論語:原文・書き下し
原文
子曰、「人*無遠慮、必有近憂。」
校訂
武内本
清家本により、人の下に而の字を補う。
定州竹簡論語
……曰:「人而a無b慮,必有近憂。」427
- 而、阮本無、皇本、高麗本有。
- 、今本作”遠”。
→子曰、「人而無慮、必有近憂。」
復元白文(論語時代での表記)
※近→斤。
書き下し
子曰く、人にし而く慮ふ無きは、必ず近く憂ふる有り。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「人でありながら遠くを思い巡らさない者には、必ず手近に憂いが起きる。」
意訳
先々までよく考えておかないと、きっとすぐに心配事が起きるぞ。
従来訳
先師がいわれた。
「遠い将来のことを考えない人には、必ず間近かに心配ごとが待っている。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「人沒有長遠的考慮,必定有眼前的憂愁。」
孔子が言った。「人に長期的な思慮が無いと、必ず目の前に心配事が起こる。」
論語:語釈
遠(エン)→
(甲骨文)
論語の本章では”時間的に遠くの事柄”。初出は甲骨文。原義は手に衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”を意味したかは分からない。ただし”遠い”の用例は甲骨文からある。詳細は論語語釈「遠」を参照。
定州竹簡論語の「」は『大漢和辞典』にも見られないが、「遠」の異体字だと解する以外に無い。
”時間的に遠い”と解したのは古注も同じ。
古注『論語集解義疏』
註王肅曰君子當思慮而預防也疏…人生當思漸慮逺防於未然則憂慮之事不得近至若不為逺慮則憂患之來不朝則夕故云必有近憂也
王粛「君子たる者、必ずよく考えて予防に努めるべきである。」
付け足し。人の生涯というものは、よく考えるほどに凶事が未然に防がれる。だから心配事は近くにはあり得ない。もし考え無しに過ごしていたら、災いが向こうからやって来て、朝は無事でも晩にはただでは済まないことになる。だから”考え無しの者には必ず困りごとが起こる”と言ったのだ。
地理的に遠い場所、とする解釈もある。北宋のSM仮面蘇東坡は、新注で以下のように言う。
新注『論語集注』
蘇氏曰:「人之所履者,容足之外,皆為無用之地,而不可廢也。故慮不在千里之外,則患在几席之下矣。」
蘇東坡「人が行き来できるのは、行けるところだけで、それ以外は用のない場所だ。だがそれでも、無しにして仕舞うわけにはいかない。だから千里の遠くの事情を思いやらないと、今座っている机と椅子の下から、困りごとが起こるのだ。」
北宋帝国期は周辺異民族の活動が活発になった時代で、今で言うチベットの山奥の些細な変事が、宋帝国内部の政治や人事に影響を与えるようになっていた。王安石の失脚の一因となったのも、はるか遠くのチベットへの派兵が失敗に終わったことだった(煕河戦役)。
ただし蘇東坡がそういう時代背景を元に、論語の本章を解したとまでは言えない。古注と違ったことを言いたかっただけだろう。
慮
(金文大篆)
論語の本章では”次々と思い巡らす”。初出は春秋早期の金文。『学研漢和大字典』によると、次々と関連したことを連ねて考えること。旅(並んだ人々)-侶(ずるずると連なる友づれ)-呂(連なる背骨)と同系のことばと言う。『字通』には、つけ加えるべき情報がない。詳細は論語語釈「慮」を参照。
近
論語の本章では”近く”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はghi̯ənで、同音に”ちかい”を意味する漢字は無い。詳細は論語語釈「近」を参照。
憂(ユウ)
(金文)
論語の本章では”うれい”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。
論語:付記
論語の本章は、「深謀遠慮」の語源となった章。「遠慮」はもと「遠くを思い巡らす」ことだったが、現代では「遠回しに断る」意となった。江戸時代には「遠慮」という刑罰があり、武士階級などに科され、自宅の外に出ないで謹慎した。ただし来客は認められた。
本章のように孔子が思ったかもしれない史実がある。孔子はたびたび「遠慮」無くして窮地に陥っており、一つめが故国の魯で大出世を果たした後、民間の風俗を厳しく取り締まって民に嫌われ、貴族の根城を破壊して回って貴族に嫌われ、ついに国から追い出されたこと。
子路が言った。「先生は去るべきです。」孔子が言った。「魯は今、天地の祭りの時期だ。私のような家老格に、お供えのお下がり肉が届くなら、私はまだここにいてよい。」しかし李桓子は斉の女楽を受け取り、三日間政治を摂らず、祭りのお下がりをのせた台を、孔子に贈らなかった。
とうとう孔子は都城を去り、郊外の村に泊まった。
(『史記』孔子世家)
もう一つが本篇の冒頭に連ねて記された、陳・蔡での兵糧責めだろう。おそらく相当活発に、呉国を扇動して両国を滅亡寸前にまで追いやったが、脱出の手立てを考えていなかったか、あるいは策が外れて一行もろとも飢えるハメになった。快闊な子貢まで怒り出すほどだった。
孔子一行は進み行くことが出来ず、食料が尽きた。従者は飢えて、起き上がれなくなった。しかし孔子は書物を講義し詩を口ずさみ、琴を弾いて歌い元気だった。子路が怒って言った。「君子でも追い詰められるのですか。」孔子が言った。「当たり前だ。凡人はそこで無茶をするがね。」
聞いて子貢は、怒りにみるみる顔を赤らめた。孔子が言った。「子貢よ、お前は私を、ただの学び屋の物知りと思っているのか。」子貢が言った。「そうです。そうじゃないんですか。」孔子が言った。「そうではない。わたしはたった一つを貫いてきただけだ。」
(『史記』孔子世家)
孔子はかなりこたえたはず。逃げるように華南を去り、第二の根拠地である衛国に落ち着いた。二度目以降の滞在では顔濁鄒親分の屋敷で陰謀を企むようなことはせず、衛国でも高名な貴族の蘧伯玉の屋敷でおとなしくしていたようで、初回にされたような監視の記録はない。
その後、呉国の圧力を背景に、国老待遇で魯国に戻れたのだが、最後の失敗が待っていた。頼みの呉国が留守を越に襲われて、みるみる没落したことがそれで、孔子は即座に閑職に回され、息子の葬儀費用にも事欠く有様となった(論語先進篇7)。
革命的政治家の生涯を貫いた(論語衛霊公篇3)以上、仕方のないことだったかも知れない。
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