論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰巍巍乎舜禹之有天下也而不與焉
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰巍〻乎舜禹之有天下也而不與焉
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「魏魏a乎,舜禹b有天[下而不與焉]!」208
- 魏魏、今本作「巍巍」。
- 今本「禹」下有「之」字。
標点文
子曰、「魏魏乎。舜禹有天下、而不與焉。」
復元白文(論語時代での表記)
舜 焉
※巍→魏(金文大篆)。論語の本章は「舜」「焉」が論語の時代に存在しない。「焉」は無くとも文意が変わらないが、舜王は論語の時代に知られていなかった。「乎」「與」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、魏魏乎し。舜禹天下を有ち、而して與ら不り焉。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「高く広くそびえ立っている。舜と禹が天下を我がものにして、しかも関わらなかったのは。」
意訳
山脈を見上げるような気分だ、舜と禹の政治は。天下に君臨していたのに、政治いじりをしなかった。なのによく治まった。一体どうやったんだろう。
従来訳
先師がいわれた。――
「何という荘厳さだろう、舜しゅん帝と禹う王が天下を治められたすがたは。しかも両者共に政治には何のかかわりもないかのようにしていられたのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「舜、禹真偉大!他們獲得天下依靠的不是暴カ。」
孔子が言った。「舜、禹はまことに偉大だ。彼らが天下を取るに当たって頼ったのは、暴カではなかった。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
巍*巍乎→魏*魏乎(ギギコ)
(戦国金文)
論語の本章では、”高々と並びそびえ立つさま”。論語では本章と次章のみに登場。音からは、ギザギザした山頂を示してもいる。
「巍」の初出は戦国時代の金文で、ただし字形は部品の「魏」。論語の時代に存在しない。部品の「魏」は『説文解字』に地名として登場するのが初出。西周の諸侯国として、また戦国の七雄として魏国が存在し、論語の時代にはすでに都市国家として存在し、弟子の子夏が仕えたと言うから、言葉や文字があったのは確実。ただし当時の字形が伝わらない。漢帝国で通用した隷書では、「嵬」と書かれた。詳細は論語語釈「巍」を参照。
定州竹簡論語の「魏」は”高くそびえる”を意味し、一説に「巍」は「魏」の原字とされる。詳細は論語語釈「魏」を参照。
(甲骨文)
「乎」の初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
舜(シュン)・禹*(ウ)
神話上の聖王。禹は夏王朝の開祖とされる。舜はその一つ前の帝王とされる。もちろんどちらも架空の人物。
(金文)
上掲「舜」の金文は年代が不明。確実な初出は戦国中期の郭店楚簡で、「成書時期は紀元前300年を下ることはなく」とwaikipediaに言う。字形は上下に「㠯」+「亦」+「土」。すきを担いで土の上を汗流してゆく人。ここから、現伝の禹王の治水伝説は、まず舜王のそれとして創作されたのが、のちに作り替えられたものと想像できる。同音に「蕣」”むくげ・あさがお”、「瞬」、「瞚」”またたく”、「鬊」”抜け毛”。戦国の竹簡では、いわゆる聖王の”舜”の意に用いた。詳細は論語語釈「舜」を参照。
(金文)
「禹」の初出は殷代末期の金文。同音に「于」「羽」「雨」「芋」など多数。つまりありふれた音の言葉で、声調まで同じくするのは「羽」「雨」「宇」”軒・屋根”のみ。「羽」に目をつぶれば、イモリのたぐいを意味するだろう。また同音に「雩」”あまごい”があり、初出は甲骨文。古書体とされる字形には大きな変遷があるものの、現伝の禹王を指すとは断じかねる。詳細は論語語釈「禹」を参照。
