論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰君子病無能焉不病人之不己知也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰君子病無能焉不病人之不已知也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「君子a無能b,[不病人之不己知也]。」433
- 、今本作”病”。為省文。
- 今本”能”字下有”焉”字。
※a.「馮緄碑」(後漢)刻。台湾「教育部異体字字典」所収。
標点文
子曰、「君子病無能、不病人之不己知也。」
復元白文(論語時代での表記)
※・病→疒。論語の本章は、「病」の用法に疑問がある。おそらくは戦国時代以降の儒者による改作。
書き下し
子曰く、君子らは能ふる無きを病へよ。人の己を知ら不るを病へ不れ也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「諸君は能力がないのを気に病め。人が自分を知らないのを気に病んではいけないぞ。」
意訳
全然仕官できないと嘆く前に、勉強や稽古に励みなさい。
従来訳
先師がいわれた。――
「君子は自分に能力のないのを苦にする。しかし、人が自分を知ってくれないのを苦にしないものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子衹怕自己無能,不怕沒人瞭解自己。」
孔子が言った。「君子はひたすら自分の無能をのみ恐れ、誰も自分を理解してくれないのを恐れない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では「ていし」と訓読して”諸君”。「諸君」はもともと「諸君子」の略。「君子」は孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語における「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
病(ヘイ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”気に病む”。この語義は春秋時代では確認出来ない。「ビョウ」は呉音。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「疒」で、甲骨文から”やまい”の意で存在する。「病」の字形は「疒」”屋内の病床”+「丙」”倒れ伏した人”。病人が寝ているさま。戦国の竹簡で、”気に病む”・”病む”・”疾病”を意味した。詳細は論語語釈「病」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…が無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できること”。能力。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
焉(エン)→×
論語の本章では定州竹簡論語で本字を記さない。これに従い無いものとして校訂した。ただし無くとも文意はほとんど変わらない。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では「たれ」と読んで完了”てしまえ”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
なお本章の句読を切り変えて、「焉」を句頭に置いた疑問辞として読むには無理がある。
君子能くし焉る無きを病えよ。人之己を知らざるを病えざる也。
君子能くする無きを病えよ。焉んぞ人之己を知らざるを病えざる也。
「諸君は無能を気に病め。どうして無名を気に病まないのか。」では、文意が通らないからだ。また定州竹簡論語には「焉」がないから、この字は後漢儒者がもったいを付けて書き加えたと分かる。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の”という所有格を作る助詞。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
己(キ)
論語の本章は現存最古の論語の版本である定州竹簡論語にあるが、ついで古い漢石経に全文を欠く。
唐石経は漢石経に次いで古い文字列の一つで、晩唐の初め開成二年(837)に刻石が完工した、儒教経典の定本を定めた碑文群。言い換えると、それまで異同のある文字列を記した経典が何種類もあったという事で、論語もその一つ。つまり国家による情報統制政策だから、当然唐朝廷の都合で書き換えた箇所がいくらもあることが、定州竹簡論語や漢石経、慶大蔵論語疏との比較で分かる。
