論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
閔損子騫(びんそん・しけん)
閔損字子騫。少孔子十五歲。孔子曰:「孝哉閔子騫!人不閒於其父母昆弟之言。」不仕大夫,不食汙君之祿。「如有復我者,必在汶上矣。」
閔損、字は子騫。孔子より少きこと十五歳。孔子曰く、「孝なるかな閔子騫、人、其の父母昆弟の言を間せず。」大夫に仕えず、汙君(オクン)の禄を食まず。「如し我を復たする者有らば、必ず汶(ブン)の上(ほとり)に在らん。」
閔損、字は子騫。孔子より十五歳年少。
孔子は言った。「孝行者だな閔子騫は。世間は彼の父母兄弟の言うことに口出ししない。」
家老に仕えず、行いの悪い君主からは給料を貰わなかった。
その言葉。「もし私を再び採用しようとしたら、汶水を渡って斉に亡命します。*」
冉耕伯牛(ぜんこう・はくぎゅう)
冉耕字伯牛。孔子以為有德行。伯牛有惡疾,孔子往問之,自牖執其手,曰:「命也夫!斯人也而有斯疾,命也夫!」
冉耕、字は伯牛。孔子、以て徳行有りと為す。伯牛、悪疾有り、孔子、往きて之を問い、牖(ユウ、まど)自り其の手を執り、曰く、「命なるかな、其の人にして其の疾有るや、命なるかな。」
冉耕、字は伯牛。孔子は冉耕に徳の行いがあるとした。
伯牛は悪性の伝染病にかかって、孔子はその近くに行って見舞い、連子窓から冉耕の手をとって言った。「運命なのだろうか。この人がこんな病気にかかるとは。運命なのだろうか。」
冉雍仲弓(ぜんよう・ちゅうきゅう)
冉雍字仲弓。仲弓問政,孔子曰:「出門如見大賓,使民如承大祭。在邦無怨,在家無怨。」孔子以仲弓為有德行,曰:「雍也可使南面。」仲弓父,賤人。孔子曰:「犁牛之子騂且角,雖欲勿用,山川其舍諸?」
冉雍、字は仲弓。仲弓、政を問う。孔子曰く、「門を出づるは、大賓を見るが如くし、民を使うは、大祭を承くるが如くす。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。」孔子、仲弓を以て徳行有りと為し、曰く、「雍や南面せしむ可し。」仲弓の父は、賎人なり。孔子曰く、「犂牛の子も騂(あか)くして且つ角有らば、用うる勿からんと欲すと雖も、山川其れ諸れを舎てんや。」
冉雍、字は仲弓。
仲弓が政治を問うた。孔子が言った。「一歩門を出たら、会う人誰も国賓と思え。民を使う際は、大きな祭を行うように慎重にせよ。国の人にも家の人にも怨まれるようなことをするな。」
孔子は仲弓に徳の行いがあるとし、言った。「冉雍は君主に据えてもいい。」
仲弓の父は、奴隷だった。しかし孔子は言った。「百姓家の牛の子も、色が赤くて角が立派なら、祭礼に用いないでおこうとしても、山川の神が捨ててはおかないだろうよ。」
冉求子有(ぜんきゅう・しゆう)
冉求字子有,少孔子二十九歲。為季氏宰。季康子問孔子曰:「冉求仁乎?」曰:「千室之邑,百乘之家,求也可使治其賦。仁則吾不知也。」復問:「子路仁乎?」孔子對曰:「如求。」求問曰:「聞斯行諸?」子曰:「行之。」子路問:「聞斯行諸?」子曰:「有父兄在,如之何其聞斯行之!」子華怪之,「敢問問同而答異?」孔子曰:「求也退,故進之。由也兼人,故退之。」
冉求、字は子有。孔子より少きこと二十九歳。季氏の宰と為る。季康子、孔子に問いて曰く、「冉求は仁なるか。」曰く、「千室の邑、百乗の家、求や其の賦を治めしむ可し。仁は則ち吾知らざるなり。」復た問う、「子路は仁なるか。」孔子對えて曰く、「求の如し。」求問いて曰く、「聞くままに斯(ここ)に諸を行わんか」子曰く、「之を行え。」子路問う、「聞くままに斯に諸を行わんか。」子曰く、「父兄の在る有り、之を如何ぞ其れ聞くままに斯に之を行わん。」子華、之を怪しみ、「敢て問う、問いは同じうして答えは異なる。」孔子曰く、「求や退く、故に之を進む。由や人を兼ぬ、故に之を退く。」
冉求、字は子有。孔子より二十九歳年少。魯国門閥三家老筆頭の、季氏の執事になった。
主君の季康子が孔子に問うた。「冉求は常時無差別の愛を持っているか。」孔子が言った。「家老家の領地や家内を取り仕切ることは出来ましょうが、愛の方は、はて。」
季康子「子路は常時無差別の愛を持っているか。」
孔子「冉求と同じですな。」
その冉求が問うた。「先生に何か教わったら、そっくりそのまま実行すべきですか。」
孔子「やりなさい。」
子路「先生に何か教わったら、そっくりそのまま実行すべきですか。」
孔子「お前には父兄がいるじゃないか。何でそっくりやる必要があろうか。」
子華がこの話を怪しんで言った。「すみません、問いは同じなのに答えが違うのは、なぜですか。」
孔子「冉求は引っ込みがちだから、やれと言った。子路は出しゃばりだから、やめとけと言った。」
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