論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「君子不可小知、而可大受也。小人不可大受*、而可小知也。」
校訂
武内本
清家本により、受の下に也の字を補う。邢本也の字なし。
定州竹簡論語
……曰:「君子不可小知也a,而可大受也,小人不可大450……也a,而可小知[也]。」451
- 也、今本無。
→子曰、「君子不可小知也、而可大受也。小人不可大受也、而可小知也。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章はおそらく也の字を断定で用いている。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、君子は小しく知る可からざる也、し而大に受く可き也。小人は大に受く可からざる也、し而小しく知る可き也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「君子=教養ある人格者は、少し知ってはならないのだ。大いに受けるがよいのだ。教養のない凡人は、大いに受けることが出来ないのだ。少し知るがよいのだ。」
意訳
我ら賢い君子の道は、そう簡単に分かるものではないぞよ。その代わり、天下の大仕事を担って立つのであるぞよ。反対に世間の有象無象どもの生きる道は、簡単に分かってしまうのであるぞよ。それだけに、そうした小者に大仕事を任せてはいけないのであるぞよ。
従来訳
先師がいわれた。――
「君子は、こまごましたことをやらせて見ても、その人物の価値はわからない。しかし大事をまかせることが出来る。小人には大事はまかされない。しかし、こまごましたことをやらせて見ると、使いどころがあるものである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子不可做小事,而可接受重大使命;小人不可接受重大使命,而衹能做小事。」
孔子が言った。「君子には小仕事をさせられない、だが重大な使命を任せられる。小人には重大な使命を任せられない。だが小仕事をさせるには向いている。」
論語:語釈
君子
(金文)
論語の本章では”為政者階級の知識人”。
論語で「君子」と言った場合、庶民に対する貴族、無教養人に対する教養人、そして弟子に対する「諸君」という呼びかけで用いられる。本章の場合は後世の創作であることから、凡人とは違う教養ある人格者、という高慢ちきな意味を持つ。
詳細は論語における「君子」を参照。
可
(金文)
論語の本章では、”できる”という可能の意味で全て解することが出来る。ただし漢文で「べし」という言葉を、”~しろ”という命令に受け取るのは日本語に引きずられた「和臭」だが、なんでもかんでも”できる・できない”の意味に取るのもまた誤り。例を挙げる。
民はこれに由らしむ可し、知らしむ可からず。(論語泰伯篇9)
これを「民は従わせろ、情報を公開するな」と解し、「差別だ!」と怒る人は読み間違ってはいるのだが、怒る人をたしなめて、「漢文の”可し”とは可能の意味だ」と説教するのは、はてどうだろう。「可」にも日本古語の「べし」同様、当然や勧誘の意味はちゃんとある。
『学研漢和大字典』によると「~べし」と読んだ場合、以下の語義を挙げる。
- 「~できる」と訳す。可能の意を示す。「三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也=三軍も帥を奪ふ可きなり、匹夫も志を奪ふ可からざるなり」〈大軍でもその総大将を奪い取ることはできるが、一人の男でもその志を奪い取ることはできない〉〔論語・子罕〕
▽「可・不可」は、客観的に状況・道理による判断を示す。「能・不能」は、「可・不可」より主観的に、自身の本来的・生理的な能力・資格による判断を示す。「得・不得」は、機会・条件による判断を示す。 - 「~するのがよい」「~すべきだ」と訳す。当然・勧誘の意を示す。「皆曰、紂可伐矣=皆曰く、紂伐つ可しと」〈皆、紂は討つべきであると言った〉〔十八史略・周〕
- 「~にあたいする」「~してもよい」と訳す。認定・認可・評価の意を示す。「雍也可使南面=雍や南面せ使む可し」〈雍は南面させてもよい〉〔論語・雍也〕
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”理解する”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
