論語:原文・書き下し
原文
子路問成人。子*曰、「若臧武仲之知*、公綽之不欲、卞莊子之勇、冉求之藝、文之以禮樂、亦可以爲成人矣。」曰、「今之成人者、何必然。見利思義、見危授命、久要不忘平生之言、亦可以爲成人矣。」
校訂
武内本
唐石経、曰の上子の字あり、智知に作る。
定州竹簡論語
……[問]成人。子曰:「若臧[武仲]之知,公綽之不欲,卞373……人矣。」374
復元白文(論語時代での表記)
久
※欲→谷・危→(甲骨文)。論語の本章は、「久」の字が論語の時代に存在しない。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。
書き下し
子路成人を問ふ。子曰く、臧武仲之知、公綽之不欲、卞莊子之勇、冉求之藝の若くにして、之を文るに禮樂を以ゐば、亦に以て成人と爲す可き矣。曰く、今之成人者、何ぞ必ずしも然らむ。利を見て義しきを思ひ、危きを見て命を授け、久要は平生之言を忘れざらば、亦に以て成人と爲す可き矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子路が完成した人間を問うた。先生が言った。「臧武仲の智力、(孟)公綽の無欲、卞莊子の勇気、冉求の多芸を備え、挙措動作を礼法と音楽で整えたら、完成した人と言えるだろう。」子路が言った。「今どきの完成した人とは、どうしてそのようであるでしょう。利益を見て筋が通るかを思い、危機には命をかけ、普段の言葉を忘れないなら、実に立派な完成した人と言えるでしょう。」
意訳
子路「一人前の人間とは?」
孔子「臧武仲の智力、孟公綽の無欲、卞莊子の勇気、冉求の多芸を兼ね備え、礼法や音楽で挙措動作を整え終えたら、一人前と言える。」
子路「まさか。今どきそんな人いませんよ。”どうぞ”と言われても筋が通らねば断り、危機にあってもは命がけで使命を全うし、普段言い放ったことを、いざとなってコソコソ逃げ回らなければ、一人前と言っていいでしょうよ。」
従来訳
子路が「成人」の資格についてたずねた。先師がいわれた。――
「臧武仲の知、公綽の無欲、卞荘子の勇気、冉求の多芸をかね、更に礼楽をもつて磨きをかけたら、成人といってもいいだろう。」
さらにいわれた。――
「しかし、今のような乱世では、そこまでは望めまい。利得の問題では道義を考え、国家の危急に臨んでは身命をなげうち、古い約束や、平常の誓いを忘れずに実行する、というような人であったら、今ではまずまず成人といえるだろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子路問怎樣算完美的人,孔子說:「如果具有臧武仲的智慧,孟公綽的清心寡欲,卞莊子的勇敢,冉求的才藝;再加上知禮懂樂的修養,就可以算完人了。」又說:「現在的完人就不必這樣了,見到利益時,考慮道義;見到危險時,奮不顧身;長期貧窮也不忘平日的諾言,也可以算完人了。」
子路がどのような人が完璧な人物かを問うた。孔子が言った。「もし臧武仲の智恵、孟公綽のさっぱりとした無欲、卞莊子の勇敢さ、冉求の多才があり、その上に礼法と音楽の教養があれば、完璧な人物に数えてよい。」さらに言った。「現在の完璧な人物は必ずしもそこまでの必要は無い。利益を前にしたら道義を考え、棄権を前にしたら身を顧みず奮い立ち、長く貧窮しても日頃引き受けた言葉を忘れないなら、完璧な人に数えてよい。」
論語:語釈
成人
「成」(金文)
「成」の甲骨文は、『字通』によると戈+┃。金文(青銅器に鋳込んだ文字)では戈に装飾としての┃が付くという。器物の製作が終わったときに、装飾を加えてお祓いする意で、それが成就の儀礼だったという。
一方『学研漢和大字典』では、「成」は戈+丁で、丁は釘のように打ってまとめ固める意といい、「城」=土で固めた城、「誠」=まとまって欠け目のない心と同系のことばで、まとめ上げる意を含むという。
以上から「成人」は、完成された、人としてまとまりのある人。論語語釈「成」も参照。
臧武仲(ゾウブチュウ)
(篆書)
孔子が生まれた頃までに活躍した、魯の重臣。別名、臧孫紇。臧文仲(論語公冶長篇17)の子で、『春秋左氏伝』では成公十八年(BC573。孔子の生誕はBC551)に初めて名が見え、筆頭家老・季氏の当主季文子から出兵の兵数を問われて答えている。
襄公二十三年(BC550)、かねてより嫌われていた門閥三家老家の一家・孟孫氏に追われ、従来好意的だった季孫氏も同調して、国外に追われた。「好意は熱病のようなもの、甘いが却って自分を痛める。悪意は薬石のようなもの、苦くて痛いが自分を癒す」という名言が記されている(『春秋左氏伝』襄公二十三年条)。
