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論語詳解210子罕篇第九(5)子匡に畏る’

論語子罕篇(5)要約:下がれ下がれ町人ども! 悪党に間違われ取り囲まれた孔子先生。周の精神を深く体得した自分が、ここで命を落としてはもう誰も周の精神を理解し伝える者はいない。私を誰だと心得る! 先生はそう叫んだという話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子畏於匡曰文王旣沒文不在玆乎天之將喪斯文也後死者不得與於斯文也天之未喪斯文也匡人其如予何

※「將」字のつくりは〔寽〕。

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

子畏於𬻻/曰文王旣沒文不在玆乎/天之將丧斯文也後死者不得與於斯文也/天之未喪斯文也𬻻人其如予何

  • 「丧」「喪」字:ママ。

慶大蔵論語疏

子畏扵12/曰文王旣沒文不在慈3(茲)4乎/天之將喪斯文也後死者5不得与61斯文也/天(之)4未喪斯文也迬2人其如予何

  1. 「於」の異体字。『新加九経字様』(唐)所収。
  2. 「匡」の異体字。『正字通』(明)所収。
  3. 「茲」の誤字→異体字。「魏相州刺史元宥墓誌」(北魏)刻。
  4. 傍記。
  5. 新字体と同じ。もとは正字。
  6. 新字体と同じ。『敦煌俗字譜』所収。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

畏於匡,曰:「文王漑 外字歿a,文□□茲乎?天之214……後死者不b與於斯□□,天之未喪斯文也,匡人215……

  1. 漑 外字歿、今本作「既没」。漑 外字古既字、歿借為没。
  2. 今本「不」下有「得」字。

標点文

子畏於匡。曰、「文王旣歿、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、不與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文畏 金文於 金文匡 金文 曰 金文 文 金文王 金文既 金文勿 金文 文 金文不 金文在 金文茲 金文乎 金文 天 金文之 金文將 甲骨文喪 金文斯 金文文 金文也 金文 後 金文死 金文者 金文 不 金文与 金文於 金文斯 金文文 金文也 金文 天 金文之 金文未 金文喪 金文斯 金文文 金文也 金文 匡 金文人 金文其 金文如 金文予 金文何 金文

※歿→勿・將→(甲骨文)。論語の本章は、「乎」「未」の用法に疑問がある。

書き下し

きやうおそる。いはく、文王ぶんわうすで歿みまかるも、よきことここらずてんまさかかよきことほろぼさむとするおくものかかよきことあづからざるかなてんいまかかよきことほろぼさざる匡人きやうひとわれくはなにぞ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生がキョウのまちで脅迫された。言った。「文王はすでに亡くなったが、その精神はここにあるのではないか。天が今すぐこれほどの精神を滅ぼそうとするなら、私の死後の者はこれほどの精神に関わる事が出来なくなるぞ。天がまだこれほどの精神を滅ぼす気がないなら、匡の住人が私と肩を並べる理由は何だ。」

意訳

孔子一行が、匡のまちで包囲され、脅された。

孔子 威厳
孔子「えーい、静まれ静まれ町人ども。私を誰だと心得る。文王亡き今、周の人間主義は私だけが知っている。私を殺せば、後世の者はかくも高々とした人間主義の恩恵にあずかれなくなるぞ。またウホウホと人をいけにえにする蛮族に戻りたいのかね。子孫にどう言い訳するつもりだ。貴様ら如き連中は、ひかえおれ!」

従来訳

下村湖人

先師が匡で遭難された時いわれた。――
「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、何で、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何が出来るというのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子在匡地被困,他說:「文王死了後,文化遺產不都由我繼承嗎?老天若要滅絕文化,我就不會掌握這些文化了;老天若不滅絕文化,匡人能把我怎樣?」

中国哲学書電子化計画

孔子が匡の地で捕らえられると、彼は言った。「文王が死んでから、文化遺産は全て私が受け継いでいるのではないか?お天道様がもし文化を絶やすつもりなら、私はいささかも受け継げなかっただろう。お天道様がもし文化を絶やさないつもりなら、匡の人が私をどうできるのだ?」

