政を行うを聞けり。願わくば一廛(やしき)を受け而氓(よりうど)為らん」と。文公之に處を與えるに、其の徒數十人、皆褐(けおり)を衣(まと)い、屨(ぞうり)を捆(ゆわ)え、席を織りて以て食(やしな)いと為す。

陳良之徒、陳相與其の弟辛、耒耜を負い而宋自り滕に之き、曰く、「君の聖人之政を行うを聞けり、是れ亦た聖人也、願わくば聖人の氓と為らん」と。陳相、許行に見い而大いに悅び、盡其の學べるを棄て而學び焉。

陳相、孟子に見え、許行之言を道いて曰く、「滕君、則ち誠に賢君也。然りと雖も、未だ道を聞かざる也。賢者與民、並びて耕し而食い、飧(よるげ)を饔(に)而治(ととの)う。今也滕、倉廩府庫有れば、則ち是民を厲(けず)り而以て自養う也、惡んぞ賢を得ん」と。

孟子曰く、「許子必ず粟を種き而後食う乎」と。曰く「然り」と。

「許子必ず布を織り而後衣う乎」と。曰く、「否。許子褐を衣う」と。

「許子冠る乎」と。曰く「冠れり」と。

曰く、「奚の冠るか」と。曰く、「素を冠れり」と。

曰く、「自ら之を織る與」と。曰く、「否。粟を以て之に易えり」と。

曰く、「許子奚ぞ自ら織るを為さ不るや」と。曰く、「耕於害えればなり」と。

曰く、「許子釜甑を以て爨ぎ、鐵を以て耕す乎」と。曰く「然り」と。

「自ら之を為れる與」と。曰く、「否。粟を以て之に易えり」と。

「粟を以て械器に易うる者、厲り陶(すえや)き冶(かねう)つと為さ不。陶き冶ちて亦た其の械器を以て粟に易うる者、豈に農夫を厲ると為さん哉。且つ許子何ぞ陶き冶つを為さ不る。舍(なん)ぞ皆な諸を其の宮中に取り而之を用いざる。何ぞ紛紛り然るを為して百の工與交も易えん。何ぞ許子之れ憚り煩わ不る」と。曰く、「百の工之事、固り耕し且つ為すを可から不れば也」と。

「然らば則ち天下を治めるに、獨り耕し且つ為す可き與。大人之事有り、小人之事有り。且つ一人之身にし而、百の工之為す所を備えんか。如し必ず自ら為し而後之を用うか、是れ天下を率き而路く也。故に曰く、或は心を勞し、或は力を勞す。心を勞す者は人を治め、力を勞す者は人於治めらる。人於治めらる者は人を食い、人を治める者は人於食わると。天下之通義也。

堯之時に當り、天下猶お未だ平かならず、洪水橫に流れ、氾(でみず)天下於濫(あふ)る。草木暢び茂り、禽獸繁く殖え、五穀登ら不、禽獸人を偪(ひし)ぐ。獸の蹄鳥の跡之道、中國於交わる。堯獨り之を憂い、舜を舉げ而敷き治め焉。舜益を使て火を掌らしめ、益山澤に烈(おこ)し而之を焚けば、禽獸逃げ匿れぬ。禹九つの河を疏し、濟・漯を瀹(おさ)め而諸を海に注ぎぬ。汝・漢を決(ひら)き、淮・泗を排(なが)し而之を江に注ぎぬ。然る後中國得而食う可かりぬる也。是の時に當る也、禹八年外於(にあ)り、三たび其も門を過り而入ら不。耕やさんと欲すと雖も、得べき乎。后稷民に稼穡(たつくり)を教う。五穀を樹え藝えて、五穀熟り而民人育てり。人之道有る也、食に飽き、衣に煖まり、居に逸(いこ)い而教え無からば、則ち禽獸於近し。聖人之を憂うる有り、契を使て司徒為らしめ、教うるに人の倫を以う。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り。放勳曰く、『之を勞いて之を來し、之を匡して之を直くし、之を輔けて之を翼く、自らを使て之を得しめば、又た從い而振(おおい)に之を德(とうと)しとせり』と。聖人之民を憂うるは此の如し、し而耕に暇(いとまあ)らん乎」と。

