論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「君子不器。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「君子不[器]。」17
復元白文
書き下し
子曰く、君子は器ならず。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「君子は道具ではない。」
意訳
諸君は他人や本能の飼い犬になったまま、一生を終えるな。
従来訳
先師がいわれた。――
「君子は機械的な人間であってはならぬ。」
現代中国での解釈例
孔子說:「君子不能象器皿一樣,衹有一種用途。」
孔子が言った。「君子は、食器のようにただ一つの用途しかもたないものと、そっくりにはなれない。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
君子
(金文)
論語の本章では、”諸君”という弟子への呼びかけ。
器
(金文)
論語の本章では、”道具”。徹頭徹尾この意味で、伝統的には”一つの用を足すだけで他に用途のないもの”と解するが、下記するように根拠が無い。
論語の時代の葬儀では、亡き人への供物として器に盛っためしを捧げ、おかずとしては犬を捧げた。財産に余裕があれば、ほかに牛・馬・羊・豚をいけにえにして捧げるが、犬は最も安価で、最も古くから用いられた犠牲獣で、最も貴い天を祭るにも用いられた。
『字通』による「燃」の字解は、犬肉を天を祭る供え物として焼き、その臭いに天が感応することという。そして亡き人にめし茶碗二つと犬を供えた姿が「哭」=”葬礼で亡き人のために泣きの礼を行う”ことだった。
「𠸶」(喪の本字)もまた同じ系列の文字=ことばで、めし茶碗二つに犬のおかずを供え、「亡」=”姿を隠した”人を供養する行為を示している。そして「哭」よりさらにめし茶碗の数が多い姿が「器」に他ならない。それは盛大な葬礼であり、国家単位の祖先祭礼でもあった。
それゆえ「器」に”国家の儀式に用いる道具”の語義がある。儀式とはまつりごと、すなわち古代では政治に他ならない。だから論語の時代での「器」は、確かに”機能・道具”であるには違いないが、ただの茶碗ではなく、国家の政治をも左右する重大な道具だった。
なお辞書的な語釈としては、『字通』によると「器」は口+犬。口は𠙵で、祝詞を収める器。犬は打ち殺されいけにえにされた犬。犬のいけにえで清める意という。方『学研漢和大字典』によると、「口四つ+犬」の会意文字で、さまざまな容器を示す。犬は種類の多いものの代表として加えたという。詳しくは論語における「器」を参照。
この語釈に関しては、『字通』の方に理があると思う。「犬」についてのこじつけが無いからだ。
武内本は「不器とは一つの用に滞らざる意」という。現代中国での解釈は、これに沿っている。その臭いの元を探れば、やはり儒者の個人的感想だった。
註苞氏曰器者各周其用至於君子無所不施也
註。苞氏曰く器者各の其の用に周う。君子於至りては施ば不る所無き也。
注。苞氏「器というものはそれぞれ特定の用途に特化している。しかし君子は出来ない事がない。」
新注『論語集注』
器者,各適其用而不能相通。成德之士,體無不具,故用無不周,非特為一才一藝而已。
器者、各の其用に適い而相い通ずる能わ不。德を成せる之士は、體に具わら不る無く、故に用て周わ不る無く、特に一才一藝を為す而已に非ず。
朱子「器というものは、特定の用途に特化しており、融通が利かない。徳を身につけたサムライは、自分に足りない所が無く、だから出来ない事が無く、特に一芸に秀でているだけではない。」
論語:解説・付記
論語の本章で孔子が言う器とは、何かの機能やそれを果たす道具のこと。孔子が弟子に求めたのは、志ある志士になることで、本能の道具として振り回されるただの人=小人であっても、他人の道具として振り回される小役人=斗筲之人(論語子路篇20)であってもならなかった。
孔子塾は確かに公務員予備校だったが、孔子の革命思想に共鳴しない弟子であっても、本能の道具であるままに仕官すると、君主や民が迷惑する。大日本帝国の滅亡原因が、軍人ばかりではない文武の役人の身勝手と公私混同にあることを思えば、このことわりは自明だろう。
論語の時代から中国人が求めて止まないのは福禄寿(子だくさん・財産・長寿と健康)だが、それゆえ役人の九分九厘は福禄寿を求めてワイロは取り放題、職権は乱用し放題、公私は混同し放題だった。ただし孔子の時代はまだ官僚制の普及前で、官界の腐敗は問題にならなかった。
春秋時代ではおおむね、政府の官職は世襲であり、それは家職であり家財でもある。孔子の時代になってやっと、世襲が崩れて実力主義が芽生えた。官僚の発生もその一つで、社会の底辺に生まれた孔子が、宰相格にまで出世したことが、その現象をよく示している。
だからこそ孔子は塾を開き、役人への道が開けたから弟子も入門した。確かに若き日の孔子が就いた職のように、下っ端を庶民から採用するのは古くからあっただろうが、孔子の就いた大司冦=司法長官のような、長官職は門閥が代々受け継いできたものだったろう。
そして恐らく下僚職も、世襲長官の家臣のごときものだったはずである。要するに軍事と同様、行政もまた司法なら司法、土木なら土木と言ったようなおおざっぱな単位で、君主から門閥へ丸投げで、門閥は家の子郎党を率いて、家職の運営に当たったのだろう。
孔子に数学の才があり、法律の専門家になれたのは、若き日の孔子を見出した孟孫家が、代々大司空だったからに他ならない。大司空は空(間)=土木を司る職で、平時に動員できるのは囚人だったことから、司法もまた管掌した。家職のおおざっぱさは、こうしたことにも表れた。
そんな時代に孔子が、官界に弟子を送り出すからには、それまでの貴族と同等以上の技能を、身につけさせたことだろう。どの世界でも新参者ほど、その能力が問われるからだ。それはまさに器=機能を果たす道具になることだったが、孔子はそれ以上を弟子に求めた。
単なる器であってはならない。当時の貴族=政治的有権者のうち、最下級を士というが、孔子は弟子に士ではなく、身を殺して仁を成す、「志士」になることを求めた(論語衛霊公篇9)。リンク先の論語の章は、文字的に孔子の肉声を疑う要素が無い。
つまり行政能力が高いのは当たり前で、その上に志を持たねばならぬと説教したわけ。孔子がただの政治家でも、塾教師でも学者でもなく、本質が革命家だと分かるのは、こうした孔子の信念による。孔子が保守復古主義者だったら、こう言うことは言い出すまい。
シトー会の「祈り、働け」同様、「出世しろ、そして世を変えろ」がスローガンだったのだ。
コメント
[…] https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/028.html […]