論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰視其所以觀其所由察其所安人焉廋哉人焉廋哉
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰視其所以/觀其所由/察其所安人焉廋哉人焉廋哉
後漢熹平石経
…㕥觀…廋㦲人焉廋
定州竹簡論語
……[視其所以,觀其所由,]察其所安。人15……
標点文
子曰、「視其所以、觀其所由、察其所安、人焉廋哉。人焉廋哉。」
復元白文(論語時代での表記)
焉 焉
※論語の本章は、「焉」が論語の時代に存在しないが、無くとも文意が変わらない。「廋」の用法に疑いがある。
書き下し
子曰く、其の以ゐる所を視、其の由る所を觀、其の安む所を察れば、人焉んぞ廋さん哉。人焉んぞ廋さん哉。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「その人のすることをじっと見、その方法を時間を追って見、どこに落ち着くかを見れば、人の中身はどうして隠せようか、人の中身はどうして隠せようか。」
意訳
諸君。誰かの本心が分からぬと言って悩むことはないぞ。
人の動機、取る手段、目的を見渡せば、その人柄は丸わかりだぞ、丸わかりだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「人間のねうちというものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどの辺にその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察して見ると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「分析其動機,觀察其行動,瞭解其態度;人藏哪去?人藏哪去?」
孔子が言った。「動機を分析し、行動を観察し、態度を監視すれば、人はどこに隠れ込もうか? 人はどこに隠れ込もうか?」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
視*(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”慎重に観察する”。新字体は「視」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は大きく目を見開いた人で、原義は”よく見る”。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文では”視察する”の意に、金文では”見る”の意に用いられた(𣄰尊・西周早期)。また地名や人名にも用いられた。詳細は論語語釈「視」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところの…”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
觀(カン)
(甲骨文)
論語の本章では”並べて見比べる。つまびらかに見きわめる”。新字体は「観」。『大漢和辞典』の第一義は”みる”、以下”しめす・あらはす…”と続く。初出は甲骨文だが、部品の「雚」の字形。字形はフクロウの象形で、つの形はフクロウの目尻から伸びた羽根、「口」はフクロウの目。原義はフクロウの大きな目のように、”じっと見る”こと。詳細は論語語釈「観」を参照。
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”動機にする”。初出は甲骨文。字形はともし火の象形。「油」の原字。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。孔子の弟子、仲由子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。
察(サツ)
(金文)
論語の本章では、”曇り無く目を利かすこと”。初出は西周末期の金文。字形は「宀」”屋根”+「㣇」”ぶた”で、屋根の下で家畜を育てるさま。原義はおそらく”注意深く見守る”。金文では人名・”観察する”の意に用いられ、戦国の竹簡では”発見する”・”悟る”の意に用いられた。詳細は論語語釈「察」を参照。
安(アン)
(甲骨文)
論語の本章では”落ち着く”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「女」で、防護されて安らぐさま。論語の時代までに、”順調である”・”訪問する”を意味した。疑問詞・反問詞などに用いるのは戦国時代以降の当て字で、焉と同じ。詳細は論語語釈「安」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人間一般”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”なぜ”を意味する疑問のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
廋(ソウ)
「廋」(隷書)
論語の本章では、目につかない所に”隠す・隠れる”。この語義は春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。初出は春秋早期の金文。「シュウ」は一説による上古音。呉音は「シュ」。字形は「蒐」”髪がもじゃもじゃで頭の大きな化け物”を「广」建物の中に閉じこめるさまで、原義は”かくす”。
前漢の楊雄は、『方言』に「廋」を載せて「隱也」と記し(第三43)、すると当時の帝都長安のあった陝西では聴き慣れない言葉だったことになる。ただ残念ながら、どの地法の方言か記していない。詳細は論語語釈「廋」を参照。
哉(サイ)