「堯は舜を得不るを以て己が憂いと為し、舜は禹・皋陶を得不るを以て己が憂いと為せり。夫れ百畝之易め不るを以て己が憂いと為す者、農夫也。人に分つに財を以いると之れ惠と謂い、人を教うるに善を以いるを之れ忠と謂い、天下人を得るを為す者を之れ仁と謂う。是れ故に天下を以て人に與うるは易く、天下人を得るを難しと為す。孔子曰く、『大なる哉堯之君為る。惟だ天大と為し、惟だ堯之に則り、蕩蕩乎(ひろらか)かなり、民能く名くる無かり焉。君たる哉舜也。巍巍乎(たかだか)し、天下を有ち而與ら不り焉』と。堯舜之天下を治めるや、豈に其の心を用いる所無からん哉。亦た耕於用い不る耳」と。

「吾夏を用いて夷を變うる者を聞けけども、未だ夷於變うる者を聞かざる也。陳良、楚の產也。周公、仲尼之道を悅び、北して中國於學ぶに、北方之學者、未だ能く之の先を或わさざる也。彼、所謂る豪傑之士也。子之兄弟之に事うること數十年、師死し而遂に之に倍く。昔者孔子沒り、三年之外(のち)、門人任(たびだち)を治えて將に歸らんとするに、入りて子貢於揖み、相い向い而哭き、皆な聲を失い、然る後歸る。子貢反りて、室を場於築き、獨り居ること三年、然る後ち歸る。他日、子夏、子張、子游有若を以て聖人と似るとなし、孔子に事うる所を以て之に事えんと欲め、曾子に彊う。曾子曰く、『可から不るなり。江漢は以て之を濯い、秋陽は以て之を暴さば、皜皜乎(しらじら)しくして尚ぶ可から不る已』と。今也南蠻鴃舌之人、先王之道を非(そし)り、子子之師に倍き而之に學ぶは、亦た曾子於異なれ矣。吾、幽谷於出でて喬木于遷る者を聞けども、末だ喬木を下り而幽谷於入る者を聞かず。《魯頌》に曰く、『戎狄是れ膺(う)つべし、荊舒是れ懲しむべし』と。周公方に且に之を膺つに、子之の學を是(ただ)しとするは、亦た變るを善くせ不と為す矣」と。

「許子之道に從えば、則ち市の賈(あきうど)貳(たばか)ら不、國つ中偽り無し。五尺之童を使て市に適かしむと雖も、之れ或いは欺(あざむ)かるる莫し。布帛長短同じからば、則ち賈(うりね)相若(ひと)し。麻縷絲絮輕重同じからば、則ち賈相若し。五穀多寡同じからば、則ち賈相若し。屨大小同じからば、則ち賈相若し」と。曰く、「夫れ物之齊わ不るは、物之情(さが)也。或は相い倍蓰(ごばい)、或いは相い什伯、或いは相い千萬。子比べ而之を同じくせんとするは、是天下を亂す也。巨屨小屨賈を同じくすらば、人豈に之を為らん哉。許子之道に從がわば、相い率い而偽者(いつわり)を為す也、惡んぞ能く國家を治めんや」と。

現代日本語訳

中華文明の開祖に神農を担ぎ挙げ、その言葉を説教する説教師に許行というのがいて、楚から滕(トウ)の国に来て、殿様の屋敷に上がって文公*に言った。「わたくしがはるばるやって参りましたのは、殿が仁政を行うと聞いたからです。どうか屋敷を賜り、移住をお許し下さい。」文公は屋敷を与えた。

*文公とは事実上滕の最後の君主で、滕は記録がほとんど無い春秋戦国の小国。日本的感覚で言えば大名ではなくせいぜい旗本で、文公の次代に滅んだとされるが余りに記録がかすかで史実がわからない。孟子は戦国の諸国で口車をまわして高位高禄にありつこうとしたが、まともな殿様からは相手にされなかった。唯一話を真に受けてくれたのが滕の文公で、文公は孟子の言うままに政治を行い、その結果国が滅びてしまった。孟子自身、「これはもうどうにもならんから、殿様を廃業しなさい」と暗に答えている(論語為政篇7余話「犬馬の労」参照)。だがそれにも気付かない、欺(だま)されやすいチョロい殿様がいると聞いて、世間師どもが押すな押すなで押しかけたのである。余談ながら江戸の旗本は家臣や領民からは「殿様」と呼ばれていた。