論語:語釈

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

畏*(イ)

畏 甲骨文 畏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”脅迫される”。初出は甲骨文。字形は頭の大きな化け物が、長柄武器を持って迫ってくる姿。甲骨文では”怖がる”の意が、春秋末期までの金文では”おそれうやまう”・”威力”の意が確認できる。詳細は論語語釈「畏」を参照。

『大漢和辞典』には”おどす”との訳語もあるが受け身は記されていないので、”孔子は匡のまちで怖い目に遭った”ということ。結局、包囲されて脅迫されたのである。

しかし介さん格さんならぬ子路がいて立ち回りを演じたのだろうし、子路以外の弟子も君子として武術の心得はあったし、黄門さまに当たる孔子がそもそも、身長2mを超す体躯に武術の達人という怪物だったから、論語の本章のような「ひかえおろう」が言えたわけ。

しかし『史記』によると結局自力では脱出できなかったようで、衛の家老・ネイ武子の援軍が来たことで抜け出した。ただし甯武子というのは孔子より約一世紀前の人で(論語公冶長篇20)、論語時代にも同名の人がいたのか、その子孫か、司馬遷のうっかりかは分からない。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

慶大蔵論語疏は「扵」または「〔才仒〕」と記す。「国学大師」によると「於」の異体字で、「扵」の出典は唐の唐玄度『新加九経字様』、後者は「司隸校尉楊君石門頌」または現代の『增廣字學舉隅』『敦煌俗字譜 』所収字という。

匡*(キョウ)

匡 甲骨文 匡 字解
(甲骨文)

論語の本章ではまちの名。現・河南省扶溝県とされる。『史記』では放浪の旅で最初に向かった衛でしくじり、そのあとで遭難したとする

魯国周辺図

画面左下。

「匡」の初出は甲骨文。字形は「匚」”塀”+「羊」または「牛」。家畜を大事に囲っておくさま。春秋末期までに、地名のほか”四角い青銅器”の意に用いた。詳細は論語語釈「匡」を参照。

匡 異体字
慶大蔵論語疏では経(本文)と注に「オウ」と記し、疏(注の付け足し)には上掲「〔𠃊主〕」(unicode 2CEFB)と記す。「迬」は「往」「匡」の異体字で、出典は『正字通』(明)。「〔𠃊主〕」は「匡」の異体字で、『敦煌俗字譜』所収。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

文王*(ブンオウ)

周文王

周王朝の理念上の開祖。姓名はショウ。子の武王の時代に殷を滅ぼし、周王朝が取って代わった。文王自身も殷の帝シン(チュウ王)に監禁されて脅された伝説がある。

理念上の開祖である理由は在世当時には殷を滅ぼしていないから、まだ王になっていなかったため。子の武王が奪権の際、父親の位牌を戦車に積んで進軍したと『史記』にある。奪権に成功した後、父親に文王という名を贈ったとされる。

それが史実なら、父親の名を借りる方が諸侯の支持を集めやすいとふんだのだろう。実績の無いワカゾーに参陣するようなうっかり者は、古代から中国にはいなかったからである。

「ブンノウ」との読み方は漢音でも呉音でもない。ブッダの父・浄飯王を「じょうぼんのう」と読んだ平安の坊主かおじゃる公家によるもったい付けと考えるのが理に叶う。「天皇」も同様だが、日本語で「ン」のあとの「オ」が「ノ」に変わる理屈は専門外ゆえに知らない。

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

「文」の初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

おくり名としては最高とされる。本当に文王が文王とおくり名されたかどうかは、西周早期の金文、その名もズバリ「周公乍文王方鼎」(集成2268)という物証がある。

論語の本章、「文不在」での語義は”文王の残した精神”と解するしかないが、”精神”の語義は同時代の物証にズバリそう書いてあるわけではない。「文王」のように、「文」は当時”よい”を意味した。文王の残したよきものだから、つまり”精神”の意に結果としてなる。