論語の本章に関して現存最古の古注本である清家本、唐石経とそれを祖本とする現伝論語は、二回目の「人焉廋」の後ろにも「哉」を記す。対して定州竹簡論語ではこの部分を欠き、漢石経は二度目の「哉」を記さない。ただし欠けたから無いのか、もともと無かったのか判然としない。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
『論語集釋』は次の通り考証する。
いま『漢書』『晋書』を「中国哲学書電子化計画」のデータに当たるとその通り。つまり「人焉廋哉」と一度言ったのみで繰り返さない。だが引用だから省略したとも言える。引用でも北宋の『太平広記』は二度繰り返し、かつ文末に「哉」を付けている。こちらは唐石経の影響と言ってよい。
(金文)
「哉」は論語の本章では”…だろうか”。反語の意を示す。または詠嘆”…かねえ”と解してもよい。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は定州竹簡論語にあることから、前漢前半には成立していただろうが、それより前、「人焉廋哉」は、孔子没後一世紀に生まれた、戦国前期の孟子が自分の言葉として用いている。
孟子曰:「存乎人者,莫良於眸子。眸子不能掩其惡。胸中正,則眸子瞭焉;胸中不正,則眸子眊焉。聽其言也,觀其眸子,人焉廋哉?」
孟子が申しました。「人を知るには、その者の目をよく見るのが一番だ。目は心に抱いた悪事を隠すことはできないからだ。腹の内が真っ直ぐなら、目もはっきりとしている。腹黒な者は、やましさが目に表れてくすんでいる。ある者の意見を真に受ける前に、とくとその目を見るがいい。そうすれば、人間は隠し事が出来ないものだ。」(『孟子』離婁上15)
孔子の言葉として本章を記したのは、後漢の『漢書』杜周伝が再出になる。『孟子』も論語同様、疑い出せばキリの無い本だが、上掲は孟子らしい実用性に乏しい説教で、漢帝国以降の儒者は全て孟子の系統を引くから、『孟子』をもとに本章を創作したのが真相ではあるまいか。
だが「焉」の不在は後世の偽作の決定的証拠にならず、本章は史実の可能性を持っている。
解説
比較的儒者による混ぜ込みの動機が少ない戦国時代の『国語』に、次のような話がある。
范文子暮退于朝。武子曰:「何暮也?」對曰:「有秦客廋辭于朝,大夫莫之能對也,吾知三焉。」武子怒曰:「大夫非不能也,讓父兄也。爾童子,而三掩人于朝。吾不在晉國,亡無日矣。」擊之以杖,折委笄。
范文子(士燮。?-BC574)が遅くなってから朝廷から戻った。父の武子(士会。生没年未詳)が「なぜ遅くなった」と問うと、「秦の使いがなぞなぞを出しまして、お歴々は答えられませんでした。ですが私は三つ答えられました。」武子は怒り、「お歴々はご存じなかったのではない。年長者(の秦の使者)に遠慮して黙っておられただけだ。お前は小僧のくせに、朝廷で方々に三つも恥を掻かせた。ワシが晋国で今の地位に居なかったら、そう遠くないうちに殺された所だぞ!」そう言って杖で文子をぶちのめし、かんざしを叩き折った。(『国語』晋語五58)
すると孔子が生まれる20年ほど前に世を去った晋の貴族が、”かくす”の意味で「廋」という言葉を使っていたことになる。当時の『国語』のブツはもちろん伝わらず、現在最古の字体は後漢の隷書でしかないが、春秋時代からこの言葉があるのなら、「焉」が無くとも漢語は平叙文がそのまま疑問文になりうるから、本章には俄然として史実性が認められることになる。
結論は今後の発掘に待つしかない。
『国語』は『春秋左氏伝』と並び論語の時代を知る一級資料で、日本ではあまり知られないが、儒教的改編があまり加わっていないとされる。論語の本章について言及は無いが、冉有の税制改革に孔子が反対した話は、『国語』から『春秋左氏伝』に転記されたらしい。
押井守「イノセンス」でのバトーの台詞、「理非無き時は鼓を鳴らし攻めて可なり」の元ネタである。論語先進篇16を参照。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰視其所以註以用也言視其所行用也觀其所由註由經也言觀其所經從也察其所安人焉廋哉人焉廋哉註孔安國曰廋匿也言觀人之終始安有所匿其情也
本文「子曰視其所以」。
注釈。「何を使うか、ということである。何を使うか観察する、というのである。」
本文「觀其所由」。
注釈。「どこを通るか、ということである。どこを通っていくか観察するというのである。」
本文「察其所安人焉廋哉人焉廋哉」。
注釈。孔安国「廋とは隠すことである。人が常に落ち着く場所を観察すると、必ず心を隠している点が見つかると言うのである。」
新注『論語集注』
子曰:「視其所以,以,為也。為善者為君子,為惡者為小人。觀其所由,觀,比視為詳矣。由,從也。事雖為善,而意之所從來者有未善焉,則亦不得為君子矣。或曰:「由,行也。謂所以行其所為者也。」察其所安。察,則又加詳矣。安,所樂也。所由雖善,而心之所樂者不在於是,則亦偽耳,豈能久而不變哉?人焉廋哉?人焉廋哉?」焉,於虔反。廋,所留反。焉,何也。廋,匿也。重言以深明之。程子曰:「在己者能知言窮理,則能以此察人如聖人也。」
本文「子曰:視其所以「。
以とは何かをすることである。よいことをするのが君子で、悪いことをするのが小人である。
本文「觀其所由」。
觀とは、他の場合と見比べて観察し、何をしているのははっきり知ることである。由とは従うことである。善事をすると言っても、何をたくらんでいうるか分からず、善い心根とは限らない。だからまだ君子と断定できないのである。
ある人「由とは行いのことだ。そういう行動をする理由のことを言うのだ。」
本文「察其所安」。
察とは、つまりさらに詳しく知ることである。安とは安楽な場面のことである。善の心が理由だとしても、善事をするのを楽しんでいないなら、それもまたニセモノなのである。どうしてずっと善人で居続けることが出来ようか?