その例は論語郷党篇19を参照。
一方日本には唐石経が刻まれるより前の、おそくとも隋代に古注系の論語が伝わった。慶大本がその一つで、当然唐石経とは違う文字列が見られたりする。日本では本願寺坊主の手に成る文明本が現れるまで、後生大事に古注系の文字列を伝承した。清家本もその一つで、うち現存最古の東洋文庫蔵清家本は正和四年(1315)筆写と、唐石経より世に出たのは新しいのだが、文字列はより古いものを伝えていると考えて良い。
従って清家本に従い「己」→「已」に改めるべきだが、語義は”自分”で変わらないし、つまり唐代頃までは「巳」”へび”と「已」”すでに”と「己」”おのれ”は相互に異体字として通用した。従って本章でも異体字として扱った。
(甲骨文)
「己」の初出は甲骨文。「コ」は呉音。字形はものを束ねる縄の象形だが、甲骨文の時代から十干の六番目として用いられた。従って原義は不明。”自分”の意での用例は春秋末期の金文に確認できる。詳細は論語語釈「己」を参照。
(甲骨文)
なお清家本は「已」と記す。「已」の初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
(甲骨文)
唐石経より先行する、日本伝承の慶大蔵論語疏は本章を欠くが、通例はやはり同じく「己」「已」を「巳」と記す。「巳」の初出は甲骨文。字形はヘビの象形。「ミ」は呉音。甲骨文では干支の六番目に用いられ、西周・春秋の金文では加えて、「已」”すでに”・”ああ”・「己」”自分”・「怡」”楽しませる”・「祀」”まつる”の意に用いた。詳細は論語語釈「巳」を参照。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”好意的に理解する”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
不己知
論語の本章では、”(他人が)自分を知らない”。漢語の語順はSVO型だが、ここはnot-O-Vと逆転しており、論語には同様の例が8例ある。
漢語の語順の特例として、否定文では甲骨文以来、間接目的語(”~に”が付く語)が否定辞の直後に出ることがある。
帝我に其の祐を受け不らんか。(「甲骨文合集」6272.2)
しかし論語の本章その他のO-V逆転例は、否定辞の直後に出た語は直接目的語(”~を”がつく語)であり同列に分類できない。「己」を動詞”整える”と解読しても、後句「患己無能也」では成り立たない。
仮に「知」が”知る”ではなく”知られる・有名である”の意だったとしても、それなら主語は「己」(または「吾」)であり、語順は「己不知」となるべきはずで、「不己知」はどのように工夫してもつじつまを付ける事が出来ないから、壊れた漢語と断じてよい。
「不己知」という漢語の文字列は、戦国最末期だがいつ筆写されたか分からない『呂氏春秋』に一例見られるのが初めで、漢以降もこのO-V逆転はほぼ使われず、論語と、類書と言って良い『史記』孔子世家独特の言い回しと言っても良い。考えられる筋書きは、
- もと「不知己」とあったのだが、漢儒がもっともらしさを出すため勝手に語順を入れ替えた。
- 「己」は動詞だったが、漢儒が第二句をつけ加えたため”おのれ”として読むしかなくなった。
- 元の文章が断片だけしか伝わらず、わけが分からなくなった。
となる。いずれにせよ文法的、かつ不可逆に壊れた漢文で、元を復元するのは不可能だ。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで詠歎の意に用いている。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、疑問あるいは反語の語義も確認できる。また春秋末期の金文で「也」が句末で疑問や反語に用いられ、詠嘆の意も獲得されたと見てよい。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に含まれるが、春秋戦国の出土史料に見られない。あるいは相当するか、と思われる断片が無いではないが、本章の存在を証拠立てるものではない。
また文字史からは全て春秋時代に遡れるが、「病」の用法が論語の時代の漢語とそぐわない。上掲語釈の通り、論語には本章とそっくりな章がいくつもあるから、その一つから「患」→「病」に書き換えて、論語にコピペしたといってよい。
