論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子曰、「有敎無類。」
書き下し
子曰く、敎有り、類無し。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「教えがある。区別はない。」
意訳
誰でも教育すればまともになる。
従来訳
先師がいわれた。――
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
有
(金文)
論語の本章では”ある・存在する”。
敎(教)
(金文)
論語の本章では”教え・教育”。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、知識の受け渡し、つまり交流を行うこと。詳細は論語語釈「教」を参照。
無
(金文)
論語の本章では”無い・存在しない”。
『学研漢和大字典』によると形声文字で、甲骨文字は、人が両手に飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ)・(ム)の原字。無は「亡(ない)+(音符)舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる。
蕪(ブ)(茂って見えない)・舞(ない物を神に求めようとして、神楽をまう)などと同系。莫(マク)・(バク)mak(ない)は、無の語尾がkに転じたことば。亡(モウ)・(ボウ)mɪaŋ(ない)は無の語尾がŋに転じたことば、という。
類
(金文)
論語の本章では、”人間の区別”。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、「米(たくさんの植物の代表)+犬(種類の多い動物の代表)+頁(あたま)」。多くの物の頭かずをそろえて、区わけすることをあらわす。多くの物を集めて系列をつける意を含む。
累(かさねてつらねる)・塁(ルイ)(かさねつらねた防壁)などと同系。律(リツ)・率(リツ)は、その語尾がtに転じたことば、という。
論語:解説・付記
論語の本章は、人間は教育しだいで良くなると主張し、生まれつきの善悪や能不能はないとする、孔子の教説の一つ。儒家が他の諸子百家と異なるのは、社会教育を重視したことで、孔子は教育を時に「礼楽」(礼法と音楽)という言葉で言い換えた。
礼は日常生活のあらゆる行動の規則であり、楽は情操教育に最適と判断されたのだろう。孔子が最も好んだ芸でもあることから、ひょっとすると音楽の持つ数理性を数理教育に代えようと孔子は思ったのかも知れない。代数は受け付けなくとも、音の調和は誰にでもわかるからだ。
ただし孔子が社会教育と重視したからと言って、教えれば誰でも高度な知性を持つと考えてはならない。孔子は「民は由らしむべし、知らしむべからず」(論語泰伯篇9)と言っており、教育の限界を理解していた。教育に関して実践家であれば、誰でもそう思うだろう。
また教育には段階があると孔子は言っており、その順序を経て学ぶだけの忍耐力がなければ、高い境地には至れないと言っている(論語雍也篇21)。政治に関してはファンタジーを盛んに述べた孔子だが、教育は孔子の日常であり、幻想を持つ余裕は無かったのだ。
それは論語本章の言う「誰でも」に反するように思えるが、これはある一定以上までは、という限定付きだろう。どんな教育にも耐える人間がいないと同様、いかなる教育も受け付けない人間もいないからだ。その最低限のレベルを、孔子は初歩的な礼法と音楽に置いたのだった。