論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子路問政子曰先之勞之請益曰無倦
校訂
東洋文庫蔵清家本
子路問政子曰先之勞之/請益曰無倦
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……路問正。子[曰:「先之勞之]。」321……
※『定州竹簡論語』論語顔淵篇14、倦→卷。
標点文
子路問正。子曰、「先之、勞之。」請益、曰、「無倦。」
復元白文(論語時代での表記)
倦
※請→靑。論語の本章は、「倦」が論語の時代に存在しない。「問」「之」「勞」の用法に疑問がある。
書き下し
子路正を問ふ。子曰く、之先んじ、之勞け。益すを請ふ。曰く、倦む無かれ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子路が政治を問うた。先生が言った。「必ず先頭に立って働き、必ずいたわれ。」子路が付け足しを求めた。先生が言った。「飽きるな。」
意訳
子路「政治の要点は?」
孔子「必ず民より先に働いて模範を示し、仕事が終わったら必ずいたわってやれ。」
子路「もう少し」
孔子「飽きずにやれ。」
従来訳
子路が政治についてたずねた。先師がこたえられた。――
「人民の先に立ち、人民のために骨折るがいい。」
子路は物足りない気がして、いった。
「もう少しお話をお願いいたします。」
すると先師はいわれた。――
「あきないでやることだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子路問政,孔子說:「身先士卒,教人勤奮。」子路請孔子多說一點。孔子說:「不要鬆懈。」
子路が政治を問うた。孔子が言った。「将校や兵卒の先頭に立ち、人を奮い立たせよ。」子路がもう少し詳しい説明を乞うた。孔子が言った。「飽きるな。」
※現代中国の「士卒」の語義は上記の通りだが、古文として”下級貴族と駆り出し人夫”とも解せる。
論語:語釈
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
政(セイ)→正(セイ)
論語の本章では”政治の要点”。
(甲骨文)
「政」の初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「丨」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。
「正」(甲骨文)
定州竹簡論語では「正」と記す。文字的には論語語釈「正」を参照。理由は恐らく秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱)。『史記』で項羽を本紀に記し、正式の中華皇帝として扱ったのと理由は同じで、前漢の認識では漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、正統な後継者と位置づけていた。
つまり秦帝国を不当に乗っ取った暴君項羽を、倒して創業した正義の味方が漢王朝、というわけである。だから項羽は実情以上に暴君に描かれ、秦の二世皇帝は実情以上のあほたれ君主に描かれると共に、寵臣の趙高は言語道断の卑劣で残忍な宦官として描かれた。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
先(セン)
(甲骨文)
論語の本章では、”先に立つ”。人々を指揮すること。初出は甲骨文。字形は「止」”ゆく”+「人」で、人が進む先。甲骨文では「後」と対を為して”過去”を意味し、また国名に用いた。春秋時代までの金文では、加えて”先行する”を意味した。詳細は論語語釈「先」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”まさに”・”必ず”。直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持たない。この語義は春秋時代では確認できない。この語義の解釈は、「之」が指示詞の場合、具体的内容がそれ以前に文中で示されているべきところ、存在しないのが理由。ただしそう四角四面に捉えず、政治の話だから”統治される人々”と解してもよいと思う。
初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
勞(ロウ)
(甲骨文)
論語の本章では”いたわる”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「労」。初出は甲骨文。ただし字形は「褮」-「冖」。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文の字形は「火」二つ+「衣」+汗が流れるさまで、かがり火を焚いて昼夜突貫工事に従うさま。原義は”疲れる”。甲骨文では地名、”洪水”の意に用い、金文では”苦労”・”功績”・”つとめる”の用例がある。また戦国時代までの文献に、”ねぎらう”・”いたわる”・”はげます”の用例がある。詳細は論語語釈「労」を参照。
この字の解釈は、”働かせる”と”ねぎらう”との二つあり、論語の他章ではほぼ前者の意で、孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた『墨子』もほぼ前者の意で用いる。
ただ、事実上一度滅んだ儒家を再興した孟子は、”労働”の意でこの語を用いると共に、”ねぎらう”の意でも用いた。
放勳曰:「勞之來之,匡之直之,輔之翼之,使自得之,又從而振德之。」聖人之憂民如此,而暇耕乎?
