論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
樊遟請學稼子曰吾不如老農請學爲圃曰吾不如老圃樊遟出子曰小人哉樊須也上好禮則民莫敢不敬上好義則民莫敢不服上好信則民莫敢不用情夫如是則四方之民襁負其子而至矣焉用稼
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
- 「敬」字:〔艹〕→〔十十〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
樊遟請學稼子曰吾不如老農請學爲圃曰吾不如老圃/樊遟出子曰小人哉樊須也上好禮則民莫敢不敬上好義則民莫敢不服上好信則民莫敢不用情夫如是則四方之民襁負其子而至矣焉用稼
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……請學稼。子曰:「吾不如老農。」請學為圃。曰a:「吾不326……上好禮,民莫不敬b;327……
- 皇本、高麗本”曰”上有”子”字。
- 民莫不敬、今本作”則民莫敢不敬”。
標点文
樊遲請學稼、子曰、「吾不如老農。」請學爲圃、曰、「吾不如老圃。」樊遲出、子曰、「小人哉、樊須也。上好禮、民莫不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情、夫如是、則四方之民襁負其子而至矣、焉用稼。」
復元白文(論語時代での表記)
情 襁負
※請→靑・稼→(甲骨文)・焉→安。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「則」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
樊遲稼を學ばむと請ふ。子曰く、吾老りたる農に如か不。圃を爲るを學ばむと請ふ。曰く、吾老りたる圃に如か不。樊遲出づ。子曰く、小人なる哉樊須也。上禮を好まば、則ち民敬は不る莫し。上義きを好まば、則ち民敢て服は不る莫し。上信を好まば、則ち民敢て情を用ひ不る莫し。夫れ是の如くならば、則ち四方の民其の子を襁負ひ而至り矣。焉んぞ稼を用ゐむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
樊遅が田仕事を学びたいと願った。先生が言った。「私は経験豊富な穀物農民に及ばない。」畑仕事を学びたいと願った。先生が言った。「私は経験豊富な野菜農民に及ばない。」樊遅が先生の部屋から出た。先生が言った。「愚か者だな、樊遅は。上の者が礼法を好めば、民はわざわざ無礼を働かない。上の者が正義を好めば、民はわざわざ反抗しない。上の者が正直を好めば、民はわざわざ事実を言わない事が無い。もしこのようであれば、ただちに四方の民が、赤子を背負って慕い寄ってくるだろう。どうして耕作する必要があろうか。」
意訳
樊遅「先生! どうやったらお米が沢山採れるんでしょう?」
孔子「知らんよワシは。お百姓さんに聞きなさい。」
樊遅「先生! どうやったら野菜が沢山採れるんでしょう?」
孔子「知らんよワシは。お百姓さんに聞きなさい。」
しょげた樊遅が孔子の部屋を出た。
孔子「バカ者だな樊遅は。為政者が礼法好きなら、無礼な民は出ぬし、正義好きなら、刃向かう民は出ぬし、正直好きなら、嘘をつく民は出ない。為政者がそうであれば、四方から赤子を背負って民が慕い寄って来るわい。自分で田仕事する必要は無いというものだ。」
従来訳
樊遅が殻物の作り方を教えていただきたいと先師に願った。先師はこたえられた。――
「私は老農には及ばないよ。」
樊遅は、すると、野菜の作り方を教えていただきたいと願った。先師はこたえられた。――
「私は老園芸家には及ばないよ。」
樊遅が引退がると、先師はいわれた。――
「樊須は人物が小さい。上に立つ者が礼を好めば、人民が上を敬しないことはない。上に立つ者が義を好めば、人民が上に服しないことはない。上に立つ者が信を好めば、人民が不人情になることはない。そして、そうなれば、人民はその徳を慕い、四方の国々から子供をおぶって集って来るであろう。為政者に農業技術の知識など何の必要もないことだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
樊遲請教種莊稼。孔子說:「我不如老農。」請教種蔬菜。說:「我不如菜農。」樊遲出來。孔子說:「樊遲*真是個小人!領導重視禮法,則群衆不會不敬業;領導重視道義,則群衆不會不服從;領導重視信譽,則群衆不會不誠實。如果這樣的話,則天下百姓都會攜兒帶女來投奔你,哪用得著你自己種莊稼?」
樊遅が穀物の作り方を習いたいと願った。孔子が言った。「私は老練な農民に及ばない。」野菜の作り方を習いたいと願った。孔子が言った。「私は老練な野菜農民に及ばない。」樊遅が退出した。孔子が言った。「樊遅はまことにつまらない男だ。指導者が農業を重視すれば、必ず群衆はまじめに田畑仕事をせざるを得ない。指導者が道徳を重視すれば、必ず群衆は従わずに居られない。指導者が名誉を重視すれば、必ず群衆は不誠実でいられない。この話の通りにすれば、天下の人々はこぞって子女を連れて私に身を任せるだろう。どうして自分で田畑仕事をしなければならないのか?」
*「樊遅」はあざ名=敬称で、孔子が言うことはあり得ない。
論語:語釈
樊遲(ハンチ)
孔子の弟子、『史記』によると孔子より36年少。おそらくは子路が仕官してのち、身辺警護を樊遅が務めたと思われる。哀公十一年(BC484)の対斉防衛戦では、武勲を挙げている。詳細は論語の人物:樊須子遅を参照。
「樊」(金文)
「樊」の初出は西周早期の金文。金文の字形は早くは「口」を欠く。字形は「棥」”垣根”+「又」”手”二つで、垣根を作るさま。金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「樊」を参照。
「遲」(甲骨文)