その動機は、前後の漢帝国を通じた儒教の国教化が背景にあり、そのため儒者の側は、他学派を圧倒するため経典の壮大化に迫られ、帝室の側は壮麗化に迫られた。このためコピペと承知で論語を膨らませる必要があった。同様の動機で出来た章は他にもあり、論語は多分に水増しを含んでいる。
解説
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰君子病無能焉不病人之不已知也註苞氏曰君子之人但病無聖人之道不病人不知已也
本文「子曰君子病無能焉不病人之不已知也」。
注釈。包咸「君子の人はひたすら聖人の道が無いのを気に病むべきで、人が自分を理解しないのを気に病まない。」
およそ現実から離れたおとぎ話の書き込みに思えるが、包咸が過ごした前後の漢帝国の交代期は、蟹歯リズムが横行したこの世の地獄だったから、このようなあられもない願望を抱くのも、無理は無いかも知れない。包咸については、論語先進篇8余話「花咲かじいさん」を参照。
新注は本章に何ら注を付けていない。朱子以外からの引用も記していない。事実上同じの、繰り返し出てくる金太郎飴と見なされたのだろう。
余話
論語だけが教えじゃない
『老子道徳経』は戦国の竹簡から見つかるのに、『論語』は断片かな? と思える程度の文字列しか見つからない。だが同じ漢語であるからには、別の話だろうと似通った言い回しは他にもあるはずで、本章に似通った言い回しの戦国竹簡は、無いわけではない。
- 義亡(無)能為也。(戦国中末期「郭店楚簡」語叢一53)
- 人亡(無)能為。(同語叢一83)
これだけ眺めていても何の話やら分からないから、前後と繋げてみる。現行通用字に改めて記す。
語叢50-59
容色,目司也。聲耳司也。嗅、鼻司也。味,口司也。氣,容司也。志,心司。義無能為也。賢者能理之。為孝,此非孝也;為弟,此非弟也;不可為也,而不可不為也。為之,此非也;弗為,此非也。政其然,而行怠焉爾也。
姿形は目が知覚する。声は耳が、においは鼻が、味は口が、気は体全体が、欲望は心が知覚する。これらはどんなバカでも出来ることで、知覚の何たるかを理解しよく制御できるのは、賢者だけだ。
同様に、世間並みの親孝行は実は親孝行でない。年下らしい慎みは実は慎みでない。なぜなら完璧にやり遂げることはあり得ないからで、しかもぜんぜん気にかけずにいられるほど人は図々しくなれない。反対に見せつけるためにやってもそれは間違いで、もちろん閉じこもってぜんぜんやらないのも間違いだ。
つまりきっちりやってみせるのも、デタラメに済ますのも、所詮は自己満足だ。
語叢80-89
有生有知,而後好惡。長弟,親道也。友君臣,無親也。不尊。厚於義,薄於仁,人無能為。有察善,無為善。察所知,察所不知。勢與聲為可察也。君臣、朋友,其擇者也。賓客,清廟之文也。多好者,無好者也。
命があって、感情があって、やっとはじめて好悪が生まれる。
一族の中で年長者と年少者との関係には、もともと好意が下地にある。だが友人や君臣の関係には、もともと好意があるわけではない。だから付き合わない、敬わないという態度があり得るわけだ。義理に厚い人間が、薄情になろうとしても、出来るわけが無いのと裏返しに理屈は同じである。
だが何が善かを知っても、善を行わないで済ますことは出来る。人は知らんぷりが出来るように出来ているので、だから自分の意図を悟られたと知り、何がバレていないかを知れるのは、せいぜい相手の態度や声から推測できる範囲に過ぎない。
つまり君臣や朋友は仮面をかぶり選んで付き合っているに過ぎず、客をもてなしたり仏壇を磨くのは見せかけに過ぎない。誰とでも調子よく付き合っている者は、実は本人は誰一人、人間を好きではないのだ。
水増しふくらし粉だらけの論語より、よほど現代人の心に突き刺さる話が、他学派の言葉にあったりする。それが漢文を読めることのご褒美の一つで、そうでもなければこんな面倒くさい言語、やっていられない。どの学問分野もカネ抜きならそうだろう。
だが論語が言うように、「これ知る者はこれ好む者にしかず」(論語雍也篇20)なので、漢文も「好む」域に入ることが出来れば、白文はおろか竹簡だろうと恐るるに足りない。上掲訳文を書くに当たり、訳者はただの一度も辞書を引かず、目にしていきなり現代日本語に置き換えた。
そうされると困る連中が、漢文業界に巣食っているのだが、それらも「仏壇を磨く」たぐいである。そうやって何かと威嚇にかかる漢籍や業界人を恐れない、そのための方法としてまとめた漢文が読める方法2022に書いたことを、実は訳者はこのサイトの中で一番好んでいる。
その要諦はただ一つ、固有名詞以外を徹底的に訓読みする練習を繰り返すことだ。
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