「禹」は古くから人名に用いたが、それが治水を実行し夏王朝を開いた人物を指す証拠は無い。「叔尸鐘」(春秋末期)の銘文を、郭沫若など中共の御用学者が、一生懸命夏王朝の実在を証する器物だと言い張っているが、中世のローマ坊主が異端者を火あぶりにするついでに書いた「神の実在について」との論文を、誰が真に受けるだろう。
書誌文献上「禹」の字の初出は論語なのだが、禹を記した論語の章は全てでっち上げで、孔子の生前に知られた人物ではない。次に現れるのは『墨子』だが、墨子は孔子と入れ替わるように春秋末戦国の世を生きた。儒家に対抗して墨家を立てるため、儒家の持ち上げる周の文王より古い聖王として禹を創作した。禹が墨家の得意とした土木技術に優れていたとされるのはそのためである。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
有(ユウ)
「有」(甲骨文)
論語の本章では”領有する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
天下(テンカ)
(甲骨文)
論語の本章では”天下”。天の下に在る人界全て。
「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では”…は”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
”天下を我が物として所有しながら、なんとまあ、何もしなかった”という語感を表す。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”手を付ける”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
舜も禹も架空の人物だから言及するにも及ばないが、二人の事跡を伝えるのは『史記』とそのダイジェストである『十八史略』ぐらいしかない。そこでは舜も禹もただ座っていただけではなく、あれこれと世間をいじくり回している。
例えば『史記』はこのようにも読める。
皋陶為大理,平,民各伏得其實;伯夷主禮,上下咸讓;垂主工師,百工致功;益主虞,山澤辟;棄主稷,百穀時茂;契主司徒,百姓親和;龍主賓客,遠人至;十二牧行而九州莫敢辟違;唯禹之功為大,披九山,通九澤,決九河,定九州,各以其職來貢,不失厥宜。方五千里,至于荒服。南撫交阯、北發,西戎、析枝、渠廋、氐、羌,北山戎、發、息慎,東長、鳥夷,四海之內咸戴帝舜之功。於是禹乃興九招之樂,致異物,鳳皇來翔。天下明德皆自虞帝始。
家臣の皋陶が検事総長となり、気に入らない連中を片っ端から牢に放り込んだり首をちょん切ったりしたので、民は恐れおののいて、大人しくなった。
伯夷という男が口うるさく礼儀作法を言ったので、家臣はみなうんざりして付き合う振りをした。
垂という男が技術長官になり、囚人をこき使って働かせたので、そこそこにはまともな品物が出来た。
益という男が国土長官になり、やたらと自然破壊を繰り返した。
棄という男が農業長官になり、あらゆる穀物が時節通りに実った。
契という男が官房長官になり、部族抗争が無くなった。
龍という男が外務長官になり、四方の蛮族がお土産欲しさに寄ってくるようになった。
十二人の地方総督は競って自然破壊を繰り返したが、その中でも禹のやらかしたのが一番ひどかった。九つの山と谷と河を破壊し、国境線に要塞を築いて威嚇したので、蛮族が震え上がって貢ぎ物を持ってくるようになり、舜と役人はそれで贅沢できるようになった。
五千里四方が征服されたので、東西南北の蛮族を奴隷化して、おべっか使いどもが「舜王陛下のご威光でございます」とふざけたことを言った。
とりわけ禹のおべっかは聞くに堪えず、「舜王様を褒め讃える歌」なるものをちんちんドンドンと演奏し、蛮族が持ってきた貢ぎ物を差し出した(中抜きしていたのをこの時だけ止めたのである)。するとめでたい鳳凰が呼びもしないのに飛んできたが、こういうインチキな政治は舜の時代から始まったのである。(『史記』五帝本紀25)