孟子が申しました。「…いにしえの聖王・堯も申されておる。”ねぎらってやるから人が寄ってくる。間違いを正してやるから人は真っ直ぐになる。援助してやるから人は手伝ってくれる。何事もまず方法を教えてやれば、人は言うことを聞いて自分で技能を高めるのだ”と。聖人とはこういうふうに、人々の心配をしてやるものだ。いちいち自分で畑仕事をする暇などあるものか。」(『孟子』滕文公上)
論語の本章の場合、「倦」の字の論語時代の不在によって、全ての文字を春秋時代の解釈に限る必要がない。「先頭に立って民を指導し、仕事を終えた者をねぎらってやる」というのは、「民本主義」を掲げた孟子以降の儒家にふさわしいと訳者は判断する。
なお上掲の『孟子』の一節は、なかなか面白い話でもあるので全訳してある。『孟子』現代語訳・滕文公上篇4を参照。
請(セイ)
(戦国金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。
益(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”つけ加え”。初出は甲骨文。字形は「水」+「皿」で、容器に溢れるほど水を注ぎ入れるさま。原義は”増やす”。甲骨文では”利益”と解せる例がある。春秋時代までの金文では、地名人名、「諡」”おくり名を付ける”の意に用いられ、戦国の金文では「鎰」(上古音不明)”重量の単位”(春成侯壺・戦国)に用いられた。詳細は論語語釈「益」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…するな”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
(金文)
論語の本章、定州竹簡論語はこの部分を欠いているが、通例「無」を「毋」と記す。
「毋」は戦国時代以降「無」を意味する言葉として用いられた。初出は西周中期の金文。「母」と書き分けられていない。現伝書体の初出は戦国文字。論語の時代も、「母」と書き分けられていない。同訓に「無」。甲骨文・金文では「母」の字で「毋」を示したとし、西周末期の「善夫山鼎」にもその用例が見られる。詳細は論語語釈「毋」を参照。
倦(ケン)
論語の本章では(くたびれて)”飽きる”。
「倦」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「人」+「卷」。「卷」の原義ははっきりせず、おそらく音符。原義は”あきる”。同音に「権」・「卷」(巻)など多数。戦国の竹簡に”あきる”の用例があり、また「劵」を「倦」と釈文する例がある。詳細は論語語釈「倦」を参照。
(金文)
定州竹簡論語、本章ではこの部分を欠いているが、論語顔淵篇14では「卷」(巻)と記す。春秋末期までに”うみつかれる”の用例が無い。初出は殷代末期の金文。両手+棒状のもの+背中を向けた人で、人に見えないように何かを”抱え込む・隠す”と解するのが理にかなうと思う。ただし殷周の用例は全て族徽(家紋)か人名で、何を意味しているのかわからない。戦国最末期の竹簡で、”引き返す”と解せる例がある。詳細は論語語釈「巻」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は文字史的に論語の時代に遡れず、史実の孔子と子路の問答とは判定しがたい。前漢中期の定州竹簡論語にはあるから、それまでには後世の儒者の手によって論語の一章として成立していたことになる。
ただし孔子の教説に反する話ではなく、儒者が偽作する動機もさほどない。儒者が常々言いたがる、子路筋肉ダルマ説の補強でもしたかったんだろうか。
通曰子張子路問政皆告以無倦者子張堂堂子路行行皆易鋭於始而怠於終故皆以此告之子張少誠心故又加之以忠