許行には引き連れた弟子が数十人もいた。みな粗い毛織り*の服を着て、草履を足に結い付け、むしろを織って生計を立てた。

*原文「褐(カツ)」。これが何の繊維か比定するのは簡単でない。初出は戦国文字で、「睡虎地秦簡」に「囚有寒者為褐衣。」とあり、いくら秦国が乱暴でも、寒がる囚人に葛布を与えはしないだろうから、クズではない。上古音は「毼(カツ)」”毛織物”と同音同調。字形は「衣」+「曷」”干からびた”。羊毛を白く臭いにくくするには、脂をごっそり落とす必要があり、石鹸が工業生産されるまでは人尿で落としていた。それが不足すればそのまま梳いて紡いで織るしかなく、織り上がる頃にはすっかり褐色になっていただろう。周王室はもとは羊飼いの一族だが、なぜかその領域からは同時代の毛織物が出土していない(梁国興「毛織物発展歴史」)。「睡虎地秦簡」と矛盾するが、脱脂不十分で虫に食い尽くされてしまったのだろうか。論語語釈「褐」論語語釈「葛」も参照。「草履を足に結い付け」の原文は「捆屨」。論語語釈「捆」を参照。宋代からは”履き物を叩いて固める”と解する。宋儒を信用しない理由は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。「草履」は原文「屨(ク)」。平たい履き物に紐が付いたもの。論語語釈「屨」を参照。

陳良の弟子に、陳相とその弟の陳辛がいて、スキクワをかついで宋から滕に来て、文公に言った。「殿が聖人の政治を行うと聞きました。ならば殿も聖人です。どうか聖人の領民にして下さい。」(それも文公は許し、)殿様の屋敷を出た陳相は、ひょっこり許行に出会って大いに喜び、それまで学んだことをすっかり捨てて許行に学んだ。

(教えるついでに許行はけしかけた。「孟子という奴がいて、何かと殿をたぶらかしておる。それに弟子どもの手癖が悪い。けしからん奴*だから、ケンカをふっかけて滕から追い出せ。」世間師同士のショバ争いで、許行は孟子がいなくなれば、その分、文公からのお貰いが増えるとふんだのである。)

*孟子はともかく、引き連れた弟子はとんでもない連中で、滕に入るやいなや殿様の屋敷からスリッパを盗んだ。管理人にイヤミを言われた孟子は開き直って、「管理人どの、我らがスリッパ泥棒の巡業に来たとでも?」その訳文は論語学而篇6解説を参照。

そこで陳相が孟子の所へ行き、許行の教説を説教した。「国公殿下はまことに賢君であられる。ただ惜しいかな、大いなる道をご存じない。賢者は民と一緒になって耕し、それで自分の身を養い、晩飯は自分で煮て食うものだ。今の滕国は、政府の倉庫はぎっしりだが、これでは民草から剥ぎ取って、殿下や役人が食っていることになる。(自分で耕さなくとも食えるから気が付かないので、)殿下がボンヤリしたままなのも、致し方あるまい。(貴殿は殿下の相談役だから、自分で耕して、殿下が賢くなるよう手本にならねばならない。)」

孟子「ほほう。許どのはキッチリ自分で耕してから、そのめしを食っているのか」「そうだ」。

「許どのはキッチリ自分で織ってから、その服を着ているのか。」「いや。許どのは買った毛織りの服を着ている。」

「許どのは冠をかぶるか。」「うむ。かぶる。」

「どんなのをかぶっているか。」「白い麻の冠だ。」

「それは自分で織った麻か。」「いや。市場でアワと換えてくる。」

「許どのは何で、自分で織らんのだ。」「畑仕事に差し支えるからだ。」

「許どのは(金物の)釜や(焼き物の)蒸し器でめしを作り、鉄の農具で耕すのか。」「そうだ。」

「自分で炊事具や農具を作っているのか。」「いや。市場でアワ*と換えてくる。」

*「粟」アワは春秋戦国時代の基本的な穀物。通貨や給与にもなった。現代日本人的感覚ではコメと考えても差し支えない。こうやって相手の主張に相手の手で限定をつけさせるのは、日本海海戦の東郷ターンでロシア艦の射界を狭めるよう仕向けたのと同じで、口げんかの基本技術。ソクラテスはこのでん(のちに弟子のプラトンが「産婆法」と持ち上げた)で議論をふっかけて回ったので、アテネ市民には嫌われ、アリストパネスにはお笑いに仕立てられた。

孟子「アワを道具に換えるのは、自分で道具を作ったとか、焼き物を焼いたとか、鍛冶仕事をしたとか言わん。自分でそういう手仕事をしても、アワと換えるのは農夫から剥ぎ取るのも同じだろうが*。そもそも許どのは、何で自分で工作しごとをしない。ご大層な屋敷に住みながら、なんで道具のたぐいを屋敷で自作しないのだ。(神農神農と自分の清潔を鼻にかけながら、)ごみごみした市場に出掛けて、職人衆と掛け値値切りで売り買いするのを、何で嫌がらないのだ。」
陳相「それは職人衆の仕事を、畑仕事しながらする時間が無いからだ。」