ではどのような精神かと言えば、前代の殷王朝が無闇に異族を生け贄にして喜ぶ蛮族だったことが知られている。だから周囲の諸族に怨まれ、その頭目だった周に滅ぼされた。周になると人の生け贄は野蛮と見なされるようになった。

【殷】

みこを焼き鳥のように焼き殺して神に捧げた。(『甲骨文合集』19811正)

【周】

夏、日照りが続いたので、雨乞いに失敗したこびとのみこを、(魯国公の)公は焼き殺そうと考えた。

(家老の)ゾウ文仲「そんなことでは日照りは収まりません。城壁を堅固にして飢えた賊の襲来を防ぎ、食事を質素にして出費を減らし、農耕に力を入れて貧者に配給し、労働力を増すのが、当面のやるべき事です。みこなど焼き殺して何になるのですか。天がみこを殺すおつもりなら、今なおのうのうと生きている道理が無いではないですか。」(『春秋左氏伝』僖公二十一年(BC639))

あえて生け贄をやった殷の末裔・宋の襄公は、バカ殿として中国史に記憶された。人の生け贄をやらない人間主義を、「郁郁乎として文なるかな」と孔子は論語八佾篇14で讃えた。

孔子が大見得を切った「文」とは、そうした人間主義的精神を言う。

王 甲骨文 王 字解
(甲骨文)

「王」の初出は甲骨文。字形は司法権・軍事権の象徴であるまさかりの象形。「士」と字源を同じくする漢字で、”斧・まさかりを持つ者”が原義。武装者を意味し、のちに戦士の大なる者を区別するため「士」に一本線を加え、「王」の字が出来た、はずだが、「王」の初出が甲骨文なのに対し、「士」の初出は西周早期の金文。甲骨文・金文では”王”を意味した。詳細は論語語釈「王」を参照。

旣(キ)→漑 外字(キ?)

既 甲骨文 既 字解
(甲骨文)

論語の本章では”すでに”。初出は甲骨文。字形は「ホウ」”たかつきに盛っためし”+「」”口を開けた人”で、腹いっぱい食べ終えたさま。「旣」は異体字だが、文字史上はこちらを正字とするのに理がある。原義は”…し終えた”・”すでに”。甲骨文では原義に、”やめる”の意に、祭祀名に用いた。金文では原義に、”…し尽くす”、誤って「即」の意に用いた。詳細は論語語釈「既」を参照。

定州竹簡論語では漑 外字と記すが、『大漢和辞典』に存在せず、「小学堂」旣条の異体字にもなく、フォントもないので正体を調べられない。前漢時代の異体字と信じるしかない。

沒(ボツ)→歿*(ボツ)

没 秦系戦国文字 没 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”世を去る”。新字体は「没」。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。部品の「𠬛ボツ」には”くぐる・しずむ”の語釈が『大漢和辞典』にあるが、初出は後漢の『説文解字』。ただし近音の「フツ」が甲骨文より存在し、”無い”を意味する。詳細は論語語釈「没」を参照。

歿 隷書 歿 字解
(後漢隷書)

定州竹簡論語は「歿」と記す。初出は後漢の説文解字。ただし字形は「歾」。現行字形の初出は同じく後漢の隷書。字形は「ガツ」”骸骨”+「𠬛」”しずむ”。生命が終わって世を去ること。同音に「沒」、「𤣻」”たま”、「𠬛」”くぐる・しずむ”。「𠬛」の初出は後漢の説文解字。論語時代の置換候補は「沒」と同じく「勿」。詳細は論語語釈「歿」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”存在する”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

茲*(シ)

