論語詳解417衛霊公篇第十五(39)教えあり

論語衛霊公篇(39)要約:どんな人間でも、教育すればまともになると、孔子先生は言います。しかしこれはある程度までは、という限定付きでしょう。政治に関してはファンタジーを語った先生ですが、教育には幻想を持たなかったのです。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

子曰、「有敎無類。」

書き下し

いはく、をしへり、たぐひし。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 肖像
先生が言った。「教えがある。区別はない。」

意訳

論語 孔子 キメ
誰でも教育すればまともになる。

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。――
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語 有 金文
(金文)

論語の本章では”ある・存在する”。

敎(教)

論語 教 金文
(金文)

論語の本章では”教え・教育”。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、知識の受け渡し、つまり交流を行うこと。詳細は論語語釈「教」を参照。

論語 無 金文
(金文)

論語の本章では”無い・存在しない”。

『学研漢和大字典』によると形声文字で、甲骨文字は、人が両手に飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ)・(ム)の原字。無は「亡(ない)+(音符)舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる。

蕪(ブ)(茂って見えない)・舞(ない物を神に求めようとして、神楽をまう)などと同系。莫(マク)・(バク)mak(ない)は、無の語尾がkに転じたことば。亡(モウ)・(ボウ)mɪaŋ(ない)は無の語尾がŋに転じたことば、という。

論語 類 金文大篆
(金文)

論語の本章では、”人間の区別”。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、「米(たくさんの植物の代表)+犬(種類の多い動物の代表)+頁(あたま)」。多くの物の頭かずをそろえて、区わけすることをあらわす。多くの物を集めて系列をつける意を含む。

累(かさねてつらねる)・塁(ルイ)(かさねつらねた防壁)などと同系。律(リツ)・率(リツ)は、その語尾がtに転じたことば、という。

論語:解説・付記

論語の本章は、人間は教育しだいで良くなると主張し、生まれつきの善悪や能不能はないとする、孔子の教説の一つ。儒家が他の諸子百家と異なるのは、社会教育を重視したことで、孔子は教育を時に「礼楽」(礼法と音楽)という言葉で言い換えた。

礼は日常生活のあらゆる行動の規則であり、楽は情操教育に最適と判断されたのだろう。孔子が最も好んだ芸でもあることから、ひょっとすると音楽の持つ数理性を数理教育に代えようと孔子は思ったのかも知れない。代数は受け付けなくとも、音の調和は誰にでもわかるからだ。

ただし孔子が社会教育と重視したからと言って、教えれば誰でも高度な知性を持つと考えてはならない。孔子は「民は由らしむべし、知らしむべからず」(論語泰伯篇9)と言っており、教育の限界を理解していた。教育に関して実践家であれば、誰でもそう思うだろう。

また教育には段階があると孔子は言っており、その順序を経て学ぶだけの忍耐力がなければ、高い境地には至れないと言っている(論語雍也篇21)。政治に関してはファンタジーを盛んに述べた孔子だが、教育は孔子の日常であり、幻想を持つ余裕は無かったのだ。

それは論語本章の言う「誰でも」に反するように思えるが、これはある一定以上までは、という限定付きだろう。どんな教育にも耐える人間がいないと同様、いかなる教育も受け付けない人間もいないからだ。その最低限のレベルを、孔子は初歩的な礼法と音楽に置いたのだった。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。覚悟致せ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)