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論語詳解394衛霊公篇第十五(16)これを如何と°

論語衛霊公篇(16)要約:人は問題を意識するまで、解決法を求めません。何かを学ぶのも同じ事。学びたいという欲求がない人に、教えても無駄なばかりか互いに不幸です。孔子先生はその真理に、ちゃんと気付いていましたというお話。

    (検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・書き下し

原文

子曰、「不曰『如之何、如之何』者、吾末*如之何也已矣。」

校訂

武内本

未、唐石経末に作る。末は無と同義。

定州竹簡論語

曰:「不曰『如之何,如之何』者,吾未a如之何也b。」430

  1. 未、今本作”末”。
  2. 今本”也”字下有”已矣”字。

→子曰、「不曰『如之何、如之何』者、吾未如之何也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 不 金文曰 金文 如 金文之 金文何 金文 如 金文之 金文何 金文者 金文 吾 金文未 金文如 金文之 金文何 金文也 金文

※論語の本章は、也の字を断定で用いているなら、戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。

書き下し

いはく、これ如何いかにせむ、これ如何いかにせむとはざるものは、われいまこれ如何いかんともせざるかななり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「これをどのようにしよう、これをどのようにしよう、と言わない者には、私は今なおどうしようとしてもできないでいるのだよ。」

意訳

孔子 キメ
「どうしよう、どうしよう」と言わない者は、どうしようもない。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「どうしたらいいか、どうしたらいいか、と常に自らに問わないような人は、私もどうしたらいいかわからない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「遇事不想著『怎麽辦,怎麽辦』的人,我不知道對他怎麽辦。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「事に及んで”どうしたらいい、どうしたらいい”と思わない人は、その者にどうしてやったらよいか分からない。」

論語:語釈

、「 (  ( )。」


之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

如之何

如 篆書 之 篆書 何 篆書
(篆書)

間に目的語が入った「いかん」の語法。「如何之」と同じ。愚直に語順通り読み下せば、「かくの如きを何せん」=”これを何にしよう”の意。入試漢文必出の「如何」と「何如」の区別も、語順通り主語は前、目的語は後ろに来ると覚えておくだけでいい。

何之 之を何の如くするか=これをどうするのか(英語的に言えばSVCO)
如之 何が之の如きか=何がこれに似ているか(英語的に言えばSVC)

訳者は日本の漢文読解史に詳しくないので断定は出来ないが、おそらく平安朝の時代にどちらも「いかん」と読んでしまったのが混乱の原因。熟語として「いかん」を使うのは、そろそろやめにした方がいいのではないか。

「如」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「口+〔音符〕女」の会意兼形声文字で、もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる、という。詳細は論語語釈「如」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

吾末如之何也已矣

伝統的には、「われ、未だこれをいかんとするもなきのみ」と読み、「也已矣」三字を「のみ」とひとまとめとする。それでもかまわないが、ここでの「也」は日本語の助詞「は」に当たり、「已」は”終わった”、「矣」は断定の”である”、詳細は論語語釈「矣」を参照。

愚直に読み下すなら、「われ、未だ之の如きを何せざるおわなり」となり、”私は今なおこのようなものを何にもしないで、終えてしまった”の意。つまり”どうしようもない”。

ただこの回りくどい表現は後漢以降のもので、上掲の通り前漢宣帝期の定州竹簡論語では、「也」一字のみ。”…だよ”という詠歎か、”~である”という断定。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章は、千古不易の現実を語ったのみ。疑問や不安を持たない者に、教える事は出来ないということ。教えを受けようという需要がないのだから、押し売りしても無駄。結局人間は、知っているものしか想像できず、想像できたものしか求めないのでそれしか得られない。

教育もなく飢餓の中にある子供が、プライベートジェットを欲しがるだろうか、ということ。人は求めた通りに生きる、と仏教が言うのはこのことだろう。孔子もたちの悪い弟子かその親に、成績が上がらないじゃないかと文句をつけられたのかも。親子も教師もともに不幸だ。

なお古注は、本章に違う解釈をしている。

孔安国 古注
「子曰く、之を如何せんと曰わざる。」注。孔安国曰く、之を如何せんと曰わざるとは、これをどうしよう、と言わないことを言うのである。「吾末だ之を如何とせざる也已む矣。」注。孔安国曰く、之を如何とは、災いがすでに身に及んでしまってから、自分ではどうしようもないことを言うのである。(『論語集解義疏』)

要するに、事前に用心や備えもしないで危機におちいっても、助けることなど出来ないよ、と解している。なお実は古注には続きの付け足しがあったのだが、わざと異体字や複雑な文型を用いて学をてらっているのに呆れて、ちょん切って読んでやらないことにした。

ともあれ古注の儒者がそう解釈したのには理由があって、論語衛霊公篇12、「人は遠くを思い巡らさないから、必ず手近に憂いが起きる」と関連づけたのだろう。一方で新注は、「問題が起きたらよく考えろ、軽率に行動に出て失敗してもわしは知らんよ」と解している。

朱子
之を如何にせん、之を如何にせんとは、よく考えて事態を明らかにしてその場にいるという言葉である。考えもなしにやみくもに行動に出る者は、聖人だろうと救いがたいので、どうしようもないのである。(『論語集注』)