茲 甲骨文 茲 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ここに”。初出は甲骨文。ただし字形はくさかんむりを欠く「𢆶」。現行字形の初出は春秋末期の秦の石鼓文。甲骨文の字形は「𢆶」だが、通説では”糸束二つ”と解するが、二葉を上から見た形×2で、植物が繁るさま。現行字形は「艹」+「𢆶」”糸束二つ”。殷周交替で原義が忘れられた可能性がある。「ジ」は呉音。甲骨文から”ここ”の意に用い、また”激しい”の意に解しうる用例が多数ある。詳細は論語語釈「茲」を参照。

茲 異体字
慶大蔵論語疏は「慈」と記し、「茲」と傍記している。慶大本が筆写されたとされる隋代のカールグレン中古音は、「茲」tsi(平)に対して「慈」dzʰi(平)。従ってうっかりの結果による誤字と言うより、ギャル文字同様の意図的な遊び。似た字に上掲「〔艹𢆶灬〕」があり、「魏相州刺史元宥墓誌」(北魏)刻。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…ではないか”。詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

天(テン)

天 甲骨文 天 字解
(甲骨文)

論語の本章では”天の神”。宇宙の主催者を意味する。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

孔子は無神論者だったから(論語解説・孔子はなぜ偉大なのか)、天を持ち出したのはハッタリか、本章そのものが後世の偽作ということになる。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

慶大蔵論語疏、「天之未喪斯文也」部分では「之」を欠き、傍記している。

將(ショウ)

將 甲骨文 将 字解
(甲骨文)

論語の本章では”今すぐ~しようとする”。近い将来を言明する言葉。新字体は「将」。初出は甲骨文。字形は「爿」”寝床”+「廾」”両手”で、『字通』の言う、親王家の標識の省略形とみるべき。原義は”将軍”・”長官”。同音に「漿」”早酢”、「蔣」”真菰・励ます”、「獎」”すすめる・たすける”、「醬」”ししびしお”。春秋末期までに、”率いる”・”今にも~しようとする”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「将」を参照。

喪(ソウ)

喪 甲骨文 喪 字解
(甲骨文)

論語の本章では”失う”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、”これほどの”。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語の本章にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意、または「かな」と読んで詠嘆の意に用いている。前者の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

後(コウ)

後 甲骨文 後 字解
(甲骨文)

論語の本章では時間的な”遅れて”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死ぬ”。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。もと正字。旧字の出典は「華山廟碑」(後漢)。

得(トク)→×

唐石経、慶大蔵論語疏は「不得與於斯文也」と記すが、定州竹簡論語は「得」字を記さない。定州本に従い無いものとして校訂した。

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に入れる”→”…出来る”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”与えられる”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。『敦煌俗字譜』所収。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では「…ひと」と読んで”…の住人”。漢文ではA人を「Aひと」と読み、「Aじん」と読まない座敷わらしになっている。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

論語の本章では”…と同程度に及ぶ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

予(ヨ)

予 金文 予 字解
(金文)

論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

論語の本章では”なぜか”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

如予何(われにしくはなんぞ)

如何 字解 何如 字解

論語の本章では”自分と同程度になる理由は何か”。貴様ら素町人如きに、ワシ孔子をどうこうできる力などありはしない、の意。句形「如何」の間に目的語「予」を挟んだ形ではない﹅﹅﹅﹅。意味の違う「如何」”どうしよう”も「何如」”どうだろう”も共に「いかん」と読み下すのは、読めない漢文を読めるふりして世間をあざむいてきた、おじゃる公家やくそ坊主の怠惰をマネすることになるからもうやめよう。通説で「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

同じく「いかん」と訓読する「如何」も「何如」も、戦国時代にならないと現れず、「如予何」を熟語の類いとして解すると、論語の本章がニセモノである証拠になってしまう。

自分自身の知力や暴力に自信満々で、弟子も春秋の君子=戦士として稽古を積み、重武装までして大勢従っているから、孔子はこう言えるのである。論語における「君子」も参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章、「子畏於匡」は戦国最末期の『呂氏春秋』勧学3に見えるが、本章と言うより論語先進篇22の再録というべき。孔子の大見得を切った演説は、前漢中期の『史記』孔子世家が再出。