「遲」の初出は甲骨文。新字体は「遅」。唐石経・清家本は、異体字「遟」(〔尸〕の下が〔辛〕)と記す。現行字体に繋がる字形は〔辶〕+「犀」で、”動物のサイ”。字形に「牛」が入るようになったのは後漢の『説文解字』からで、それまでの「辛」を書き間違えたと思われる。詳細は論語語釈「遅」を参照。
請(セイ)
(戦国金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。
なお武内本は「請學」を「教え給えと問う意」という。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”教わる”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
稼*(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”田仕事”。論語では本章と、論語の次篇憲問篇6でのみ登場。初出は甲骨文。甲骨文の字形は〔禾〕”イネ科の植物”2つ+〔田〕。現行の字形は戦国最末期の睡虎地秦簡からで、〔禾〕+〔家〕。収穫した作物の意。西周の金文から”収穫”の意に用いた。詳細は論語語釈「稼」を参照。
論語時代の華北には米は珍しく、主要な穀物はアワで、上等な穀物としてキビがあった。従って意訳では「お米」と訳した。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたしの”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…と同格になる”。この語義は春秋時代では確認できない。字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
老(ロウ)
(甲骨文)
論語の本章では”経験の長い”。初出は甲骨文。字形は髪を伸ばし杖を突いた人の姿で、原義は”老人”。甲骨文では地名に用い、金文では原義で、”父親”、”老いた”の意に用いた。戦国の金文では”国歌の元老”の意に用いた。詳細は論語語釈「老」を参照。
農*(ドウ)
(金文)
論語の本章では”農民”。論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。甲骨文までは「蓐」字で「農」を表した。字形は〔田〕+〔且〕”農具のスキ”+〔人〕。田畑を耕作するさま。「ノウ」は呉音。西周早期には、人名の用例が見られる。西周中期から”農耕”または”農民”の意に用いた。詳細は論語語釈「農」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の作業”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
圃*(ホ)
(金文)
論語の本章では”畑作をする農民”。原義は穀物以外の野菜や果実を栽培する農地。論語では本章のみに登場。初出は殷代末期の金文。字形は囗+”芽”+田。区切った畑のさま。殷代末期から人名に用いた。また殷代末期の金文で”はたけ”と解せる用例がある。詳細は論語語釈「圃」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子の居室から出る”。孔子専用の部屋があって、そこから出たわけ。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
小人(ショウジン)
論語の本章では”下らない人間”。論語の本章では、文字史から後世の創作が確定するので、通説通りの語義に解釈してよい。史実の樊遅は孔子塾生の中でもめずらしく士族の出で、歴とした貴族なのだが、論語の本章を魏策した後世の儒者にとっては、そうした史実などどうでもよかった。
孔子の生前、仮に漢語に存在したにせよ、「小人」は「君子」の対となる言葉で、単に”平民”を意味した。孔子没後、「君子」の意が変わると共に、「小人」にも差別的意味合いが加わり、”地位身分教養人情の無い下らない人間”を意味した。最初に「小人」を差別し始めたのは戦国末期の荀子で、言いたい放題にバカにし始めたのは前漢の儒者からになる。詳細は論語における「君子」を参照。
「君子」の用例は春秋時代以前の出土史料にあるが、「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は戦国中末期の「郭店楚簡」からになる。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
(甲骨文)
「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
哉(サイ)
(金文)
論語の本章では”…だなあ”。詠嘆の意。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
須(シュ)
(甲骨文)(西周金文)
論語の本章では樊遅のいみ名。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は髪の毛の生えた人間を吊した姿。「ス」は呉音。甲骨文での語義はよく分からない。西周の金文では「盨」”蓋のついた方形の盛り皿”と釈文される例がほとんどで、春秋の金文では人名に用いた。戦国の竹簡から動詞”用いる”や助動詞”すべからく”の例が見られる。詳細は論語語釈「須」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では「や」と読んで”まさに”、主格の強調の意を示す。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