「知事」のように、「知」に”仕事を担当する”の語義が出来たのは後世のことで、原義は”誓う”→”知る”。ただし本章は後世の創作だが、下記する「受」の解釈と連動して、やはり知覚することや理解することを指す。
「知」に”仕事を担当する”の語義が出来たのは戦国時代のことで、唐代以降は「知県」「知枢密院」などの官名が現れた。前代を記した『隋書』には、「知政」という言葉はあるが官名としては見られず、”担当する”の意とも断じ得ない。しかもその編纂は唐になってから太宗の勅命による。
宋儒の朱子は唐以降の語義に添った解釈を新注に書いたが、論語の本章が創作された漢代、まして孔子の生きた春秋時代にありえない、「知」に”担当する”の語義を遡及させた。
新注『論語集注』
此言觀人之法。知,我知之也。受,彼所受也。蓋君子於細事未必可觀,而材德足以任重;小人雖器量淺狹,而未必無一長可取。
これは人材の判別法を述べたのである。知とは、自分が担当することだ。受とは、他者が授けることだ。思うに君子はチマチマした仕事に必ずしも向いていない。しかし重い責務に耐えるのである。一方凡人は浅はかではあるものの、必ず取り柄がないとまでは言えない。
上掲従来訳や、現代中国での解釈は新注を引き継いでいるのだが、以上の様な事情で全くの誤りである。なお「知」の辞書的には論語語釈「知」を参照。
受
(金文)
論語の本章では”受ける”。
論語の時代、「授」も「受」も共に「受」と書き、両者が書き分けられるようになった=別の言葉として認識されるようになったのは、早くとも論語の時代よりあとの戦国時代のこと。戦国時代に通用した古い文字にも、両者が混ざっていることがある。
「授」(古文)
『学研漢和大字典』によると「受」は形声文字で、「爪(て)+又(て)+(音符)舟」。舟は音符で、ふねには関係がない。Aの手からBの手に落とさないように渡し、失わないようにうけとるさまを示す。
「授」は会意兼形声文字で、受は「爪(て)+又(て)+(音符)舟」からなる形声文字。物を手から手に渡して受けとること。舟は音符で意味に関係はない。授は「手+(音符)受」で、渡して受けとらせること。
もらう側からは受といい、渡す側からは授という。受と授は、同じ動作の両面にすぎない、という。詳細は論語語釈「受」を参照。
文字的には”受ける”と解する以外に無いが、何を受けるのか決まらないと、論語の本章は読み解けない。本章はおそらく漢儒による創作であることから、漢儒の意図を計りながら語義を決定する以外にない。
やむを得ず、真にやむを得ず、と、ばかたれ海軍大臣だった及川古志郎のような言い訳をしつつ、時代が近い古注を参照してみよう。
古注『論語集解義疏』
君子之道深逺不可以小了知而可大受小人之道淺近可以小了知而不可大受也
君子の生き様は奥が深くて、ちょっとだけ知るというわけに行かないし、ものすごく受け取るしか無い。小人の生き様は底が浅くて、ちょっとだけ知ることができるし、ものすごく受け取るわけにはいかない。
結局「受」とは何かははっきりしない。やっぱり役立たずだ。だから『論語集釋』が引く、前漢武帝期の『淮南子』を参照しよう。
是故有大略者,不可責以捷巧;有小智者,不可任以大功。
だから大きな計画を抱いている者を、即効性が無いと責めてはいけない。小知恵が回るだけの者に、大仕事を任せてはいけない。(『淮南子』主術訓18)
『淮南子』は儒家に限らず当時のあらゆる学派の学説をまとめた本だから、必ずしも漢儒の考え方と一致するとは言えないが、当時の官界や学界の気分を知ることは出来る。これを参考にするなら、「受」とは”大仕事を受ける”ことだ、と仮に結論づけておくことにする。
論語:付記
論語の本章を、「也」の字を全て詠歎「かな」と解して、無理に孔子の肉声と解することは可能だが、やはりそれは無理である。あえて訳せばこうなる。
諸君は少しだけ学べばいいというものではないのだよ。学ぶなら、とことん奥まで学ぶのがよい。貴族に成り上がるのは、そんなに簡単なことではないからだ。だからいつまでも、世の庶民と同じ気持ではいけない。つまりちょっとだけ学んで得意がり、学問や技能の奥深さを知らないままで、修業を終えてしまうようなのは。
なお上掲『淮南子』の修辞が面白いので、前後部分含め訳出する。
人主之居也,如日月之明也。天下之所同側目而視,側耳而聽,延頸舉踵而望也。是故非澹薄無以明德,非寧靜無以致遠,非寬大無以兼覆,非慈厚無以懷眾,非平正無以制斷。
是故賢主之用人也,猶巧工之制木也,大者以為舟航柱梁,小者以為楫楔,修者以為櫚榱,短者以為朱儒枅櫨。無小大修短,各得其所宜;
規矩方圓,各有所施。天下之物,莫凶於雞毒,然而良醫橐而藏之,有所用也。是故林莽之材,猶無可棄者,而況人乎?