諸本を参照して曰く、子張と子路は政治を孔子に問うて、どちらも「飽きるな」と説教された(論語顔淵篇14・本章)。子張は堂々としており(論語子張篇16)、子路はいかつい男だった(論語先進篇12)。二人とも初めの勢いは凄いが、すぐに気が抜けて怠け出す。だから孔子は「飽きるな」と戒めた。ただバリエーションの違いと言えば、子張は不真面目な男だったので、付け足して「まじめにやれ」と説教された。(元・胡炳文『四書通論語』巻七)
論語の本章の創作者が誰かについては、上掲「勞」字の語釈に記した通り、思想的には孟子がふさわしい。
是故明君制民之產,必使仰足以事父母,俯足以畜妻子,樂歲終身飽,凶年免於死亡。然後驅而之善,故民之從之也輕。
斉の宣王に孟子が申しました。「…だから名君の政治とは、まず財産の使い方を民に教える事から始まるのです。つまり、必ず父母の老後を養えるよう、妻子を餓えず凍えぬようにさせるよう、きちんと教育するのです。そうやって豊作の年には年中腹いっぱい食べ、凶作の年でも飢え死にしないようにしてやるのです。この教育が終わってやっと、人を善の道に誘うことができるのです。ここまで手順を踏んでおいたのですから、民はかるがると善の道へ歩み出すでしょう。」(『孟子』梁恵王上7)
解説
論語の本章に言う「先んじろ」を題材に、韓非が寓話を作って『韓非子』に収められ、のちに『孔子家語』にも収められた。
子路為蒲宰,為水備,與民脩溝洫;以民之勞煩苦也,人與之一簞食、一壺漿。孔子聞之,使子貢止之。子路忿然不說,往見孔子曰:「由也以暴雨將至,恐有水災,故與民脩溝洫以備之;而民多匱餓者,是以簞食壺漿而與之。夫子使賜止之,是夫子止由之行仁也。夫子以仁教,而禁其行,由不受也。」孔子曰:「汝以民為餓也?何不白於君,發倉廩以賑之,而私以爾食饋之,是汝明君之無惠,而見己之德美。汝速已則可,不則汝之見罪必矣。」
子路が衛国の蒲のまちの代官になり、治水のために、民と一緒に排水路の工事を始めた。動員された住民の苦労を思いやって、一人あたり一杯のめしと汁物を配った。孔子がその話を聞き、子貢を呼んで炊き出しをやめさせた。子路は真っ赤になって怒り、孔子のところへ文句を言いに来た。
子路「私は暴風雨が来て洪水になるのを心配して、民と共に工事にあたったのです。民には貧乏な者が多いので、わずかですが給食を行いました。ところが先生は子貢に止めさせた。私は仁の情けを行おうとしているのですよ? 仁は先生の教えではありませんか。このお申し付けには従えません。」
孔子「ほう。民が飢えていると見たか。ならなんで衛の国君に申し上げない。国庫を開いて配給すればいいだろう。お前の蓄えから給食を出したのは、国君がけちん坊だと宣伝するようなものだ。自分が憐れみ深い仁者でござい、と宣伝するつもりか? さっさと給食をやめればよし、それならお前の罪は知られずに済むだろう。」(『孔子家語』致思3)
子路はこうして、反抗的な住民がわだかまる蒲邑(『史記』孔子世家)を手懐けたわけだが、亡命中の孔子が結局衛国に腰を落ち着けると、一番弟子の子路が蒲の領主に取り立てられた。邑の領主を卿と呼び、国公に次ぐ高位(→参照)だが、厄介事を押し付けられたわけでもある。
それを見事にやってのけた。飽きっぽい男とは決して言えない。論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子路問政子曰先之勞之註孔安國曰先導之以徳使民信之然後勞之易曰說以使*民民忘其勞也請益曰無倦註孔安國曰子路嫌其少故請益曰無倦者行此上事無倦則可也
*使:十三経注疏本・四庫全書本『周易』「先」
本文「子路問政子曰先之勞之」。
注釈。孔安国「先頭に立って指揮するに当たって徳を用いれば、民を信用させることが出来る。そうした後で働かせる。『易経』に言う、民の先頭に立って喜ばせたら、民は自分の苦労を忘れる、と。
本文「請益曰無倦」。
注釈。孔安国「子路はお説教が僅かだったので不満に思って付け足しを求めた。曰無倦とは、以上の事を行った上で飽きずにやれば、それでよろしいということである。」
