論語詳解281顔淵篇第十二(3)司馬牛仁を問う

論語顔淵篇(3)要約:司馬牛は孔子一門には珍しく、隣国・宋の貴族でした。政争に巻き込まれた司馬牛は、領地も身分も捨てて国外亡命の旅に出ます。しかし行く先々で不運に見舞われ、ついに孔子先生の魯国にやってきます。そして…。

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原文

司馬牛問「仁」。子曰、「仁者、其言也訒*。」曰、「其言也訒、斯謂之『仁』已*夫*。」子曰、「爲之難、言之得無訒乎。」

校訂

武内本:清家本により、訒の下に也の字を補う。已の下に矣の字を補う。夫を乎に作る。

書き下し

司馬牛しばぎうじんふ。いはく、じんことしのぶ。いはく、ことしのぶ、こここれじんのみいはく、これすはかたし、これふにしのきを

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逐語訳

論語 司馬牛 論語 孔子
司馬牛が仁を問うた。先生が言った。「仁とは言葉を言いにくそうに言うことだ。」司馬牛が言った。「言いにくそうにものを言うことが、つまりそれだけが仁という事ですか。」先生が言った。「それを実行するのは難しい。仁を言うのに言いにくそうにしないで済むだろうか。」

意訳

司馬牛「仁とは何ですか。」

論語 孔子 キメ
孔子「言いにくそうにものを言うことだ。」
司馬牛「たったそれだけ? それだけで仁なのですか?」

論語 孔子 とぼけ
孔子「言いにくそうにするのは難しい。仁を語りにくいのももっともだ。」

従来訳

論語 下村湖人

司馬牛が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「仁者というものは、言いたいことがあっても、容易に口をひらかないものだ。」
 司馬牛が更にたずねた。――
「容易に口をひらかない、――それだけのことが仁というものでございましょうか。」
 すると先師はいわれた。――
「仁者は実践のむずかしさをよく知っている。だから、言葉をつつしまないではいられないのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

訒(ジン)

論語 訒 古文 論語 訒
(古文)

論語の本章では”なやむ・にぶい・しのぶ”。孔子は概念を説明する時、「政とは正だ」のように掛詞を使う。本章の場合も「仁者、其言也訒」=仁とは訒だ。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「言+(音符)刃(ジン)(ねばる)」。口がねばるさま。口のきき方が重々しく、いいよどみがちなさま、という。

論語:解説・付記

論語の本章で孔子は、とても仁=思いやりのある教師の姿をしていない。言わばだじゃれでごまかし、「仁は訒なんだから言いにくくて当然だ」と開き直っている。そこには弟子に対する愛情が感じられず、むしろ追っ払ってしまいたいという逃げが感じられる。なぜか。論語 孔子

司馬牛は代々宋国の元帥(司馬)を務めた名門の家柄で、孔子一門には珍しく貴公子だった。革命を目指す孔子がその地位を見逃すはずはなく、現に司馬牛は孔子に付き従わず、教えを受けた後は故国の宋に帰郷して、宋国貴族の一員として生活している。

ここから先は必ずしも史料の裏付けはないが、孔子は司馬牛に、宋国内での政治工作を担当させただろう。司馬牛の兄は現職の宋国元帥で、国君からの寵愛も篤い有力者だった。当然、浪人中の孔子や一門には手に入らない情報も、司馬牛ならば手に入っただろう。

ところが兄の桓魋カンタイ元帥が失脚し、斉に亡命することになった。司馬牛もそれに伴い宋国内の官位と領地を返上して亡命したが、なぜか兄を避けるように逃げ回っている。桓魋が来ることになった斉からも出奔し、呉に向かったがそこでも追われて結局魯に向かった。

論語 子貢 遊説
呉は孔子一門と関係が深い国でもある。子貢を遣わせば、例えば司馬牛を放逐させるなど簡単だったろう。そして魯に向かった司馬牛は、なぜかそこで変死を遂げる。そして本章のこの問答であり、孔子にはむしろ司馬牛はいなくなってくれた方が都合が良かったように見える。

なぜか。孔子一門の暗部を知りすぎていたからだ。それが世に広まれば、仁だの礼だの普段説いておきながら、お前達は結局政権ほしさのど汚い連中ではないか、そう言われるに決まっている。事実、孔子とすれ違うように春秋戦国時代を生きた墨子が言っている。

論語 墨子
孔子が楚に行くと、白公の陰謀を知りながら、石乞を部下に付けて援助し、楚王は殺されかかった。そして白公は殺されてしまった。
子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(『墨子』非儒篇下)

論語 桓魋
桓魋は孔子とその一門を襲ったことになっており、論語でも史記でもその事件を記す。しかしなぜ桓魋が孔子とその一門を殺そうとするほど憎んだのか、どちらの記事も沈黙していて、儒者は全ての責任を桓魋の人品に押し付ける。しかしそうではないだろう。

貴公子の弟の人の良さに付け込んで、後ろ暗いことをやらせ、それが世間にばれそうになると見捨てて、遂には死に追いやった。兄であり将軍である桓魋が、即座に皆殺しを決意したとして何の不思議もない。だから桓魋の襲撃事件も、史記が言うように宋国滞在中ではなく、孔子が帰国し桓魋が流浪の身となった後のことだろう。おそらく孔子塾を襲撃したと思われる。

ここから本章は、司馬牛がその死の直前、孔子に食ってかかったと訳者は想像する。「先生は日頃、仁、仁と言っておきながら、私に対する仕打ちは何ですか。いったい仁とは何ですか」と。もっともな抗議だと訳者は感じる。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶった○る。覚悟致せ。

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