本章は定州竹簡論語に含まれ、文字史上は全て論語の時代に遡れることから、史実と判断して構わない。ただし怪しい点がないわけではない。

上記の通り孔子は無神論者だったから、宇宙を主宰する天神(天帝)の存在を信じていなかった。存在しない「天」が「斯文」をどうこう、という愚かしいことは言わなかったか、相手が迷信に怯える当時の庶民だったから、ハッタリで言ってのけたかのいずれかと思う。

解説

論語の本章について、上記の検証にも拘わらず、孔子一行が本章のような迫害を受けたことは間違いない。放浪の旅で、滞在先のどの国でも政府転覆工作をやったのがその理由。ただしその場所は匡だけとは限らないし、匡でなかったとも言えない。

リンク先の『史記』の記述にあるように、この時の遭難は、かつてこの町で乱暴を働いた、孔子のライバル・陽虎と孔子の顔が似ていたので、陽虎と間違えられて包囲された、と古来言われる。しかし孔子から千年後の儒者が言う、見てきたような話は事実と信じがたい。

古注『論語集解義疏』

子畏於匡註苞氏曰匡人誤圍夫子以為陽虎陽虎嘗暴於匡夫子弟子顔剋時又與虎俱往後剋為夫子御至於匡匡人相與共識剋又夫子容貌與虎相似故匡人以兵圍之曰文王旣沒文不在兹乎註孔安國曰兹此也言文王雖已没其文見在此此自此其身也天之將喪斯文也後死者不得與於斯文也註孔安國曰文王既沒故孔子自謂後死也言天將喪斯文者本不當使我知之今使我知之未欲喪也天之未喪斯文也匡人其如予何註馬融曰如予何者猶言奈我何也天之未喪此文也則我當傳之匡人欲柰我何言其不能違天而害己也


本文「子畏於匡」。
注釈。包咸「匡の住民が陽虎と間違って先生を取り囲んだのである。陽虎は以前匡で乱暴を働き、先生の弟子の顔剋は、その時陽虎と共にいた。そののち顔剋は先生の御者になって、匡に入った。匡の住民は顔剋の顔を知っていたし、その上先生の顔が陽虎と似ていた。だから匡の住民は兵隊を出して先生を取り囲んだのである。」

本文。「曰文王旣沒文不在兹乎」。
注釈。孔安国「兹は此の意である。文王はすでに世を去ったが、その文化はここに現れていると言ったのである。こことは、その身体のことである。」

本文「天之將喪斯文也後死者不得與於斯文也」。
注釈。孔安国「文王はすでに世を去った。だから孔子は自分を死に遅れた言ったのである。天がこの文化を滅ぼそうとする、とは、天は孔子が生まれる前には文化を伝える役割を孔子に与えなかったが、今は与えているのは、この文化を滅ぼそうとしていないからだ、と言ったのである。

本文「匡人其如予何」。
注釈。馬融「如予何者とは、自分をどうすることもできるものか、の意である。天がこの文化を滅ぼそうとしていないのだから、孔子はそれを伝える使命を担っていると言ったのである。匡の町人に何が出来るか、とは、天に逆らうことは出来ず、自分を損なうだけだと言ったのである。」

慶大蔵論語疏では、包咸の注のあとに「注釋誤圍之由也」とあるが、現伝の古注ではこの部分は疏(注の付け足し)に入れられている。「誤圍之由」”間違って包囲した理由”を語っているのは経(本文)ではなく包咸の注だから、疏に含めるのが妥当で、この部分や、「兹」→「慈」のようなもったいぶった文字のひねりなど、論語の本章に関しては、慶大本はよい文字列とは言えない。

陽虎 衛霊公
さて『春秋左氏伝』によると、魯の定公六年(BC504)、孔子48歳の時、魯の実権を握っていた陽虎が魯国軍を引き連れ、鄭国に攻め込んで匡のまちを奪取した。その際よほど乱暴な事をしたらしい。帰りがけには勝手に衛国を通り、衛の霊公を激怒させた。