*後出するが、政治や行政も仕事には違いないので、その対価として税を取るのを”剥ぎ取る”と言うなら、道具を作って売って食物を買うのも、農民から”剥ぎ取る”と言わねばならない、というのが孟子の論理。対等な売買と権力ずくの収奪とを一緒にしている。

孟子「貴殿の師匠が、たかが畑仕事と手仕事を両立できないのに、天下を治めるほどの大仕事をする者が、畑仕事と政治を一人で出来るわけがないだろう。世には君主や役人の仕事もあれば、民百姓の仕事もある。それなのに自分一人で、職人衆の仕事を全部覚え、全部こなせと言うのか。自分で作ったものしか使うな食うなと言うのは、この世のものごとを、全部引きずって道を歩けと言っているも同じだ。

だから昔から言うのだ、ある者は心で働き、ある者は筋力で働く。心で働く者は人を治め、筋力で働く者は人に治められる。人に治められる者は人を養い、人を治める者は人に養われる、と。これが天下の常識といいうものだ。

あのな、むかし堯の時代、(大昔の神々がケンカをした*せいで、)大地が傾いたままになっており、洪水が勝手に流れ、あちこちが大水であふれかえっていた。草木は伸び放題、トリやケモノは増え放題、重要な五種の穀物は実らず、怪鳥や猛獣が人々を追い回していた。だからそいつらの足跡は中国の至る所にあって、安全安心とはほど遠かった。

*太古の王に数えられもする顓(セン)頊(ギョク)と、悪党なので舜が追っ払ったと孟子が言っている共工が、王位をめぐってケンカして、負けた共工が腹立ち紛れに天を支える柱を折ってしまい、天地がひっくり返りそうになったが、これまた太古の王とされる伏羲の、かみさんとされる女媧が、もったいのついた材料で中途半端に修理したから、傾くだけで済んだ、と後漢初期の『論衡』はいう。「重要な五種の穀物」は原文「五穀」。五つがどれか、それぞれの儒者が勝手なことを言っているので、実は確定しない。しかも諸説のほぼ全てが、春秋戦国で最も重要なアワを数えない。

これに堯は一人で気を揉んでいたが、(人手が足らずどうしようもなかった。やっと)民間から舜を見つけて担当者に据え、この地獄を退治させた。舜は部下の益にありったけの火付けの用意をさせ、益は山や谷川にすごい火を起こして焼き払ったので、怪鳥も猛獣も逃げ隠れた。

次に禹が九つの河を治水した。まず済水・漯(トウ)水に堤を築いて海に流した。汝水・漢水は水路を掘り、淮河・泗水は水はけをよくし、全部長江に流れるようにした*。それでやっと、中国では人が耕して食えるようになったのだ。

*中国は古来、大洪水のたびに大河が流路を変えてきたから、これらの川が今のどこを流れていたか正確に比定するのは難しい。通説として、漢水(漢江)・淮河・泗水(泗河)は現存する。済水は現在の黄河下流。漯水は済水同様黄河下流の並行河川。汝水は淮河の北側支流。だが漢江を除き長江とは合流しない。

黄河 流路 変遷

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この時、禹は仕事で八年間家を留守にしたが、三度家の門を通り過ぎても、次の仕事に忙しく、帰らなかった。その禹が、この上耕そうとしても、出来るわけが無いだろう。

后稷は民に農業を教え、五穀を植え育てさせて、やっと五穀が実って民百姓が生きながらえるようになった。だが人には正しい道というものがある。腹一杯食い、温かい衣類を着て、家でくつろげるようになっても、正しい道を教えられないと、トリやケモノ同然になってしまう*。

*孟子は「一人で何でも出来るものか」と陳相の先手を封じ、重ねて「畑作職人仕事が出来ても、それだけではケダモノ同然だ」と目に見えない道徳の必要性を持ち出して逆襲を防いだ。道徳には実体が無いから口次第でどうとでも言えるので、黙らすには有効な手だった。

これを心配した聖人がいて、契を役人のかしらにし、人のあるべき道を教えた。すなわち、父子の間には親しみ方があり、君臣の間にはけじめがあり、夫婦の間には役割分担があり、年長者と年少者の間には区別があり、朋友の間には信義の掟がある。