今夫朝廷之所不舉,鄉曲之所不譽,非其人不肖也,其所以官之者非其職也。鹿之上山,獐不能跂也,及其下,牧豎能追之;才有所修短也。
是故有大略者,不可責以捷巧;有小智者,不可任以大功。人有其才,物有其形,有任一而太重,或任百而尚輕。是故審豪厘計者,必遺天下之大數;不失小物之選者,惑於大數之舉。譬猶狸之不可使搏牛,虎之不可使捕鼠也。
今人之才,或欲平九州,並方外,存危國,繼絕世,志在直道正邪,決煩理挐,而乃責之以閨閣之禮,奧窔之間;
或佞巧小具,諂進愉說,隨鄉曲之俗,卑下眾人之耳目,而乃任之以天下之權,治亂之機。是猶以斧劗毛,以刀抵木也,皆失其宜矣。
君主が世に君臨する様は、日や月が明るく輝くようなものである。天下の人々が皆一様に、目を向けて見、耳を向けて聞き、首を伸ばし背伸びをして見つめるのである。だから無欲でないと有り難くなく、静かでないと遠方までなびかず、優しげでないと広く知られず、慈悲深くないと大勢が懐かず、公平でないと人が従わない。
だから名君が臣下を選ぶには、名工が木材を使い分けるのと同じで、大物は船や柱にし、小物は舵やくさびにする。柾目の通ったものは床几や垂木に用い、通らないものは小物やとがた、ますがたに用いる。大小・通不通にかかわらず、適材適所を心得るのだ。
定規やコンパスで罫書きするにも、適した材を選ぶものだ。猛毒であるウズでさえ、名医が尊んで薬袋に収めるのは、その効き目を知っているからだ。だから材木にもいろいろあって、捨てていいものなどありはしない。人材はなおさらだ。
いま朝廷が任用せず、世間も褒め讃えない者でも、その人の出来が悪いとは必ずしも言えない。官職にある者も、必ずしも適任とは言えない。山に上がってしまったシカは、崖を上下できなくなったカモシカが、山を下りてしまったのと同じで、はな垂れ小僧でも追い回せる。同様に人には向き不向きがあるのだ。
だから大きな計画を胸に抱いている者に、すぐさま効果が出ていないと責めてはならないし、小知恵が回るだけの者に、大仕事を任せてはいけない。人には向きがあり、材木には形がある。ある者にある仕事を一つ任せただけでも青息吐息になると同時に、別の者なら百任せても鼻歌を歌っていることはあるものだ。
だからわずかな目盛りを読み取りたがる者は、必ず天下の大仕事をしないままで終わるし、ちまちました事だけに目が行く者は、大仕事の邪魔ばかりするのだ。これは丁度、ネコにウシを捕らせるようなものであり、トラにネズミを捕らせるようなものである。
いま世にある人材も、あるいは天下を平定し、異国をも従わせ、滅びかかった国を救い、断絶した国を復興させ、ひたすら真っ直ぐ正直にと志し、こんがらかったしがらみを断とうとしているのに、ちまちました宮廷作法が出来ていない、煩瑣な礼儀が出来ていないと責め立てられる。
その一方でちまちました悪知恵が働き、権力者の気持ちが良くなることばかり言い、田舎者の因習に首まで漬かり、世間の馬鹿さ加減に迎合しているというのに、天下を左右する重職に就いていたりする。これは国が滅ぶきっかけに十分だ。これはつまり、斧で髭を剃り、カミソリで大木を切り倒そうとするようなもので、全く間尺に合っていない。
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