外交問題になりかけたところ、論語憲問篇14に登場する衛の賢臣・公叔文子が、霊公をいさめたという。なお論語本章の孔子の受難については、後日談が論語先進篇22にある。

また論語の本章について、武内義雄『論語之研究』には次のように言う。

武内義雄 論語之研究

述而篇によると孔子の理想は周公にあるらしい(が)、この章「文王既没文不在茲乎」と言ったのは文王の文(化)を憲章(顕彰?)するのが孔子の目的らしく見える。そうして文王の文を憲章するのは公羊春秋(『春秋公羊伝』)の理想であるから、この章はおそらく公羊が盛んになってからのものであろう。

かつ論語の用例では一人称代名詞は主格と属格(=所有格)とには「吾」を用い、於格(=前置格、場所との関係を示す。~に、~で)と業格(=目的格。~を)とに「我」を用いるのが普通であるが、この章は「匡人其如予何」と言って業格に「予」の字を用いている。

一体「予」字を用いた例は雍也篇の「子見南子章」、述而篇の「天生徳於予章」にあるが、これらは崔術(清代の儒者)が疑問とした章で、みな疑うべき章である。

公羊学の流行は、前漢武帝の時代に儒教の国教化を実現させたトウ仲舒チュウジョからで、武内博士の言う通りなら、論語の本章は現伝の論語の母体となった古論語が、孔子の旧宅から発掘される前後に成立した事になる。しかし博士は子罕篇そのものは古論語に含まれていたとも言う。

文法的な指摘もその通りではあるが、『字通』が「金文では余は一人称主語に…用いることが多い」と言うものの、業格に「予」の字を用い得ないという規則を、春秋時代の中国語に見いだせない。「子見南子章」も漢字の歴史的に史実を疑う要素が無く、本章に限っては武内博士の所説を受け入れがたい。

ざっと言い候えば、武内博士は「業格」なる文法用語を振り回しているだけで、その実体が無い。辞書が引ける程度に、かつ、「蛮族の言葉を勉強するなんて、頭おかしい」と長年言われつつ好き好んでロシア語を独学した訳者には、こんな文法用語はこけ脅しにならない。

なお論語の本章、「斯文」についても、古注では「此文」と言い換えて済ませており、”(私が持つ)この(周の)精神”以外の意味ではないが、日本の論語業者には、「斯文」に何か特別の意味があると言い回る者が多い。何もありはしないのだ、金をせびるためのただのハッタリ。

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「斯文」は、道の現れとしての礼楽制度。(加地伸行『論語』)

話の元ネタは割れていて、新注に朱子が書き付けた思い付き。

新注『論語集注』

道之顯者謂之文,蓋禮樂制度之謂。不曰道而曰文,亦謙辭也。


道が五感で捉えられるようになったのを文という。たぶん礼楽制度のことだろう。道と言わずに文と言ったのは、これまた謙遜の言葉である。

少しは自分で考えろ、と論語業者には言いたくなる。陸軍幼年学校の「学科嫌い」の歌に、「孔子や孟子が酒飲んで、一杯機嫌でホラ吹いた」と歌われているが、朱子が一杯機嫌で書いた「たぶん」を、有り難そうに猿真似する業者の説教は、間抜けとしか言いようが無い。

余話

ウホウホ

以下は本章の要となることなので繰り返して記す。

「文」はもと”入れ墨”の意で、日本語で入れ墨と言えば刑罰の一種と思ってしまうが、「彫り物」とか「tattoo」と横文字にすれば芸術の一種?と了解されるだろう。「文」の字を作った殷人にとっても同様だったらしく、祖先の一人を「文武丁」と呼んでいる。

これは”よき人武丁”と解するのが通説だが、その即位まで殷は一旦衰えていた。武丁は商の地(いわゆる殷墟)に遷都し、軍事的成功をおさめて勢力範囲を拡大し、この時代から甲骨文が現れる。

