論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
仲弓爲季氏宰問政子曰先有司赦小過舉賢才曰焉知賢才而舉之曰舉爾所知爾所不知人其舍諸
校訂
諸本
- 『上海博物館蔵戦国楚竹書』仲弓:孔曰「~先又(有)司、(舉)(賢)才、惑(赦)(過)(與)辜(罪)正(政)之(始)也。」~中(仲)弓曰「(雍)也不(敏)、唯(雖)又(有)(賢)才、弗(知)(舉)也。敢昏(問)(舉)才女(如)之可(何)。」中(仲)尼「夫(賢)才不可(弇)也。(舉)而所(知)、而(爾)所不(知)、人丌(其)(舍)之者。」
- 宮内庁蔵清家本:仲弓爲季氏宰問政子曰先有司赦小過舉賢才曰焉知賢才而舉之曰舉爾所知爾所不知人其舍諸
東洋文庫蔵清家本
弓爲季氏宰問政子曰先有司/赦小過舉賢才曰焉知賢才而舉之曰舉爾所知爾所不知人其舍諸
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……為季氏□,問正。子322……「焉知賢財a而舉之?」曰b:「舉壐所知;壐所不知,人其舍□?」323
- 財、今本作”才”。古文與才、財通。
- 曰、今本作”子曰”。
標点文
仲弓爲季氏宰、問正。子曰、「先有司、赦小過、舉賢財。」曰、「焉知賢財而舉之。」曰、「舉壐所知。壐所不知、人其舍諸。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※舉→居・財→才・壐→爾。論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただしなくとも文意が変わらない。「問」「過」の用法に疑問がある。
書き下し
仲弓季氏の宰と爲り、正を問ふ。子曰く、司有るものを先だて、小き過を赦し、賢しき財を舉げよ。曰く、焉にか賢しき財を知り而之を舉げむや。曰く、壐の知る所を舉げよ。壐の知らざる所は、人其れ諸を舍かむや。
論語:現代日本語訳
逐語訳
仲弓が季氏の執事になり、政治を問うた。先生が言った。「役人たちを先に立て、小さな間違いは許し、有能な者を昇進させよ。」仲弓が問うた。「どうやって才能を見分けて昇進させるのですか?」先生が言った。「お前がそう思うなら昇進させよ。お前の知らない才能のある人々は、人々が何とも捨てておかないよ。」
意訳
冉雍(仲弓)が、魯国筆頭家老家・季氏の執事になった。
冉雍「政治の要点とは?」
孔子「仕事は部下に任せなさい。部下のしくじりは、少々の事なら大目に見なさい。デキる者を引き立てるのを忘れないようにな。」
冉雍「どうやってデキるかどうか見分けるのですか?」
孔子「お前がデキると思うならそれでいい。知らない人物たちも、デキるならまわりの者が放っておかないよ。」
従来訳
仲弓が魯の大夫季氏の執事となった時に、政治について先師にたずねた。先師がいわれた。――
「それぞれの係の役人を先に立てて働かせるがいい。小さな過失は大目に見るがいい。賢才を挙用することを忘れないがいい。」
仲弓がたずねた。――
「賢才を挙用すると申しましても、もれなくそれを見出すことはむずかしいと存じますが――」
先師がいわれた。――
「それは心配ない。お前の知っている賢才を挙用さえすれば、お前の知らない賢才は、人がすててはおかないだろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
仲弓當了季氏的總管,問政。孔子說:「使下屬各司其職,寬容小錯,提拔賢才。」仲弓問:「怎知誰是賢才而提拔?」孔子說:「提拔你所知道的,你不知道的,別人會埋沒他嗎?」
仲弓が季氏の執事になって、政治を問うた。孔子が言った。「部下にそれぞれの仕事を分担させ、小さな間違いは許し、賢く有能な者を引き上げよ。」仲弓が問うた。「どうやって賢才を見抜き、抜擢するのですか?」孔子が言った。「お前の知っている者を抜擢しなさい。お前が知らなくても、他の人が才人を埋もれさせておくだろうか?」
論語:語釈
仲弓(チュウキュウ)
孔子の弟子、孔門十哲の一人、冉雍仲弓のこと。詳細は論語の人物:冉雍仲弓を参照。『史記』弟子伝には「仲弓父,賤人」とあり、父親の身分が低かったという。ただし孔子も「吾少也賤」”私も若い頃は身分が低かった”と言った事に論語子罕篇6ではなっている。
冉耕子牛、冉求子有とともに、新興武装氏族である冉氏の一員で、父親は貴族と認められるほどの身分では無かったかもしれないが、素寒貧の出身ではない。仕官の記録がか細いことから、がめつく就職先を探さねばならないほど貧しくは無かったと思われる。孔子は「君主に据えてもよいほどだ」とその人格を賞賛した(論語雍也篇1)。