もちろん司馬遷はこんなつもりで書いていないだろうが、書いてあることを現実的に解釈するとこうなる。北朝鮮の「将軍様を讃える歌」そっくりだ。舜はまだやらかしたことを家臣のせいにしているが、黙認したなら君主も同罪、禹の場合は言い逃れが出来ないだろう。
儒者や漢学教授が垂れ流した漢文の「日本語訳」なるものを疑わない限り、平壌放送を真に受けるのと同然で、漢文を読めたと言える道理が無い。原文と格闘しない限り、外国語が理解出来たことにはならない。特権にあぐらをかいて、辞書も引かない連中は言うまでも無い。
上掲した『史記』の拙訳に、批判が来るのを真に待ち望んでいる。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、断定を意味することば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、やや違った形で『孟子』に引用がある。
孔子曰:『大哉堯之為君!惟天為大,惟堯則之,蕩蕩乎民無能名焉!君哉舜也!巍巍乎有天下而不與焉!』堯舜之治天下,豈無所用其心哉?亦不用於耕耳。
孔子が言った。「偉大だな、堯の君臨は。天だけを大いなるものとして敬い、堯はひたすら従った。トウトウと尽きずに広がる善政のさまを、民百姓は名づけようが無かった。君主として素晴らしいな、舜は。高々とそびえ立って天下を領有し、そして何も手を出さなかった」と。堯舜が天下を治めるのに、気を配らなかったわけがあろうか? ただ自分では農業をやらなかっただけだ。(『孟子』滕文公上4)
だが「舜」の春秋末期までの不在はどうしようも無く、その「舜」を創作したのはおそらく孟子自身で、本章は戦国時代以降の創作は確定となる。
解説
史料はそもそも宣伝のために作られ、舜も禹も実在しない。現中国政府は御用学者を集めて、文字の無い時代の「夏」王朝の実在証明にやっきとなったが(夏殷周年代プロジェクト)、愚かなお金の使い方をしたものだ。文字の存在しない時代に、王朝も年代もありはしない。
孔子が本章で、「ギギコ」と珍獣が鳴くようなことしか言えないのは、言わそうとした後世の創作者ももちろん夏王朝やそれ以前の詳細など知らなかったからで、加えて中国のインテリは明代頃になるまで、詩文は得意だったがラノベは極めて下手くそだった。
だからといって、実在が疑われているあまたの歴史人物が、必ずしも架空とは思えない。例えば老子は史料を綴り合わせると、人間離れした寿命となるため、架空説が有力になった。だが孔子に教えた老子は確かにいたと考えてよく、老子の名は襲名されたと考えていい。
その何代目かの老子が帰国する孔子に対して、「目立とう精神はやめなされ」と諭したのも、孔子の自覚している欠点を突くものだったろう。だからこそ孔子は老子を生涯尊敬し続けた。訳者は現代日本東洋史学の、老子いなかった説や、孔子教わらなかった説にはくみしない。
孔子が老子に学び終えて、その元を去って魯国に帰り、弟子に老子を論評して言った。
「鳥は飛ぶ姿を見れば、その能があることが分かる。魚は、泳ぐ姿を見れば、その能があることが分かる。けものは走る姿を見れば、その能があることが分かる。
だから走るけものは網で捕らえられるし、泳ぐ魚は釣ることが出来る。飛ぶ鳥は弓矢でいぐるみ(=矢に紐を付けて放つ猟。紐が絡まって鳥を落とすことが出来る)すれば捕らえることが出来る。
しかし竜はどうだろう。風や雲に乗って天に昇るが、その姿を見ることは出来ないし、そのからくりも分からない。私は老子先生に会ってきたが、まるで竜のようなお方だったよ。」
(『史記』老子列伝)
「老子先生は竜のようだ。とらえどころがない」と孔子が言った史記の記述は『荘子』のまた書きではあるが、わけが分からないが偉大な者への孔子の感想を、端的に示していると思う。老子が何百才も生きたという話は荒唐無稽だが、実在を否定するのも行きすぎだろう。