これによれば漢儒や南北朝の儒者は、論語の本章の「勞」(労)の字を”働かせる”と解していたことになる。
新注『論語集注』
子路問政。子曰:「先之,勞之。」勞,如字。蘇氏曰:「凡民之行,以身先之,則不令而行。凡民之事,以身勞之,則雖勤不怨。」請益。曰:「無倦。」無,古本作毋。吳氏曰:「勇者喜於有為而不能持久,故以此告之。」程子曰:「子路問政,孔子既告之矣。及請益,則曰『無倦』而已。未嘗復有所告,姑使之深思也。」
本文「子路問政。子曰:先之,勞之。」
勞の字は通常の音で読む。
蘇軾「そもそも民を使役するには、為政者が体を張って先頭に立てば、民はすぐさま命令しなくとも思い通りに働く(論語子路篇6)。そもそも民を働かせるには、為政者が体を張って働けば、民は一生懸命働いても恨まない(論語堯曰篇5)。」
本文「請益。曰:無倦。」
無の字は、古本では毋の字に記す。
呉棫「(子路のような)勇者は喜んでためになることをするが、長持ちしない。だからこのように説教した。」
程頤「子路が政治の要点を聞いて、孔子はすでに答えを言った。付け足しを求められても、”飽きるな”としか言わなかった。多分それまでにも”飽きるな”と説教したことがあったのだろう。(子路の分かりが悪いので、)ともかく、深く思い知れと言ったのである。」
新注でも朱子は「勞,如字。」”労の字は普通通りの発音で読む”と言っており、つまり”働かせる”と解している。「勞」のカールグレン上古音はlog(平/去)で、新注にやや時代が先行する隋唐音ではlɑu(平/去)という。これを反映して日本の呉音(遣隋使より前に伝わった音)・漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)はどちらも「ラウ」とする。
朱子が生きたのは、日本で言えば平安時代の末期になるが、宋代の中国語音は実はよく分からない。文化史的には明初から「唐宋八大家」という言葉があり、宋は唐と一緒にして扱うのだが、間に五代の文明崩壊期があり、政治史的には貴族政から科挙官僚制へと変貌を遂げている。
もちろんその間も日本との交流はあり、その時期に伝わった中国語音を唐音と呼ぶのだが、その年代的範囲は遣唐使の廃止から明治維新までと、あまりに長すぎて時代が特定できない。しかも「勞」字の唐音は知られていない。日本における中国語音史の第一人者だった藤堂明保博士も、『学研漢和大字典』では上古音(周・秦)-中古音(隋・唐)-『中原音韻』(元)-北京語および拼音による現代音に語音史を分類し、宋を独立させていない。
『学研漢和大字典』「労」条
lɔg – lau – lau – lau (láo・lào)
だがいずれにせよ、「勞」字は”労働する”・”辛く思う”などの意では平声に、”いたわる”の意に限り去声に読むには違いない。だから朱子も”働かせる”と解していたことになる。
対して蘇軾がどちらで読んでいたか、訳者の感想では文脈から”ねぎらう”ではないかと思うのだが、今は新注を集めた朱子に従って”働く”と訳した。
蘇軾は蘇東坡の名で日本でもよく知られている詩人でもあるが、論語の新注の書き込みを読む限り、人格破綻者の多かった宋儒の中でも飛び抜けたサディストで、本章でも言っていることは、戦時中にヒロポンを兵士や国民に配った帝政日本政府の役人と変わらない。
蘇軾「愛して苦労を掛けないようにするのは、鳥や子牛を可愛がるのと同じだ。真心があるのに教えないのは、女やタマ無しのすることだ。愛すればこそ苦しめる。そうすれば愛は深まる。真心があるからこそ無知を教えてやる。そうすれば真心は一層偉大になるのだ。」(論語憲問篇8・新注)
宋儒の人格破綻については、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
(思案中)
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