上(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”上流階級”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”礼儀作法”。孔子の生前、「禮」とは貴族の常識一般を指し、礼儀作法はその一部でしかなかった。論語の本章の場合、文字史から後世の創作が確定するので、通説通りに解釈してかまわない。
新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~のばあいは”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”民衆”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
莫(ボ)
(甲骨文)
論語の本章では”~しない”。字の初出は甲骨文。漢音「ボ」で”暮れる”、「バク」で”無い”・”かくす”を示す。字形は「茻」”くさはら”+「日」で、平原に日が沈むさま。原義は”暮れる”。甲骨文では原義のほか地名に、金文では人名、”墓”・”ない”の意に、戦国の金文では原義のほか”ない”の意に、官職名に用いた。詳細は論語語釈「莫」を参照。
敢(カン)
唐石経・清家本では、「民莫敢不敬」「民莫敢不服」「民莫敢不用情」と三つの句で「敢」を記すが、現存最古の論語本である定州竹簡論語では一つ目について「敢」字を記さず、のこり二句については簡が欠損している。これに合わせて一句目の「敢」字は無いものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
論語の本章では”自発的に”。わざわざする、の意。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”うやまう”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
義(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”正義”。初出は甲骨文。字形は「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”で、原義は儀式に用いられた、先端に羊の角を付けた武器。春秋時代では、”格好のよい様”・”よい”を意味した。詳細は論語語釈「義」を参照。
服(フク)
(甲骨文)
論語の本章では”服従する”。初出は甲骨文。”衣類”の語義は春秋時代では確認できない。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”信義”。嘘をつかず約束を守ること。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
情*(セイ)
「情」(古文)
論語の本章では、”正直”。「情」には”私情・感情”の他に”事実”の意味がある。「ジョウ」は呉音。「情」の初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「靑」(青)+「心」。澄み切った心、誠実や情け深さ。戦国の竹簡で”心”の意に用いた。詳細は論語語釈「情」を参照。
夫(フ)
(甲骨文)
論語の本章では”そもそも”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは…だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”…は…だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
四(シ)
甲骨文
論語の本章では”四つ”→”すべての”。初出は甲骨文。字形は横線を四本引いた指事文字。現行字体の初出は春秋末期の金文。甲骨文の時代から数字の”4”を意味した。詳細は論語語釈「四」を参照。
方(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では”方角”。初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、字形は「人」+「一」で、甲骨文の字形には左に「川」を伴ったもの「水」を加えたものがある。原義は諸説あるが、甲骨文の字形から、川の神などへの供物と見え、『字通』のいう人身御供と解するのには妥当性がある。おそらく原義は”辺境”。論語の時代までに”方角”、”地方”、”四角形”、”面積”の意、また量詞の用例がある。”やっと”の意は戦国時代の「中山王鼎」まで下る。秦系戦国文字では”字簡”の意が加わった。詳細は論語語釈「方」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…”の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
襁*(キョウ)
(篆書)
論語の本章では、”赤ん坊を背負って”。「襁」は”背負い帯”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は〔衣〕”布”+〔強〕”堅く締めた”。赤ん坊を背負う堅く締めた帯の意。”おむつ”の語義は日本語のみに限られる。上古音の同音に同音に「薑」「疆」「姜」「僵」「繈」。戦国時代の『墨子』『列子』に見え、また漢初の『韓詩外伝』にも見えるが、いつ記されたのか分からない。部品の「強」に”赤子の衣類”の語釈があるが、初出は戦国末期。詳細は論語語釈「襁」を参照。
「襁負してうんぬん」という表現は、論語以降の史書にも多用される表現。家族総出で、といったような意味で、おむつにくるんだ赤ちゃんを背負い、老人や子供の手を引いて、一家こぞって慕い寄ってくると言う、めでたい鳳凰が出そうな善政を讃えるのに用いる。
なお「襁負」の熟語は中国語らしくないO-V表現だが、「襁褓」=”幼児を背負う帯と、幼児をつつむ着物”のなまり。つまり論語の本章が、よほど時代が下ってからの成立であることを示している。