「仲」「中」(甲骨文)
「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。字形:は「丨」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。甲骨文の字形には、吹き流しを上下に一本だけ引いたものもある。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。甲骨文・金文では”兄弟の真ん中”・”次男”を意味した。論語語釈「中」も参照。詳細は論語語釈「仲」を参照。
「弓」(甲骨文)
「弓」の初出は甲骨文。字形は弓の象形。弓弦を外した字形は甲骨文からある。原義は”弓”。同音は無い。詳細は論語語釈「弓」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”なる”。その地位や仕事に就くこと。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
季氏(キシ)
魯国門閥家老筆頭の季孫氏の意。孔子が生まれる半世紀ほど前の第5代国公・桓公から分家した門閥三家老家を三桓と言い、季孫家が司徒(宰相)を、叔孫家が司馬(陸相)を、孟孫家が司空(法相兼建設相)を担った。孔子と季孫家・孟孫家の関係は良好で、『史記』孔子世家によると、若年時には季孫家の家臣だったこともある(「季子の史と為り、料量平らかなり」)。
中国人の子の名乗りには、長子から順に伯・仲・叔・季との呼び方がある。三人の場合は孟・仲・季または孟・叔・季と呼ぶ場合もあり、後者が三桓の場合に当たる。
孔子が魯から亡命したときの季孫家当主は季桓子(季孫斯)で、孔子亡命直前に斉国から来た女楽団を見物したと『史記』には書いてあるが、なにか具体的に孔子を追い出すようなことをしたとは書いていない。次代季康子(季孫肥)の代になって孔子は帰国するのだが、これといって孔子と関係が悪かったという記録は無い。
三桓が国政を壟断する悪党で、孔子はそれに対抗した正義の味方という、子供だましのヒーローもののような構図は全て、後世の儒者のでっち上げで、信用するに足りない。
論語の本章について言えば、冉雍の年齢は『史記』弟子伝にも、『孔子家語』七十二弟子解にも不明なため、これだけでは冉雍がいつ、季孫家の誰に仕えたのか分からない。孔門から季孫家へは、孔子亡命前に子路が執事として仕え、孔子亡命に伴って冉有へと交替した。論語先進篇16の記事などから、孔子が帰国して以降も、冉有が季孫家の執事であり続けたと思われる(『春秋左氏伝』哀公二十三年=BC472に記事あり。孔子の逝去はBC479)。従ってもし冉雍が季孫家の執事を務めたとすると、弟子最年長の子路より先に務めたか、冉有と交代する時期にあるいは務めたことになる。
ただし『上海博物館蔵戦国楚竹書』仲弓篇によれば、「季〔辶亘〕子」とあるので子路と前後して仕えたと分かる。
- 季〔辶亘〕子□(使)中弓為□(宰);中(仲)弓㠯(以)告孔=(孔子)曰:「季是(氏)
- □(與)昏(聞)之;夫季是(氏)河東之城(盛)□(家)也;亦
- 子又(有)臣□(萬)人;道女(汝)思老、丌(其)□(家);夫
- □(使)□(雍)也於□(宰)夫之□(後);□(雍)也憧
- 㠯(以)行壴(以);為之宗□(謀)女(汝)。」中(仲)弓曰:「敢昏(問)為正(政)可(何)先?」
- □(雍),女(汝)𣉻(智)者。」中(仲)弓□(答)曰:「□(雍)也弗昏(聞)也。」孔=(孔子)曰:「夫祭;至敬之
- 老〓(老老)慈幼;先又(有)司;□(舉)臤(賢)才;惑(赦)□(過)□(與)辠(罪)
- ,正(政)之□(始)也。」中(仲)弓曰:「若夫老〓(老老)慈〓幼(慈幼),既昏(聞)命壴(矣)。夫先又(有)司為之女(如)可(何)?中(仲)尼曰:「夫民安舊而𠩈(塚)□(舉)
- 又(有)城(成);是古(故)又(有)司不可不先也。中(仲)弓曰:「□(雍)也不□(敏);唯(雖)又(有)臤(賢)才;弗□(知)□(舉)也。敢昏(問)□(舉)才
- 女(如)之可(何)?中(仲)尼:夫臤(賢)才不可□(弇)也。□(舉)而所𣉻(知);而(爾)所不□(知);人丌(其)□(舍)之者。」中(仲)弓曰:「惑(赦)□(過)(與)辠;則民可幼(?)
