(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子曰、「無爲而治者、其舜也與。夫何爲哉。恭己正南面而已矣。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「無為而治者其舜也a。[夫何為哉?恭]417……
- 今本也下有”與”字。
→子曰、「無爲而治者、其舜也。夫何爲哉。恭己正南面而已矣。」
復元白文(論語時代での表記)
治 舜
※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「正」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、爲す無くし而治むる者は、其れ舜也。夫れ何をか爲せる哉。己を恭しくして正しく南面し而已む矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「行為を行わないで治めた者は、それは舜だろうか。一体何をしたのだろうか。自分は慎み深くして、ただ南に向かって座っていただけだ。」
意訳
舜は庶民から賢者の皋陶を見つけて政治を全て任せ、自分は何もせずただ君臨していただけだ。それでこそあっぱれな仁君だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「無為にして天下を治めることが出来たのは、舜であろう。舜は何をしたか。ただ恭しい態度で、正しく南面していただけである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「不發號施令就能治理好天下的人,衹有舜吧!他做了些什麽呢?衹不過是莊嚴地坐走寶座上而已。」
孔子が言った。「政令を出さなくても、上手に天下の統治を行えた人は、ただ舜がいただけだった!彼は何をしたか?ただ荘重に王座の上に座っていただけだ。」
論語:語釈
無爲/無為
論語の本章では”何もしない”。一般に無為は道家の教えと言われるが、儒者も君主に無為を求めた。君主が何もしなければ、儒者=役人は好き放題にワイロを取り、社会の利権を食い散らかせるからである。本章はそのためのでっち上げだが、論語にねじ込まれて教説として固定化されると、「聖人の教え」として皇帝でさえ重んじなければならなくなった。
北京紫禁城の宮殿の一つ、交泰殿は、清の乾隆帝以降、皇帝の所持する各種の玉璽を保管する場所だったが、その内部には「無為」と記された大きな額が掛かっている。皇帝が政令を出すたびに、この額の言葉を思い出せ、という洗脳装置だった。
最初に書いて掲げたのは、清朝の儒教化に努めた康煕帝である。当時の交泰殿は、皇帝の私的生活空間だった。毎日これを眺めて、康煕帝は自分を洗脳したわけだ。のち火事で焼失したが写しが残っていたらしく、乾隆帝が臨書(お手本を書き写す)して再び掲げられた。
治
論語の本章では”統治する”。
初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音の「持」に”まもる・たすける・ささえる・たもつ”などの語釈があり、音通する。ただし”おさめる”の語釈は『大漢和辞典』に無い。詳細は論語語釈「治」を参照。
舜(シュン)
想像上の太古の聖王。架空の人物であり、ゴブリンやドワーフと変わらない。在位したとされる時代は夏王朝より前、つまり中国最初の王朝だ、と歴代の儒者と現代中国政府が言い張っている夏よりさらに前で、夏には文字が無く、次代の殷でさえ文字が現れるのは中期以降。
仮に夏やそれ以前に王朝があったとして、当時の人に「舜」と聞いても、「は? 誰それ?」と聞き返されること必定である。名は異なっても舜のような君主が仮にいたとして、当時の文字記録があるはずがなく、伝記も戦国時代にならないと現れない。
孔子の生きた春秋時代、中国の宗主は周王朝で、当時の人も孔子も、周の前代・殷は知っていたが、それより前は知らなかった。孔子没後に儒家を圧倒した墨子が、自学派の権威付けのため、教祖として夏の開祖・禹王を創作した。孔子が知っていたのはせいぜい殷の紂王である。
孔子没後一世紀過ぎて孟子が現れると、顧客である斉の田氏におもねるため、田氏の始祖である舜に、夏よりさらに古い王としての伝説を作り上げた。だが孟子も後世の儒者同様、いたって想像力がお粗末で、その伝説は極めてつまらない。
現伝する『史記』によると、堯から天子の位を譲られ、禹に位を譲った。幼くして神童、成長してからは父・継母・弟に虐待され、何度も殺されかけたが、あらかじめ抜け穴を掘るなどして助かった。虐待した家族には復讐せず、笑っていたという。
だが孝行者と言うことで堯に認められ、補佐官として皋陶を採用した。晩年は夏王朝の開祖・禹に位を譲って隠居した。それ以外に何をしたという記録もない。孟子や後世の儒者の、発想の貧困を思うべきである。
そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
論語では、本章を含め7ケ章で言及があるが、これ以上の情報はない。
- 子貢曰、「如有博施於民、而能濟衆、何如。可謂仁乎。」子曰、「何事於仁、必也聖乎。堯舜其猶病諸。」(論語雍也篇30)
- 子曰、「巍巍乎、舜、禹之有天下也、而不與焉。」(論語泰伯篇18)
