論語詳解499堯曰篇第二十(8)命を知らざらば

論語堯曰篇(8)要約:天命を知らなければ君子になれない。礼法を知らなければ自立できない。言葉を知らなければ人を理解できない。おそらく漢代の従者は孔子先生にかこつけて、この三箇条を語ったことにして、論語を終えたのでした。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

子曰、「不知命、無以爲君子也。不知禮、無以立也。不知言、無以知人也。」

書き下し

いはく、めいらざらば、君子くんしなりれいらざらば、なりことらざらば、ひとなり

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逐語訳

論語 孔子
先生が言った。「天命を知らなければ、それゆえ君子になることはない。礼を知らなければ、それゆえ立つことが無い。言葉を知らなければ、それゆえ人を知ることが無い。」

意訳

ニセ孔子
孔子「天の定めを知らないようでは、君子ではないぞよ。礼を知らないようでは、独り立ちできないぞよ。言葉を知らなければ、人を知ることはできないぞよ。」

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。―― 「天命を知らないでは君子たる資格がない。礼を知らないでは世に立つことが出来ない。言葉を知らないでは人を知ることが出来ない。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語 命 金文
(金文)

論語の本章では”天命”。天が定めた運命を言う。『学研漢和大字典』による原義は、シュウ=人々を集めて口で言葉を伝えるさまで、神や君主が命令を伝えること。

孔子はめったに、天命を口にしなかった(論語子罕篇1)。しかし孔子の逝去(BC479)後、9年後に生まれた諸子百家の一人、墨子(BC470-BC390?)は、儒家が二言目には天命を持ち出して責任逃れをするのを、口を極めて罵っている。

論語 墨子
有強執有命以說議曰、「壽夭貧富、安危治亂、固有天命、不可損益。窮達賞罰幸否有極、人之知力、不能為焉。」群吏信之、則怠於分職。庶人信之、則怠於從事。 吏不治則亂、農事緩則貧、貧且亂背政之本、而儒者以為道教、是賊天下之人者也。

(儒者は)天命にこじつけてこう説教する。「寿命や貧富、安危や治乱は、元々天が定めるものだ。人力ではどうしようもない。出世や賞罰や幸不幸もすでに決まっており、人の知力ではどうしようもない」と。

これを真に受けて役人は仕事を放り出し、庶民は働かない。世は役人が行政を怠れば乱れ、庶民が農作業を怠れば貧しくなる。そのせいで政治は無茶苦茶だ。だから儒者に世の指導を仰ぐのは、天下の人々に盗賊を働くのと変わらない。(『墨子』非儒下篇)

つまり孔子在世当時の教えでは、天命はそれほど重要な概念では無かったが、孔子没後は急速に、儒学の中で重んじられる言葉になっていったと考えられる。以上から本章は、孔子の言葉とは言いがたい。

論語 礼 金文
(金文)

論語の本章では”(儒家の教えに従った)礼儀作法と行動規範”。単にお辞儀や儀式の式次第だけでは無く、どのような順序で食べ物を食べるか、までを定めるほどの、日常動作のあらゆる行動を規制する規則。

儒者にとってこれを知ることは、冠婚葬祭業で食うためのタネだったから、「無以立也」=独り立ちできない、重要な知識だった。ただし孔子にとってはそれ以上の意味があり、理想的人物像である仁者の、詳細なスペックだった。詳細は論語における「礼」を参照。

論語 言 金文
(金文)

論語の本章では”ことば”。

言葉を知らなければ、「無以知人也」=人を知ることが出来ない、との一節で論語は終わる。情報伝達手段としての言葉が無ければ人を知り得ないと言われると、当たり前のようであり、かつ物足りなさから、何か深い意味があるのかと考え込みたがるのは、やむを得ない。

古注『論語集解義疏』
論語 古注 馬融
註馬融曰聴言則别其是非也
注釈。馬融曰く、言葉を聞かない限り、その善し悪しは分からない。

論語 儒者
江熙曰不知言則不能賞言不能賞言則不能墨彼猶短綆不可測於深井故無以知人也
江熙曰く、言葉を知らなければ、発言を吟味できない。だから発言者を批評できない。短いひもで、深井戸の深さを測れないのと同じだ。だから人が分からないのだ。

新注『論語集注』
論語 朱子 新注
言之得失、可以知人之邪正。尹氏曰、「知斯三者、則君子之事備矣。弟子記此以終篇、得無意乎。學者少而讀之、老而不知一言為可用、不幾於侮聖言者乎。夫子之罪人也、可不念哉。」
言葉の善し悪しで、人の善し悪しが分かる。尹氏曰く、「天命、礼、言葉を知る事が出来たなら、一人前の儒者と言っていい。孔子のお弟子はこの最後の言葉を記して、何も思わなかっただろうか。儒学を学ぶほどの者が、若くしてこの言葉を読んでおきながら、老いても実践できないようでは、尊い言葉を馬鹿にするようなものではないか。孔子先生が誰を罪有る者と思うか、考えないわけにはいかないだろうよ。」

以上の通り、儒者は考え込んだ挙げ句に、より一層もったいを付けて分けを分からなくしただけで、”言葉を知らないと人を知ることが出来ない”と説く本文に、新たな視点での解説を一切加えることが出来なかった。

つまりそれだけのことである。言葉を知らなければ人は分からない。漢代の儒者がニセ孔子に語らせるまでも無く、当たり前の事実に過ぎない。

「言」について詳細は論語語釈「言」を参照。

論語:解説・付記

以上を以て、おおよそ後漢末に確立した現伝『論語』は終わる。

なおこの堯曰篇は短いので、このサイトではこれ以降、付録として後世の儒者が付けた序文の類を、順次掲載することにする。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶった○る。覚悟致せ。

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