『上海博物館蔵戦国楚竹書』仲弓
(甲骨文)
「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。同音は存在しない。甲骨文の用例は、地名なのか、人名なのか、末子を意味するのか分からない。金文も同様。詳細は論語語釈「季」を参照。
(甲骨文)
「氏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「以」と同じで、人が手にものを提げた姿。原義は”提げる”。「提」は「氏」と同音。甲骨文の用例は、欠字が多くて判読できない。金文では「眂」と記し「視」と釈文される例がある。西周末期の金文では、”氏族”の意と解せる例がある。金文では官職の接尾辞、夫人の呼称、”氏族”の意に用い、戦国時代では”だから”、”これ”の意に用いた。詳細は論語語釈「氏」を参照。
宰(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”執事”。一家の取り締まりを行う、家臣の長。領地の「宰」は”代官”を意味し、一家の「宰」は”執事”を意味する。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「䇂」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
政(セイ)→正(セイ)
論語の本章では”政治の要点”。
(甲骨文)
「政」の初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「丨」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。
「正」(甲骨文)
定州竹簡論語では「正」と記す。文字的には論語語釈「正」を参照。理由は恐らく秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱)。『史記』で項羽を本紀に記し、正式の中華皇帝として扱ったのと理由は同じで、前漢の認識では漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、正統な後継者と位置づけていた。
つまり秦帝国を不当に乗っ取った暴君項羽を、倒して創業した正義の味方が漢王朝、というわけである。だから項羽は実情以上に暴君に描かれ、秦の二世皇帝は実情以上のあほたれ君主に描かれると共に、寵臣の趙高は言語道断の卑劣で残忍な宦官として描かれた。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
先(セン)
(甲骨文)
論語の本章では、”先に立てる”。仕事を任せること。初出は甲骨文。字形は「止」”ゆく”+「人」で、人が進む先。甲骨文では「後」と対を為して”過去”を意味し、また国名に用いた。春秋時代までの金文では、加えて”先行する”を意味した。詳細は論語語釈「先」を参照。
有司(ユウシ)
論語の本章では”それを専門とする担当者”。
(甲骨文)
「有」は論語の本章では”担当を持つ者”。字の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
(甲骨文)
「司」は論語の本章では”但当”。初出は甲骨文。字形は「𠙵」”口に出す天への願い事”+”幣のような神ののりしろ”。原義は”祭祀”。春秋末期までに、”祭祀”・”王夫人”・”君主”・”継ぐ”・”役人”の意に用いた。詳細は論語語釈「司」を参照。
赦*(シャ)
(金文)
論語の本章では”罪を許す”。初出は西周末期の金文。字形は「亦」”汗を流す人”+「攴」”刑具を持った手”。刑罰に恐れおののく人に手を下さないさま。上古音での同音は無い。西周末期の金文から、”罪をゆるす”の意に用いた。詳細は論語語釈「赦」を参照。
小過(ショウカ)
論語の本章では”小さな罪”。「過」に”罪”の語義は春秋時代では確認できない。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
(金文)
「過」の初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
舉(キョ)
(金文)
論語の本章では”昇進させる”。新字体は「挙」。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。初出の字形は「與」(与)+「犬」で、犬を犠牲に捧げるさま。原義は恐らく”ささげる”。論語時代の置換候補は、”あげる”・”あがる”の意で近音の「喬」、”おく・すまわせる”の意で同音の「居」。詳細は論語語釈「挙」を参照。
賢才(ケンサイ)→賢財*(ケンサイ)
論語の本章では”有能な人材”。
(金文)
「賢」は論語の時代では、”知能が優れている”のみを示さず、”人格的に優れている”をも意味する。初出は西周早期の金文。字形は「臣」+「又」+「貝」で、「臣」は弓で的の中心を射貫いたさま、「又」は弓弦を引く右手、「貝」は射礼の優勝者に与えられる褒美。原義は”(弓に)優れる”。詳細は論語語釈「賢」を参照。