大いなる業績を残したと讃えられた堯は言った。『民を励まして近寄ってくるようにはからい、間違いを教えて正しい方法を覚えさせ、足りないところを補って能力を付けた。その後は自分で自分を改善するコツを呑み込ませた。それで一層ワシの言うことを聞くようになり、ますますワシの偉さを讃えたものだ』と。聖人が民を憂えるのはこの通りで、(手取り足取り教えてやらにゃならん。)これで畑仕事する余裕があるわけ無いだろう。」

陳相「そうかね? (貴殿はいま、舜が担当者になるまで中国に、安全安心が無かったと言った。だから)堯は舜が家臣になるまで人材がいないと悩み、舜は禹や皋(コウ)陶(ヨウ)が家臣になるまで悩んだ。それに対して、自分の家に割り当てられた農地*すら耕しきれないと悩むなら、その者はただの農夫だろう。(自分の仕事にしか関心が無いのは庶民に過ぎない。それでも聖王の堯や舜だって、何でも自分でやったわけではない。)

*原文「百畝」。900畝の農地を井の字に9つに仕切って、外側の1区画100畝ずつを8家に配分し、真ん中の100畝を共同で耕して税収に充てるという「井田制」は、初出は『孟子』だが、陳相もこれを常識として共有していたと仮定して訳出した。

私田 私田 私田
私田 公田 私田
私田 私田 私田

あるいは孟子とその一党が、井田制の証拠として陳相まで利用しただけかも知れない。

財産を人に分け与えるのを恵むという。(これはたまにいる。)役に立つことを人に教えるのを忠(=誠実)という。(これもそう珍しくはない。だが)ふさわしい人をふさわしい地位に就けるのが、(貴殿の主張する)仁義ではないか。この世で施しをする者はそこそこ見かけるが、デキる人材をちゃんと働かせる君主はめったにいない。(だから役割分担と、それを指図する君主が必要になるのだ*。)

*この時点で陳相は議論に負けている。はじめ「お説教だけでなく畑仕事もしなさい」と孟子にふっかけておきながら、「役割分担」を言い出した。孟子の論理は滅茶苦茶だが、陳相は輪をかけて頭が悪い。だから許行に会ってすぐ頭をやられ、パシリにされた。この点許行もなかなかの悪党で、商売敵の孟子が手強いことを知っていたから、鉄砲玉として陳相を放った。ただし陳相の頭の悪さを言えるのは、訳者が現代人だからで、取り柄の無い男が異世界もの小説で無双できるのと同じ。人界の進歩とはこういうことをいう。なお「仁義」については、論語における「仁」を参照。

(だから)孔子は言った。『素晴らしいな、堯の君臨は。天だけを敬い、ひたすら天に従い、寛大な政治を行った。だから民は政治に文句をつけなかった(論語泰伯編19)。名君だな、舜は。高々とそびえ立っている。天下を所有しながら政治をいじくり回さなかった(論語泰伯編18)』と。堯や舜が、文句も言われず、政治いじりもしなかったのに、きちんと天下が治まったからには、何についても用心深く配慮しなかったわけがないだろう。(それこそ役割分担を差配する者の任務で、)たまたま自分で耕さなかっただけだ。」

孟子「それがしは、中華文明で蛮族を文明化したという話は聞いているが、野蛮をもっと野蛮にしたというのを聞いたことがない。貴殿のもとの師匠だった陳良どのは、野蛮な楚に生まれながら、周公や孔子の教えを喜び、北方に旅して中国で学んだ。やがて中国の学者の誰もが、陳良どのの学説を言い負かせないほどになった。彼こそいわゆる豪傑だった。貴殿兄弟は陳良どのに数十年も弟子入りしながら、師匠が亡くなったらさっさと裏切った*。

*せっかく陳相が「適材適所」を言い出すというポカをやらかしたのに、孟子は気付いていない。陳相が儒家の開祖である孔子を持ち出し、「論語のようなもの」をよく読んでいることに、よほどうろたえたらしい。だから陳相が孟子の金看板である「仁義」で切り返したのに対し、孟子はそれに答えないで、「節操がない」とぜんぜん違う話でやり返した。こういうのを論点をずらすといい、今なお世の「識者」の多くが使う手法。

むかし孔子が世を去ったとき、弟子一同は三年間お墓の側で喪に服し、それが明けてみな旅立ちの用意をして家に帰る時、きちんと先輩の子貢に挨拶して、互いに泣き合い、声もかすれるほど嘆き、そうやってから帰った。子貢は皆を見送ると、先生のお墓に戻って隣に小屋掛けし、たった一人でなお三年喪に服してから、やっと家に帰った。