- 舜有臣五人、而天下治。(論語泰伯篇20)
- 子夏曰、「富哉言乎。舜有天下、選於衆、舉皋陶、不仁者遠矣。(論語顔淵篇22)
- 曰、「修己以安百姓。修己以安百姓、堯舜其猶病諸。」(論語憲問篇45)
- 子曰、「無爲而治者、其舜也與。夫何爲哉。恭己正南面而已矣。」(論語衛霊公篇5)
- 堯曰、「咨。爾舜。天之曆數在爾躬、允執其中。四海困窮、天祿永終。」舜亦以命禹。(論語堯曰篇1)
(金文大篆・篆書)
『字通』では「舜」の文字を、殷の神話的祖先神の神像とし、下に両足を垂れている形という。『学研漢和大字典』では、舛(左右のあしを踏み出して素早く動くさま)+炎+匸の会意文字で、炎の揺れや足踏みのような素早い動作を示すという。そこから、素早く咲いて散る花やムクゲの花、動作の機敏な英雄の名だという。詳細は論語語釈「舜」を参照。
正(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”正しく”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。
『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。
南面
(金文)
論語の本章では、”君臨する”こと。中国では宮殿を南北に作り、君主は南向きに座った。北極星と天体の動きを反映したとされる。
論語:付記
論語の本章は、「無為」の重みが分かってようやく解釈出来る。歴代の儒者が主張した「無為」は、上記の通りワイロ取りのための布石だが、この言葉が生まれた背景には、日本人はおろか、世界中の人間が想像も出来ない、帝政期以降現代に至る、中国社会の苛烈さがある。
舜伝説を創作した孟子は、「舜も人なり、我もまた人なり」と言い(『孟子』離婁下56)、太古の聖王だとは言ったが、何もしないで世が治まったとまでは言っていない。舜ɕi̯wən(去)=俊tsi̯wən(去)才ある人間ではあっても、同じ人間であるとした。
孟子より60年後の荀子になると、やや事情が変わってくる。「昔者舜之治天下也,不以事詔而萬物成」=舜は特に政令も出さなかったのに、万物が成長した、という(『荀子』解蔽10)。当たり前だ、政令が有ろうと無かろうと、生える草木は勝手に生える。
荀子がどういうつもりでこう言ったかは、もはや分からない。「万物成」は”政治がうまく言った”だと、言いくるめることは出来る。しかし漢帝国になると明らかに、人間業とは思えない政治を行った超人として神格化された。やらかしたのはもちろん董仲舒である。
冊曰:「三王之教所祖不同,而皆有失,或謂久而不易者道也,意豈異哉?」臣聞夫樂而不亂復而不厭者謂之道;道者萬世亡弊,弊者道之失也。先王之道必有偏而不起之處,故政有眊而不行,舉其偏者以補其弊而已矣。三王之道所祖不同,非其相反,將以捄溢扶衰,所遭之變然也。故孔子曰:「亡為而治者,其舜虖!」改正朔,易服色,以順天命而已。
武帝の下問があった。「三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王)の教えは元から違っており、それぞれに長短があるようだが、それでも通時代的に変わらぬ原則だと言う者がおる。その通りか。」
董仲舒「不変の道とは、安楽かつ乱れず、そこへ帰っても不具合の無いものを言います。不変の道は政治の乱れを整えますが、乱れがそもそも道を失っていることなのです。
ただし先王の道も、時宜の必要から出た具体的な政令となると、普遍性がありません。だからただ猿真似したところで、効果が無い場合があるのです。具体的な政令は、具体的な問題にしか効き目がないのです。
だから三王の道は当時から違っていたのですが、互いに矛盾があるわけではありません。行き過ぎを抑え不足を補う点で共通しており、これが変転止まない世の中を治める道なのです。
(ですがその要領を把握できたのは、ただ一人でした。)だから孔子が、”何もしないで世を治め得たのは、舜だけだ”と言ったのです。舜のやったことは、暦を改正し、礼服の意匠を変えただけでした。(それで天下が治まったのです。)(『漢書』董仲舒伝35)
董仲舒は顔淵の神格化を始めた男でもあり、舜を含めて儒教を黒魔術化する端緒を作った希代の詐欺師と言える。でっち上げの程度は孟子よりひどいかも知れない。だがそれ以上にひどいのが中国の古代帝国で、武帝は気分次第で家臣とその家族を皆殺しにする暴君だった。
上掲の説教は、武帝に向かって一生懸命「何もしてくれるな」と懇願したわけ。家臣や臣民が、例えば荒れ果てた戦場で何万人死のうとも、眉一つ動かさなかった暴君にである
(→涼州詩)。暴君の程度には差があるが、現代の国家主席に至るまで事情は変わらない。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
帝政開始以降、中国社会にカミホトケはいない。その苛烈さは他国人の想像を超える。もちろん飢餓に苦しむ例えばアフリカの子供にも想像できない。なぜかと言えば、中国の苛烈さは不足から来るのではなく、充足してもなお僅かな利益を取り合うために、千万人を殺すからだ。
不足の苛烈は誰にも分かる。「地大物博」での苛烈の理由は、分かる者にしか分からない。
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