本文「人焉廋哉?人焉廋哉?」
焉の字は於-虔の反切で読む。廋は所-留の反切で読む。焉とはどうして、の意である。廋とは、隠すことである。二度言って意図を明らかに宣言したのである。
程頤「自分を知る者は自分が何を言っているか分かっているから、これだけのことで人を理解してしまえるのは、聖人のような人だけだ。」
余話
隠れて甘い汁
潜水艦はソナーだけが頼りで、目標は音を聞いて探すしかない。見つからないよう、潜望鏡を上げるのは魚雷発射直前の一瞬だけだ。だから孟子が言うように、話を聞き目で観察できればいいのだが、本当に危険な連中は、たいてい世間から隠れてうそデタラメをまき散らす。
「タイマン張れ」とは、頭の悪い街の不良だからこそ、それにこだわるのである。頭の良い悪党は、自分の身をさらすようなことはしない。役人ももちろんそうした連中で、社会の隅々に隠れ巣食ってはチュウチュウと利権を吸い取る。これを漢語で「城狐社鼠」という。
城=都会に巣食うキツネ、社=村に巣食うネズミの意である。これと似た言葉に「鼠賊」というのもある。どんな田舎にもいるヤクザやチンピラのたぐいで、中華王朝の最盛期である清の雍正帝の時代、どの農村漁村にもちゃんと山賊や海賊が揃っていた、と『鹿州公案』は記す。
定州竹簡論語によると、本章は前章と分割されず、ひとまとまりになっていたという。すると”丸わかり”というのは顔淵についての発言となり、”顔淵の才能は隠しようが無い”と帝国儒者がニセ孔子に言わせた可能性が出て来る。そして儒者には十分その動機があった。
顔淵神格化キャンペーンを始めたのは、前漢の董仲舒で、時の武帝が心に負った幼少期のトラウマを、和らげるようヘンな教えをすり込んだ。いわゆる儒教の国教化だが、それは自分と子分の儒者どもに公職をあてがう利権確保が第一目的だから、この程度の偽造は平気でやった。
董仲舒については、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。
そんな連中の「やることなすこと落ち着き所」を監視すれば、武帝もろくでもない奴らだと気付いたかも知れないが、儒者や官僚の鉄面皮たるや、失敗した世間師である孟子の想像をはるかに超える。官僚出身の野口悠紀雄はどの本だったか、そうした官僚の姿を記していた。
現代日本の法律の制定改廃には、有識者会議やらを通じて「万機公論」に決する事になっている。だがそのメンツは役人が決めるから八百長でしかない。その「答申」を役人は有り難そうに受け取り、「先生方の貴重なご意見」云々という。もちろん都合がよくないと従わない。
この証言は、会計検査院の検査と同じだと理解している。西洋の真似で明治の昔からあったが、今に至るまで権限は検査だけ、その結果に従う必要はどの役人にもない。だから無くても国民は困らないが、役人にとっては困るのである。ポストが減る、つまり利権だからだ。
公権力の暴カを、普通は軍隊と警察と特務だと人は思い浮かべる。だが現代日本の法令上、裁判所の令状無しに個人の住宅に踏み込めるのは税務署だけで、同様にいかなる役所も会計検査院の検査権に抵抗できない。法理論上は最高裁にも踏み込めるが、あるのは言わば名誉だけ。
有識者会議に出てくる連中も同じで、名誉と少なからぬ報酬があるから、嬉しそうに出てきては、誰のためにもならぬ芝居を演じている。先般日本学術会議がもめたのも、利権に巣食った鼠が、日本だけでなく中朝韓の公金をも受け取って、奴らの回し者になっていたからだ。
論語の本章は、それが分かる手段を説いた話でもある。
なお論語の本章に話を戻せば、「そのもちいる所」を観察すればその人物が分かるというのは前漢武帝にも当たっている。武帝は東方朔のようなお笑い芸人、霍去病のような認知障害、司馬相如のようなメルヘンおたくしか重用しなかった。武帝の不安感の強さを思うべきである。
武帝は自分以下と見なした者しか使えなかった。帝王の器ではないと言ってよい。詳細は論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」を参照。
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