それからしばらくして、子夏と子張と子游が、有若が先生によく顔が似ているからと言って、先生同様に師匠として拝もうとした。そして後輩の曽子を呼びつけて、「お前もそうしろ」と言ったのだが、曽子は断った。『いやですね。有若の頭は真っ白で、川でよく洗濯し、秋の陽に晒しきったシーツみたいです。そんなバカを拝むなんてとんでもない*。』

*この話はどうも孟子の創作っぽい。曽子は孔子家の使用人に過ぎず、有若は孔子の生前、子貢と並ぶ一門の重鎮だった。それを有若とわざわざ呼び捨てにし、曽子を有力弟子に仕立てたのは、もちろん孟子の商売のためである。儒家の道統と有若の実像を参照。

さて今、南蛮から来て、鳥のようなヘンな言葉をしゃべる奴が、我が周王朝の先祖が定めた道をバカにしている。貴殿は亡き師匠を裏切って、そのトリの弟子になった。曽子の節操とは全然違う。昼なお暗い谷底から、木に登って遠くを見渡したいと望む者はいるが、せっかく高い木に登っているのに、谷底へ行きたがる者を聞いたことがない。

詩経の魯頌に言うだろう。『西北の蛮族は討伐せよ。南の蛮族はこらしめろ』と。だから周公はこうした蛮族を討伐した。だが貴殿はその蛮族の教えを有り難がっている。それは成長ではなく退化というのだ。」

陳相「それでもな、許先生の教えに従えば、市場のもの売りは客をだまさない。国に詐欺師はいなくなる。背丈1mほどの子供を市場に行かせても、たぶん欺されなくなるだろう。各種の布は長さが同じなら、値段が同じになる。各種の糸*、穀物、大小の履き物も同じになる。」

*孟子に「言っていることとやっていることが違う、節操がない、蛮族の仲間入りした」とコテンパンにやられたのに対する負け惜しみだが、ヤリでつ突いても相手が引かなければ、刀で斬り付けるのは戦闘の通例で、論点をずらすのは世間師の常套手段だった。「各種の布」「各種の糸」は「五穀」同様、実はどんな材料から作ったかわからない。論語郷党篇7余話「何で織った」も参照。

孟子「あのな、そもそも互いに違っているのが、ものの自然な姿だ。品物の値が、倍五倍、十倍百倍、千万倍と違うのは当たり前だろう。貴殿はそれを全部一緒くたにしようというのか。それでは天下万民が迷惑する。(人の足の大きさはさまざまだが、)大きな履き物も小さいのも値段が同じなら、誰が大きいのを作る? 許どのの教え通りにするのは、売る者買う者互いにだまし合うことになる。そんなんで国が治まるわけがない。」

付記

差込訳注に書いたとおり、口げんかの手法は定義を追い詰める、論点をずらすが挙がるが、本章をざっと総覧して言えるのはもう一つ、相手の知らないウンチクの数。相手が黙ればそれでよいのだから、ウソでも何でも平気で言う。孟子が道徳を語ったのもその一つ。

上記の通り孟子は自分の弟子がスリッパをくすねたのも自分でちゃんと書いた、あるいは弟子が記したが、これは立場を中立にしようとしたのではなく、言い負かすことが出来た事例として書いている。本章も同様で、「口げんかはこうやってするんだ」という教科書。

『韓非子』にはズバリ「説林」という、口げんかの見本集があり、古代からこんな本が揃っていた中国と異なり、日本人は今なお議論が下手だと言われてきた。そうかも知れないが、そもそも口を含めてケンカをしないのが、例えば武道のような日本人が伝えてきた技術である。

対する中華文明については、論語学而篇4余話「中華文明とは何か」を参照。

なお「力仕事もしないで口先だけで食うな」という批判は、おそらく孔子と同時代人のブッダも言われている。

「道の人よ。わたしは…耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた…耕して種を播いたあとで食え。」
「バラモンよ。わたくしもまた…耕して種を播いたあとで食う。」
…「われらはあなたが耕作するのを見たことがない…。」
「わたしにとっては、信仰が種子である。…この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす…。」
「…あなたは耕作者です…。」(中村元『ブッダのことば』)

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不信心モノである訳者には、何が何だか分からないが、ともかく論敵は言いくるめられたらしい。

論語内容補足
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