(甲骨文)
「才」の初出は甲骨文。字形は地面に打ち付けた棒杭による標識の象形。原義は”存在(する)”。金文では「在」”存在”の意に用いる例が多い。春秋末期までの金文で、”才能”・”財産”・”価値”・”年”、また「哉」と釈文され詠嘆の意に用いた。戦国の金文では加えて”~で”の意に用いた。詳細は論語語釈「才」を参照。
(前漢隷書)
定州竹簡論語では「才」を「財」と記す。初出は西周早期の金文だが、「才」と記され未分化。現行字体の初出は戦国最末期の「雲夢龍崗秦簡」とされるが画像が未公開。確実な初出は前漢の隷書。字形は「貝」”タカラガイ”+音符「才」。同音に「裁」「才」「材」、「在」、「載」「栽」。詳細は論語語釈「財」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、”…てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知人”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記すのに、本章で「知」となっている理由は明らかでない。文字的には論語語釈「智」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
爾(ジ)→壐(ジ)
論語の本章では”お前”。
(甲骨文)
「爾」の初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
(秦系戦国文字)
定州竹簡論語の「壐」の初出は斉系戦国文字。ただし字体は「鉨」。現行字体の初出は秦戦国文字。下が「玉」になるのは後漢の『説文解字』から。字形は「爾」”はんこ”+「土」または「玉」で、前者は封泥、後者は玉で作ったはんこを意味する。部品の「爾」が原字。「璽」は異体字。同音は無い。戦国最末期「睡虎地秦簡」の用例で”印章”と解せる。論語時代の置換候補は部品の「爾」。詳細は論語語釈「壐」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”者”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人”。人間一般の意。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”まことに”→”そんなことを…だろうか”という反語。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詠嘆の意は西周の金文から見られ、派生して反語や疑問に解するのにも無理が無い。詳細は論語語釈「其」を参照。
舍(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”見捨てる”。才能を認めないこと。初出は甲骨文。新字体は「舎」。下が「𠮷」で「舌」ではない。字形は「𠆢」”屋根”+「干」”柱”+「𠙵」”くち=人間”で、人間が住まう家のさま。原義は”家屋”。春秋末期までの金文では”捨てる”、”与える”、”発布する”、”楽しむ”の意、また人名に用い、戦国の金文では一人称に用いた。戦国の竹簡では人名に用いた。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”そのような複数の人々”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。ごんべんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。「者」も春秋時代までにその用例がある。「之於」(シヲ)と音が通じるので「…を…に」を意味する合字とされるが、言い出したのは清儒で、例によって全く根拠を言っておらず、真に受ける必要はまるで無い。詳細は論語語釈「諸」を参照。
人其舍諸(ひとそれもろもろをおかんや)
上掲の書き下しの通り、伝統的にも反語に読む。「人舍諸」だけなら「人これ(=諸=之於)を舍く」と読んで、”人々は見向きもしない”の意となるが、「其」に反語の意味があり、多くは句末に「乎」などを伴うが、本章の場合はそれ無しで反語の意味を表している。春秋時代までの漢語の文語は、平叙文はそのまま疑問文や詠嘆文になり得、句末の助辞が無くともよい。
論語:付記
検証
論語の本章は「焉」字を除き論語の時代に遡れる。また内容的にも、孔子の教説と矛盾しない。孔子が目指したのは、それまでの血統貴族政の世の中から、為政者にふさわしい技能教養さえ身につければ政治や行政の地位に就ける世の中への変革だった。つまり論語の本章が言う「有司が先に立つ」世の中で、孔子の言葉と判断できる十分な説得力を持っている。
なお上掲「校訂」や「季氏」語釈に記した通り、戦国時代の竹簡までは、若干違った話として伝えられ、その後論語に組み込まれた可能性はあるが、とりあえずは史実の孔子と冉雍仲弓の問答と見てよい。
