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宮内庁蔵清家本(論語[集解]10巻)について

清家本は日本最古級の論語の版本で、古注本としては慶大蔵論語疏に次ぐ古さ、しかも慶大本と違って論語全巻が揃っている。画像データが全てネット公開されているものにすくなくとも三種類あり(他に国会図書館蔵津藩校本など)、うち宮内庁本は確定的な古さでは二番目になる。

  • 京大蔵清家本
    徳治三年(1308)年に国宝の「遺誡」を残した清原良枝の筆と伝承されており、これが正しければもっとも古い。ただし出版年は天文十九年(1550)ともっとも新しい。
  • 東洋文庫蔵清家本
    正和四年(1315)の筆写。
  • 宮内庁蔵清家本
    嘉暦二年~三年(1327-28)の筆写。

本サイトでは定州漢墓竹簡『論語』、慶大本に次ぐ古い版本として、東洋文庫本と共に論語詳解の改訂に用いた。以下、画像データを公開しているなぜか慶應義塾のサイトから引用する。

嘉暦2至3年寫(加州白山八幡院禪澄) 卷4配正安4年覺源寫本 仁治3年清原教隆原書寫加點識語 訓點書入 紅葉山文庫 御府舊藏

後補香色亀甲繋艶出表紙(26.5×13.1cm),押八双あり 左肩に題簽を貼布し本文別筆にて「魯論 幾」と書す 折本,巻子装を改む 斐紙(紙幅,第1至4帖約50.0㎝,第5至10帖約47.2㎝),虫損修補
前見返し末に本紙首の空1行(巻2至9首題傍注あり)を貼附す

書誌書影 | 宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧

つまり鎌倉末期の嘉暦2年-3年(1327-1328)、年越しをはさんで石川県の白山神社の神宮寺で、禅澄という名からおそらく惣長吏(社寺双方の事務長)が、清家本を筆写した巻物で、のちに冊子版に体裁を改め、表紙に「魯論○巻」と表題を付けた本ということになる。

清家本とは、武内本によると

仁治清原教隆が寫定した本で、これを轉寫した古寫本が二部現存してゐる。その一は岩崎氏東洋文庫に祕蔵さるゝ正和年間の鈔寫にかゝる本で、他の一は宮内省圖書寮尊蔵の嘉暦年中の鈔寫に係るものである。また舊津藩侯の所蔵に係る古寫本一通があつて、昔から菅公の筆と傳へられて居たが、その内容を吟味すると、これ亦教隆本を轉寫したものである。この本は先年東京大震災に烏有に歸したと聞くが、天保年間これを縮臨摹刻した本があり、また嘉永年間北野學堂でその經文だけを摹刻した本がある。

ということだ。仁治とは鎌倉中期の1240-1243の年号で、藤原教隆は平安朝で代々儒者を務めてきた家柄の出で、幕府に仕え金沢文庫の創始にも協力したというおじゃる公家の一人。当時の中国はすでに南宋(1127-1279)も末の時代で、北半分を女真族の金に占められてきたのが、モンゴルに取って代わっていた。

中国歴代王朝年表

論語史から言えば、清家本が筆写した古注系統の文字列を改めた唐の開成石経(837)がすでにあり、この唐石経に従って北宋で論語注疏(1000ごろ)、南宋で論語集注(1178ごろ)が編まれたあとだった。つまり清家本はいわゆる新注よりも新しいのだが、内容もそうだとは言えない。

中国では新注が現れると、元の時代から科挙の標準テキストとして使われたことにより、中国人はさっさと一冊残らず、古注を焼き捨ててしまった。論語と中国人の乾いた関係がよく分かる話である。対して日本人は奈良時代の当時に中国で主流だった古注系の論語を輸入して以来、古注を貴んで後生大事に伝えてきた。

唐の朝廷は晩唐になってから、それまで異同もあるさまざまな儒教経典を統一するため、石経を刻んだのだが、論語もそれまでの文字列をかなり書き換えており、中には明らかに唐儒のしわざと分かるでたらめも含まれている(論語郷党篇19など)。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

従って清家本は世に出た年こそ新注よりも新しいのだが、記された文字列は唐石経よりも以前のものを保存しており、唐政府がやらかした書き換えを、元に戻す役には立つ。日本での古注系論語は慶大本が最古だが、論語子罕篇と郷党篇しか見つかっていない。対して宮内庁蔵清家本は、論語の全章を記している。

ただし「疏」(注の付け足し)は含まれていない。論語の古注とは、三国魏の時代に何晏(196-249)がそれまでの儒者による論語の注釈を、経(本文)に割り込ませるように記し(論語集解)、さらに南朝梁の皇侃(488-545)が疏を書き足した(論語集解義疏)。注も疏も根拠の無い儒者の個人的感想または自己宣伝に過ぎず、論語の解釈にはほとんど役に立たないが、経が全章揃っている宮内庁蔵清家本は、論語の原型を復元する有力な手がかりだ。

前漢年表

前漢年表 クリックで拡大

つまり、おそらく前漢中期の武帝時代に、董仲舒が伝承を集めてこしらえた論語を、その最も古い姿まで復元するには、第一に前漢宣帝期(BC74-BC48)に埋蔵された定州竹簡論語を用い、それに欠けた箇所は慶大本を用い、それに欠けたところは清家本で補うのが合理的と言える。

宮内庁本の特性を言えば、第一に文字の筆画がカッチリとしており、新聞活字のようで非常に読みやすい。おそらく隋代の中国で筆写された慶大本が、変態かな?の書き手が自分に酔った、変体仮名のようなひどい崩し字で記されており、解読に虫眼鏡が要ったのとは対照的だ。

第二に、経(本文)は全角で、注は半角で記してあるので区別が容易で、句読点無しでも読みやすい。

第三に、慶大本と違って出現年代そのものが新しいので、文字列の基本は古注系なのだが、唐石経の影響を受けて変更してある箇所が少なくない。江戸末期まで、日本人にとって先進国とはすなわち中国だったから、同時代の中国政府公認テキストの影響は、日本の論語にも明瞭に見て取れるという事で、書体のカッチリも含めて、そういう日本人のしおらしさを示す本と言ってよい。

なお先行する慶大本は唐石経より前のブツではあるが、唐石経が完工した翌年に最後の遣唐使が訪れ、おそらく写しを取って帰った。「大唐帝国公認」の論語を見て日本人はたまげたのだろうか、慶大本にも唐石経に従って訂正を添え書きした箇所が少なくない。

論語解説
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