だが堯・舜・禹は、どうやっても実在を言い立てることが出来ない。文字が無いからだ。
舜の字も人物も、孔子の時代に知られていなかった。堯や舜については『左伝』も記しているが、『左伝』は検証しだすと崩壊する本でもある。
確実に堯舜をさかんに持ち上げて褒めそやしたのは、希代の世間師だった孟子である。もちろん世間師のことだから、ただで持ち上げたわけではない。主な顧客に斉の宣王がおり、宣王はもと斉の君主だった姜氏に取って代わった、田氏の五代目で、その祖先を舜だと言っていた。
田氏は南方・陳国出身で、陳は周の武王が舜の末裔を探し出して持たせた国。要は世間に対する見せ物興行の一環として、大して美味しくない土地を与えたのであり、末裔とされた人物は、自称で武王に売り込んだにせよ、誰かが武王に言い含められたにせよ、ニセモノである。
つまり宣王のやましい所への塗り薬として、孟子は舜を褒め讃えた。そのおかげで孟子は王の顧問官になれたが、あまりに横柄な上に無能だったため、宣王は孟子をお座敷に呼ばなくなった。怒ったふりをした孟子は辞職したが、国境の町で王が呼び返しに来るのを待ち続けた。
もちろん呼び返されはしなかった。孟子が中二病と分かって面白い。
禹の伝説を創作したのは孔子と入れ替わるように春秋戦国の世を生きた墨子で、儒家が聖王として持ち上げる文王より古い聖王として、自学派の得意とする土木技術の開祖として禹を描いた。治水伝説があるのはそれゆえで、それにさらにかぶせるように、孟子が舜を製作した。
そういう応酬が果てに、堯やら黄帝やら、宇宙人のような連中をこしらえたのだった。
余話
「秦公𣪕」(禹の創造)
墨家の謎として、恐ろしい軍事技術集団として戦国の世に隠れも無き一大学派でありながら、秦が天下統一すると煙のように消えてしまったことがある。それゆえ古くから、墨家主流は秦とつるんで天下を統一させ、その過程で墨家の他派を攻め潰し、自身は秦と一体化したとも言われる。
その墨家は上記の通り、夏王朝の開祖・禹を教祖に据えた。そして周王朝が衰微したがまだ存在した春秋の世に在って、秦はすでに周と対等だと思っていた形跡がある。というのも、物証で禹を拝んだ初出は、春秋中期のその名もズバリ「秦公𣪕」(集成4315)だからだ。
秦公曰。不(丕)顯朕皇且(祖)。受天命。鼏宅禹責(蹟)。十又二公。才帝之坏。嚴龏夤天命。保(業)厥秦。虩吏(使)䜌夏。余雖小子。穆穆帥秉明德。剌剌(烈烈)𧻚𧻚(桓桓)。邁民是敕。咸畜胤士。
秦公が言った。「輝かしい我が祖先は、天の命令を受けて、密かに禹の業績を受け継ぎ、以来十二代の国公が国を引き継いだ。天の神の加護を受け、天の命令を厳かにおそれ敬い、この秦国を営み保ってきた。その結果、中華世界と蛮族の世界におそれられる存在となった。予は小せがれに過ぎないが、穏やかに国を率い、君主としての能力を高めようと思う。そして明らかに厳しく、領民を正しく導き、受け継いだこの領土を守り富ませたい。」
ここで言う「禹」が夏王朝の開祖を意味するなら、秦は周の臣下どころか、その前々代である夏王朝の末裔だった、と言っている。ただしこの「秦公」が誰だか、訳者には分からない。「秦公𣪕」は「春秋中期」に分類されており、春秋時代はBC600あたりが真ん中になる。
春秋の年表から見ると、「中期」の始まりを飾るのは穆公であり、人によって春秋の五覇に数える場合がある。穆公ののちしばらく、秦はあまり振るわなくなるが、おそらく孔子の生まれる前から、禹の伝説を自国の建国伝説に書き加えていたことになる。
穆公は通説では9代目の秦国公とされるが、秦の歴史には不可解なところが多数あり、歴代の国公や当主にも不明な所が多い。場合によっては、穆公を12代目と数えられなくはないわけだ。おそらく亡国の哀しさで、楚漢戦争のさなかに年代記が失われて仕舞ったのだろうか。
あるいはもともと、そんな年代記など無かったのか。もはや誰にも分からない。
参考記事
- 論語為政篇23余話「夏王朝の創造」
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