この追放によって、門閥三家老家=三桓に次ぐ勢力を魯に持っていた臧氏は没落し、論語にも言及がほとんど無い。
(孟)公綽(モウコウシャク)
魯の重臣。論語前章の語釈を参照。
欲
「欲」(楚系戦国文字)・「谷」(金文)
論語の本章では”欲望”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。ただし『字通』に、「金文では谷を欲としてもちいる」とある。『学研漢和大字典』によると、谷は「ハ型に流れ出る形+口(あな)」の会意文字で、穴があいた意を含む。欲は「欠(からだをかがめたさま)+(音符)谷」の会意兼形声文字で、心中に空虚な穴があり、腹がへってからだがかがむことを示す。空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと、という。詳細は論語語釈「欲」を参照。
卞莊子(ベンソウシ)
孔子の弟子・子路の出身地だった卞邑の代官で、虎退治をした武勇伝がある。
「卞」の字は論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。弁(ベン)の俗字。詳細は論語語釈「卞」を参照。
冉求(ゼンキュウ)
(金文)
孔子の弟子。実直な実務家で、武将としても活躍した。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
可以(カイ)
論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「可以」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。

「先秦甲骨金文簡牘詞彙庫」
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
「以」(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
久要
「久」(金文)
武内本に「久要は旧約也、久と旧と要と約と音近くして通借す」とある。古い約束を言う。「久」の初出は秦系戦国文字。原義は人を後ろからつっかい棒で支える姿で、”ひさしい・ながい”という伝統的な語釈は、「旧」と音が通じて後世に生まれた語義。詳細は論語語釈「久」を参照。
「要」の初出は西周早期の金文。原義は細く締まった女性の腰部。詳細は論語語釈「要」を参照。
本章は論語時代の中国語には珍しい、「久要」という熟語が使われていることに加え、「久」を「旧」と解するなど、かなり後世になってからの作文と思われる。
論語:付記
従来の論語の解説本では、「子曰わく」に加えて二度目の「曰く」以下も、孔子の発言とする。これは論語八佾篇22「管仲の器は…」と同じく、ウンチクはこれ全て孔子の発言としたがる儒者のごますりで、何の根拠もない。発言者が違うから「曰く」が入るとするべきだろう。
「利を見て義を思い、危難には命を投げ出す」というのは真っ直ぐな性格の子路らしい発言で、どちらも孔子の発言とするなら、孔子は偉そうに出来もしない人物像を挙げた後で、言った事を後悔して言い直し、ごまかしていることになる。却って孔子をバカにしていないか?
なお「久」を「旧」を解することから察しうるように、本章は後世の語法が混じっており、加えて講義メモを元にしたにしては、随分長い。一つの可能性として、子路を貶めるために後世の儒者がでっち上げた作文かも知れず、そうなると丁寧に話者を読み解く必要も無いのかも。
なお前漢劉向の『戦国策』は、「卞莊子はマヌケだ」と言いたげな伝説を載せている。
有兩虎諍人而斗者,管莊子將刺之,管與止之曰:「虎者,猁蟲;人者甘餌也。今兩虎諍人而鬥,小者必死,大者必傷。子待傷虎而刺之,則是一舉而兼兩虎也。無刺一虎之勞,而有刺兩虎之名。」
(楚が斉を滅亡させるべく兵を起こそうとした。楚王に仕えていた陳軫が、故郷の秦に帰り、秦王に言った。)むかし虎が二頭、どちらも人を食おうとして、先に虎同士で食い合いました。管荘子が虎を槍で突こうとすると、管与が言いました。
「お待ちなさい。虎は兇暴この上なく、それに比べたら人間はエサに過ぎません。今二頭が噛み合っていますから、もうすぐ小さい方が食い殺されるでしょう。加えて大きい方も、怪我をするでしょう。その後で手負いの虎を突いた方が、楽ではありませんか? これぞ一挙両得、トラ二頭捕らえ放題です。その上世間には大手を振って、”二頭やったぞ!”と言えますよ?」
(楚と斉が戦って弱ったところで、負けそうな方にお味方なさいませ。たっぷり恩が売れますぞ?)(『戦国策』秦策二2)
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