しかし古注も新注も、論語の原意を突いているとは思えない。繰り返すが本章は、「求めよ、さらば与えられん」と言っているだけであって、論語の他の章と関連づける必要は無いし、「どうしよう」と焦っている者が熟慮しているわけでもない。

秦帝国の滅亡から楚漢戦争を経て、儒者がやっと本を書き出したのは、現存する中では賈誼の『新書』と、それと紛らわしい著者と書名と時代と内容の本で、陸賈の『新語』がある。漢帝国成立までの地獄を経験しただけあって、論語の本章にこと寄せて次のように書いている。

顏回一簞食,一瓢飲,在陋巷之中,人不堪其憂,齊,夫用人若彼,失人若此;然定公不覺悟,信季孫之計,背貞臣之策,以獲拘弱之名,而喪丘山之功,不亦惑乎!

故邪臣之蔽賢,猶浮雲之鄣日月也,非得神靈之化,罷雲霽翳,令歸山海,然後乃得覩其光明,暴天下之濡濕,照四方之晦冥。今上無明王聖主,下無貞正諸侯,誅鋤姦臣賊子之黨,解釋疑𦄂紕繆之結,然後忠良方直之人,則得容於世而施於政。故孔子遭君暗臣亂,眾邪在位,政道隔於王家,仁義閉於公門,故作《公陵》之歌,傷無權力於世,大化絕而不通,道德施而不用,故曰:無如之何者,吾末如之何也已矣

陸賈
顔回は粗末な食事を摂りながら貧民街で生きていたが、その程度は誰もが嫌がるほどだった。この一事で分かるように、当時の魯国は人材活用が滅茶苦茶で、あたら賢才を無駄に捨てていた。

だが殿様の定公はバカ殿で、それに気付きもせず、宰相の季孫氏にだまされて、忠義者の言うことを聞かず、世間にバカ殿よと嘲られ、何の成果も出さず治世を終えたのは、頭が悪かったとしか言いようが無い。

だから悪党が賢者を追いやるのは、雲が月日を隠すようなもので、神ならぬ身には、どうしようもない。たまたまそういう巡り合わせなら、あっという間に闇が吹き払われて、明るい世の中を見られたりする。

だが今の世は上にろくな君主がおらず、下にまじめな家臣もいない。悪党どもを根絶やしにして、こんがらかった利権をバッサリ取り払わないと、まじめで有能な人は浮かばれない。たまたまそうなって、出来る仕事人が政治を取れるのだ。

他でもない孔子も、ろくでもない時代に生まれて、バカ殿ばかりが相次ぎ、政治に王道は全く見られず、朝廷は仁義を受け付けなかった。だから「公陵のうた」を作って、まともな政権が世の中に無く、いくら教えても世間の馬鹿は治らず、道徳を説いても通じないのを嘆き、「どうしよう、と言わない奴には、どうしてやりようもない」と言ったのだ。(『新語』慎微2-3)

顔淵について、「夫用人若彼,失人若此」=”人材活用はこの通りで、人を無駄にしたのもこの通り”と言っているのに注目。董仲舒による顔淵神格化キャンペーンの前だから、孔子の弟子を浪人暮らしさせている、と言っているだけで、取り立てて顔淵を大人物に仕立てていない。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。だがこの話の眼目は他にある。

高祖劉邦
「今上無明王聖主」=”今の世は上にろくな君主がおらず”と書いて、首をちょん切られないのだろうかと他人事ながら心配になる。だが前漢まではまだ、こうした硬骨の儒者が出る。陸賈は高祖劉邦の旗揚げ時代からの参謀で、外交官としても活躍したが、ただの口先男ではない。

劉邦は中年過ぎまで郷里で無頼を働き、即位後も生涯がらっ八な一不良を貫いた。儒者のまじめな説教など大嫌いで、かんむりに酒臭いしょうべんを引っかけてやる、と息巻いた。だが唯一じじいの説教だけは、即位後も晩年に至るまで鄭重に聞いたと『史記』が書いている。

吾求公數歲,公辟逃我,今公何自從吾兒游乎?

劉邦「こ…これはご老人方、それがしが何年招き申し上げても、イヤじゃダメじゃとおいで下さらなかったに、今愚息と共においでなのは、何故ですかな?」(『史記』留侯世家24)

優男の張良に従ったわけも、それで無理やり付けることができる。だが陸賈は長生きもしたのだろうが、活動時期から見て若造だったはずの所、不良で儒者嫌いの劉邦が従った。何かにビビらねばあり得ない。多分目の前で人の一人や二人、殴刂殺す現場を目撃したのだろう。

「ろくでもない君主」と言われて許したのはそれゆえだ。だがこの不良のバクチは死後に当たった。陸賈は劉邦死後に呂后の一族が帝国を乗っ取ると、隠居を装って政界に根回しを始め、軍の幹部を焚き付けて、呂后が死ぬと即座に呂氏を打倒、漢帝国を復活させた。

馬融 鄭玄
頭は悪いは、人はクズだはの後漢儒者と、そのあたりは全然違う。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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