上古より一貫して受け継がれた中華文明の証しは漢字で、つまり武丁は中華文明の祖と言いうる。同時代に「文」を”文章”・”文化”の意に用いた例は無いが、”文化人武丁”と後世から呼ばれる資格はあるわけだ。『史記』が「高宗」と讃えたのもむべなるかなである。

殷 甲骨文 殷 金文
「殷」(甲骨文)(西周早期金文)

だが甲骨文の記録には、殷は周辺の異族を捕らえては、無闇に生け贄にして喜んだ様が記される。だから諸族から忌み嫌われ、自称は首都の「商」だったのに、他称は”むやみに人の生きギモを取る奴ら”を意味する「殷」だった。これは中国史に付き物の作り話ではない。

中国では前の王朝史を、取って代わった新王朝が書くのが通例で、自己正当化のために前王朝を、「暴君ばかりだった」と史実をねじ曲げて勝手なことを書く。だから伝説による夏と殷の滅び方がそっくりなのだが、殷が人をいけにえにしたがったのは、当の殷人が記している。

  • 「不其獲羌」”今日は羌族を捕らえられないだろうか。”(「甲骨文合集」217.5)
  • 「貞勿用盧以羌」”羌族を火あぶりにすべきではないだろうか。”(「甲骨文合集」259)
  • 「貞刞百羌」”羌族を百人なます斬りにしてお供えしようか。”(「甲骨文合集」308)

殷を滅ぼした周は、青銅器文化や漢字を引き継いだが、こういう人間の生け贄は受け継がなかった。だからといって周はひたすら立派だったともいえないが(論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ)、人名は異族だろうと尊いという、当たり前の人間主義を打ち立てた。

だから殷の末裔である宋の襄公が性懲りも無く人をいけにえにしたのを、春秋時代の諸侯は𠮷外とみて相手にしなくなったのである。

僖公十九年,春…宋人執滕宣公。夏宋公使邾文公,用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷,司馬子魚曰,古者六畜不相為用,小事不用大牲,而況敢用人乎,祭祀以為人也,民,神之主也,用人,其誰饗之,齊桓公存三亡國,以屬諸侯,義士猶曰薄德,今一會而虐二國之君,又用諸淫昏之鬼,將以求霸,不亦難乎,得死為幸。


僖公の十九年(BC641)、春、…宋の人が滕の宣公を捕らえた。夏、宋の襄公は邾の文公と、鄫の殿様を次睢の社のお供えとして生け贄にしようとした。これで東方の蛮族が服従すると思ったのである。

将軍の子魚が真っ青になって止めた。「昔からいけにえにするのに、別種の家畜を一度に用いることはありませんでした。ささいな祭に大げさな犠牲は捧げませんでした。まして人をいけにえにするなんてとんでもないことです。

そもそも人の為に祭があるので、民の方が実は神のあるじなのです。人を捧げて、いったいどなた様が喰うというのですか。

先頃亡くなった斉の桓公は、滅んだ国を三つも再興して諸侯に戻してやりました。それでも正義の士は、「けち臭いにもほどがある」と悪口を言いました。いまここで二国の殿様をいけにえにし、それも素性の怪しいやしろに捧げるとすれば、殿が覇者になるのはとうてい無理で、いずれ死んだ方がましという目に遭いますぞ。」(『春秋左氏伝』僖公十九年2)

宋の襄公がおそらく一族だろう子魚の言い分を聞いて、人身御供を止めたかどうかは史料に記していない。だが「宋襄の仁」で有名なその後の破滅を合わせ考えると、やってしまったと思われる。

孔子が論語の本章で大見得を切り、また八佾篇14で「我は周に従う」と言い切った「文王」の「文」とは、とりもなおさずこのような生け贄を忌み嫌う、人間主義にほかならない。ともすればウホウホとまた迷信に戻りたがる愚夫愚婦を、孔子は怒鳴り上げて叱ったのである。

カミサマゆえに人を殺してはならない。子魚や孔子の言う通りだ。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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