負(フウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”背負う”。初出は秦系戦国文字。戦国末期の金文にも見えるが、字形がかなり異なる。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「𠂊」+「貝」”財貨”。手で財貨を提げて差し出すさまか。同音に「罘」”網”、「芣」”花が盛んなさま”、「婦」「萯」”カラスウリ”、「偩」”たよる”、「伏」。「フ」は慣用音。呉音は「ブ」。戦国最末期の竹簡で”負担する”の意に用いた。”負ける”の語義は『孫子』など文献時代にならないと見られない。詳細は論語語釈「負」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詠嘆の意は西周の金文から見られ、派生して反語や疑問に解するのにも無理が無い。詳細は論語語釈「其」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
至(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”やって来る”。善政の行われている場所があると聞いて、移住希望者が来ること。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では”~し終える”→”きっと~する”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”どうして”。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”用いる”→”手段とする”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”~で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は文字史から戦国時代までしか遡れず、後世の創作は確定的。そして「赤ん坊を背負った民が慕い寄ってうんぬん」を言い出したのは前漢武帝期の董仲舒であり、彼が創作し宣帝期の定州竹簡論語に納められたと考えるのが理にかなう。
明主賢君必於其信,是故肅慎三本。郊祀致敬,共事祖禰,舉顯孝悌,表異孝行,所以奉天本也。秉耒躬耕,采桑親蠶,墾草殖彀,開闢以足衣食,所以奉地本也。立闢雍庠序,修孝悌敬讓,明以教化,感以禮樂,所以奉人本也。三者皆奉,則民如子弟,不敢自專,邦如父母,不待恩而愛,不須嚴而使,雖野居露宿,厚於宮室。如是者,其君安枕而臥,莫之助而自強,莫之綏而自安,是謂自然之賞。自然之賞至,雖退讓委國而去,百姓襁負其子隨而君之,君亦不得離也。
名君というものは必ず信義を尊び、そのために三つの事柄を慎む。
土地神を祭り、祖先を祭り、孝行者や無欲者を表彰し、孝行者を取り立てるのは、天の定めに恭しく従うことである。草刈りして自ら耕し、桑を植えてカイコを育て、荒れ地を耕して作物を増産し、開墾に努めて衣食を十分にするのは、大地の定めに恭しく従うことである。立派な校舎を建てて学校を開き、孝行や慎みや恭しさや無欲を養い、教育によって世間を明るくし、礼儀作法や音楽で民をおとなしくさせるのは、人の定めに恭しく従うことである。
この三者がみな恭しく行われたら、そのまま民は(君主の)一族の年少者同然であり、わざわざ好き勝手をしなくなる。国家は父母と同じであり、施しを行わなくとも慕われるようになり、必ずしも脅さなくとも民が言うことを聞き、自分は粗末な家に住んでも、宮殿は豪華にしようと願う。
如是者”そうなれば”、君主は枕を高くして寝ることが出来、民は縛り付けなくとも騒ぎを起こさない。これを自然に与えられる褒美という。この褒美が与えられたら、君主の座を辞退して国を譲っても、民は襁負其子”自分の赤ん坊を背負って”付き従い君主になってくれと頼み、君主もその願いを無下に退けられないのである。(董仲舒『春秋繁露』立元神1)
全く馬鹿げたおとぎ話だが、論語の本章がこの話を元にしている、あるいは並行的に創作されたのはほぼ疑いないと言ってよい。
解説
論語の本章で「バカモノ」役をさせられている樊遅は、子路と並んで後世の儒者から筋肉ダルマ扱いされた孔門の二大武闘派だが、子路が長けていたのは実は行政で、武器をふるって戦ったのはその死の間際のことに過ぎない(「孔門十哲の謎」#子路が「政事」なわけ)。
それに対して樊遅は武勲が春秋左氏伝に載る歴とした武人だが(「論語の人物」樊須子遅)、それゆえ「バカモノ」役におとしめるには、後世の儒者にとって都合がよかった。ひょろひょろが武人を忌み嫌うのは古今東西の通例で、儒者のように政治権力が絡んでくればなおさら当たり前でもある。
その尻馬に乗り、毎度おなじみ、儒者の個人的感想である古注は、疏(注の付け足し)で樊遅を口汚く罵倒している。
云子曰小人哉樊須也者小人是貪利者也樊遲出後孔子呼名罵之君子喻於義小人喻於利樊遲在孔子之門不請學仁義忠信之道而學求利之術故云小人也
「小人であるなあ、樊須は」と本文にあるのは、小人は利益を食らいたがる者であるからだ。だから樊遅が前を下がってから、孔子は名指しで罵倒したのだ。「君子は正義に目覚め、小人は利益に目覚める」と論語里仁篇にも説いてある。樊遅は孔子塾に居りながら、仁義忠信の道を学ぼうとせず、儲ける術を学ぼうとした。だから小人と言われたのだ。(『論語集解義疏』)
この尻馬に乗り、樊遅を罵倒する日本語の文章は珍しくない。だが孔子塾では「仁義忠信之道」は二の次だったことは、証拠を挙げつつこれまで再三書いてきたことで、古注の物言いは後漢以来の偽善と金稼ぎに他ならない。
余話
(思案中)
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