- 司馬牛の死
原文
司馬牛致其邑與珪焉,而適齊,向魋出於衛地,公文氏攻之,求夏后氏之璜焉,與之他玉,而奔齊,陳成子使為次卿,司馬牛又致其邑焉,而適吳,吳人惡之而反,趙簡子召之,陳成子亦召之,卒於魯郭門之外,阬氏葬諸丘輿。
書き下し
司馬牛其の邑与(と)珪(ケイ)を致し焉(たり)て、而て斉に適く。向魋(=桓魋)衛の地於(を)出で、公文氏之を攻めて、夏后氏之璜(たま)を求め焉(たり)。之に他の玉を与え、而て斉に奔る。陳成子使て次卿為らしめるや、司馬牛又た其の邑を致し焉て、而て呉に適く。呉人之を悪み而反るに、趙簡子之を召し、陳成子も亦た之を召すも、魯の郭門之外於(に)卒(シュツ)せり。阬氏諸(これ)を丘輿に葬る。
現代日本語訳
司馬牛は自分の領地と爵位を示す玉の笏を宋の公室に返上し、斉に行った。
一方すでに宋国を出ていた兄の向(ショウ)魋(タイ)(=桓魋)は、衛を去った。その途上、公文氏が桓魋を攻めかけて、夏后氏の璜(たま)を奪おうとした。桓魋は公文氏に他の玉を与え、斉に逃亡した。
斉の執権・陳成子が桓魋を迎えて次卿(=準家老)に任命すると、司馬牛は斉で与えられていた領地を返上して、呉に逃げた。
しかし呉の国人が司馬牛を憎んだので居られなくなった。そこで晋の執権・趙簡子が司馬牛を呼び寄せ、陳成子も呼び寄せたが、司馬牛は城門で死んだ。阬(コウ)氏が司馬牛を丘輿(ヨ)に埋葬した。
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