解説
論語の当時を記す史書は『春秋』だが、そのうち最も充実した『左氏伝』には、冉雍も仲弓も出てこない。『穀梁伝』『公羊伝』も同様。後世の成立になる『史記』も冉雍の仕官ばなしは全く記していない。子路が季氏の執事になったことは『左伝』が記し、冉有が同じ職に就いたことは『春秋左氏伝』が記すのに、何かが変だ。
また冉雍仲弓の年齢が、『史記』によっても『孔子家語』によっても不明も不明な事を語釈に記した。しかし『上海博物館蔵戦国楚竹簡』の記事が正しいなら、冉雍仲弓の仕えた相手は季桓子だから、孔子の弟子では最年長(孔子より8歳下)と言われる子路と、ほぼ同年代ということになる。
孔子と冉氏との付き合いは、新興氏族だった冉氏の長老である冉耕伯牛がまず孔子と接近し、その人格を認めて、塾の教材用の戦車などを提供し、一族から冉有と冉雍仲弓を弟子入りさせた(孔門十哲の謎#侮りがたい冉氏一族)。うち冉求は孔子没後7年にもなお、季氏の執事職にあったことが『左伝』に記されるが、『史記』によれば冉有は孔子より29歳年少という。
つまり冉雍仲弓は冉有より20ほどは年上ということになるが、事によるともっと年長で、孔子より年上だったかも知れない。そう考えると、孔子の冉雍仲弓に対する物言いの丁寧さに説明が付く。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
仲弓為季氏宰問政子曰先有司註王肅曰言為政當先任有司而後責其事赦小過舉賢才曰焉知賢才而舉之曰舉爾所知爾所不知人其舎諸註孔安國曰汝所不知者人將自舉之各舉其所知則賢才無遺也
本文「仲弓為季氏宰問政子曰先有司」。
注釈。王粛「行政には必ず担当者を決めて、そのあとで職務の責任を取らせよと言ったのである。」
本文「赦小過舉賢才曰焉知賢才而舉之曰舉爾所知爾所不知人其舎諸」。
注釈。孔安国「お前が知らない者でも、自薦してくるから、技能を聞いてふさわしい職に就ければ、人材を逃すことは無い、と言ったのである。」
新注『論語集注』
仲弓為季氏宰,問政。子曰:「先有司,赦小過,擧賢才。」有司,眾職也。宰兼眾職,然事必先之於彼,而後考其成功,則己不勞而事畢舉矣。過,失誤也。大者於事或有所害,不得不懲;小者赦之,則刑不濫而人心悅矣。賢,有德者。才,有能者。舉而用之,則有司皆得其人而政益修矣。曰:「焉知賢才而擧之?」曰:「擧爾所知。爾所不知,人其舍諸?」焉,於虔反。舍,上聲。仲弓慮無以盡知一時之賢才,故孔子告之以此。程子曰:「人各親其親,然後不獨親其親。仲弓曰『焉知賢才而舉之』、子曰『舉爾所知,爾所不知,人其舍諸』便見仲弓與聖人用心之大小。推此義,則一心可以興邦,一心可以喪邦,只在公私之間爾。」范氏曰:「不先有司,則君行臣職矣;不赦小過,則下無全人矣;不舉賢才,則百職廢矣。失此三者,不可以為季氏宰,況天下乎?」
本文「仲弓為季氏宰,問政。子曰:先有司,赦小過,擧賢才。」
有司とは、さまざまな官職の役人のことである。長官が諸役人とともに仕事の先頭に立って、諸役人を指導し、その後で諸役人の功績を査定するなら、必ず苦労も無く仕事を終え業績を挙げることが出来る。過とは仕事上の誤りのことである。その誤りが大きければ仕事に支障が出るから、懲罰無しではいられない。小さな間違いは見過ごしてやれば、必ず厳罰主義には陥らず、役人は喜ぶ。賢とは、道徳に優れた者である。才とは、能力に優れた者である。そうした者どもを選んで使ってやれば、必ず官職にはふさわしい人物が就き、行政がますます整うのである。
本文「曰:焉知賢才而擧之?曰:擧爾所知。爾所不知,人其舍諸?」
焉の字は、於-虔の反切で読む。舍の字は上がり調子で読む。仲弓は特に考え込まなくとも物事をすぐに理解する賢者だった。だから孔子はこのように説教したのである。
程頤「人はそれぞれ親しい者に親しむもので、片方だけが親しむという事は無い。仲弓が”どうやって人材を知るのか”と尋ね、先生は”知っている者を採用しろ。知らない人材は人が放置しない”と教えた。ここから仲弓と聖人の間で、ものの考え方の代償を知れる。本章から類推すれば、一つには国を栄えさせようと願い、もう一つには国を失う(=官職を取り逃がす)ことを思った。公共のことを思うか、我欲のことを思うかの違いがあったのだ。」
范祖禹「各部署の役人を任じないと、必ず君主が役人の仕事までする羽目になる。小さな間違いを許さないと、必ず配下から人が逃げ出していなくなってしまう。賢者や才能ある者を選んで官職に就けないと、どんな部署も仕事がうまく回らなくなってしまう。この三つに失敗すれば、季孫家の執事職ですら務まらない。天下を差配するなど出来るわけが無い。」
その通り、宋は三つとも失敗し、皇帝は些末な行政にまで口を出し、政況次第で刑罰が決まり、宋儒はまじめに働かずワイロ取りばかりしていたから、国を滅ぼした。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
(思案中)
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